いきどまり

國枝 藍

深夜二時、コール音とタクシー

 無機質なコール音がいつも通り三度で止まると、受話器の向こうからはあのころみたいに微笑む気配がした。


「どうした? こんな時間に」

 揶揄するでもなく、咎めるでもなく、それはほとんど優しいとさえ言ってしまえる声だった。


「夢をみたの。墜落するとわかっている飛行機に乗って、いきどまりを目指す夢」

「いきどまり?」


 私は、彼が泣き出せばいいのに、と思った。こんな暗喩に満ちた夢をなんのためらいもなく話されることに怯え、苦しんで。

 でも、彼が発した言葉は――たとえそれがどんなに驚きに満ちているはずのものであっても――いつだって水の中に氷をそっと入れたときのように、静かに馴染んでしまう。


「ええ、いきどまり」

 彼は、それは、とだけ言ってから少し言い淀んで、ずいぶん象徴的だね、と続けた。


「夜行バスみたいな四列のシートなのに乗っているのは私だけで、私は最後尾の右端で、通り過ぎていく工場地帯の黒い煙を眺めたり、遠くから聞こえるサイレンの音に耳をすませたりしていた。数分だったような気もするし、何年も乗っていたような気もするわ」


「あるいはそんなことはどうでもよかった」

 あっという間に順応して相槌を打った彼に私は思わず息をつく。

「そうね、そうかもしれない。そして機長が私に訊くの。いきどまりに着きましたけど、どうしますか? このまま墜落しますか? それともここで待ちますか? って」


「待つって、何を?」

「さあ。それは知らない。でも、燃料が切れて墜落するのを、ってことじゃない?」

「変な二択だね。どちらにしろ堕ちてしまうことは決まっているわけだ」

「ええ、そうなの」


 それで君はどっちを選んだんだい? などとは言わずに、彼は尋ねる。

「でもいい旅だった、違うかい? 君は幸せだったんだろう?」


 君は幸せだったんだろう?

 いつだってそうだった。

 この人はこんなふうに、いつだってやすやすと真実に触れてしまえた。無造作に、無自覚に。まるで、放し飼いの猫がふらりと散歩に出かけるような、そのくらいの自然さで。


 残酷だ、と私は思う。

 もう笑い声も甘い言葉も、冗談のひとつさえ絞り出せないのに、こんなにも簡単に彼は私の空白を埋めてしまえる。


「そうよ、私は幸せだった。墜落するとわかっている旅が幸せだなんて、ずいぶん酔狂よね」


 受話器越しに彼が、小さくため息をついて、それからひっそり微笑んでいる気配がした。私たちがいきどまる前の遠い昔みたいに。

 それで十分だった。


 もう何年も変えていないくたびれた部屋着に、お気に入りの大きすぎるオーバーを羽織って私は家を出る。彼がいつか、不調和で落ち着かなくて私らしい、と言っていた格好。


 吐く息が暗がりの中で、小さな雲のように流れては消えていく。

 コンビニ袋を二人の間にぶら下げたカップルが、深夜の路地を通り過ぎていく。


 反射的に拾ったタクシーのシートは夜空みたいに冷たくて、なんだか心地よかった。

 景気よく走り出して、どこまで? とぶっきらぼうに尋ねる運転手の声に、私は、ちょっとそこのいきどまりまで、と返して小さく笑う。それからやっぱり思い直して大笑いした。

 夜中のタクシーの窓を少しあけて。

 甘い夜の風を深く肺まで吸いこんで。

 ただ、胸の中だけが空っぽなままで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いきどまり 國枝 藍 @willed_ai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