死体になれなかった少年少女たち

koumoto

雛鳥の葬儀

「あ、め、あ、め、やん、じゃっ、た――もおーっ、と、もおーっ、と、ふってこい……もおーっ、と、もおーっ、と、ふってこい……」

 弟は、即興でつくった雨乞いの歌を口ずさんで、帰りの道を踊り歩いている。水たまりにステップを踏んで、しぶきが跳ねてきらめいた。雨上がりの歩道には、ガラスをこぼしたように滴が散っていた。魚座の弟は、水が好きだった。そういう星回りだと信じていた。

「もぉーっ、と、もぉーっ、と、ふってこい……もぉーっ、と、もぉーっ、と、ふってこい……」

「濡れるから嫌だよ」

 僕は弟の後ろについていきながら、そういった。弟は聞いていなかった。半分は一人言なので、別にかまわなかった。

「晴れの日も、いつも水たまりがあればいいのに。地面がぜんぶ鏡になったら、世界がふえて、もっと遊べるよ」

「嫌なことも二倍だ。学校も学校の連中も増えるんだぞ。それでいいのか?」

 どうせ聞いてないだろうと思ったが、弟はこれには答えた。

「自分が二人になれば、片方がいじめられて、片方が遊べばいいじゃん。おとり作戦だ。どっちかはきっと逃げられるよ、ここから」

「ここから、か――」

 ここではない世界なんて、想像もできなかった。そんなものがあるなら、どうあがいてもたどり着きたかった。死んでも。

「どこにいっても、変わらないんじゃないかな。遠くの場所も、着いてしまえば、ここだ。そこにいる人間にとっては、そこがここなんだ。ここではない世界なんて、どこにもないんだ。どこにでも、人間はいるんだから」

「もぉーっ、と、もぉーっ、と、ふってこい……ふってこい……」

 弟の注意は、ふたたび雨上がりの空気に奪われてしまった。仕方ない。水の魅力にはかなわない。地球の七十パーセントは海で、人体の六十パーセントは水分で、こころの九十パーセントは水だ。それが弟の組成なのだ。

「きょうはもう降らないと思うよ」

 去ってしまう雲を眺めながら、僕はそういった。僕自身は雨が好きでも嫌いでもない。太陽だって好きでも嫌いでもない。天気に対する好悪なんてない。人間と同じだ。勝手に来て、勝手に去っていくだけだ。それなのに人間は嫌いだった。雨傘、日傘、洋傘、和傘――。人間を避けるための傘はいつできるのだろう。持ち歩けるシェルター。ずっと待っているのに。

「もぉーっ、と、もぉーっ、と、ふってこい……もぉーっ、と、もぉーっ、と、ふってこい……」

 弟の雨乞いはなおもつづき、空はどんどん晴れていった。神に裏切られるシャーマンみたいな弟。雨乞いに失敗したって、なぶり殺されたりしないだけマシなのだろうか。こんなに嫌だと思っている世界でも。

「降らないよ、きっと」

 弟は聞いていなかった。ここにはない雨音を聞いているのだ。

「あれ?」

 弟は立ち止まった。なにかが目にとまったようだ。

「どうした?」

 弟は道に点在する水たまりのひとつにかけよった。僕も近づく。空を背にした電線と電柱、しゃがんだ弟の顔、立っている僕の顔――水面に映るのはそんな影。そのうっすらとした鏡面に、毛の生えた塊が実体として突き出ている。

「なんかいる」

「本当だ」

 僕は近くの植え込みから木の枝を持ってきて、その塊をつっついた。反応はなく、ぴくりとも動かない。枝を使って、水たまりの外まで押し出した。

「鳥だ」

 黒みがかった、鳥の雛だった。羽根もまだ生え揃っていないような鳥の子ども。鉛筆で塗りたくったような黒丸の眼は、つぶらだけど光を失っている。死んでいるのだろう。

「なんで、こんなところに……」

「おぼれたのかな?」

「鳥は普通、溺れないだろ」

 いや、溺れるのか? 水を飲もうとして、そのまま……。でもこんな小さな雛鳥が、巣からも離れて水たまりに突っ伏して死んでいるのなら、溺れたというより、外敵にやられたかなにかだろう。とにかく死んだのだ。親からも家からも離れて。

