第31話 獅子か、子羊か 後編 その1

「…イオアンネス二世は自ら徒歩かちで敵陣に切り込もうと意気込んだが、周りのローマ人らが引き留めた。ゆえに、皇帝は自らを守る斧を携えた者(皇帝に長きにわたって仕えてきたブリタンニアびと)達に、敵陣を切り崩せと命じた」


「…惰弱なる自軍の兵に怒ったギリシャの王であったが、陛下秘蔵の懐刀、ヴァラング隊にでもご下命遊ばせ、と彼らに言われ、あのような多勢に無勢の状況では、いかに勇猛であろうと、貴重なヴァラング隊を無駄死にさせるだけだ、と渋った…」


 この二つの別々の文章は、それぞれがベロエの戦いに関する貴重な記録であるが、前者は同時代の東ローマ人、後者は戦いより数十年後のスウェーデン人の手によってそれぞれ著されたものである。この記録よりわかることが少なくとも二つある。一つは、ヴァラング隊という組織が皇帝の身近に存在し、かつ斧で武装して、勇猛果敢な存在であったということ。そしてもう一つは、その隊員―少なくともこの戦いにおいてイオアンネス二世の近辺に存在した兵士が、ブリタニア由来の人間であったということである。

 遡ること百有余年、時の東ローマ皇帝バシレイウス二世は、国境東部にて頭角を現したキエフの大公ヴェリーキー・クニャージウラディーミル一世に妹アンナを嫁がせ、姻戚同盟を構築した。豪族たちの寄せ集めに近かったキエフはここにキリスト教化し、東ローマの衛星国に近い存在となる。「栄誉ある」国交の報いとして、キエフ大公はかつて亡命の身から国権を掌握するまでの長きにわたり彼に付き従った従士団ハスカール、すなわち後世にヴァイキングと呼ばれる北方人の戦士たちを呼び寄せ、栄転させた。燦然たるローマニアのみかどの御身を護り参らせよ、と。このように東進したヴァイキングたちを、ローマニアの人々はヴァランゴスと呼ぶ。

 ヴァラング親衛隊タグマ・トーン・ヴァランゴーンと呼ばれる東ローマ帝国最強の兵科の誕生であった。

 よく見ても戦闘狂、その本性は略奪と暴力の死の商人、というところのヴァイキングたちは、確かに戦に強く、歴代皇帝の覚えも良かった。当時としては官僚制度の整った東ローマ帝国において、親衛隊は急速に「役職」として発展を遂げた。後世に著された『コディノス偽典』と呼ばれる東ローマの官僚制を記した書には、彼らが皇帝直属の兵士としていかに働いたかが述べられている。

 発足当時は主に北欧の戦士たちで固められていたこの親衛隊の成員が大きく変容したのは、1070年前後であったと言われる。この頃、ノルマンディー公にしてアングル王に昇りつめたギヨム、すなわち「西進」したヴァイキングの末裔が、大ブリテン島にてアングロ・サクソンの人々を圧迫し始め、その勢いに抗しえなかった者たちの一部は、遠路の波濤をくぐり、ビザンティウムへとたどり着いた。この流浪の民の多くは旧貴族であったので、東ローマ皇帝は鷹揚に彼らを受け入れ、帝国領内の黒海沿岸にノヴァ・アングリアなる地を用意し、移住と植民を推奨したという。

 折りしもイタリアにまでギヨムと同じ西進ヴァイキングの子孫、「悪狐グイスカルド」ロベール・ドートヴィルらの一派が伸長してきた時代であり、皇帝は流れ着いたアングルの人々からも兵を募った。ヘースティングスという大戦で大敗したとはいえ、まだ少なくないアングロ・サクソン従士団の兵士たちは存命で、彼らは主の亡国貴族と共にヴァラング隊へと参加したと言われている。

 それから半世紀が過ぎ、いまやヴァラング隊の構成員は、スカンディナヴィア系とアングル系が肩を並べるまでになっていた。


 栄誉の召喚を受けたヴァラング隊は、このときベロエの陣地に480人ほどの精鋭を参陣させていた。「不寝番隊エクスクビトーレス」と呼ばれるヴァラング親衛隊きっての武人たちで、殆どが見上げるような筋骨隆々の巨漢である。皆、ヴァラングには決まりの装備、紫の彩りが重厚華麗な帷子エンマに身を包み、巨大な円形の楯を構え、長大な片刃の戦斧を捧げている。陣幕の中に揃った彼らは、馬上に上がったイオアンネス二世が沈黙する間、微動だにしない。その様は、佇立する古代ギリシャの戦士を象った石造さながらであった。

