少年の窓

 少年が目覚めると、 母親はすぐそばで死んでいた。それは不思議ではなかった。母親は昨夜、死ぬと宣言していたから。不思議なのは、自分が生きていることだった。

とおる

 まだ母親が生きていた昨日の夜、どこか凍りついているような、感情をうかがわせない声で、母親は少年にいった。

「私は今夜、死ぬことにしたけれど。あなたはどうする?」

 そういわれて、少年はしばらくのあいだ黙って考えた。死という言葉の意味は、少年なりに理解しているつもりだった。いなくなるということだ。世界から消えるということだ。息をしなくなり、動かなくなり、話さなくなり、笑わなくなり、もう遊べなくなるということだ。少年の父親も、ずいぶん前に死んでいた。

 少年は死にたいか? 死にたくはない。もっと話したかった。もっと笑いたかった。もっと遊びたかった。しかし、少年は世の中とずれていて、うまく歩調を合わせられない。他の子どもと話していても、遊んでいても、いつも最後には呆れられ、馬鹿にされ、みんな去っていく。結局、少年はひとりで遊び、ひとりで笑っていた。動物や虫にだけ話しかけた。言葉は返ってこないけれど、相手の気持ちが少年にはわかる気がした。むしろ人間の気持ちの方が、少年にはさっぱりわからなかった。

 それでも母親だけは、少年にとって特別な存在だった。母親とだけは、言葉が通じ、気持ちが伝わり、一緒に笑いあうことができた。母親だけが、少年と人間の世界をかろうじてつなぐ、最後の命綱だった。

 人間の気持ちがよくわからない少年も、母親の気持ちがだんだん荒んでいくのには気づいていた。そしてその理由の一端が、他ならぬ自分自身にあるということも。母親は笑わなくなり、言葉数も少なくなっていった。それでも、少年を怒鳴り散らしたり、手を上げたりすることは決してなかった。母親は優しかった。優しいまま、だんだんと壊れていった。

 だから、死ぬことにしたと母親がいっても、少年はあまり驚かなかった。動物や虫とは違い、人間は、自分から死のうとすることだってある。少年はそのことを知っていた。

 少年は死にたいわけではない。かといって、生きたいともいいかねた。もっと話したい。もっと笑いたい。もっと遊びたい。でもそれは、母親の存在する世界においてだ。母親のいなくなった世界では、どのみち少年は、話すことも笑うことも遊ぶこともできなくなるだろう。少年にはそうとしか思えなかった。

「ぼくも、母さんと一緒に死ぬよ」

 だから、そう答えたのも、少年にとっては自然なことだった。母親と一緒なら、死ぬのもそんなに悪くない気がした。それに、向こうの世界には、すでに父親もいるのだ。どう考えても、ここよりは楽しそうだった。

「そう。ごめんね」

 母親は、少年に薬を手渡した。これを飲みなさい、と。これを飲んだら苦しまずに死ねるから、と。少年は母親を信じきって、素直に薬を飲んだ。

「母さんは?」

「私は、後で飲むから。あなたが死ぬのを見届けてからね」

「わかった。先にいって、父さんと待ってるよ」

「透」

「なに、母さん」

「ごめんね」

 そういって、母親は少年の頬を撫でた。生きているのを確かめるように、優しく触れて、いつくしむように見つめた。なんだか照れくさく、くすぐったかった。

 やがて少年は、ひどい眠気に襲われた。死ぬとわかっていても、うとうととまどろむのは気持ちよかった。いい夢をみられそうだった。


 カーテンを透かして差す光に、少年は目が覚めた。部屋は薄暗かった。少年は目をこすり、身じろぎした。

 しばらくそのまま眠りの余韻に浸っていると、自分が死ぬはずだったことを、少年は思い出した。横になったまま、自分は死んだのかと確認する。それにしては、おなじみのアパートの一室にいるようだった。死んでも、この日常の風景は変わらないのだろうか。会えるかと思っていた父親も、ここにはいないようだった。

 少年は身を起こした。そのまま、何分もぼんやりする。意識がかすんで、あまり動く気になれなかった。死んでいないことを、うまく受け入れられなかったのかもしれない。しかし、どうやらまだ生きているようだと、認めるのに十分な時が経った。

