のぞみのかけら

生津直

のぞみのかけら

作者注:多くの方が不快に感じるであろう描写があります。あらすじ欄とタグ確認推奨。

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 望深のぞみの声がする。


 別室から聞こえるかすかな「うー」、「あー」に、時折キャキャッと笑いが混じった。夫があやしている証拠。勇太ゆうたに抱かれている望深は、おおむね機嫌がいい。あるいは、朝は機嫌がいい、のか。


 コーヒーとトーストの香り。それと……ああ、これはきっと、昨日のスクランブルエッグをチンしたんだな。


 夜泣きで一晩中起こされ続けた私は、ろくに眠れた気がしない。でも、布団の中から気持ちだけで夫を送り出すなんて妻失格、と自分を叱咤しったする。


 よいしょ、と立ち上がると、世界はふわふわとして、何だか心もとなかった。寝室を出ると、廊下の向こうでワイシャツ姿の夫が振り向く。


「おっ、おはよ。寝てていいのに」


「うん、ちょっとトイレだけ。望深、おはよ」


 勇太の腕に抱かれた天使には、涙のあとすら見当たらない。


「時間、平気?」


「うん、そろそろ出る。あ、さっきゲップ出たよ」


「あ、ありがと」


 ぱっちりと目を開いたご機嫌な望深を受け取ると、ほんのりとミルクの匂いがした。勇太は、ミルクを飲ませた後ワイシャツに着替えてからも、家を出る直前まで娘を抱いている。吐かれたら始末が大変なのに、「そのときはそのとき」と笑う。子供はいらないと言っていたくせに、つくづく子育てが似合う人だ。


 椅子の背からネクタイを取ってささっとめながら、その顔がこちらを向く。


「体調はどう?」


「うん、さほど悪くはない、かな」


「何か……変わったことは?」


 お馴染なじみのやりとりだ。行ってきますの前と、ただいまの後の儀式。


「ないと思う、けど」


 私が正直に答えると、勇太は菩薩ぼさつのような柔らかな笑みを浮かべ、上着を羽織った。


「よかった。じゃ、行ってくるね」


「行ってらっしゃい」


 勇太は私のひたいに、そして望深のほっぺにキスをして、通勤のいた。




   * * * * * *




恵利えり、ほんと変わんないよね」


 ルイボスティーのティーバッグを小皿に出しながら、香菜子かなこが微笑む。


「そう?」


 私はカモミールティー。二人でのんびりとランチを済ませたところだ。


「生活感に汚染されてないっていうかさ。子持ちしゅうにやられてないっていうか」


「地に足付いてないだけかも」


「またそうやって自虐ぅ」


 子連れ歓迎のオーガニックカフェ。平日のランチタイムは噂通り満席で、子連れ女性が圧倒的大多数だ。


 香菜子もテーブルの脇にベビーカーを置いている。その中でよく眠っている次男の孝史たかし君は、二歳になったばかり。先ほどまではおしゃべりもたくさんしていたし、七ヶ月の望深と比べると、やっぱり可能なコミュニケーションの幅が全然違う。望深が言葉を覚える日がますます楽しみになる。


 もちろん、ママ側のスキルレベルも段違い。香菜子は上の子がもう四歳だから、慣れたものだ。スマホを見ながらベビーカーを揺らす姿もさまになっている。私は、公園とか買い物ぐらいならまだしも、望深を連れての長時間の外出には自信がない。今日は義母がこころよく預かってくれて助かった。

 

 大学卒業から十四年。当時の仲間とも疎遠になる中で、香菜子とはちょくちょく連絡を取り合い、年に一、二回ぐらいは会ってもいる。


「そういえば、夜泣きはどう?」


「相変わらず。こればかりはしょうがないけどね。まだ先長そうだなあ」


「そっかあ、旦那さんは?」


「うん……めっちゃ頑張ってくれてる」


 夜泣き対応はほとんど私だが、それ以外はオムツ替えからミルクからお風呂まで、かなりできる夫だ。週末には洗濯もこなすし、夕食も作る。私が頼りないから、おのずとそうならざるを得ないだけかもしれないが。


