エピローグ カーテンコール
組織のアジトは、落ち着く我が家でもある。広い豪邸で俺を迎えるのは、いつも通りパパの愛猫、ペルシャ猫のアイシャだった。キッチンでいつものように甘えた声を出しながら、俺の足へまとわりついて来る。
「ミ゛ャ——」
「なんだよバカ猫。餌ならやらねーぞ」
「ミ゛ャ——ーォ」
無視しようとすると、アイシャは瞳孔の開いた丸い目で俺を凝視しながら、大理石のテーブルの上へ飛び乗った。
「ミ゛ャ——————ォ」
体をくねらせながら擦り付けて来る。
「うるさい! パパのお気に入りだからって調子に乗るんじゃねえぞ、このつぶれ顔ビッ*……美人な猫だね」
キッチンへ入って来るジルの姿が見えたので、ギリギリで取り繕う。俺は笑顔を作ってアイシャの頭を撫でた。
「アイシャが興奮してるわ。発情期なのね」
ジルが覗き込みながら言う。
「貴方に恋してるのよ」
清らかな声でそう言われると何だかロマンチックな響きだが、全く喜べない。だが彼女もいない今、最悪今夜はこいつに慰めてもらうしかない。
「おいで〜アイシャ。今日は一緒に寝よう」
「ミ゛ャッ!」
抱き上げようと両手で体を掴んだ瞬間、アイシャは俺の手に猫パンチを喰らわせて部屋を駆け出して行った。
——あのビッ*め……!
「何か言った?」
「いや何も!」
月日は流れ、冬になった。俺宛にバレエ公演の招待状が届いたのは、ちょうどクリスマス前だった。
「やあジル、相談があるんだけど」
「あら、何かしら」
「この間知り合ったバレリーナの公演を観に行くんだけど、何をプレゼントに持って行くか悩んでて」
「まあ、珍しい。今度はバレリーナの恋人ができたの?」
ジルは両手を合わせて顔を輝かせた。
「いや、恋人じゃない。友達としてだよ。今のところ薔薇を百万本用意しようと考えてるんだ」
「……それはちょっと多すぎるわねえ。十本くらいにしておいたら?」
「そう? 真っ赤な薔薇で楽屋から広場までを埋め尽くしたら、喜んでくれるんじゃないかと」
「そんなにあったら迷惑よ。量が多ければいいってものじゃないわ」
——聞いてみてよかった。すでに注文した薔薇はキャンセルしないとな。
「それで、お友達は何を踊るの? 私も一緒に観に行きたいわ」
「”くるみ割り人形”で良い役を貰ったんだって。ペアの相手は最近ミラノから移籍して来た新米のダンサーだとか」
十二月、俺はアジトから足を伸ばし、首都ノリフの国立ノリフ・オペラ座へ出かけた。ジルと二人の部下を連れて。
劇場へ入った。丸い天井からは大きなシャンデリアがぶら下がり、柱や手すりは金色に塗られている。壁一面には仕切られた桟敷がいくつも並ぶ。俺達も桟敷を貸し切った。俺とジル、そして二人の部下と共に、赤いふかふかの椅子に座る。
照明が落ちると幕が開いた。バルコニーの手すりに持たれて舞台を覗く。オーケストラの演奏が始まり、踊り子達が次々に飛び出して来た。
白鳥の湖、眠れる森の美女と並ぶ三大バレエ演目の一つ、くるみ割り人形——ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは三つのバレエ音楽を作曲したが、その全てが三大バレエ音楽として知られている。
あるクリスマス・イブ、大勢の子供たちを含む家族が大きな一つの家に集まって、クリスマスを祝っていた。主人公の少女が叔父からプレゼントされたのは、大きな木製のくるみ割り人形だった。
真夜中、少女が眠りにつこうとすると突然不思議な出来事が起こる。気付けば彼女はネズミの軍勢との戦争の真っ只中にいた。ネズミと戦っているのはくるみ割り人形だった。少女はスリッパを投げ付けて、ネズミの軍勢を後退させ、くるみ割り人形を助ける。
すると、くるみ割り人形は美しい王子へと変身し、少女を冒険へ連れ出すのだった。
横を見ると、ジルは子供のように目を輝かせていた。いつもアジトにいて血生臭い俺達の世話をしているのだ。舞台の煌びやかな世界は新鮮に違いない。家族サービスとして、もっと早く連れてくるべきだったかも知れない。
第二幕が始まり、演目は進んでいく。そしてくるみ割り人形の中の一曲、”金平糖の踊り”が始まった。いよいよヴォルガの出番だ。パンフレットにはヴォルガ・ペトロワの名前と、ペアの相手ラウロ・ベルーチという名前がある。
ヴォルガは、彼女によく似合う、砂糖のような淡い色の衣装を着て登場した。
「あれが貴方のお友達? とっても可愛いわ」
ジルが目をうっとりさせる。ヴォルガの細い体にしなやかな手足、赤い髪を一つにまとめた一段と小さな顔が際立つ。
「ああ、可愛いね。本当に……ん?」
ペアの相手のダンサーを見る。引き締まった体格に短い髪のラテン風の男だった。俺は驚いて思わずバルコニーから身を乗り出した。
——ロリータ?!