「死んでる?」

 弟が僕にきいた。

「うん、死んでる」

 僕は弟に答えた。

「じゃあ、お墓つくんないと」

 そういって、弟は雛鳥の死体に手を伸ばした。

「バカ、やめとけ」

 僕は弟を制止した。しゃがんでいる弟は、僕を振り返り、まじまじと見つめた。

「なんで?」

「鳥って、病気とか菌とか寄生虫とか、いろいろ持ってたりするんだよ。雛もそうかは知らないけど……。とにかく、触るのはやめとけ」

「さわっちゃだめ? 汚いから?」

「そうだよ」

「じゃあ、この鳥もぼくたちとおんなじだ」

 弟のいっている意味はわかった。汚い。ばっちい。そんな言葉を笑顔で投げつけてくる、学校の清らかで綺麗な連中。触るとケガレがうつるらしい。

「おまえは汚くなんかない」

 弟はどうでもよさそうだった。

「じゃあ、お墓は?」

「放っておけばだれかが片づけるよ」

 弟はしゃがんだまま、その場を動こうとしない。

「埋めてあげたいんだ」

 梃子でも動かなそうだった。

「わかったよ」

 僕は植え込みから木の枝をもう一本とってきて、二本の枝を箸のように使い、雛鳥の死体をつまんだ。力を入れすぎるとつぶれそうだった。

「からあげみたいだね」

 埋葬したいと自分でいい出したくせに、弟はそんなことをいって笑った。

「食べるわけじゃないぞ」

「わかってるよ」

 僕らふたりは雛鳥の死体を持ったまま、家へと帰った。途中で何度か落としてしまい、死体にすり傷が増えていった。

「ごめんよ」

 弟が申し訳なさそうに死体に謝る。僕は謝らなかった。死んだ鳥に謝ったところで、どうしようもない。どうせ死んでいるのだ。唐揚げや焼き鳥に謝ったことだって僕はない。

 家から土いじりに使う小さなシャベルを取ってきて、僕らは公園まで歩いた。

「あそこなら、鳥もいっぱい来るし。寂しくないよ、きっと」

「寂しいとか寂しくないとか、そんなのもう関係ないだろ。死んでるんだから」

「そんなことないよ。死んだって、寂しいものは寂しいよ」

「じゃあおまえ、自分が死んだら、学校に埋めてほしいのか? 人が多かったら、寂しくないのか? 墓の上で、あいつらが笑ってたら満足か?」

 僕は面倒な葬送への苛立ちもあってか、そんな意地悪を口にした。弟は黙った。雛鳥の死体を運びながら僕は歩きつづけ、そして立ち止まった。後ろを振り返る。五メートルほど離れたところで、弟はうずくまり、膝に顔を埋めていた。拗ねていた。

「悪かったよ」

 声をかけても、弟はうずくまったままだった。泣いているのかもしれない。

「おい、行くぞ」

 弟はそれでも動かない。

「勝手にしろよ」

 僕はぶつくさ文句をつぶやいて、公園に向かってまた歩きはじめた。木の枝で死体を運んでいるので、腕が少し疲れてきた。家に帰ったときに、死体を袋に入れるとか、手袋をつけるとか、もっとやりようがあったのに。いまさら気づいて、バカな自分にも腹が立ってきた。

 それなりに進んでから、後ろを振り返ってみた。距離をおいてこそこそついてきていた弟が、さっとうずくまり、また膝に顔を埋めた。僕はまた歩き出し、何度か途中で振り返った。そのたびに、弟は同じ動きを繰り返した。

「だるまさんがころんだかよ」

 だんだん弟との距離が縮まったところで、僕はそういった。弟はうずくまったまま、肩を震わせた。笑っているらしい。

「ほら、行くぞ」

 弟は立ち上がり、今度はにこにこしながら素直についてきた。気分屋なやつだ。

 公園に着いた。ブランコからも滑り台からも離れた片隅で、僕たちはシャベルを使って土を掘り返した。日暮れ時で、辺りは薄暗くなっていく。カラスの鳴く声が遠くから聞こえた。

「そういえばこの鳥、なんの鳥だったんだろう?」

「さあ? カラスではないだろうけど」

 名前もわからない死んだ鳥。といっても、種類がわかったところで、この鳥自身に名前があるわけではない。野生の動物に名前なんてないだろう。人間とは違うのだ。名前のないまま死ぬ人間も、いるのかもしれないけど。

