のぞみのかけら
生津直
のぞみのかけら
別室から聞こえる
コーヒーとトーストの香り。それと……ああ、これはきっと、昨日のスクランブルエッグをチンしたんだな。
夜泣きで一晩中起こされ続けた私は、ろくに眠れた気がしない。でも、布団の中から気持ちだけで夫を送り出すなんて妻失格、と自分を
よいしょ、と立ち上がると、世界はふわふわとして、何だか心もとなかった。寝室を出ると、廊下の向こうでワイシャツ姿の夫が振り向く。
「おっ、おはよ。寝てていいのに」
「うん、ちょっとトイレだけ。望深、おはよ」
勇太の腕に抱かれた天使には、涙の
「時間、平気?」
「うん、そろそろ出る。あ、さっきゲップ出たよ」
「あ、ありがと」
ぱっちりと目を開いたご機嫌な望深を受け取ると、ほんのりとミルクの匂いがした。勇太は、ミルクを飲ませた後ワイシャツに着替えてからも、家を出る直前まで娘を抱いている。吐かれたら始末が大変なのに、「そのときはそのとき」と笑う。子供はいらないと言っていたくせに、つくづく子育てが似合う人だ。
椅子の背からネクタイを取ってささっと
「体調はどう?」
「うん、さほど悪くはない、かな」
「何か……変わったことは?」
お
「ないと思う、けど」
私が正直に答えると、勇太は
「よかった。じゃ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
勇太は私の
* * * * * *
「
ルイボスティーのティーバッグを小皿に出しながら、
「そう?」
私はカモミールティー。二人でのんびりとランチを済ませたところだ。
「生活感に汚染されてないっていうかさ。子持ち
「地に足付いてないだけかも」
「またそうやって自虐ぅ」
子連れ歓迎のオーガニックカフェ。平日のランチタイムは噂通り満席で、子連れ女性が圧倒的大多数だ。
香菜子もテーブルの脇にベビーカーを置いている。その中でよく眠っている次男の
もちろん、ママ側のスキルレベルも段違い。香菜子は上の子がもう四歳だから、慣れたものだ。スマホを見ながらベビーカーを揺らす姿も
大学卒業から十四年。当時の仲間とも疎遠になる中で、香菜子とはちょくちょく連絡を取り合い、年に一、二回ぐらいは会ってもいる。
「そういえば、夜泣きはどう?」
「相変わらず。こればかりはしょうがないけどね。まだ先長そうだなあ」
「そっかあ、旦那さんは?」
「うん……めっちゃ頑張ってくれてる」
夜泣き対応はほとんど私だが、それ以外はオムツ替えからミルクからお風呂まで、かなりできる夫だ。週末には洗濯もこなすし、夕食も作る。私が頼りないから、
「それさ、ほんとうらやましいわあ。うちのはどこで教育間違えたんだか」
と、
「でも、育休取れない会社で却って助かったわ。うちにいられても手間増えるだけだもん」
「ふふ、容赦ないね」
「事実よ、事実。でも、恵利んとこも旦那さん休んでないんだっけ?」
「うん。時短っていうか、なるべく残業減らしてくれてる」
「あ、それできるのいいね。うちの会社それも無理そうだよなー」
香菜子は社内結婚だから、旦那さんの仕事事情にも詳しい。
「私はほら、職種的にあれだから、休み取ろうと思えば取れたんだけどね」
女性の上司からの妊婦いびりに果敢に応戦し、勢いに任せて会社を辞めた香菜子は、それ以来専業主婦だ。いずれ再就職したいと思ってはいるらしい。
「どこだっけ、ほら、大統領が産休取った国あったじゃん」
「あ、首相、かな、多分」
「だっけ? マジ日本も少しは見習ってよぉ」
「ほんとだよね」
とは言うものの、私は派遣の契約がちょうど切れるところだったから、妊娠出産のために退職したわけではない。こうして他の人の置かれた状況を見聞きすると、私はラッキーだなあと痛感する。
「感謝しなきゃなあ。私、辞めるのが惜しいような仕事もしてなかったし、旦那も協力的だし」
「何言ってんの。父親たるもの、やることやって当然じゃん。うちなんかさ、エッチしたいときだけ露骨に家事やりだすよ」
「え? それ、どうすんの?」
「適当に説教はするけど、許してあげちゃってるなあ。こっちもご褒美欲しいしね」
と、屈託がない香菜子。
「うちは当分無理、かなあ」
「ま、寝れないと厳しいもんね。でも、旦那さん我慢強そうだから大丈夫じゃない?」
我慢?
