私の始まり
@aquaharuka
私の始まり
『最期に言い残すことはないか』という台詞を最初に聞いたのがいつだったのか覚えていないのだけれど、昔から妙に脳に焼き付いて離れなかった。
両親が映画好きだったと聞いたので映画だったのかも知れないが、どのようなシーンで聞いたのかは思い出せない。両親が事故で亡くなり、叔父に引き取られたあと、私は良くも悪くも普通の女の子として過ごしてきた。
引き取られたといっても学者だった叔父は忙しかったこともあり家にいる期間はあまり長くなく一人暮らしのようなもので、また家に居てもあまり私を構うことはなかったが、最低限の学費は出してくれたし、欲しいといえば本を買ってくれた。 また私もそんな叔父の邪魔にならないよう、何か必要以上にものをねだったりわがままを言ったりといったことは避け、手のかからない子であろうとした。学業も人付き合いも得意ではなかったが赤点をとることはない程度には努力したし、担任に心配されるようなことのないよう数人の友人は作った。コップの水があふれるように、ただ年々脳内において『最期に言い残すことはないか』という台詞の比重が大きくなってきているのを感じていた。
ある日の数学の授業中のことだった。黒板を追っているともう秋も近いというのに蚊が飛んでいるのが見え、その小さな体はちらちらと私の前を飛び続けた。しばらく目で追っているとそれは悠々と私のノートの上に着地した。気づかれないよう、かつ素早く右手で叩き潰した。そっと右手を開いてみるとノートには赤と黒のインクで試し書きをしたような跡が残っていた。成功だ。鞄に入っていたポケットティッシュで手を拭きながらふとノートに消えない残った染みを見つめた。さきほどまで目障りなほどに動いていたものがぴたりと動かなくなっている。青々と茂っていた植物が茶色く枯れ落ち、朽ちていく様を想起させ、なぜか私は美しいものを見たかのような満足感を感じた。しかしその感情を表す適当な言葉は思いつかなかった。
普段あまり数学の復習などしない私だが、家に帰ってからもその感情を表現する言葉を探すために、そしてそのときの感情を反芻するためにそのページだけは何度も何度も見返した。あの日のシャープペンシルの跡や蛍光ペンの跡は擦り切れてしまったが、赤と黒の染みだけは擦り切れることなくいつまでもそこにあった。
出口のない迷路を彷徨っているような感覚に襲われ続けながらも私は悩んだ。しかし脳裏に残る台詞とこの染みを合わせて考えたとき、私はひとつの仮説に辿り着いた。ヒトがモノに変わる最後の瞬間に出る本当の一言こそが私は欲しいのではないかと。生命の危機が迫った瞬間、どのような言葉が出るのか、その感情の発露が見たいのではないかと。思い立ったが吉日。私は実行に移し始める。
計画は簡単な方がいい。深夜、返り血を防ぐレインコートを着て通りかかった人間をナイフで刺す。田舎だからか幸いなことに回数を重ねても誰にも見つかることはなく、警察が迫ってくる気配も全くなかった。
しかし成果は芳しくない。出てきたのは「息子がいる、母親はもういないんだ。頼む、助けてくれ」だとか「こんなことしてただで済むと思ってるの」といったつまらない台詞だった。
つまらない。本当につまらない。ふざけるなとすら思った。
乾いた雑巾を絞るように、人生の最後の一滴を、生きてきた数十年を濃縮した一言を捻り出して欲しい。
そして今夜。七度目の殺人だ。
天気予報によると今夜は雨らしい。都合のいい日だと思いながら道具の入った鞄を持ち家を出る。
まだ両親が健在だったころ住んでいた都会では朝までどこかしらの建物で明かりがついており、常に明るかった覚えがあるが、こんな田舎で光っているのは虫のたかっている電灯くらいで一晩歩いても誰とも出くわさないのもざらだ。最近殺人鬼が出るという噂が流れ出してからは人っ子一人いない。まったく殺人鬼というのも楽じゃない。
澄んだ空気を吸いながら気持ちよく真っ暗なあぜ道を歩いていると向かいから人影が歩いてきた。二十代の痩せぎすの男だ。酔っているのだろうか、足取りもふらついており千鳥足に近い。私は負ける心配もあるまいと思い迷いなくすれ違いざまに脇腹を刺した。相手が呻き、事態を把握できないままよろめいたところに体重をかけ万が一、人が通りかかったときにも見つからないよう流れるように勢いよく田んぼの中に押し倒す。六度の殺人を経験して私が知ったことはヒトも蚊も同じだということで殺すときは気づかれないよう、かつ素早く、だ。そのまま数度腹へナイフを持った右手を押し付け弱らせた。最初のころはこれが難しかった。ここで死んでもらっては困るのだ。その後しばらくして私は言った。
「最期に言い残すことはある?」
男は息を整えるのに十分に時間を使ったあと少し笑ってこう言った。
「美しい……。」
は?
なんだ、ごまをすれば逃がしてもらえるとでも思っているのか。そもそも辺りは暗く私の顔は見えないはずだ。
もういい。殺してしまおう。ナイフを振り上げると男が言った。
「芥川龍之介がね、言ったんだ。」
何を?
「唯自然はかういふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、 僕の末期の眼に映るからである。」
……どういう意味?