 墓穴にどれくらいの深さが必要かはわからない。それでも、もう十分だろうと僕たちは判断して、雛鳥の死体をそこに埋めようとした。

「きみたち、何やってるの?」

 声をかけられたので、僕たちは振り向いた。犬を連れたおじいさんが立っていた。散歩中らしい。

「いえ、別に」

「だって、なにか埋めようとしてたでしょ?」

「鳥のお墓なんだ」

 弟が無邪気に答えた。はっ、はっ、はっ、と舌を出して息をついている犬と視線をかわす。この犬にはきっと名前があるのだろう。

「ペット? 鳥? 飼ってたの?」

「ちがうよ、道ばたで死んでたんだ」

「うーん……。あのね、坊やたち、そういうの、勝手に公園に埋めたらダメなんだよ」

「え、ダメなの?」

「うん、法律があって――まあ、そういうルールってわけだな」

「そうなんですか」

「保健所に連絡してあげようか?」

「いえ、結構です」

 僕は雛鳥の死体を木の枝でつまみ、弟にシャベルを持たせ、そそくさと公園を立ち去った。その人も、それ以上は追ってこなかった。

「兄ちゃん、どうするの?」

「仕方ない。家の庭に埋めよう」

「あんな狭いところに?」

「墓があるだけ、マシだろ」

 僕たちはしょんぼりと家への道を歩いた。なんだかずいぶん疲れていた。また公園に引き返して、こっそり埋めてきてもいいけれど、それも面倒だった。街灯がぽつぽつと夕闇に浮かんだ。道は乾き始めている。一日が変に長く感じられた。

 僕たちは猫の額ほどの庭に穴を掘って、雛鳥を埋めた。墓標がわりに、死体を運んだ二本の木の枝を、十字架の形に糸で束ねて、地面に差した。雨風ですぐになくなってしまうだろうけど、一応、墓らしい見てくれにはなった。

「これで、天国にいけるかな」

 弟がそんなことをいった。

「墓をつくったからって、天国にいけるとはかぎらないだろ」

「じゃあお墓って、意味ないの?」

「たぶんない」

 僕は意地悪のつもりではなく、疲れと投げやりな気分から、そういった。きょう一日の右往左往を、ぜんぶ無駄にするような言葉だった。

 弟は、しゅんとした顔になった。泣くかな? と思ったが、泣きはしなかった。ただ寂しそうだった。十字架に手をかざして、なにかもごもごとつぶやいた。言葉になっていない言葉だった。

 と、そのときに、ぽつぽつと雨が降ってきた。僕も弟も、驚いて空を見上げた。夕空に雨雲は見当たらなかった。

「雲はないのに、雨が降ってる……」

 不思議だった。それは天気雨とか狐の嫁入りとかいわれるもので、不思議でもなんでもないことだと後で知ったが、そのときは心底不思議だった。神秘的にさえ思えた。

 ふとみると、弟が嬉しそうに笑っていた。肩を震わせ、笑い声をあげ、飛び跳ねんばかりに喜びにみちていた。

「兄ちゃん、なんでこの鳥が水たまりで死んでいたのか、やっとわかったよ」

 弟はそんなことをいった。意味がよくわからなかった。突然の雨と同じくらいに、弟が不思議な存在に思えた。

「どういうことだよ?」

 弟は聞いていなかった。足をばたつかせて、手をふりまわして、雨が幸福であるかのように、楽しそうに空をあおいでいた。木の枝でつくった十字架の墓標が、雨に打たれて黒い斑点を浮かべた。墓さえも笑っているようだった。

 夜になって眠る時間が来ても、弟はなおも嬉しそうだった。


 焼かれた弟の骨が箸で拾われるのを眺めながら、雛鳥の死体を運んだあの箸を、僕は思い出していた。木の枝の箸。十字架の墓標になった箸。ひどく遠かった。

 だれかが死ぬと、そのだれかと過ごした時間が、死に包まれた記憶としてよみがえってくる。雛鳥を葬った日の風景も、弟の声や姿と一緒によみがえってくる。たとえ死が記憶を曇らせ、歪めていたとしても、それはまざまざと鮮明で、ただ痛く、ただ懐かしい。

 弟が溺れて死んだことを考えると、あの日の記憶に、なにか過剰な意味づけを求めてしまいそうにもなるのだが、それは間違った考えなのだろう。弟と一緒に過ごした日は数多く、あの日もありふれた一日のひとつだった。死を透かして振り返るから、死に浸水された記憶が浮かんでくるだけだ。

 僕の記憶に残る弟。母さんの記憶に残る弟。父さんの記憶に残る弟。すべてを足しても、それが弟になるわけではない。不完全な記憶だけを残して、弟は死んでしまった。いなくなってしまった。

 いまだに弟の言葉の意味はわからない。弟が死んだ意味もわからない。死に意味があるとしてだけど。ともあれ、火葬よりも水葬の方がいいのではないか、というのが僕のなけなしの意見ではあったけど、そんな意見は当然に無視された。まあ、ごもっとも。

 おとり作戦か。片方は残って、片方は逃げる。弟は僕のために死んだわけではないし、僕も弟のために生きているわけではないが、この場合、どちらがおとりといえるのだろう、なんて考えることもある。この世から逃れた弟が、遊んでいてくれたらいいのにな、とも思う。

 雛鳥の墓はもうないけれど、いまだに雨が降ると、弟の魂が喜んでいる気がする。

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