表象共有

Mondyon Nohant 紋屋ノアン

 

 ミオを引き取りに来るという連絡があった。

「私にもミオちゃんと同い年の子がおりますので、あなたのお気持ちはよくわかります。しかしながら、これは裁判所の命令ですので」と、検察官は少し古風な日本語で「発話はつわ」した。

「日本語がお上手ですね? それに好い声だ」

 私がそう「言う」と、高齢者が多い役所ではまだ音声言語と文字言語を捨てきれていないから、と彼は応えた。

 流暢な日本語からして、五十歳くらいだろう。私より四、五歳ほど年上のようだ。

「あなたこそ、言語による司法手続きをなさろうなんて今どき珍しい」

 それでは、と言い残し、検察官の3Dイメージは私の目の前から消えた。

 私は起訴される。

 軽犯罪なので裁判は在宅のまま裁判所のAIが略式で行うことになるだろう。十中八九有罪だが、せいぜい科料かりょうだから安心しろと弁護士の友人は笑っていた。しかし私の心はこれ以上なく深く沈んでいた。 

「後一時間で、お別れだ」

 私は表象共有機ひょうしょうきょうゆうきのスイッチを切り、ミオに日本語で言った。

 私は罪を犯した。その結果、ミオと離れて暮らさなければならなくなる。ミオは施設に入れられ、私はミオに一生会えなくなるだろう。私に科せられる罰は、「孤独」だ。

 表象共有という技術が一般化して、もう二十年になる。

 量子コンピュータが古典コンピュータに代ってAI開発を主導し始めた三十年ほど前、世界中のAIをリンクし、エスペラントのような国際補助言語を作らせようという機運が高まった。

 当時、地球上には八千を超える言語があった。中国語、スペイン語、英語、アラビア語といったメジャーな言語を母語話者とする人々はもちろん、母語話者の数がそれほど多くない民族の人々も、それぞれの自国語の語彙や文法をできるだけ多く採用するようにAIに働きかけた。既存の言語を基にしたアポステリオリな言語ではなく、いっそのこと、アプリオリな言語、つまり自然言語の語彙や文法を一切使わない全く新しい言葉を期待した人々もいた。

 しかし、ほぼ三週間後、AIたちが出力したのは人工言語ではなく次のような「提案」だった。

「皆さん勝手に自分のお好きな言葉を使ったらいかがでしょうか」

 自分たちに都合のよい言語を作らせようとする様々な母国語話者からの執拗な要求やハッキングにウンザリしたAIたちは、人工言語の制作を止めて、「好きにすれば?」という提案をしたのだ。AIはその提案と同時に、極めて高性能な万能翻訳機を設計し、それを公表した。

 AIが作った翻訳機は、文構造を解析し語彙やフレーズを異言語の語彙やフレーズに置き換えるルールベース型や過去の翻訳例に照らし合わせて翻訳の精度を検証する統計型のようなデータベースに依存する古典的翻訳機ではなかった。例えば、「林檎」なら次のように翻訳する。

 先ず、リンゴを「赤い」、「掌にのっかる」、「食べる」、「木の実」、「寒所の植物」「かじる」、「芳香」、「初恋」…といった、あの美味しい果物を連想させる無数のイメージ、つまり「リンゴ」を構成する様々なに分解する。次に翻訳機は、その多くの表象をもとに確率計算を行い英語やスペイン語話者に対してなら「apple」を、中国語話者に対してなら「苹果ピングオ」を出力する。つまり、この翻訳機は言葉から想像、想像されたものから言葉へという人間が言語活動するときのプロセスをそのまま再現するのだ。それだけではない。最初に発話された一つか二つの単語と話者の表情や声のトーンなどからフレーズを予則し、しゃべり終わらないうちにメッセージを翻訳してしまう。例えば、発話者が「僕は」と言ったとたん、翻訳機は彼の表情や体温の変化や脈拍からわずかな戸惑とまどいや決心を読取よみとり、また話し相手の表情から厚い期待を読取り、「I love you.」と翻訳するのである。

 この装置は小型化され大量生産されて、あっと言う間に世界中に広まり、通訳者や翻訳家の仕事を奪った。人々はこのウェアラブル翻訳機を身に着けて自分の国の言葉で自由に話し異言語を話す人々と心を通わせるようになった。世界は比較的、平和になった。

 五年も経たないうちに、この装置の機能は大幅にバージョンアップした。AIの助けを借りた脳科学者たちが脳の働き、特にイメージの生成のしくみを明らかにすると、音声言語や文字言語を無数の表象に変換しそれをさらに組み合わせ捨象して異言語に変換するというプロセスが翻訳機から消えたのである。つまり、発信者の記憶表象を直接受信者に伝えるという仕組みが発明されたのだ。自分の心象を言葉に変換せずそのまま相手に伝える技術である。例えば、「好い香りだった」と相手に伝えようとすると、相手はその嗅覚情報を直接「感じる」ことができる。表象情報は記号と同様にメディアにのせて伝えることも出来るし保存も出来る。感情も言葉に変換することなく、そのまま人に伝わる。例えば人々は、空爆で子供を失った母親の悲痛を体感できる。空爆を行った爆撃機のパイロットの後悔も体感できる。言葉を介さない完全な共感が可能となり、世界はとても平和になった。人々はこの技術を翻訳用としてだけではなく、普段の生活でのコミュニケーション用としても使い始めた。

