24.踊れ、ジャック
こっちを見る彼の顔は、現代アートみたいに歪んでた。みるみるうちに、目の前の白い顔が赤く染まっていく。
本当は、こんな風に。笑ったり慌てたり、顔を真っ赤にする人だったんだ。こんなに、表情が変わる人だったんだ。
たくさんの感情が、あの黒い箱の中で溢れてた。外に飛び出させないでいたものが、今になってようやく。
彼は声をひっくり返しながら、手をあちこちに動かし始める。大慌てな手が騒がしい。声だってそこらじゅうにつまづいてる。
「違うんだよ! 僕が持って来たんじゃないんだ! 僕は使わないから!」
「あ、あの……」
「いや、そういう意味じゃない! 使うよ! ええと、違う! なんというか、その……。今は必要がないっていうか! ええと!」
こんなに慌てる? ユウヒはじたばたと手を揺らして、照明みたいに顔をくるくる変えて、ひたすら早口であれこれ言い続ける。
「あーもう、初対面でこれは最悪だ! とにかく、嘘じゃないんだ、僕じゃない」
「ク、クリストファー、じゃない?」
まさか、本当にやるなんて。我らがキングは、有言実行のいたずら好きだったんだ。
ユウヒの言葉も、やっとぴたりと止まる。手も顔も黙って、眠そうな目を丸く見開く。
「すごいね、なんでわかったの?」
「……あの人なら、やりそうだから」
「君、クリストファーと仲良いの?」
「よ、良くはないよ、別世界の住民。……それに、私にとってあなたは一応初対面じゃないから大丈夫。あんまり、気にしないで」
「ああ、そっか。安心した。ありがとう」
やっと落ち着いて、赤毛の彼は、まだ動揺が残る声で続けた。
「実はあの人、僕の幼馴染でさ。最悪なことに、僕は覚えてないんだけどね」
「今も、仲良いの?」
「仲良くはないけどー……。でも、時々僕がDJのやり方を教えるんだ。クリストファーは、ヒットチャートの曲を教えてくれる」
「それって、十分仲良しだと思うよ?」
「そう? でもさ、こんないたずらってないよな……。使う予定もないのに……」
ジャケットのポケットに手を入れて、ぶつぶつ文句を言ってる。もしかしたら、まだどこかに入ってるんじゃないかって、疑ってるのかも。
彼の横顔は、それでもちょっぴり笑ってた。
すると、流れ始めた音楽に、彼がステージの方を見て肩を揺らした。ポケットから手を出して、空気をかき混ぜるように人差し指を振る。
「これ、僕の新曲」
耳を澄ませてみる。アップテンポな曲が、他の曲と混じり合ってリズムを刻む。低い音が鳴って、高い音が引き裂いて、ダンスフロアを煽って、人々は次から次へとダンスに飛び込む。
「あーあ。あいつ、僕をからかってるな。君と話してるから」
「え?」
「今度あいつが女の子と話してたら、仕返ししてやろう」
調子を取り戻したみたいで、彼は私の隣で笑ってた。立体的な顔の上を、ミラーボールの光がなぞる。赤い唇の上に光が落ちる。赤毛が音で揺れている。
「そんなに見られると、溶けちゃうよ」
「ごっ、ごめんなさい!」
「別にいいよ。どうぞ、ご自由に」
笑った顔は、ほんの少しだけあの人に似てた。ちっとも似てないのに。鷲鼻でもないし、眉毛も薄いのに。
コガネみたいに、怖がるなよって言うみたいに笑って、ユウヒはジンジャエールを口にする。
音楽が聞こえる。バラバラに聞こえた言葉が、段々と集まって来る。
繰り返されて、また戻って。重たい低音に突き動かされながら、言葉はやがてつながっていく。
『君はそのままで 僕が色褪せても
すべて変わっても また会いに行くよ
君を愛してる 今言うべきじゃない
ずっとそばにいて 君に僕は見えない
君は覚えてる その声や音色を
すべて変わっても 塗り替えられない
考えたくないな 一番心地良い
ずっとそばにいて 僕は君を知らない』
ダンスフロアの人たちは、この曲がなんて言ってるかなんて気にしない。ただ刻まれるリズムに乗って、声を上げて手を振って、隣の人と肩を組んで、キスをして、それから。
「……この曲、出来たんだね」
「そうそう。前の頭の時に作ってた曲でさ。不思議な感じだったよ、なんの曲だかわからなかったけど、聞いたら歌詞がすぐに」
すらすら話していたと思ったのに、彼の言葉は急にピタッと止まった。誰かに一時停止ボタンを押されたみたいに。でも、話をやめたのは彼の意思。薄い赤い眉をしかめて、不思議そうに私の顔を覗き込んだ。
「君、この曲が出来る前に、聞いたの?」
あの日の話をしていいのか、私にはわからなかった。特にディアナからは言われなかったけど、私しか覚えていないことを口にするのは、なんだか怖かった。
だって、もう彼の頭の中に、私がいないってことが、わかってしまうから。
「僕が覚えてないことなら、教えてよ」
「……でもさ」
「僕らについての話は、いくらでも聞きたいね」
彼の白い手のひらが、ゆらゆら揺れる。だから私は、音楽に紛れながら、聞こえるように口にした。あの景色を、薄く目を開けてのぞき込むみたいに。
「あなたが、出来上がる前に、聞かせてくれたの」
「僕が? これを、君に?」
「う、うん……」
緑色の瞳が、左右に揺れる。頭の中を、見渡すみたいに。それでも、視線が交わる寸前に、私は目を逸らす。
「どこで?」
「……コガネの、お墓で」
黒いつま先が、少しだけ揺れた。どこを向こうか悩んだまま、立ちすくむ子どもみたいに。
隣の彼をそっと見ると、赤い眉毛をしかめて、ほんの少し首を傾けて、口をとがらせたまま黙ってる。
思い出せない記憶をたどってる? それとも、自分の記憶との違いを、気味悪がってる?
