肆 世界 海 生物
昨日の浜辺に打ち上げられていたあれはやっぱり鯨だったと、テレビが言っていた。種類はマッコウクジラ。どうやら主食はイカ。水深1000㍍程まで潜るらしい。でも、普通マッコウクジラは15頭ほどの群れで発見されると図鑑には書いてあった。はぐれたのか、死んでから群れを離れたのか、どうなんだろう。
今日は学校がないから海には行かない。でも、なんだか魚を見たくなった。財布を見てみると、千円札が一枚。これじゃあ、水族館は無理だな。でも、やっぱり海には行きたくない。ほら、もしかしたら死体に群がる気持ち悪い奴らがいるかもわからないし。
そうだ。私はいいことを思いついてもう一度財布を手に取る。それを適当に転がっていたリュックに詰めると、急いで一階に降りる。そこには母親がいるが、恐らくテレビを見てる。なにかのバラエティー。お昼時だから料理の紹介とか、そんなのも挟んでる。下らない、料理なんてめったにしないくせに。だいたいコンビニの弁当とか。
靴を履いて外に出ると、今日は蒸し暑い晴天。半袖にしてよかった。あと、日焼け止め塗ってよかった。外に出て一瞬で皮膚が焼かれていくのを感じる。紫外線は冬のほうが強いらしいが、この感じは夏特有だと思う。
自転車に乗り蹴り出す。速さが増すたび少し暖かい風が顔を撫でる。髪が潮風でなびく。空を飛んでるみたい。私の周りには海を渡る渡り鳥の群れがいて、私にも翼が生えていて、何処までも翔んでいく。
目的地は以外に近く、ほんの数十分ほどで到着できた。寂れた外見の一軒家。特に広くも狭くもない。特徴といえば玄関に飾ってある名前も知らないやけに黄色い花くらい。車の入っていない車庫の真ん中に自転車を止めると、インターフォンを押した。ややあっては~いと気の抜けた声が聞こえてくる。
「湖都です」
「ああ、入って」
了承を得てドアを開ける。室内は冷房が効いて冷たい。暑さがどんどん削られていく。気持ちいい。
「喧嘩でもした?」
「してない」
この男は私のお父さんで私のお母さんの夫。今は別居していて私はお母さんのもとで暮らすことになっている。お父さん自体は特に好きでも嫌いでもないが、この場所は割と好き。部屋に入ると壁のすべてが水槽で埋め尽くされている。その中には私の知らない魚の数々が生きている。その他にも魚の標本、骨のも有る。世界各国の海にまつわる図鑑やらも揃っている。ここは人間的な海を感じられる。
「今日はどんな用?」
図鑑を見てノートに何かを書き込みながらお父さんは言う。今度は何を調べているのだか。
「魚、見たくなった」
スラスラとノートとペンが擦れる音がする。しばらくして、あ、そうと言葉が帰ってきた。あ、そうって、実の娘にもう少し興味持てばいいのに。
「そういえば、鯨、見た?打ち上げられてたやつ」
「見た」
「テレビ?」
「見に行った」
外室なんて珍しい。
喋るのを止めて大人しく水槽の中の魚を眺める。命が、目の前でいくつも動いていることに少し不思議を覚える。こんなに小さなものに、本当に私と同じものが宿っているのだろうか。
足元にコツンとあたった図鑑を拾って何となく見る。見たことない図鑑だ。きっともっと専門的なやつなんだろう。少し気になって鯨のページを開く。ザトウクジラは、なんとなくかっこ悪いな。ペラペラとページを捲る。
「ん?お父さん、何これ」
見たことのない鯨を見つけて問う。
「どれ?」
少し顔を上げたお父さんのもとに図鑑を持っていく。
「ああ、それはヒガシアメリカオウギハクジラって言うんだ。希少な鯨でね、座礁例は二十程有るものの生きて姿が確認されたのはほんの十件ほどなんだ。僕も見てみたいけど、まあ無理だろうね。その名と通り生息地はアメリカの東海岸沖の大西洋辺りだし」
「そうなんだ」
「どうした、鯨に興味持ち始めた?」
「いや別に」
「そう」
少し残念そうな顔をされる。まあ、興味がないといえば嘘になるけどそこまで熱心に研究するほど興味があるかと言われればそうでもない気がする。
「学校、どう?」
「ん、まあぼちぼち」
なんというか、親子にしては淡白な会話なのではないだろうか。仲睦まじい家庭ならばこんなときどんな会話をするのだろうか。友達は?とかそんな感じかな。分からないけど。
机の上に置いてある資料を見る。海についての専門的なことから、宇宙のことを書いてるものも有るみたい。本当、一体何を調べてるんだろう。
「海っていうのはさ」
いきなりお父さんが口を開いた。私は手に持っていた資料を置く。自ら話を振ることが多いわけでもないから、なにか大切なことかもしれない。
「平均3800㍍も有るんだ。今世界で一番深いとされているマリアナ海溝はそれの何倍にもなる10920㍍。そして、人類が一番深く潜ったトリエステ号が行ったのは10911㍍、つまりは人類は宇宙どころか海の底にすらたどり着いたことがないんだ。ましてや海なんてほぼ未開の地と言っても過言ではない。もっと深い場所があるかもしれないんだ」
お父さんはため息をつくと欠伸をした。
「僕たちは小さいよ。とてつもなく広い海のほんの少しを見ただけでいい気になってそれを崇める。人間で言うなら髪の毛一本にも満たないだろうに。だから僕は海のすべてを知りたい。僕たちの前で堂々構えているこの世界のすべてを知りたいんだ」
お父さんはふっと笑った。
「まあ、きっと世界は莫大な知識とそれ以上に感覚的で朦朧とした何かでできているんだと思うけどね。それは体で感じないととても知り得ないものだよ。言わば空気のような」
「人間が世界のすべてを知ることは不可能だってこと?」
「いや、そうじゃない。たしかに現実的ではないかもしれないが不可能でもないんじゃないかな。人間だってこの世界が切り出した地球の一部のようなものだからね。地球の子ども、それか、地球そのもの。それは人間じゃなくてもそうだ。植物だって動物だってそれは地球の一部であり地球そのものなんだよ。だって、それを地球と切り離したらこの世界に残るものは何?ただの化学式だ。」
分かるような分からないような、ムズムズする。
生命が地球なのだとしたら、私も地球?ここにいる魚たちも全部。いや、それはいくらなんでも無理があるのではないだろうか。
なんだかここがひどく小さく思えてくる。地球の話とかされると、何となく自分が窮屈だ。やっぱり水族館行こうかな。多分貯金箱あたりを開ければいくらか入ってるだろうし。大きな水族館って何処らへんに有るだろう。東京?遠いな。
でも何となくもうここにはいたくない。狭苦しい空気に押しつぶされそうだ。
「帰る」
「もう?」
「うん」
「じゃあまた」
「うん」
私はもう一度部屋を見回すと、リュックを背負って家を出た。視界がひらける。ここから見ても、世界は広い。でも私が言う世界だってあくまで私が見たことのあるものだけなんだ。本当の世界はもっともっと大きい。私の知る世界の何倍も。
「やっぱり海、行こうかな」
自転車にまたがる。暑い。汗が滲んでくる。私は雑念を払うように一度深呼吸をすると、地面を蹴った。
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