「それさ、ほんとうらやましいわあ。うちのはどこで教育間違えたんだか」


と、ほがらかに笑う香菜子はしかし、二児の子育てを謳歌おうかしている。実に子育てに向いているタイプの女性だと思う。


「でも、育休取れない会社で却って助かったわ。うちにいられても手間増えるだけだもん」


「ふふ、容赦ないね」


「事実よ、事実。でも、恵利んとこも旦那さん休んでないんだっけ?」


「うん。時短っていうか、なるべく残業減らしてくれてる」


「あ、それできるのいいね。うちの会社それも無理そうだよなー」


 香菜子は社内結婚だから、旦那さんの仕事事情にも詳しい。


「私はほら、職種的にあれだから、休み取ろうと思えば取れたんだけどね」


 女性の上司からの妊婦いびりに果敢に応戦し、勢いに任せて会社を辞めた香菜子は、それ以来専業主婦だ。いずれ再就職したいと思ってはいるらしい。


「どこだっけ、ほら、大統領が産休取った国あったじゃん」


「あ、首相、かな、多分」


「だっけ? マジ日本も少しは見習ってよぉ」


「ほんとだよね」


 とは言うものの、私は派遣の契約がちょうど切れるところだったから、妊娠出産のために退職したわけではない。こうして他の人の置かれた状況を見聞きすると、私はラッキーだなあと痛感する。


「感謝しなきゃなあ。私、辞めるのが惜しいような仕事もしてなかったし、旦那も協力的だし」


 つぶやきながら、自分に言い聞かせるような心地になる。


「何言ってんの。父親たるもの、やることやって当然じゃん。うちなんかさ、エッチしたいときだけ露骨に家事やりだすよ」


「え? それ、どうすんの?」


「適当に説教はするけど、許してあげちゃってるなあ。こっちもご褒美欲しいしね」


と、屈託がない香菜子。


「うちは当分無理、かなあ」


「ま、寝れないと厳しいもんね。でも、旦那さん我慢強そうだから大丈夫じゃない?」


 我慢? 


 我慢、か。その言葉が妙に引っかかった。確かに勇太は、いろいろ我慢していると思う。でも、セックスも? 実は我慢しているのだろうか? もともと旺盛おうせいな人じゃないと思ってきたが……。


「人間もさ、子育て期と発情期、分かれてれば便利なのにね」


「発情って」


 香菜子の言葉の選択を唇だけで笑いながら、私は一つの発見をしていた。そうか。その二者は分かれていないのか。今の私たちは、子育て期であり、かつ発情期だったのか。「発情期」という単語が自分や勇太といまひとつ結び付かないが、勇太はもしかしたら水面下で発情しているのかもしれない。


「発情期が決まってないのって、人間とウサギだけらしいよ」


「へえ」


 さすが香菜子。博識だ。


「ウサギのオスってね、子供がいるとメスが忙しくなって交尾できないから、子供殺しちゃったりするんだって」


 飲みかけていたカモミールティーを、思わずこぼしそうになる。予期していなかった「殺す」という語の不意の響きに動揺した。


「えっ、マジで?」


 何だろう。胸がざわざわする。朝の薬は遅めの時間に飲んできたから大丈夫なはずなのに。


「メスもメスでさ、邪魔が入ったりしてもう育てられないーってなるとね、赤ちゃん食べちゃうんだって」


「ちょっ……あり得なくない?」


 赤ちゃんを、食べる⁉ 動物こそ本能的に子供を守るものだと思っていたが。


「エグいよねえ。コスパ悪いから仕切り直そうって思うらしいよ。非情すぎでしょ!」


 子供よりも他の何かや交尾を優先するなんて、本末転倒の極みではないか。まあ、ウサギが非情なのはいいとして……。


 私が思い描いたオスウサギはなぜか、我が夫、勇太の顔をしていた。動悸どうきがする。でも、香菜子の前で薬を飲みたくはない。私はタイミングを見計らって、トイレに立った。