我慢、か。その言葉が妙に引っかかった。確かに勇太は、いろいろ我慢していると思う。でも、セックスも? 実は我慢しているのだろうか? もともと
「人間もさ、子育て期と発情期、分かれてれば便利なのにね」
「発情って」
香菜子の言葉の選択を唇だけで笑いながら、私は一つの発見をしていた。そうか。その二者は分かれていないのか。今の私たちは、子育て期であり、かつ発情期だったのか。「発情期」という単語が自分や勇太といまひとつ結び付かないが、勇太はもしかしたら水面下で発情しているのかもしれない。
「発情期が決まってないのって、人間とウサギだけらしいよ」
「へえ」
さすが香菜子。博識だ。
「ウサギのオスってね、子供がいるとメスが忙しくなって交尾できないから、子供殺しちゃったりするんだって」
飲みかけていたカモミールティーを、思わずこぼしそうになる。予期していなかった「殺す」という語の不意の響きに動揺した。
「えっ、マジで?」
何だろう。胸がざわざわする。朝の薬は遅めの時間に飲んできたから大丈夫なはずなのに。
「メスもメスでさ、邪魔が入ったりしてもう育てられないーってなるとね、赤ちゃん食べちゃうんだって」
「ちょっ……あり得なくない?」
赤ちゃんを、食べる⁉ 動物こそ本能的に子供を守るものだと思っていたが。
「エグいよねえ。コスパ悪いから仕切り直そうって思うらしいよ。非情すぎでしょ!」
子供よりも他の何かや交尾を優先するなんて、本末転倒の極みではないか。まあ、ウサギが非情なのはいいとして……。
私が思い描いたオスウサギはなぜか、我が夫、勇太の顔をしていた。
* * * * * *
帰宅してから、黙々と検索した。ウサギの子育て、オスの性欲。彼女の言っていたことは本当らしく、ウサギが自分の子供を食い殺すことはよくあるようだ。
そういえば、私が通っていた小学校で飼われていたメスウサギも、自分が生んだばかりの赤ちゃんを食べてしまったんだっけ。先生が言うには、人間が赤ちゃんに触ることで匂いが移り、敵と勘違いして食べるケースがあるとか何とか。
部分的に食いちぎられたウサギの赤ちゃんの
幼い日の記憶は思いのほか、はっとするほどに鮮明だった。
それにしても、まさか父ウサギの性欲の犠牲になることまであろうとは思いもよらなかった。なんてやるせない、許されざる
――発情期が決まってないのって、人間とウサギだけらしいよ……
香菜子の声が、そう繰り返す。寒いわけでもないのに、私はぶるっと身震いした。勇太が……まさかね……。
発情のあまり我が子を
* * * * * *
勇太とは、三年前に婚活業者の紹介で出会った。好きになったというより、二人とも親の方が熱心だったから、その押しに負けたようなところがある。加えて、私の方は贅沢を言っていられる身分じゃなく、相手が誰であれもらってもらえれば御の字だった。とはいえ、気に入らないことがあるたびに私に手を上げるような人はもう
付き合い始めた頃から、性に関してはお互い
子供はいらないね、という話は結婚前にしていた。私は自分のことで手一杯だし、勇太も特に欲しいとは思っていないと言う。それに、勇太にはすでに甥っ子姪っ子がいたし、うちは……母は私に何かを強く求めるような人ではない。恵利ちゃんのしたいようにしたらいい、とニコニコするばかり。そんなわけで何のプレッシャーもないし、夫婦二人で生活していけばいいと思っていた。……なのに。
世の中には不妊で苦しんでいる人が大勢いるのに、望んでいない私たちのところに、空気の読めないコウノトリがやってきた。なんて
結婚してすぐ、ピルを飲んで
ピルを飲み始めてしばらくすると、劇的な変化はないものの、生理前の
妊娠検査薬の陽性を示すラインをしばらく見つめた後、私は薬を入れているケースをひっくり返して真相を求めた。色とりどりの薬の群れから、避妊用のピルを見つけ出す。我が目を疑った。なんと、三週間ほど前から飲み忘れていた。
一列が一週間分。とてもわかりやすく作られた、ピル特有のシート。余白に油性ペンで私が書き込んだ日付。その日からさかのぼること三列分以上が残っている。封筒状の袋に入れてあったそれは、なぜか他の薬の在庫分と入れ替わり、奥の方にしまい込まれていた。改めて見れば似ても似つかないのに、一体どうやって間違えたのだろう。
あなたが仕組んだのね。こっそり薬をすり替えたのね。子供はいらないとか言ってたけど、私に合わせてただけで本当は欲しかったのね。そんな
お腹の中にいるのであろう
