鋏は、互いを傷つける一振の刃となり得るか

潮風凛

壊れた妹と、殺したい私

 薄いクリーム色のレースカーテンを透過して零れ落ちた光が、白いリノリウムの床で弾けて部屋全体を透明度の低いぼんやりとした空気で包む。するとたちまち目に映るもの全てが現実からぐっと遠ざかって、ここで実体を持っているのは私と目の前に座る淡い笑みを崩さない女性だけになる。


(このまま、時間が止まってしまえばいいのに)


 詮無きことと知りながら、私は半分以上本気でそう思った。

 世界が私と偽善的な微笑を浮かべる女性で構成されたつまらなくも平穏な場所だったなら、私も思考回路を止めて社会の海に溺れるありきたりなつまらない少女であったことだろう。誰を愛することも、憎むこともなく……。

 だが実際は、私の現実はこの部屋の外にある。光に隠されているだけで私の衝動と激情はそこにあり、目の前にいる女性は私の理性と感情を整えて外に追い出そうとしている先生だ。私は最初から、この空間が真綿のように柔らかで何も傷つけない時間だけを集めて作った一時停止モラトリアムであるということを分かっていた。

 大きく滑らかな曲線を描く白い事務用机デスクで何か書き物をしていた先生が、不意に顔を上げて私を見た。相変わらず慈愛に似た感情を貼り付けた双眸が、ぼんやりと彼女を見ている私の瞳に映り込む。先生の薄い唇が開き、女性にしては低めの声が柔らかく響く――その前に。私が小さな声で彼女を呼んだ。


「先生」

「……うん、どうしたの?」


 先生は少し驚いた様子だったが、微笑みを崩すことなく応えた。私は幻みたいな部屋の空気に溶かすようにぽつりと呟いた。


「先生、『愛』とはどういうものなのでしょうか?」


 唐突な質問に、今度こそ驚いたようだった。暫く黙っていた彼女は、やがて幼い子供に言い聞かせるようにゆっくりとした口調で言った。


「愛というのは、自分が傷ついても相手の傍にいたいと思うこと。刃を持っている相手に対して、自分は捨ててでも歩み寄りたいと願うこと。そういう綺麗で優しいものを愛っていうんじゃないかな」


 いかにも先生らしい、理想と希望に満ちた解釈だった。こんな人が私みたいな人物と話すなんて、この仕事向いてないのではなどと余計なお世話を考えてしまう。それとも、こんな私にも何食わぬ顔で「だから私はあなたを愛しているのよ」と言える人だから先生なんて職に就いているのだろうか。


「妹のことを考えているの?」


 今度は、先生が唐突に私に問いかけた。恐らく、私らしからぬ問の理由を考えた結果だろう。私はちょっと微笑み、首を横に振った。


「最初は、そうだったかもしれませんけど。あの子との間にあるものは、愛ではないと分かっていますから」


 初めから、分かっていたことだった。あの子と私の間に、そんな綺麗で優しいものは存在しない。たとえ必然的な理由で、決してお互い離れられない運命にあるとしても。


「愛したいとも、思わない?」

「無理ですよ」


 なおも言い募る彼女に、私は静かに断言した。私達は、決してそういう関係にはなれないと。


「だって、私は刃を持ったままでしかあの子と向き合うことができないのですから」


 私達は、いつもお互い刃を隠し持ったまま一緒にいる。捨てたいなんて願わない。少なくとも、私は。


 ――何故なら、私はずっとあの子を殺したいと思っているのだから。


 決して、届かない刃と知っているとしても。

 どこか悲しそうな表情で私の話を聞く先生。彼女の机に置かれたものを見て、私は嘲るように口の端に笑みを浮かべた。てっきり、何も知らない人が連れ込まれているのかと思ったけれど、やっぱり関係者じゃないか。それなら、あの悲しそうな演技も私の「調整」の一環なのか。