 眼をぱちぱちと瞬かせて、軽く息を吸い、くるりと部屋を見まわす。たぶん、少年はそれを見るのをためらっていたから、できるだけ引き延ばしていたのだろう。

 母親はすぐに見つかった。高めに設置されたカーテンレールからロープがのびて、母親がぶら下がっていた。母親は小柄な方だったので、つま先は床から離れていた。踏み台代わりの椅子がそばに転がっていた。カーテンは、ほんの少しの隙間だけを残して閉まっていた。透けた光が、首を吊った母親にも差していた。

「…………」

 少年は立ち上がり、トイレに行った。用を済ませて、水を流す。じゃーっ、と勢いよく流れていく水をぼんやり見つめた。手を洗ってから母親のそばに戻り、ぺたんと座った。膝を立てて、腕を組み、それっきり少年は動かなくなった。窓に向かって座ったまま、閉じたカーテンと、ぶら下がった母親と、そこに差す淡い光を、一幅の絵のように眺めていた。身じろぎもせず、そのまま動かなかった。


 なぜ自分は死ななかったのだろう。母親の死体を眺めながら、少年は疑問に思った。そもそも、母親は自分と同じように薬を飲むといっていたのに、どうもこの死に方は様子が違う。あれは、嘘だったのだろうか。あれは、死ぬための薬ではなかったのだろうか。

 なぜ母さんはぼくを置いていったのだろう。少年には母親の考えがわからなかった。他の人間の気持ちはわからなくても、母親の気持ちだけは、おぼろげにでも察してきたはずなのに、いま、少年は母親の気持ちがまるでわからなくなっていた。

 たずねてみようにも、母親はもう言葉を返してはくれないだろう。うなずいてもくれないし、首を振ってもくれない。ぶら下がっているだけだ。

 母親の死体から、なにか液体が垂れていた。異臭がした。少年はそれには無反応だった。顔を歪めもせず、そむけもしなかった。

 母親は、少年がおもらしをしてしまったときも、仕方ないね、といって、笑って許してくれた。だから少年も、母親の死体が粗相をしたところで、咎める気はなかった。なぜ自分を置いていったのだろうと、それだけが気がかりだった。

 母さんは、もう父さんと会えただろうか。それともひとりぼっちだろうか。会えたなら、いいのにな。ぼくも一緒にいられたら、よかったのにな。

 だが少年は、遠からず自分も会えるだろうと信じていた。少年もそのまま死ぬつもりだからだ。一緒に死ぬと、約束したのだ。少年にとっては、約束のつもりだったのだ。だから、生きるつもりはもうないし、この家から出るつもりもなかった。カーテンを開ける気すらなかった。

 少年は水も飲まず、なにも口にせず、ただじっと座って、窓の方を見つめていた。日が暮れてもそのままだった。


 夕明かりが、窓から忍び込んできた。カーテンは閉じてあるが、ほんの少しの隙間から、オレンジ色の夕空が見えた。綺麗だな、と少年は思った。少年は夕暮れが好きだった。空のいちばん美しい姿だと思っていた。

 その時間帯に、母親と手をつないでよく歩いたものだ。どこからかいい匂いがただよい、昼よりも柔らかな雲が流れていた。カラスが羽ばたいているのを見て、少年は指を差してきいた。あの鳥たちは、どこへ行くの? きっと、家に帰るのよ。母親はそう答えた。カラスには、家族がいるの? 少年はなおもきいた。きっと、いるのでしょうね。でも、人間とは違うから――。

 人間とは違うから……その先は、なんといったのだったか。忘れてしまった。母親の声も、言葉も、もう記憶のなかでしかきくことはできないというのに。いろいろなことを忘れているな、と少年は思った。いろいろなことを憶えているな、とも少年は思った。死ねば、それも消えてしまうのだろう。それとも消えないのだろうか。わからなかった。

 視線を少年は感じた。部屋のなかには、だれもいない。少年と母親の死体だけだ。母親はもう少年に眼を向けることはない。だから、視線は窓の外からだった。カーテンの隙間から、何者かの眼が覗いていた。

 猫だった。ベランダに猫が訪れていた。窓の向こうから、部屋の中を覗いていた。輝きの宿る、好奇心にあふれた瞳。

 少年は、少しだけ笑った。言葉を持たない存在が少年は好きだった。言葉ではない言葉を語る動物が好きだった。だから猫も、少年は無条件に愛していた。自然と笑みがこぼれた。