「きゃあ! ヤコフ!」
「ボス!」
危なくバルコニーから落ちそうになった俺を部下が掴んで引き上げる。一階席にいた客が何人かこちらを見た。
しかし今まさにヴォルガを肩の上に持ち上げているペアの相手は、紛れもなくロリータだった。
——あいつもダンサーだったのか……? それがあいつの表の顔……?
ロリータの素顔が気になって、それ以降の舞台にはあまり集中できなかった。
公演が終わり、立ち去る大勢の観客達の流れに合わせて俺達も会場を後にした。
「ねえヤコフ、本当に会いに行かなくていいの?」
ジルが名残惜しそうに会場を振り向く。
「いいんだよ。彼女とはそういうのじゃないし」
彼女をこちら側に深入りさせたくないし、何よりロリータに会うなんて想定していない。これからもファンの一人として影からヴォルガを応援するつもりだ。
カーテンコールの時に大きな声援で讃えられた彼女の笑顔を思い出す。彼女には華やかな舞台が似合う。今はまだ主役級ではないが、これからスターの階段を登って行くことが容易に想像できた。決して俺達の方へ来させてはいけない。拍手と花束に包まれた、華やかな人生を歩んでくれることを願う。
——————————
私はロリータ。この名前は気に入っているけれど、表舞台でその名を呼ぶ人はいない。ラウロ——それが表舞台での私の名前。
「ラウロ!」
私の愛らしいパートナーが、舞台裏の廊下を駆けてやって来た。
「今日の舞台も上手く行きましたね! 貴方とペアを組めて良かったわ」
「こちらこそ。私達、最高のコンビね」
イタリアから遠いアジャルクシャンへ引っ越して、ノリフ・バレエに入った。これも活動領域をアジャルクシャンへ広げるという、本業の目的のためだ。
こちらへ来て初めての舞台で、初めてペアを組んだ相手、ヴォルガはとても素直ないい子だ。パ・ド・ドゥーでは呼吸を合わせた演技が必要で、二人で何度も個別練習をした。私も彼女がペアであることを嬉しく思う。
「そうそうヴォルガ、貴方に何か届いているわよ」
私は楽屋の入り口へ置かれた花束を指差した。真っ赤な薔薇をふんだんに使ったフラワーアレンジメントが、小さな花瓶に入っている。
——親愛なるヴォルガ・ペトロワへ、
素晴らしい踊りだった。まるで美しい天使のようだ。
君はこれからよそ見をせずに、天に向かって真っ直ぐ登るんだよ、いいね。
未来のプリンシパルに、ありったけのキスを。
ヤコフ——
「……ヤコフだわ!」
彼女は驚いて目を輝かせる。
「素敵じゃない! 誰、その方?」
「私の幼馴染みなんです。三階の桟敷に座っていたのだけれど……」
「ああ、バルコニーから落ちそうになっていた彼? 踊っている最中に見えたわ」
「そう、その人です! でも私に会わずに帰ってしまったみたいで」
そのようだ。すでに客は一人も残っていない。彼女は憂いを帯びた表情で花を見つめた。
ヤコフ——裏の名前をヤコフという。私には彼の気持ちが分かる。これからスターダムを駆け上がって行く彼女に黒い噂は必要ない。
「今日、家へ来ない? 貴方の幼馴染みの恋人の話、もっと聞かせてよ」
「はい! でもあの、恋人じゃないです……振られてしまって」
「まあっ、貴方を振るなんてその彼の目は節穴かしら。でもこれから貴方の人生には素敵な事がたくさん起きるわ。ひょっとすると、男なんて必要ないくらいにね。さ、お茶を飲みながらじっくり話しましょう」
「ふふっ、また女子会ですね。ラウロの煎れる紅茶、美味しくて好きですよ」
私はこれから、ヤコフと多少長い付き合いになりそうだ。でも一度ここで幕を下ろそう。お化粧を落として、素顔の私に戻る。舞台で完璧な私を見せるためには、休息も必要だ。それまでしっかり準備をしよう。次の舞台の幕が上がるまで。
完
ならず者ロリータ Mystérieux Boy @mysterieux_boy
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