 やがて、黒瑪瑙の瞳に雷光を光らせ、イオアンネス二世が口を開いた。

「親衛隊よ!わが軍奮戦むなしく、また余の武運も拙く、いまだに我が軍は敵陣に食い込めないままでおる」

 皇帝は忌々し気に自分の足の傷をさすった。

「余はヴァラング親衛隊に最高の栄誉と寵愛を与える。お主たちを無駄死にさせたくはない。然し今、時の砂は黄金に値するほど価値がある。早急に北褥ペチュネグの禍を除かねば、アナトリアの虫たちが騒ぐであろう。余は父王の再興したローマニアを守らねばならぬ」

 と、重い武装の音を鳴らしながら、一人の親衛隊士が前に歩み出た。不寝番隊の連隊長アコルトゥス、ソーリル・ヘルシングである。目の覚めるような銀髪に、氷海の色をひと掬い宿した碧眼の、白熊のごとき巨人であった。

「燃え盛る炎が立ちはだかろうと、後の安寧の為なれば、喜んで我らこの身をその渦中へ投じましょうぞ」

 ソーリルの言葉に、隊員全てが斧で楯を一つ叩いた。ヴァラング親衛隊式の敬礼であった。短く頷くと、馬上の皇帝は目を閉じた。

「永遠なる王にして聖人オーラフに祈ろう、汝らに戦の加護あらんことを。イイスス・ハリストス救世主イエス様よ

 救世主の名で言葉を締め、イオアンネスは十字を切った。親衛隊員は一たび戦斧から手を放し、楯を持つ手の指と合わせ、祈りの組み手を翳した。オーラフとは、当時より一世紀ほど前にノルウェーで戦死した王の一人で、既にノルウェーの地では主の教えを広めようとした偉人として列聖されている。ヴァラング隊と歴史的に近しい北欧人ゆえに、イオアンネスがその存在を引用したのである。

「親衛隊、出陣!敵陣に食い込め!」

 イオアンネスは敵陣の方角に手を下した。親衛隊は再び楯を打ち鳴らし、ソーリルを先頭に、横列陣を展開し、重く、静かに、ゆっくりと、進撃を開始した。


 イオアンネス二世は親衛隊だけに仕事をさせるつもりはなかった。アクスーク将軍に兵力を再編成させると、親衛隊の両翼に並行させ、鳥瞰すれば、楔形の陣形を取り、ペチュネグの要害に錐を揉み込もうと企図した。

「性懲りもなく来たか。矢戦の準備をせよ!」

 ペチュネグ人たちは得意の短弓に矢をつがえると、敵兵が前進して射程に入ってくるのを待つ。やがて、兵の一人がやや蒼白な面持ちで目をしばしばと瞬かせた。

「ヴァラング親衛隊…!」

 多くのペチュネグ戦士たちは息を飲んだ。中世東欧において知らぬ者は恐らくいないであろう、紫紺のマントを翻す巨人たちの兵団。伝説と風説とで畏怖を与え続けるローマニアの最終兵器が、今、自分達の眼前に迫ってくる。

「怯むな、たかが歩兵ではないか。同じように矢戦で勢いを削り、背後から騎射をかけよ」

 族長クリュの命令は遺漏なく弓手たちによって実行された。しかし、今度は様子が違った。

スクータ、構え!」

 白銀の戦士ソーリルが叫ぶと、ヴァラング隊は自らの前後左右を隙間なく、楯に楯を重ねて、一匹の甲虫が蠢くような滑らかさで前進する。その完成度は、全ローマニア兵、またペチュネグ人の度肝を抜いた。楯を構えた腕が下がることも、前進速度が緩むこともない。中には矢を受けた隊士もいるが、頑として歩みを止めようとしない。あるいは、あるペチュネグ人は、秋の獰猛な熊の姿を想起したやも知れぬ。矢を受けても怯まず、餌への妄執の為にこちらへの突進を止めぬ、人食い熊の「それ」を。

 親衛隊の進撃は止まらず、彼らは敵の砦の壁に近づいた。壁と言っても、荷車や家畜の死体と土塁とで乱雑に築き上げられたそれは、容易に登れるとも思えぬ。この面妖な障害の為に、東ローマ軍は出血を強いられたのだ。当然、親衛隊の速度もここで著しく損なわれる―はずであった。