 考えてみれば、少年自身も、もはや言葉を持たない存在だった。少なくとも死ぬまで、言葉をだれかに発することはないだろう。黙ったまま静かに少年は死ぬつもりだった。

 猫は、しばらくベランダでうろうろしていた。カーテンの隙間からその姿がちらちらとほの見えた。やがて、ぴょん、と手すりに飛び乗り、どこかへ立ち去った。

 少年の笑みも消えた。母親の死体に視線を戻し、固まった無表情でそれを見つづけた。母親も、いまでは言葉を持たない存在となっていたが、それがいいことだとは、少年にはどうしても思えなかった。


 夜になり、部屋は闇に包まれた。それでも眼が慣れると、母親の死体はよく見えた。電気をつけようとは、少年は思わなかった。明かりなど必要なかった。光は、生きようとする者に必要なのであって、死のうとする者には必要ではなかった。暗闇のなかで、少年は同じ場所に座ったまま、ただ窓を眺めていた。

 以前、少年は暗闇が怖かった。真っ暗な部屋で寝ることが出来なかった。母親は常夜灯をつけてくれた。真っ暗は怖いよね、と少年に理解を示した。でもね、と母親はあるときいった。暗くなければ見えないものもあるのよ。夜は青空も太陽もない、暗く寂しい時間だけど、月や星は綺麗でしょう? その優しい輝きを見つけるには、暗さも大切で必要なものなの。ほら、窓を見てみて。真っ暗な夜にも、かすかな光は差しているのよ。

 いま、少年はずっと窓を見ていた。窓の方しか見ていなかった。夜闇に浮かぶ光と、夜闇に吊られている死体しか見ていなかった。闇を怖いとはもう思わなかった。死ぬことも怖くはなかった。まだ生きていることの方が怖かった。

 母さんは、死ぬとき怖かっただろうか、と少年は考えた。もし怖かったのなら、そばに自分がいたことは、少しでも恐怖を和らげてくれただろうか。

 闇を怖く感じないのは、目の前に母親がいてくれるからだろうか。たとえそれが死体であっても。少年にとって、この世でもっとも近しい存在なのだ。たとえ何も語らず何も動かなくなっても。


 どさり、という音で少年は目が覚めた。気づけば朝になっていた。どうやら座ったまま眠っていたらしい。膝に埋めていた顔を上げて、窓の方に視線を向けた。

 カーテンレールからロープが外れて、母親の死体が床に倒れていた。重みに耐えきれなくなったのだろう。あるいは結び方が悪かったのか。そのカーテンレールは、以前に歪んでしまったときに、修繕と補強を頼んだ代物だった。その程度の余裕は、その頃はあったのだ。これで大丈夫、長持ちしますよ、と業者は太鼓判を押した。なるほど、たしかに、頑丈なようだった。縊死をやり遂げるには十分な強度だった。

 ロープでぶら下がっていた母親は、いまでは床に横たわっている。死後硬直が続いているようで、あまり安らいでいるようには見えない。それでも、鉄棒の苦手な少年は、ぶら下がっているよりはマシなのではないか、と考えた。死が眠りなら、横になっているほうがふさわしいとはいえるだろう。

 異臭はだんだん強くなっていく。少年はたまにむせて、咳き込んだ。それでも、窓を開けようとも、扉を開けて外に出ようとも、考えなかった。

 母さんが死んだのは、ぼくのせいなんだ。少年はそう考えていた。自分は、母親を追いつめた側にいるのだと。だから自分は死ななければならない。それは約束であり、せめてもの罰なのだ。この世でもっとも大切な存在を殺めてしまった罪。罰を受けるのは当然に思えた。死への意志は強固だった。

 ぴんぽーん、とインターホンが鳴った。だれかが来たらしい。少年の背後には廊下がのびて、それは玄関の扉までつづいている。だが少年は振り返らなかった。カーテンの閉まった窓と、床に横たわっている母親の死体を眺めて、扉に背を向けたままだった。

 ぴんぽーん、と、もう一度インターホンが鳴った。少年は無反応だった。来客はそれで諦めたようで、薄暗い部屋には静寂が戻った。少年の凍結した時間に、ひびひとつ入らなかった。