   * * * * * *




 帰宅してから、黙々と検索した。ウサギの子育て、オスの性欲。彼女の言っていたことは本当らしく、ウサギが自分の子供を食い殺すことはよくあるようだ。


 そういえば、私が通っていた小学校で飼われていたメスウサギも、自分が生んだばかりの赤ちゃんを食べてしまったんだっけ。先生が言うには、人間が赤ちゃんに触ることで匂いが移り、敵と勘違いして食べるケースがあるとか何とか。


 部分的に食いちぎられたウサギの赤ちゃんの死骸しがいを、教師が「かわいそうにね」と言いながら素手すででつまみ上げていた光景が、今くっきりと思い出される。小学生の手にすっぽりと収まるほど小さな、白みがかった紫色の体。不気味なまだら模様をまとって、しんまで冷たそうで。


 幼い日の記憶は思いのほか、はっとするほどに鮮明だった。


 それにしても、まさか父ウサギの性欲の犠牲になることまであろうとは思いもよらなかった。なんてやるせない、許されざるカニバリズム共食いだろう。お前がそんなにしたがっているその行為は、たった今犠牲になったその子を誕生させるためのものであったはずなのに。


――発情期が決まってないのって、人間とウサギだけらしいよ……


 香菜子の声が、そう繰り返す。寒いわけでもないのに、私はぶるっと身震いした。勇太が……まさかね……。


 発情のあまり我が子をあやめる勇太が、具体的な光景として像を結ばぬまま、一つの観念として、しかし強い色を発しながら私に迫ってくる。信じられないけれど……この色が嘘だった試しがない。脈打つような、ギラギラと光を放つような警告。いくつも身に覚えがあった。




   * * * * * *




 勇太とは、三年前に婚活業者の紹介で出会った。好きになったというより、二人とも親の方が熱心だったから、その押しに負けたようなところがある。加えて、私の方は贅沢を言っていられる身分じゃなく、相手が誰であれもらってもらえれば御の字だった。とはいえ、気に入らないことがあるたびに私に手を上げるような人はもうりで、だから勇太の穏やかさは私には上出来すぎた。他のことなんて、どうでもいい。


 付き合い始めた頃から、性に関してはお互い淡泊たんぱくだからちょうどいい、程度の認識だった。会っても毎回するわけじゃなかったし、 一緒に住み始めてからも、月に二、三度あるかないか。しかし考えてみれば、それぐらいがちょうどいいよねと口に出して確認し合ったことは一度もない。


 子供はいらないね、という話は結婚前にしていた。私は自分のことで手一杯だし、勇太も特に欲しいとは思っていないと言う。それに、勇太にはすでに甥っ子姪っ子がいたし、うちは……母は私に何かを強く求めるような人ではない。恵利ちゃんのしたいようにしたらいい、とニコニコするばかり。そんなわけで何のプレッシャーもないし、夫婦二人で生活していけばいいと思っていた。……なのに。


 世の中には不妊で苦しんでいる人が大勢いるのに、望んでいない私たちのところに、空気の読めないコウノトリがやってきた。なんてむごい話だろう。


 結婚してすぐ、ピルを飲んでなまですることを提案したのは私だった。夫婦なのにずっとゴム越しなのも悪いと思ったから。それに、私はホルモン関係の問題もあって、体調改善のためのピル服用に興味があった。薬を飲むことはもはや生活の一部だから、たった一種類増えたところで面倒だとは感じない。


 ピルを飲み始めてしばらくすると、劇的な変化はないものの、生理前の憂鬱ゆううつがいくらか軽減された気がした。そして、生でし始めたら、勇太が誘ってくる頻度が少しだけ増えた。


 妊娠検査薬の陽性を示すラインをしばらく見つめた後、私は薬を入れているケースをひっくり返して真相を求めた。色とりどりの薬の群れから、避妊用のピルを見つけ出す。我が目を疑った。なんと、三週間ほど前から飲み忘れていた。