 親衛隊の中から一人、朝焼けの日光を浴びたような金髪の隊士が、やおら前に飛び出ると、何かを腹部に縛り付け、まるで子供が野山を登るがごとき速度で、雄叫びを上げながら、峻険な障害に飛びついた。遠目にはわかりにくいが、彼は楯を背に負うと、両手に長大な斧を握り、それを荷馬車の壁面などに打ち込みながら、腕の力のみで体を懸垂させて壁を蹴り、次の一撃を打ち込んではまた上に進み、交互にそれを繰り返して、ましらも恐るるべき素軽さで壁面を「駆け上がった」。矢を放ちながら遊牧民たちは唖然とした。そして族長クリュだけが素早く気づいた。この親衛隊士は縄梯子を腹に抱えているのである。

「あの金髪を射殺せ!昇られるぞ!」

 無数の矢がその戦士めがけて放たれた。イナゴの群れの如き矢の雨は大地の理に則り、戦士の体を強かに貫くかに思われた。

「リョーン!守れ!」

 ソーリルが叫ぶ。次の瞬間、ペチュネグ人たちは言葉を失った。金髪の戦士リョーンは一目で矢の方向を見抜き、壁を登り切って、殆どの矢を躱した。戦慄すべき視力と身のこなしであった。そしてこの戦士は自らの仕事を忘れなかった。砦の突起部に縄梯子をかけ、親衛隊の方に向け垂らしたのである。

「一番隊、前進スラスタ!」

 北方人の言葉で命じると、ソーリル自身は長大な戦斧を置いて、重なっている荷車の一つを両手でつかんだ。。銀髪の巨漢の力は、先のリョーンのものとは違う、重厚な勢いを持っていた。数人が乗り込んで荷物を運べるような、大の大人一人ではびくともしなさそうな荷車が、彼の両手で、少しづつずらされ始めた。ペチュネグ兵は必死に矢を放ち投石を試みるが、ヴァラング隊員が楯でそれを防ぐので、ソーリルには届きもしない。

「二番隊、突破ブレーカン!」

 言われた親衛隊士たちは、一番隊が縄梯子を登る横で、ソーリルと共に荷車を担ぎあげ、ウーホウと声を合わせる。頑健な彼らのかいなは山脈のように盛り上がった筋肉に幾筋もの血脈を浮き上がらせ、ついには荷車の囲みを揺るがし、横へずらしてしまった。そこには、人間が数人通れる隙間が生まれた。

突撃シュトーム!」

 白皙の頬を真っ赤に紅潮させたソーリルの、怒声にも似た号令が轟いた。喚声を上げる隊員たちが我先にとばかり囲いの穴へ飛び込んでいく。上空から見ると、囲繞の中へ、色鮮やかな巨躯の人海が流れ込むかのようであった。

 ヴァラング隊の真価が明らかになったのは、ここからであった。長大な戦斧を振るう彼らの前では、軽快な遊牧民達は刈り取られる小麦のごとくひ弱であった。ヴァラング隊が数歩進むたびにペチュネグの義兄弟達は血煙を上げて絶命した。悲鳴が折り重なり、族長クリュはたまらず「逃げよ!」と叫んで自らも馬に跨ったが、その前に、陽光の残照を振り乱したヴァラング隊員―リョーンが、騎乗した姿で立ちはだかった。

「どこへ行く、北褥の長。卑しくも一族の長たれば、我らが主のごとくその先頭に立ち、一族の犯した帝国ローマニアへの責を背負うべきであろう」

 淀みなく、静かなビザンティウム語であった。クリュは馬首を巡らすと、視線だけはリョーンから外さずに、片言を交えてまくし立てた。

「何が帝国か。もともとこの地は我らの父祖が馬を追い畜生を育て生活した。後で、支配者づらをしてきたローマ来た、略奪者の北方人たちも来た、盗賊たちだ」

 リョーンは眉一つ動かさず、クリュの暴言を真正面から受け止めた。

「だが我らは自らの責を受け止める。逃げぬ。戦ってそれを証明する。神のために」

 やがてクリュの随伴者らが馬を寄せてきた。ペチュネグの囲みはヴァラング隊の吶喊を受けて崩壊し、既に他の帝国兵までもがその流れに加わって、戦の大勢は決した用である。この上は逃げるか、服従しかない―。

