里山の出会い

糸井翼

里山の出会い

うっそうと茂る林の中に細い川が静かに流れている。人が頻繁に来る場所からも少し離れている。ここなら落ち着いて過ごすことができるかもしれないなと思った。

静かな林に何かの気配を感じた。何かいるのか。

少し離れたところに、細い川をぼんやりと眺める幼い男の子がいた。こんな場所にどうして来たのだろう。一人のようだから迷子か、人の使う道は少し離れていると思うのだが。体の大きさを見る限り、ある程度分別のある年齢だと思うが、そうは言っても子供なのだろう。子供の好奇心は度が過ぎるときがある。

私が近づいていくと、彼と目が合った。怖がるか、あるいは驚くかと思ったが、予想外にほとんど驚かない。無邪気に嬉しそうな表情だ。怖さも学んでいくものだ、彼はまだ私の怖さを知らないのだろう。

「あなたは妖怪ですか」

私に平気で話しかけてくる。私が人間の考える普通の存在とは違うものであることは理解しているらしい。人間の世界では妖怪ブームがここ何年か続いていたと聞いたことがあった。そっち方面の知識はあるのかもしれない。

「まあ、そのようなものだな」

私自身は、「妖怪」、と呼ばれるような怪しいものではない、と思っている。もっと極めて自然なものだが、彼らの持つ言葉や概念では捉えることができない。自然というのはそういうものなのだが、人間は傲慢だからすべて言葉や概念で縛り上げようとする。理解するのではなく、感じればよい。いずれにしろ、こんな幼い子に説明は不要だ。ある意味、難しいことをわからないこの子の方が感じることについては長けているかもしれない。

「わーっ、やっぱりいたんだ、ぼく、ずっと探していたんです、妖怪」

「なぜ」

「みんないない、って言うから。ここなら昔っぽい場所だから妖怪いるかなって」

私を吸い込んでしまいそうな嬉しそうな目。

「昔っぽいとはどういうことだ」

「えっと…山、みたいな」

その単純な考えにあきれて苦笑いを浮かべてしまった。だが、人間の世界ではそういうことを教えているのだろう。昔は山に囲まれて農業や狩猟で生活をしていた、というようなことか。ある部分では正しいのかもしれない。

「むさしのは東京のオアシスなんだって、ぼく、知っています。」

「オアシス…」

「そうです。オアシス。だから妖怪さんもいるかなって」

オアシス、確かに東京砂漠の中では緑がある部分は少ない。ここは生活と緑が触れる数少ないオアシスなのだろう。東京砂漠を作ったのは誰なのか、そういう問いはきっと誰も語りたがらない。

「昔っぽいと言ったな、昔はこのあたり、あまり林ではなく荒地ばかりだった。火山灰でできた土地だ、土が良くなくて農業に向く場所ではなくて…」

「どれくらい生きているんですか」

「さあな…」丁寧に説明してやっているのに、途中で割り込むな、愚か者め。

「お前の言う昔っぽい景色、それもせいぜい三、四百年前の話だと思うが…」

「そんな昔から知っているんですね!」だから、人の話を聞け。

「きれいな林ができたのは三、四百年前くらいだろう。だが、それももうほとんどない。このあたりも好き放題家や道路が造られて、林もわずかに残っているだけだ。それも、昔を懐かしむ連中が形ばかり残したものなのだろう…」

興味があるのかないのか、嬉しそうな表情のまま私の話を聞いている。だが、おそらく理解はしていないように思う。まあよい。

「ほかの妖怪はどこにいるんですか」

彼は少しだけ寂しそうに聞いてくる。少しは話を理解しているようだ。

「どうだろうな…私たちがいられる場所は、闇のある場所だけだ」

「やみ…」

「本当の闇は、昔はもっとあったのだ。だが、人間は闇を切り崩してしまった。私たちの世界はもうほとんど残っていない。だが…そのせいで不幸な出会いも増えたのではないか」

「不幸な出会い…ぼく、妖怪さんに会うの初めてです」

「お前に言ったところで仕方がないが、中途半端な気持ちで妖怪の世界に足を踏み入れた結果、怪我したり、命を落とす者、魂を傷つける者、まあいろいろあるのだ」

「ぼくも死ぬの」

少しおびえた表情でこちらを見た。私の表情は少し緩む。「お前は大丈夫だが、こんな場所に一人で来ると危ないということだ」

「よかった」

そうは言いつつも、私の存在が少し怖くなってきたらしく、少し距離をとっている。私たちは基本人間には無害だ。そちらが勝手に私たちの強い力に触れてしまったときに事故が起こるだけなのだから。

「お前は、こんな世界で良いと思うか。」

武蔵野でさえ、わずかに残った里山も失われつつある。これからはもっと緑豊かな、美しい環境を増やしていく、とか、そういう未来を目指すと、せいぜい覚えていって帰らせよう。この出会いもそういう意味があった、とあの子は大人になって思うに違いない。幼い頃の鮮烈な記憶は生き方に影響を与えるものだ。

「ぼくは…今のむさしのが好きです」

「は?」

ここまでの私の話を理解できなかったか。

「だって、住みやすいし、友達もいるし、自然があって、かわせみも飛んでて楽しいし、ちょっと山に入ってみたら妖怪さんにも会えるし」

私は大きなため息をつき、はなはだあきれた。あまりにあきれて、可笑しくなってしまった。笑いながら、彼に言う。

「そうか、今の武蔵野が好きか」

「うん!」

幼い人間を短い言葉で理解させようとするのには難しかったのかもしれないな、と思った。いや、あの子は、私が懐かしむ過去も、緑や闇がますます失われていくであろう未来も見えていないのだ。まさに「今」だけを感じながら生きているからこそ、今のこの場所が好きだと、はっきり言えたのだろう。だからこそ、こうして私たちは会えたのか。ならば、それほど奇妙なことではないのかもしれない。

「お前は、そのままでいればいい。変わらないでいれば」

きょとんとした顔をしているから、どうせ何も考えていないだろう。

「ここも、この山も変わらないといいなあ」

「変わらなければ、また私たちは会えるはずだ」別に会いたいわけではないが。

「そうだね、またね。そろそろお父さんたちのところに戻らないと怒られちゃうや。妖怪さんに会えたこともしゃべるからね」

彼は嬉しそうに手を振りながら明るい方へ歩いて行った。

ここも危ないかもしれないな。さて、私は、落ち着いて過ごせる場所を探して、また闇の中へ行くことにしよう。

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