 一列が一週間分。とてもわかりやすく作られた、ピル特有のシート。余白に油性ペンで私が書き込んだ日付。その日からさかのぼること三列分以上が残っている。封筒状の袋に入れてあったそれは、なぜか他の薬の在庫分と入れ替わり、奥の方にしまい込まれていた。改めて見れば似ても似つかないのに、一体どうやって間違えたのだろう。おろかにも程がある。


 ろそうと言った私を、勇太は優しくさとした。何度も何度も、根気よく。そういえば彼は、幼い頃に洗礼を受けたクリスチャン。堕胎だたいは重罪だ。そのことに気付いた私は愕然とした。


 あなたが仕組んだのね。こっそり薬をすり替えたのね。子供はいらないとか言ってたけど、私に合わせてただけで本当は欲しかったのね。そんな姑息こそくな手に乗ってたまるか。思う壺にはまってたまるか。産んでたまるか。


 お腹の中にいるのであろう忌々いまいましい存在を殴りつけようとする私の手を、勇太ががっちりとつかんで止めた。いつも優しい勇太に、こんなに強い力がひそんでいたのかと、私は恐怖におののいた。殴られるのだと確信した。殴られるのだ。やっぱり私は。


 気が付いたときには何の痛みもなく、私はベッドに横たわっていた。もし殴られたのなら、こうはならない。それだけはわかる。


 勇太に諭されては眠り、目を覚ましては泣きわめいて抵抗した。別れて勝手に堕ろす、と言い放ったことも覚えている。それを聞いた勇太がひどく悲しそうな顔をしたことも。そんな中、自分で自分を殴ってもきっと痛いのは同じだろうと、そこだけ妙に冷静な思考が自己流産の試みだけは食い止めていた。


 主治医に妊娠を告げると、薬が変わった。毎日泣き叫びながら新しい薬を飲んでいるうちに、少しずつ気持ちが落ち着いていった。


 妊娠十週目を迎えた頃。ある日突然、何かかわいい生き物が私のお腹の中にいる、という感覚が湧き上がった。そっと撫でていると、昨日までとはまったく別の涙がじんわりとあふれ出した。私は一体、何をしようとしていたんだろう。この子は私の子。しかも、隣で寝ている勇太の遺伝子を受け継いだ子だ。世界一優しい、この人の。


 何か神々こうごうしいものに触れたような心震える思いは、私の動物としての本能を呼び覚ました。


 産みたい。生まれてきてほしい。早く会いたい。




   * * * * * *




 勇太に対する恐怖が消え、この子を産むと決意してもなお、彼がピルを隠して意図的に私を妊娠させたという確信が揺らぐことはなかった。そう、今から数時間前までは。 


――子供がいるとメスが忙しくなって交尾できないから、子供殺しちゃったりするらしいよ……


 もし……。


 勇太がもし、低頻度なりに私との性行為に強い欲を持っていたら? 私の体調や気分が良くないからとあきらめているだけで、「やれる日」をいつもひそかに待ち望んでいたら? そんな人が、私を妊娠させようとたくらんだりするだろうか? むしろ、子供は邪魔だと思うはずではないか? 勇太が望深を邪魔者だと思う日が来るのだろうか? いや、もしかしたらもうとっくに来ているのかも?


 体調はどうか。変わったことはないか。毎朝毎晩聞いてくる勇太。


 そうか。そうだったのか。本当はもっとセックスしたいのか。


 思えば、産後間もない頃、会陰えいん切開の傷の回復具合はどうかと具体的に聞かれたこともあったではないか。なぜ気付かなかったのだろう。鈍感すぎる自分にほとほと愛想が尽きる。あれは、俺のための穴は治ったか、という意味だったのだ。


 結局、回復にはそれなりに時間がかかったし、望深の世話でそれどころじゃなかったのもあって、今に至るまで、勇太との間に性生活はない。七ヶ月……いや、妊娠してからずっとだから、一年半近くか。


 これは立派に、妻としての責任放棄だろう。勇太は一体、どんな制裁を用意しているのだろう。いや、そんなことより……。


 私と交わるために、邪魔な第三者を排除するをうかがっているとしたら?