顔があるのに、彼の気持ちはわからない。
沈黙は降りてこない。ダンスフロアで沸き起こる、音楽の波は止まらない。彼の曲も、終わらない。
それでも彼は、私の手を取った。細い指が、私の手をそっと包む。1本1本、そこに指があるのを確かめて。
まるで、なにかがあるみたいに、なにかを探すみたいに、指先に触れて。
そのまま引き上げたかと思えば、彼は、私の手の甲に唇を寄せた。
柔らかい唇と、その温度が。私の冷えた手を、静かに溶かしていく。
もう、ここにはいない。顔のない真っ黒な機械頭のユウヒはいない。それなのに、彼はここにいる。私のそばにいる。
本当に、この人が、あの。
「やっと、こっち見た。僕のこと」
「……え?」
「これで、気持ちは伝わる?」
そうであって欲しいと、心から願う声。彼は、自分の願いの行方を見届けてから、笑った。
誰でもない笑顔に、ミラーボールの光が落ちる。まるで彼が笑って出来た光みたいで、ずっとずっと、見ていたかった。
そのまま私の手を引いて、彼はダンスフロアを歩き出す。
「君にそうしたかったんだ。君とまた、ダンスがしたかった」
「で、でも、あなた、私のこと」
「覚えてない。でも、獣道とおんなじさ。だから、僕はその道を歩いていくだけ。そのうちきっと、見晴らしがいい場所に出られるよ」
「え?」
「だから踊ろう。どうせなら、楽しい方がいい」
音楽が鳴る。低音が響いて、高音がなぞって。私たちを煽って、どこかへ巻き込んで、導いて、跳ね飛ばして。
永遠に鳴り止まない音なんてないのに。今だけは永遠に、音が続いていくみたいに。
私は彼と踊ってた。時々こっそり彼を見て、あとは曖昧などこかを見て。
それでも、私は踊ってた。私を忘れた、たった1人の彼と。
誰かに背中を押されて、彼にぶつかる。レモンの葉っぱを千切ったみたいな香りがして、私は思わず顔を上げた。
白い顎が見える。そこにつながる喉仏も、首筋も、すぐそばにある。
「ねえ、野菊」
「う、うん」
「君は、僕のことが好きだった?」
ダンスフロアは鳴り止まない。私たちの周りで音が飛び交って、ぶつかって。それでも彼の腕の中には、私しかいない。立ちすくんだままの、ちっぽけな私。
「……うん。好きだったよ」
「好きだったか」
彼の腕が私を包む。レモンの香りが近くなる。細い体に身を寄せると、聞こえて来た。
「それは、寂しいな」
彼の声が、ぴたりと重なる私たちに響く。
音楽が遠くなり、近くなり、足元でうねり出す。それは、私たちを包んでいく。
「僕たち、もう少し、こうしててもいいよね?」
彼の曲は、歌ってる。言葉をちりばめて、まるで意味なんてないみたいな顔して、歌ってる。
ダンスフロアに星屑が落ちてくる。人々はそれに手を伸ばす。
急かすように低音は鳴り響き、掴め掴めと体を揺らす。
だから私は、彼の頬に手を伸ばす。
最後の一音が終わった頃には、きっと。
それでも、あなたを見つけるよ。ひとりぼっちになんてしないよと。
私は、ユウヒに言うんだろう。
音楽の森をかき分けて、びっくり箱の蓋を、私は開けた。
(終)
ティーンズ・イン・ザ・ボックス 矢向 亜紀 @Aki_Yamukai
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