「普段の景色でも二度と見ることができないと思うと美しさがわかるってことだよ。僕はいまそれを実感してる。」
今日は曇っていて月明かりもない。ただあるのは田んぼから漂う畳のような匂いだけだ。
「本当に美しいと思ってる?」
「本当だよ。今まで僕は余命を宣告されてもなにも感じなかったし世界が美しく見えたことなんてなかった。いまになってやっとわかったんだ。」
ふと男の着ている服が目に入る。病院で見る浴衣のような服だった。病衣というらしい。
「病院から抜け出してきたの?」
「ああ。呼吸器とかを外すのに苦労したよ。ただ、機械に雁字搦めにされてあのまま死ぬのは嫌だった。最期くらい自由に外の世界が見たかったんだ」
「……それは邪魔して悪かったわね」
少し罪悪感に駆られた。ほんの少しだけれど。
「いや、これでよかったんだよ。どうせそんなに長くはなかったんだ。むしろこれがいい。めったにできる死に方じゃない。」
男はむしろ満足したように笑うと数分後そのまま息を引き取った。最後に一言呟いたように聞こえたがきっと聞き間違いだろう。殺してもらって「ありがとう」なんて言う人間はいないだろうから。
私は一応手を合わせてから鞄からビニール袋を出し、血まみれになってしまったナイフとレインコートをしまう。
私は辺りを見渡し目撃者がいないことを確認する。押し倒された彼の目線から見えたのは私と雲、そして大量の稲くらいのものだったろう。
私にとってはなんということのない田舎の景色だ。一体彼にはどのように見えたのだろう。考えても意味のないことだと思い、頭を切り替える。早くここから立ち去らなくては。
向かい側から人が歩いてくるのが見えた。危ない危ない。もう少しで見つかるところだった。私は心持ち、かつ不自然にならないよう歩を速める。今までとは違った答えが聞けたことで少し浮き足立っていたことも手伝ったのかもしれない。
突然衝撃を感じた。へその辺りに目を向けると服にじわり、じわりと血が滲んでいっているのが分かる。状況を把握した。目の前には少年。彼の持ったナイフが私を刺している。バランスを崩した私の体はそのまま田んぼへ落下する。尻もちをついた格好になったまま動けない。
「やった……。」
少年は私の血のべったりついたナイフをじっと見たあと、キッと私を睨みつけた。少年はあぜ道から田んぼの中の私の方へ降りてきた。
「僕の顔に見覚えはないか」
「全然。」
腹を刺された。痛い。
「最近テレビで殺人鬼が出るって言ってたから深夜の外出は控えるべきだったなあ。君も気をつけたほうがいいよ?」
軽口を叩いていたら肩を刺された。少年の顔は怒り一色だ。
しかし少年からそれ以上の動きはなかった。まるでこちらからのアクションを待っているようだ。じっと少年を見る。先程少年は僕の顔に見覚えはないかと聞いた。しかし私はこの少年に会ったことはない。絶対にだ。だがしばらく少年の顔を見ているとゆっくりと記憶の底から湧き上がってくる光景があった。
「ああそうか」
『息子がいるんだ、母親はもういない。頼む、助けてくれ』
あのとき殺した男の息子か。
おそらく私が先ほどの男を殺すのを見て私が父親の仇だと確信したのだろう。きっとあの日からずっと私を探していたに違いない。
私が彼に気付くと同時に彼のナイフが私を襲った。何度も、何度も、壊れた機械のように彼の右手が動き、ナイフが落ちてくる。真っ暗だった空から雨が降ってきた。雨が私に当たる度、私の中身が流れ出す。土に混ざる。
私自身がモノになりかけているというのに私の身体は全く抵抗しようとせず、頭は関係のないことをぐるぐると考え始めた。これが走馬灯というものか。両親のこと、叔父のこと、学校のこと。そしていままでの殺人のこと。そしてさっきの男の言葉が蘇る。そしてひとつ引っ掛かった。
『ありがとう』という言葉。あの男はなぜ病院から出てきたのだったか。『最期くらい自由に外の世界が見たかった』からか。最期?今日外で死ぬ予定だったということか。もしかすると男は殺人鬼がいるという噂を聞いてわざわざ外に出てきたのかも知れないと思ったが、すぐにあまりにも自分に都合のいい解釈だったな、と自嘲した。殺人なんて褒められた行動じゃないというのに私はまだ救いを求めようとしているのか。
『褒められた』?『救い』?
頭の思考速度はどんどん上がっていく。
結局私はなにがしたかったのだろう?なぜあの台詞はずっと私の頭の中に残っていたのだろう?なぜ私は殺人という手段にこうも簡単に踏み切れたのだろう?
そうか。
私は失うものがなかったからか。
私は自分の人生を自己採点したかったのだ。
両親に先立たれ、引き取ってもらった叔父へも仕事の邪魔をしてはいけない、と自分で理由をつけコミュニケーションを絶った。日々も退屈なサイクルでしかなかった。
そんな自分を見て、評価することができる人間は自分自身だけだ。私はあの台詞を言うことに恋焦がれていたわけじゃなかったのだ。自分の人生を煮詰め、凝縮して評価がしたかったのだ。
そして、この状況でやることはひとつだ。
私を襲っていたナイフが止まった。少年は疲れたのか肩で息をしながら私を睨んでいる。もう十分致命傷を与えたと思ったのだろう。では、そろそろだろうか。息を整えるために何度か咳をする。肺が、喉が痛い。
「ねえ、傲慢なのは分かってるんだけどお願いがあるんだ」
少年は苛立ちながらも「なんだ」と短く答えた。
「最期に言い残すことはないか、って聞いてくれる?」
私の口からはどんな言葉が出てくるのだろうか。
ここからの景色はどのように見えるだろうのか。楽しみだ。
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