参 海のこと、湖都の回想
今日、いつものように学校に行くと偽り家を出た。夏には特に珍しくもない曇り空で、降水確率は20%とか言っていた気がする。まあそれくらいなら大丈夫かと傘などは持っていない。
錆びついたシャッターの間を通り抜けて海を目指して自転車を漕ぐ。曇ってこそいるものの流石に暑い。いっそのこと雨でもなんでも降ってくれればいいのに。汗が背中を伝う頃、砂浜が見えてきた。いつもは平日の朝ということもあって海にいる人などほとんどいないというのに、今日はやけに賑わっていた。どうしたのだろうと自転車を止めて降りる。砂浜には何が有るのだろうと背を伸ばすが、大人の頭で全く見えやしない。子供って不便。
そうだと自転車のスタンドにロックをかける。私のは通学用の自転車なので荷台がついている。底に足を乗せると、バランスを取って立ち上がる。ふらつく足元で砂浜を見ると、そこには見たこともない大きく黒い何かが落ちていた。いや、転がっていた。それを見た途端ものすごい悪臭で鼻を押さえる。
「臭!」
途端にバランスを崩し自転車ごとひっくり返った。周りの視線が集まる。恥ずかしくなって自転車を起こすと、慌ててその場から離れる。今日も海にいるつもりだったのに、どうしよう。
しばらく漕いでいくと人も徐々に少なくなっていき、それが見えなくなる頃には人もいなくなっていた。仕方ない、今日はここでいいや。
今日はじめて作ってきた水筒をかごから取り出す。あ、少しへこんじゃった。さっきひっくり返したからな。でも中身は漏れてないみたい。
蓋を開けて飲む。氷で冷えた麦茶の香りが口に広がる。喉が潤うと、呼吸を整える。急いで自転車を漕いできたから呼吸が浅い。
「なんか疲れちゃったな」
今日はまだこれからだと言うのに、私はなぜだかひどく疲弊していた。恥ずかしさと、自分の場所を取られたようなむず痒さだ。
それにしても、あれは何だったのだろう。すごく大きくて、黒くて、臭かった。多分、鯨か何かの類の死体だろうけど。でもなぜだろう、あれから死の香りはしなかった。それはもちろん、腐敗した匂いとか、そんな物はあった。でもなにか違う、あれはまだ何処かなんとなく生きているような気がした。まだ生きて何かを伝えようとしているような、何かを熱烈に願ってなし得なかった生の残り香のようなもの。そんなのがあった。
今日は海に入るのは、やめておいた。
ちょうど学校も下校時になって私も家に帰ろうと準備を始めた頃、雨がパラパラと降り出した。意外と小さい数字でも降るもんだと思った。着ている服が濡れるのはあまり好ましくないが、少し暑かったので砂浜に座って雨に打たれてみる。焼かれた肌にしっとりと心地良い。私の目線の先には雲がなく、晴れている。恐らくこのあたりの小さな範囲に雨雲が集中しているのだろう。夕日が海や雲、雨を黄昏色に染める。それは絵画の一部を切り取っているようで、綺麗で言葉にならなかった。黄昏の雨、海が揺れ蠢いている。夕日が沈む。私は動かない。気がつけば空に星が撒かれ、月が光っている。深い青がこの街を包む。夜の静寂が訪れる。それは海の底にきっと似ている。命が息を潜めて輝いている。
そうか、海が私を呼んだのは、私がまるで海の底の魚のようで、この街が深く暗い深海のようで、静かに逢ったからかもしれない。
海は私を、取り込もうとしているのかもれない。
絵の具の原液のような、濃い闇の世界に。
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