「ねえ、先生も知っているのでしょう?」


 戯るような口調で言いながら、私は二対の刃がひとつになった道具を指で示した。最近は滅多に見ることもなくなった、紙や布、糸を切るための刃。私達「作られた能力者」を象徴する、組織のエンブレムともなっているシンボル。


「私達は、シザーズですから」


 *


 所属している組織や世間でまことしやかに囁かれる噂の中で、私達は「シザーズ」と呼ばれている。

 一部に広まる話によると、元々は「姉妹シスターズ」と呼んでいたものが訛り、ふた振りでひとつの刃であることから「シザーズ」になったという説が有力らしいが、私は最初から鋏だったのではないかと思っている。

 だって、似ているのだ。確かに所属している能力者の殆どが女性で、バディの相手を互いに姉や妹と呼び習わしているが、普通の姉妹のような親しい関係では決してない。少なくとも私達は。

 それよりも鋏の方が、私とあの子の関係に近いと思う。ひとつの金具で固定された姿。片方だけでは不完全な存在。互いに刃を晒して向かい合いながら、決して相手を傷つけることは叶わないその有り様が。


「そろそろ時間だよ、お姉ちゃん」


 配布された資料に描かれた鋏のエンブレムを見ていたら、不意に頭上から明るい声が降ってきた。妹だ。

 私の妹は、幾つかバリエーションのある組織の黒い制服の中でも、特にスカートのギャザーに拘ったふわふわとしたシルエットのものを好んで着ている。腰まで届く長い栗毛のツインテールといい、無線のインカムやチョーカーを飾るうさぎのシルエットといい、彼女が可愛くて女の子らしいものが好きであるということは一目瞭然だろう。性格もそれに違わず天真爛漫。多少高飛車だが、どこか憎めない性格をしている。

 子供っぽいが、親しみやすさにかけては天下一品。

 私はちらっと妹に視線を向けると、楽しそうににこにこと笑う彼女に言った。


「随分機嫌がいいのね?」

「お仕事楽しいでしょ? お姉ちゃんは違うの?」

「全然知らない、赤の他人を殺すことの何が楽しいかなんて分からないわ」


 私は快楽殺人者ではない。まだ自分にそう思えるだけの理性が残っていることを確認するように呟いた私を見て、妹はきょとんと首を傾げた。それからくすくすと声を立てて笑う。


「わたしは、から楽しいんだよ?」


 妹の言葉に瞠目した後、私はつられるように小さな笑みを浮かべた。なるほど、確かにそれは楽しいかもしれない。本物は絶対に殺せないと分かっている分、そういう想像をするのは有意義だ。

 同時に多少安堵する。妹が、私と同じ気持ちであるということに。

 私達は姉妹。仕事は一心同体。どちらが欠けても存在できないし、決して傷つけることも離れることも許されない。

 しかし、私達は互いに相手を殺したかった。それこそ明確な殺意をもって。


 *


 繰り返しになるが、私は人を殺すのが好きなわけではない。

 妹がどんな理由で私を殺したいのか、知ってはいるものの理解しようとは思わない。だが私には、妹に殺意を抱く明確な理由がある。


 彼女は、私の両親の仇なのだ。


 数年前、私と妹は本当の姉妹のように暮らしていた時期があった。

 実の姉妹ではない。孤児だった妹を私の両親が引き取ったのだ。妹は十二という年齢に見合わぬ幼い素振りを見せるところがあったが、それ以外はごく普通の可愛らしい娘だった。彼女はすぐに一家の一員となり、しばらくは幸せな日々が続いたように思う。

 だが、その平穏はそれほど長く続かなかった。妹が、文字通り全てを壊してしまった。

 唐突な両親の喪失を理解する間もなく、私と妹は元々妹がいた施設に引き取られ――

 表向きは孤児院と称するその施設は、実際には少女達に実験によって能力を発現させ人殺しをさせる組織の本拠地だった。

 彼らが作るシザーズは二人でひとつの能力を分け合って負担を軽減する代わりに、心臓を見えない鎖で繋いで決して離れられなくする。片方を失っては生きることさえままならない、一心同体の姉妹であり刃に作り変えるのだ。

