あしたのてんき
よるの
第1話 『第0条のプロローグ』
誰にだってひとつくらいは、譲れないものがあるのだと、僕は思う。
信条、思想、哲学、価値観。夜空、雨、赤、珈琲、教義、法律、娯楽、煙草、薬、猫、朝焼け、いのち。
言葉選びを間違えた。『譲りたくないもの』のほうが正しい。
――じゃないと、空っぽのものはこのお話に参加できなくなってしまう。
例えば、彼女――雨乃盛夏みたいに。
放課後の理科室は、戸棚の実験器具が夕陽を浴びて煌めいている。
窓際の埃たちも負けじと陽光を反射して、マリンスノウみたいに音も立てず舞っていた。
僕の大好きな景色の一つだ。そのうちきっと思い出になって、美化されて、色褪せて、いつかは僕と死んでしまうけれど。
そんな不安をかき消す様に、窓の外で晩夏のヒグラシが鳴き始めた。その命の声は、喪失に意味を持たせるようで。僕を少しだけ勇気づけてくれる。
「僕はいのちをえらぶよ。たまに、何かのためにいのちを捨ててしまいたくなるけれど、きっとあれは勘違いだ。一時の誤解のために、いのちを投げ出したくは無い」
そうは言っても、僕は、たまに何かに殉じたいと思わせてくれるその勘違いが好きだった。勘違いが、人を救うことだってある。
「じゃあ……いのちの無い私は、マイナスドライバーかなー。整備のとき、アイツは良い仕事をしてくれるんだ。かゆいところに手が届くってやつだね」
昼休みの後の授業みたいに緩慢な口調で、アンドロイドのモノは答える。
こんなゆるい女の子が精密なアンドロイドだなんて、なんだかすこし笑えてしまう。
というか、整備にマイナスドライバーを使うことがなんだか前時代的で驚きだ。一度そのシーンを見てみたくて、前にその願望を零したことがある。そうしたらモノは僕の顔をまじまじと視たあとに、”キミも意外と男の子なんだね”とかなんとか言って、恥らっていた。
その姿は、とても人間的に可愛らしかった。恥じる理由は、人間的ではないけれど。
「盛夏は?」
「善行です」
「ふ~ん……善、とか正しさ、じゃなくて?」
「善という概念は、きっと正しさそのものですが、正しくそこに在るだけです。直接、人を救いません。善人は、確実には救いをもたらせません。ならわたしは、行為そのものを選択します」
雨乃盛夏は人間だけれど、とても機械的に思考する。
「確実さを選ぶべきなら、幸福とか救いとかの方が適してない?」
「現実味を考慮してみました。完璧な幸福や救いを、わたしは見たことがありません」
「それなら、完璧な善行だって見たこと無いよ。そもそも……そんなに言葉に潔癖じゃ、僕たちはきっと何も話せなくなってしまうんじゃないかな」
しばしの間、盛夏は難しそうな顔で黙りこくった。彼女の言動は人間味に欠ける。けれど、意外にもその表情は豊かだ。
「そうですね、では訂正をします。完璧な救いや幸福を目指す、その『意志』を。わたしは譲りたくありません」
そんな盛夏の回答に、モノが複雑な表情を浮かべていた。……仕方のない事だろう。
ロボット工学三原則――つまり、ユキの宿命。その第二条は“ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない”だ。
ユキには……意思はあっても、意志はない。それは与えられるものであって、決して譲れないものなんかにはなり得ない。
本当は、盛夏よりもモノの方が空っぽなのかもしれないなとぼんやり思って無性に泣きたくなった。
――教室の外では、ヒグラシが淋しげに鳴きつづけていた。
臆病者の恋心ほど、純粋で無垢なものは無いと思う。だからきっと、それはこの世で一番綺麗で、痛くて、脆くて。
何の話か…?
つまりは、これは恋の話で。
――とあるロボットが、宿命の三原則を蹴破る夏の話だ。
あしたのてんき よるの @vanirain_3
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