伍 海 異変についての討論

海洋生物研究所


「でもおかしいじゃないか!」

「落ち着けよ」

論議室に怒鳴り声が響く。ヒートアップすると声を荒げるのがこいつの悪いところだ。この部屋は防音じゃない。恐らく外まで声が漏れているだろう。

「自然ってのは悪戯なもんだよ。時にはそんなこともある」

「でもこんなのはあり得ない」

「あり得てるんだよ実際に」

ホワイトボードに貼り付けられた写真、ペンで画かれた荒い文字。無機質な部屋に静寂が流れる。


「会議は何時から?」

「もう始まってますって!」

長い廊下を歩く男女のペア。女はしっかりとしたスーツ姿で資料を抱えて男に必死について行っている。大して男は着崩してだらしないスーツで欠伸をしている。

「どんな内容だっけ?」

「ウバザメの件です」

「詳しく」

女が呆れたようにため息をつく。この温度差は何だろうか。と言うか、本当にこの人が私の上司で良いのだろうか。こんなだらしなくて平気で会議に遅れて内容まで忘れているとは。

「温暖な海に生息するはずの約13㍍のウバザメが冷たい北三陸に座礁しているところが発見されその体内からはプランクトンが主食であるにもかかわらずこれまた暖かいところにいるはずの5㍍級のメガマウスが発見されたんです。しかも同じくプランクトンが主食であるそのメガマウスからは、ヘラジカの死体が出てきたんです」

「なるほど不思議だね」

「はい」

論議室の前に立つと怒鳴り声が聞こえてくる。

「これだからここには来たくないんだ」

「いいから、遅れてますよ」

「はいはい」

ドアノブを回ると渇いた音が鳴る。中から聞こえていた声がぴたりと止む。ドアを開けると二人の男が席に座って大人しくしていた。

「いつまで経っても君たちは分かりやすいな」

部下の女をもういいと部屋の外に出し、ドアを閉める。冷房の効いた部屋は涼しくて居心地がいい。

「さて、始めますか」

「はい」

男はホワイトボードを見ると、口を開いた。


「どうでした、会議」

女が休憩スペースで腰を下ろしている男に缶珈琲を差し出しながら言う。

「あんな会議で分かるようならそれは海で起こっていることでも何でも無いね」

「それはどういう・・・」

男が言ったことに首を傾げる。男は缶珈琲を開けると一口飲んだ。苦そうに顔を顰める。

「海は神秘だ。どれだけ論議室で御託並べてもそんなもの海の前じゃ塵だって事だよ」

「分からないですね」

「それでいい」

相変わらず適当に会話を終わらせる。少しは人に理解させる話をしたらどうなのだろうか。

「まあいいですけど、どうするんですか?」

女も珈琲を飲む。独特の臭みが鼻に広がる。

「俺はどうもしないさ。別件で忙しいし」

「何か何時もそれ言ってません?」

「何時も忙しいんだよ」

もう一度缶に口をつけると、一気に液体を流し込んだ。

「珈琲は美味しくないな」

「文句言わないでください」

女も珈琲を飲み干して近くにあったゴミ箱に入れる。

「じゃああの件は誰が?」

「部下」

なるほど、全部丸投げしてきたわけだ。可哀想に、部下の人。私も該当するのだが。

それにしても、此処の冷房の設定温度は少し低すぎる。涼しいを通り越して肌寒さを感じる。

その後もしばらくどうでもいい話で時間を潰していると、一人の若男が入ってきた。息を切らして、走ってきたのだろうか。

「宏明さん」

「ん?」

男が返事をする。もう少し愛想良く返事して上げれば良いのに。

「お客様がお見えです」

男が少し驚いた顔をする。が、すぐに何時もの調子に戻ると面倒そうにため息をついた。

「分かった」

男が頭を掻きながら立ち上がる。

「珍しいですね、お客様なんて」

「俺に会いに来る奴なんて一人くらいしかいないからな」

皮肉で言ったつもりが意外と普通の答えが返ってきて面白くない。それにしても、こんな人にわざわざ会いに来るなんて、誰がどんな用事なんだろう。

じっと見ていると、男もこっちを向く。

「付いてくるか?」

「はい」

動くことの億劫さよりも好奇心が勝り、女も立ち上がると二人揃って休憩スペースを後にした。


「何だよ姥」

男はロビーに飾ってある大きな鯨の骨格標本を見上げていた老婆に話しかける。

「姥とは失礼だね」

老婆がこっちを向く。黒く日焼けした肌に白い髪の毛。でも活発そうな様子だ。

「此処のロビー、中々お洒落だろ?」

ふんっと鼻を鳴らす。

「馬鹿いえ、余計なガラクタが多すぎるわ」

老婆が男の元に歩み寄る。

「選別が始まったみたいだよ」

「ああ、みたいだな」

会話の意図が分からず女が首を傾げる。

老婆の顔が険しくなる。

「器選びの幕開けさ」

「器?」

女が問う。老婆は女を見ると、もう一度鼻を鳴らした。

「女連れとはいいご身分だね」

「まあな」

男が老婆を睨み付ける。それを気にせず老婆が口を開く。

「あんたはこの世界が誕生してからこいつはどれだけの誕生日を迎えたと思う?」

「どういうことですか?」

「言葉の通りさ。世界は生まれ変わるんだ。私達の目にもとまらない場所で密かにね。私はそれを追ってるんだよ」

女の頭に疑問符が浮かぶ。世界が生まれ変わるって、どんな意味だろうか。輪廻転生のようなこと?いや、違う気がする。そんな神話みたいな。

「要は、命っていう液体を入れる器っていうグラスを、世界が探し始めたってことさ」


セミが鳴いている。

器の選別が始まった。

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海霊 渋柿屋 @masa0216

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