気が付いたときには何の痛みもなく、私はベッドに横たわっていた。もし殴られたのなら、こうはならない。それだけはわかる。
勇太に諭されては眠り、目を覚ましては泣きわめいて抵抗した。別れて勝手に堕ろす、と言い放ったことも覚えている。それを聞いた勇太がひどく悲しそうな顔をしたことも。そんな中、自分で自分を殴ってもきっと痛いのは同じだろうと、そこだけ妙に冷静な思考が自己流産の試みだけは食い止めていた。
主治医に妊娠を告げると、薬が変わった。毎日泣き叫びながら新しい薬を飲んでいるうちに、少しずつ気持ちが落ち着いていった。
妊娠十週目を迎えた頃。ある日突然、何かかわいい生き物が私のお腹の中にいる、という感覚が湧き上がった。そっと撫でていると、昨日までとはまったく別の涙がじんわりとあふれ出した。私は一体、何をしようとしていたんだろう。この子は私の子。しかも、隣で寝ている勇太の遺伝子を受け継いだ子だ。世界一優しい、この人の。
何か
産みたい。生まれてきてほしい。早く会いたい。
* * * * * *
勇太に対する恐怖が消え、この子を産むと決意してもなお、彼がピルを隠して意図的に私を妊娠させたという確信が揺らぐことはなかった。そう、今から数時間前までは。
――子供がいるとメスが忙しくなって交尾できないから、子供殺しちゃったりするらしいよ……
もし……。
勇太がもし、低頻度なりに私との性行為に強い欲を持っていたら? 私の体調や気分が良くないからと
体調はどうか。変わったことはないか。毎朝毎晩聞いてくる勇太。
そうか。そうだったのか。本当はもっとセックスしたいのか。
思えば、産後間もない頃、
結局、回復にはそれなりに時間がかかったし、望深の世話でそれどころじゃなかったのもあって、今に至るまで、勇太との間に性生活はない。七ヶ月……いや、妊娠してからずっとだから、一年半近くか。
これは立派に、妻としての責任放棄だろう。勇太は一体、どんな制裁を用意しているのだろう。いや、そんなことより……。
私と交わるために、邪魔な第三者を排除する
おろおろとリビングを歩き回っていると、当の望深が泣き出した。抱き上げる前に、紛れもないウンチの臭いが鼻に届く。
オムツを外し、お尻を拭いてやりながら、ふと手が止まった。勇太がオムツを替えてくれることも多々あるが、その様子をまじまじと観察したことはない。
突然、オスウサギの勇太がぐにゃりと
左の乳房に、生温かい父の
あの掌が這い回る生々しい感触は、私の中に深く植え付けられている。不可解な行動の意味を私が理解したのは、それが
物心ついてからというもの、事あるごとに体を触られた。発育が比較的早かった私を父が
中学生になった私は、あれがいわゆる幼女性愛だったのだろうと思い至って吐き気を催した。私が第二次性徴を迎えたことで、その
望深が足をばたつかせ、早くしてくれと催促している。私は、その
途方に暮れながらも、私は何とかオムツを替え終えた。新しいオムツを当ててさっぱりした表情の望深を、ぎゅっと抱き締める。
ああ、私にできることは何だろう。勇太の性欲を私の体で満たすこと? 望深が邪魔だなんて思われないように。このいたいけな体が不適切な目で見られることもないように。でも、勇太に毎日こんなに心配され
十四時間に及ぶ地獄の
あの瞬間、真の愛は
この子とだけは、一つになれそうな気がする。だからこそ、一つでいようと努めてきた。この子をすべてから守るためにも、やっぱり一つでいなければならない。
出産時の感動を思い返しながら、私は離乳食の作り置きに取りかかった。みじん切りにしたほうれん草と、すり下ろしたささみ。それらを煮込む鍋の上で、いつものように爪切りをパチンと鳴らした。どの指もいよいよ深爪を極めている。
望深の爪は切ったばかりだし、昨日のお昼のレトルトカレーに全部入れてたいらげてしまった。望深が何だか遠く感じられて、不安に駆られてしまったのがいけなかった。次回はちゃんと少しずつ入れることにしよう。
今日のところは仕方がないから、汗で望深の耳の上にへばりついた頼りない髪を一房持ち上げ、先っちょをほんの三ミリほど爪切りで切る。メモ用紙でそれを受け、ホットミルクに加えた。
それを少しずつすすっていると、どうにか一体感の
あなたを、ウサギの赤ちゃんにはさせない。
でも……。
私はまだ、あなたの守り方を他に知らないのだ。
のぞみのかけら 生津直 @nao-namaz
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