「降伏するならばそのようにせよ。皇帝は公明正大にして廉直、決して勇戦した北褥の民を冷遇はせぬであろう」

 クリュは激昂したが、彼以外のペチュネグは互いに目配せした。降伏した方が良い、とクリュにペチュネグ語で話しかけたようだが、同意は得られなかった。

「勝負しろ、北方人ヴァリャーグ。勝てば俺は逃げる」

 クリュは曲刀を構えてその切っ先をリョーンに向けた。リョーンはヴァラングの斧を捨て、腰間に佩いた剣を抜いた。真っ直ぐなその刀身は、北方人の愛用する長剣のそれであった。

「馬の上のヴァラングなど」

 薄笑いを称え、クリュは掛け声一喝、馬を促して切り込んだ。リョーンは顔の前に把手を構え、切っ先を逆さにしてその斬撃を受け流す。返す勢いでクリュの剣を絡めとると、もう片方の手で握り返し、そのまま持ち主の体へ切りつけた。

 北褥の民にはあまり知りえぬことではあるが、ヴァラング隊には騎乗技術も伝播しており、ビザンツ古来の甲冑騎士カタフラクトスの技術の継承が行われ、洗練されていた。おおよそ遊牧民の侮るような騎乗戦闘の水準では無かったのである。

 鈍い音を立て、肩甲骨から斜めに刀身を受け入れたクリュは、口から血泡を吹いてよろめいたが、斃れる寸前でリョーンの空いた腕に自らの腰につけた短刀を叩き込んだ。熱く痺れるような衝撃がリョーンの身体に走った。左手の肘の真上に、族長の短刀は食い込んでいた。痛みをこらえて短刀を抜くリョーンに、ペチュネグの馬に騎乗したソーリルが近寄ってきた。その姿を見て、遊牧民達は武器を地面に捨てた…。


「もはやペチュネグの抵抗はほぼなく、勝利は目前に御座いまする」

 アクスークがほころび顔で報告してきて、本陣のやや前方に馬を進めていたイオアンネス二世は険しい顔で深く頷いた。ヴァラング隊に対する感謝と敬意、更には少しの後悔が、モザイクの様相で彼の顔を彩っている。

「おめでとうございます、皇帝陛下オウトクラトール

 流暢なラテン語で、彼に馬を寄せ、声をかける者が在った。見たところ青年貴族のようであるが、毛色や佇まいがローマニアのものではなさそうである。その瞳には静かな興奮の熱波が押し寄せたのか。やや充血した様子であった。

「おお、オワイヌス王子。戦はよう見聞されたかな」

 オワイヌスと呼ばれた青年貴族は、吐息と共に、笑みを浮かべた。静かな湖の湖面に夏風が漣を寄せたような笑顔であった。

「はい、とくと。ヴァラング親衛隊の壮挙は歴史に残りましょう」

 満足そうに、灼けた肌の皇帝はオワイヌスの賛辞を受容した。

「遠路はるばる修好の誼を結ぶためにカンブリアの王子がおとのうてくれたところ、このように戦続きで難儀をして忸怩たる思いよ。だが、貴殿も殊勝なこと、本陣にて観戦して後学に生かしたいとは」

 オワイヌス―グウィネド王子オワインは、笑みを浮かべたまま、馬上で再度礼をする。

「陛下のおかげで、異教徒対策や戦の作法を学べ、某の浅学さが身に沁みました。我らの如き小国風情が気宇壮大なローマニア皇帝の真似事の何をかできん、とは思いますが、幾つかの貴重な学びは必ずや実りをもたらしましょう」

 年少の異国の王の追従に、皇帝は悪い気が起きようはずもなく、同じく破顔して受け入れたのであった。

「では宮殿ブラケルナエにて会おう。これより戦後処理をせねばならぬて」

 イオアンネスは手綱を取ると、オワインが礼を施すのを横目に、戦場の奥へとアクスークを伴い馬を走らせていった。その後ろ姿を見つめながら、一人、オワインは呟いていた。

「親衛隊、か―」

 

 ベロエの戦いは終わった。序盤こそ押されはしたが、最終的には東ローマ軍が大勝し、敗れたペチュネグらは、生きて戦える者らは傭兵として、ローマ帝国軍の騎兵に組み込まれることになったという。イオアンネス二世はやはり有能であった。ここで失った兵力の数倍に勝る騎兵を彼ら自身から挑発すれば、しばらくはその団結と反乱を呼び起こすこともなく、かつ小アジアのテュルク人らに負けない素早さの兵科を手に入れることができるのであるから―。

 そしてここから、数奇な物語の糸車はもう一度回り始める。


 

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オワインの獅子 北海 加伊 @kaikitami1

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