 そして大変皮肉なことに、その能力は姉妹が互いに恨み、憎み合うことで力を増すというのだ。

 そう考えると、妹が私の家にきたところから全ては仕組まれていたことなのかもしれない。家族を壊し、私の妹に対する憎悪を増幅させるために。


 ――もしかしたら、組織がそう強いただけで妹には何の罪もないのかもしれない。


 それでも、私は彼女を殺したい。決して可能ではないことだと分かっていたとしても。愛情とも憎悪ともつかないこの願いだけが、今の私を生かす原動力になっているから。

 それは或いは、妹も同じなのかもしれないけれど。


 *


 今日初めて会った、知らない男が冷たい板張りフローリングの床にどうっと音を立てて倒れる。首から勢いよく吹き出した血が頬にかかり、私はそれを無表情のまま拭った。

 彼が一体どういう人物だったのか、私は全く把握していない。もしかしたら事前に渡された資料に書いてあったのかもしれないけれど、これから死ぬ人物を理解する必要があるとは思えなかった。

 この人が死ぬことで、組織がどう変わるのかも興味がない。仕事が始まる前も終わった後も、私が見ているのは妹だけだった。

 彼女は部屋に差し込む真っ赤な夕陽に栗色の髪を染めて、ぞっとするほど綺麗な表情で微笑んでいた。

 普段は年齢に似合わず幼く気紛れな少女のように振る舞う妹だったが、たまに驚くほど妖艶な大人びた微笑みをみせることがある。その顔を見るたび、私は彼女を殺したいという気持ちを強くしてきた。


(殺したい)


 今日も、私は溢れそうなほどの殺意を込めた視線で彼女を見つめる。殺したい。壊したい。貴女の全てをぐちゃぐちゃに壊して、犯して、全て私のものにしたい。可愛らしい妹も、大人びた娘も全部。

 不意に、妹が私に視線を向けた。「楽しかったね」と微笑む彼女に、私は問いかける。


「今日も、私を殺すのを想像したの?」

「そうだよ。大好きな人じゃないと、わたしは殺したくないもん」


 その理屈は、私は理解できない。しかし妹は反応が鈍い私を気にすることなく、にこにこと微笑って話し続ける。


「本当は一番最初も、お父さんとお母さんじゃなくてお姉ちゃんを殺したかったんだよ? あの日からずっと、私が殺しているのはお姉ちゃんだけなんだから」


 なんて甘美な告白なのだろう。そう、私は思った。

 私は妹のように、愛情と殺意がイコールで繋がるようなぶっ飛んだ思考回路はしていない。たが、「両親の仇」という言葉がいつしか言い訳じみた響きを帯びていることには気づいていた。

 ただ、私は妹を殺したい。あなたに向けたままの刃で、あなたを殺すことは叶わないのだとしても。この衝動のままに、殺意のままに、私はあなたを殺すことのできる一振の刃になりたい。

 いつの日か、これは愛ではないと先生は言った。私達は鋏。互いに刃を向けることでしか存在することができない私達は、永遠に相手を愛することはできないのだろう。

 それでいい。偽善者達が喜ぶような、愛などという甘ったれたものなど私達には必要ない。私と妹の間には、ただ姉妹の絆にも似た強固な殺意があればいい。


「私は、あなたを殺したいわ」

「わたしもだよ、お姉ちゃん」


 今はただそう言い合うだけの、歪んだ関係さえあれば。

 血潮のようにとろりとした夕陽が、姉妹を赤く染める。手放せない刃は、不可能と知っていても相手を殺したいと願うもの。


 ――鋏は、互いを傷つける一振の刃となり得るか。


 今はその軛から逃れられない。私も妹も、相手を殺すことはできない。

 それでも、もしこの鎖を外すことができる日が来たなら、いつかは。

 それまではただ、二人刃を握ったまま生きていく。

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