 また日が暮れた。少年は飲まず食わずだった。座ってただ死を待っていた。

 カーテンの隙間からまたしても夕空が見えた。きょうも綺麗だった。自分が死んだあとも、夕方の空は変わらずに綺麗なのだろう。母親が死んだ後も、こんなにも綺麗な空なのだから。

 ふたたび、何者かの視線。ベランダにまたしても猫がいた。昨日と同じ猫らしい。人間よりも猫の方が、少年には見分けやすかった。窓からこちらを覗いている。なにを考えているのだろう、と少年は思った。猫も同じことを考えているのかな、と少年は思った。この人間はなにを考えているのだろう、と。いや、猫はそんなことは気にしないだろう。猫は気ままでわがままで気分屋だ。少年は、猫のそんなつれなさが好きだった。

 やがて猫は立ち去った。少年は、母親の死体に視線を戻した。夕方の光と猫だけが、少年に死を忘れさせた。わずかなひとときではあったけれど。


 夜は暗く、闇は深く、死は近かった。暗闇のなかでじっと母親の死体を見つめていると、自分はもう死んでいるのではないかと思えてきた。死に気づいていないだけで、とっくにここは死後の世界なのではないかと考えた。自分の身体が透明になったような気がした。

 だがそれは間違いだった。少年はまだ生きていた。死ぬということは、死体になるということだ。目の前の母親のように。少年はまだ死体ではなかった。どれだけ死体に似てきても、少年はまだ生きていた。いまはまだ。


 また眠ってしまったようだった。眠っていたというより、意識を失っていた。少年が目覚めると、もう夕方だった。母親が死んでからもう三日目になる。飲まず食わずの少年は、明らかに衰弱していた。朦朧としていた。

 窓。カーテンを閉めた窓。隙間から入る光。その前に横たわる母親の死体。それが少年の世界だった。少年に残されたすべてだった。少年にもたらされた死の風景だった。

 カーテンの隙間から、だれかの視線。猫は、そこにいた。窓の外にいた。少年の世界を覗いていた。少年の世界を訪ねる唯一の他者だった。少年のこころに触れる唯一の生き物だった。

 猫が少年に語りかけた。

 どうして、外に出ないの?

 少年は猫に答えた。

 死ぬためだよ。

 猫は不思議がった。

 なぜ死ぬの?

 少年は答えた。

 母さんが死んだから。

 猫は笑った。

 あなたは死ななくてもいいのよ。

 少年は答えた。

 ぼくのせいで母さんは死んだんだ。

 猫は否定した。

 あなたのせいじゃないのよ。

 少年は答えた。

 ぼくのせいだよ。

 猫は諭した。

 あなたが死ぬと哀しい。

 少年は答えた。

 ぼくは死ねると嬉しい。

 猫はまた笑った。

 頑固ね。

 少年は答えた。

 バカだからだよ。

 猫は真面目になった。

 あなたはバカなんかじゃない。

 猫はまくしたてた。

 あなたは優しい子よ。

 猫は厳しく叱りつけた。

 だから、自分にも優しくしてあげなさい。

 少年は答えられなかった。少年が答える前に、猫は素早く立ち去った。少年のこころを動かして、猫は逃げてしまった。

 追わなければならなかった。本能がそう告げていた。猫に自分の答えを伝えなければならなかった。猫を納得させなければならなかった。猫にもういちど会わなければならなかった。それまでは死ねなかった。

 少年は立ち上がろうとした。足に力が入らず、その場にくずおれた。腕を使って窓まで這いつくばり、カーテンを開けた。夕暮れの淡い光が、薄暗かった部屋を少しだけ明るくした。猫はベランダにはもういない。どこへ行ったのだろう。見つけなければ。なんとしても。

 少年は母親の頬に手をのばした。死ぬ前の母親がそうしてくれたように。母親の死体は冷たかった。それでもそれは母親だった。少年を愛してくれた守り手だった。少年の魂を解放してくれる記憶だった。

「ごめんね、母さん。約束をやぶるよ」

 母親の死体に別れを告げて、少年は部屋を這いずり、廊下へ進んだ。異臭にむせながら、吐き気に襲われながら、外の世界への扉へと向かった。

 長い時間をかけて、少年はようやく扉までたどり着いた。力をふりしぼって立ち上がり、しがみつくようにして扉を開けた。

 外の世界へと少年は転がり出た。夕方の涼しい風を少年は感じた。死体ではない少年は、まだ生きていた。

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