 今や、全ての自然言語が補助言語となっている。いや補助言語にすらなっていない。オノマトペだけでも意思の疎通はできる。それどころか、声に出して話さなくとも「会話」は成立する。いや、会という言葉は適当ではない。現代人たちはこのコミュニケーションの形態を、「心象のやりとり」と「イメージ」している。完璧なノンバーバルコミュニケーションだ。

 町から人の声が消えた。無言で相手と対峙たいじし、楽しそうな、あるいは哀しそうな顔をしているだけの人々を見ると、人の話し声の中で幼児期を過ごした私の脳は、ビミョーにキモい表象を生成してしまう。

 表象のやりとりでは、嘘をつくのが難しい。どうしても嘘をつきたい時は表象共有機のスイッチをオフにし音声言語で話せば良いが、音声言語を使って話す者は嘘を言っていると疑われる可能性があるので、あまりお勧めできない。

 もちろん表象共有の技術は多くの分野で役にたっている。例えば、小児科という医学の分科は無くなった。「表象共有」によって、乳幼児の問診さえ大人と同様に出来るようになったからだ。視覚障害をもつ人も、聴覚障害をもつ人も、自由にコミュニケーションがとれるようになった。もっとも医学の発達はほとんどの障害をこの世から消し去ってはいるが。

 私も、ブレスレット型の旧い表象共有機を持っている。このブレスレットを身に着けて、私はミオと表象共有をしていた。ミオは音声言語によるコミュニケーションが苦手だ。

 この家にはミオと私しか居ない。去年、妻はミオをこの家にのこして遠い旅に出た。宇宙飛行士の妻は、国際的な宇宙開発プロジェクトのメンバーに選ばれたのだ。私と離ればなれになるのは嫌だし、ミオがいるのに家を離れるわけにはいかないと妻は言ったが、私は、そのプロジェクトへの参加を彼女に勧めた。彼女の長年の夢だったからだ。妻は「この子をお願いね」と私に言って家を出た。少なくとも十年は地球に戻らない。

 喜びやこころよさ、哀しみや痛みを他の者と共有し、孤独という恐怖から逃れる…それが人が言葉を発明した最も大きな理由だと私は思う。だが私はもう直ぐ、想いを共有する一番身近な相手を失う。

 今日はミオの誕生日だった。

 私はさっき、ミオと一緒に、小さなバースデーケーキに立てたニ本の蝋燭の灯を消した。そして、ミオとケーキを半分ずつ分けて食べた。ケーキを食べている時、ミオが私に寄せた表象は「美味しい」という表象だけではない。私に抱っこされている時に感じる温かさとか私に頬ずりされている時のこころよさとか、強いて言葉にすれば、「一緒にいて幸せ」といった想いだろう。私は平静を装い、ミオに「別れ」を伝えまいとした。

 ミオは首を傾げた。そして、私がひた隠しに隠している表象を探し出し共有しようとした。私は、咳をし、額に掌を当ててごまかそうとした。ミオはヨチヨチと歩いて、部屋の隅まで行き、そこに置いてあった小さなエイドキットを持ってきて私に渡した。私は「ありがとう」と「言って」ミオを抱きしめた。ミオを引き取るという連絡が検察官からあったのは、エイドキットから診察機を出して、そのスイッチを入れるふりをした後だった。私は検察官に命じられ、ミオと私の表象共有機のスイッチを切ってミオとの表象共有を中止した。

「情が移る」という日本語を私は記憶している。確か、想いを共有した相手を自然にいつくしんでしまうという統合表象とうごうひょうしょうだ。

 表象共有の技術は人だけでなく動物にも応用できる。ただ、動物とコミュニケーションをとった場合、この「情が移る」ことが問題となる。動物をモノとして扱えなくなるのだ。一度でも心をかよわせてしまった牛や豚を食べることはできまい。 

 何年か前、ペットに先立たれた飼い主の自殺が頻繁ひんぱんにあり社会問題になったことがある。自殺した飼い主が皆、ペットとの表象共有を行っていたことが判明し当局は動物との表象共有を禁止したのである。

 呼び鈴が鳴った。三次元モニターが、令状を見せる検察官の姿を私の目の前に映し出した。

 部屋に入った検察官はミオを抱き上げた。

「証拠品として押収します」

「証拠ヒン…ですか」

 私は検察官に抱かれ連れていかれようとしているミオに「さようなら、ミオ」と音声言語で言った。

 ミオは哀しそうな目で私を見つめ、「ワン」と小さくないた。

                                  (了)

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