 おろおろとリビングを歩き回っていると、当の望深が泣き出した。抱き上げる前に、紛れもないウンチの臭いが鼻に届く。


 オムツを外し、お尻を拭いてやりながら、ふと手が止まった。勇太がオムツを替えてくれることも多々あるが、その様子をまじまじと観察したことはない。


 突然、オスウサギの勇太がぐにゃりとゆがみ、謎に包まれたその性的嗜好がガバッと立ち上がってくる。その瞬間、私はもう一つの可能性に行き着いてしまった。望深は、ウサギの赤ちゃんのように殺されるのではないかもしれない。何かもっと、違う目にうのかも。


 左の乳房に、生温かい父のてのひらを感じた。ぎょっとして、思わず払いのける。いや、そんなばかな。父は今ここにはいないし、どこにもいない。とっくに死んでいる。そのはずなのに……。


 あの掌が這い回る生々しい感触は、私の中に深く植え付けられている。不可解な行動の生々しさを私が理解したのは、それがんでしばらく経ってからだったけれど。


 物心ついてからというもの、事あるごとに体を触られた。発育が比較的早かった私を父がで回さなくなったのは、小学校四年に上がる少し前だったろうか。一緒にお風呂に入ろうと誘ってこなくなったのも同じ頃。


 中学生になった私は、あれがいわゆる幼女性愛だったのだろうと思い至って吐き気を催した。私が第二次性徴を迎えたことで、そのねじれた興味がせたに違いない。触られなくなってからは、まったくかまってももらえなくなった。母にはとても言えないし、友人にも言えなかった。言ったら私自身が嫌われそうな気がして。


 望深が足をばたつかせ、早くしてくれと催促している。私は、そのまたの間を見つめた。この子も、父親である勇太にそういう目で見られているのだろうか。何の羞恥心も帯びていない、淡雪あわゆきのように危うい小さな割れ目から黄土色のゆるい便をぬぐい取るとき、勇太は何を考えているのだろう。


 途方に暮れながらも、私は何とかオムツを替え終えた。新しいオムツを当ててさっぱりした表情の望深を、ぎゅっと抱き締める。


 ああ、私にできることは何だろう。勇太の性欲を私の体で満たすこと? 望深が邪魔だなんて思われないように。このいたいけな体が不適切な目で見られることもないように。でも、勇太に毎日こんなに心配され気遣きづかわれていながら、うまく誘惑することなんてできるだろうか。


 十四時間に及ぶ地獄の分娩ぶんべんを終えて望深をこの腕に抱いたとき、初めて本当の意味で「私は一人じゃない」と実感した。あのときはまだ、勇太が薬を入れ替えたせいで妊娠したと信じていたけれど、それでもなお、この子は神様が与えてくれた宝物だと感じたものだ。


 あの瞬間、真の愛はたいを通じてしか生まれないのだとようやくさとった。そういう意味では、母だって母の胎を通じて私とつながっていたわけだが、世間にうとい人だからそれを軽んじてしまった。よかった、私は気付くことができて。


 この子とだけは、一つになれそうな気がする。だからこそ、一つでいようと努めてきた。この子をすべてから守るためにも、やっぱり一つでいなければならない。


 出産時の感動を思い返しながら、私は離乳食の作り置きに取りかかった。みじん切りにしたほうれん草と、すり下ろしたささみ。それらを煮込む鍋の上で、いつものように爪切りをパチンと鳴らした。どの指もいよいよ深爪を極めている。


 望深の爪は切ったばかりだし、昨日のお昼のレトルトカレーに全部入れてたいらげてしまった。望深が何だか遠く感じられて、不安に駆られてしまったのがいけなかった。次回はちゃんと少しずつ入れることにしよう。


 今日のところは仕方がないから、汗で望深の耳の上にへばりついた頼りない髪を一房持ち上げ、先っちょをほんの三ミリほど爪切りで切る。メモ用紙でそれを受け、ホットミルクに加えた。


 それを少しずつすすっていると、どうにか一体感の片鱗へんりんを取り戻すことができた。


 あなたを、ウサギの赤ちゃんにはさせない。


 でも……。


 私はまだ、あなたの守り方を他に知らないのだ。





 





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