イノシシの恩返し

小林犬郎

イノシシの恩返し

 この住まいはきっと山を自分勝手に切り開いて建てられたのだろう。だから時折その成り立ちに見合った試練が与えられ、孤立する。

「今日は仕事を早く切り上げて帰りましょう。吹雪きますよ。」

職場の上司がそう言ってくれなければ、私も今頃あの白の一部となっていただろうか。快晴から一転、夕方からにわかに雲の様子がおかしくなる、そんな日に限って私の足は原付だった。壁と屋根に守られながらストーブを焚いていてもなお、窓の外を見るとゾッとしてしまう。


 一人暮らしだが、精一杯温まろうと思って夕食に鍋を仕込んだ。ちゃんと食えるものがあってよかった。台所の熱気も手伝ってようやくストーブが効いてきた。冷え切った足先には熱すぎたが、身体の芯には心地いい。温まるとなんだか緊張までほぐれて、急にどっと疲れた。本当に安全なところに達するまではどうにか疲れ切らないよう、人間の身体は出来ているらしい。


 外からは裸の木々が寒風を切り裂く音が聞こえる。木が細ければ細いほど、それは悲鳴のようになる。しかし、もっと驚くべき音もある。こんな夜に鳴るチャイムの音だ。

「こんばんは。」

 ドアを開けると、見知らぬ細身の男がぼろ絹を何枚も着て分厚くなっていた。みすぼらしい風体とは裏腹に、赤茶色の頭巾から覗く白い顔はよく整っていて美しかった。体中に雪が積もっていて、衣の地味な色と相まって彼は山そのもののように見えた。

「えっと、すみませんが、どちらさま?」

「旅のものなんですが、道に迷ってしまいまして。少しの間、この大雪からかくまって頂けないでしょうか。」

「ああ、それは大変だ。どうぞ上がってよ。」

 先ほどまで窓の外を見ていたので、こんな男がぼろ布を被って山道を吹かれていたなんてことが不憫で仕方なかった。一刻も早く癒してやらなければ今すぐにでも消えてしまいそうに、この男は見えたのだ。

「外はすごいことになってるね、大変だったでしょう。それにしてもいまどき旅なんて珍しいな。どうぞ、何もないけどくつろいで。」

「ありがとうございます。」

 ふと、男の風体以上にこの状況が妙なことに気がついた。

「それにしてもお客さんが来るとは思わなかったな。だってここアパートの三階だよ。下の階全部断られちゃったの?」

「まあ、そんな感じです。」

「マジかよ、世知辛いな。今暖かいお茶入れますよ。」

 よくもそう残酷になれるよなと、茶を入れながら下の階の連中に憤っていた。いや、果たしてそんなことがあるだろうか?このアパートに住んでいるのは大抵私の仕事仲間だ。全員を見知ったわけではないが親しいものもいるし、彼らは気がいい連中だった。何かの間違いが起きて彼らがまだ山道を彷徨っているなんてことはないだろうか?しかし、もしそうだとしても、今の私にできることは見知らぬ旅人のために茶を用意することしかなかった。

 茶が入ったので持って行くと、男が訊いてきた。

「猟師さんですよね?」

「ああ、銃を見たかい?物騒なものを広げてて悪いね。まあ趣味というか副業みたいなものだけどね。普段はあそこの工場で働いてるんだ。この間なんかも小学校の近くに出たイノシシを罠にかけて仕留めたんだよ。なんだかぼおっとした感じのイノシシだったんだけどね。そうだ、よければ晩ご飯食べる?そのときのイノシシの肉があるんだよ。」晩ご飯というのは先にこしらえておいた鍋のことである。

 すると急に男の顔がぱあっと明るくなった。

「よかった、やっぱりあなたで合ってた!」

「え、なに、どうしたの?」よほど飢えていたかイノシシの肉が嬉しかったんだろうと思っていたから、全く文脈を心得ない言葉に慌ててしまった。

「あの、実は僕そのことでお礼しに来たんですよ。」

「そのことってなんだ、イノシシを狩ったことかい?もしかして小学校の職員とか?いやでもさっきは旅をしているって言ってたよね?」

「実のところは僕、あのとき罠にかかっていたところを撃ち殺して頂いたイノシシなんです。」


 意味が分からなかった。確かにイノシシは撃ち殺したが、イノシシなら撃ち殺したはずである。お互いあまりの寒さにどこかやられてしまったのだろうか。

「だから、あなたに撃たれたイノシシです。今日はそのことでお礼というか、恩返しがしたくて。」

「意味が全然わからないんだけど。あなたはそのイノシシの幽霊ってこと?」

「そうなりますかね。」

「なんだよやめてくれよ、確かに殺したのは悪かったと思うが、子供の安全のためなんだよ。小学校に出られたらそうするしかないじゃないか。」

「分かってますから、怖がらないでくださいよ。僕は殺してもらって助かったんですよ。だから本当に感謝しているんです。」

「それも意味がわからないんだ。なんで殺された君が恩返しに来るんだよ。恩返しという言葉になにか裏でもあるのかい?」

「実は僕、うつ病というか、何のために生きてるのかわからなくなっちゃってて。」

「うつ病?」

「あれは、先週のことでした。実は僕にも妻と幼い子がいましてね。」

 男はこの妙な状況の説明を始めた。

「僕は彼女たちが大好きでした。オスのイノシシってあんまり子供の世話をしないんですが、僕はいつも遠くから娘を見ていました。何かあったら守ってあげようと思って。そんな娘がワシに襲われたんです。妻から離れた一瞬のうちでした。僕は駆け寄ってワシを追い払ったんですが、娘はすでに致命傷を受けていました。そこに妻がやってきたものですから、僕が殺したと思われちゃったんです。そのことで言い合いになった挙句妻は走り去って、その先が不幸にも道路だったんですよ。そして図ったみたいなタイミングで軽トラックがやってきた。」

「そんな・・・。」思わず声が漏れた。

「守るべきものも失って、何のために生きているのかわからなくなってつらくなってしまいました。だから小学校のあたりに姿を現して、罠にかかって撃ち殺されるのを待った。だからあなたには感謝してるんです。頭に一発だったから苦しまずに済みましたし。」


「いろいろ、大変だったんだな。」掛ける言葉が見つからないと自然に月並みな言葉が出てくる。そういう風に、人間はできている。

「はい、イノシシの世界も結構シビアなんですよ。」

「なんかごめんね、さっきイノシシの肉とか勧めちゃって。」

「いえ、全然。」

「君あんまりイノシシっぽくないよね。」

「でもイノシシですよ。」

「君が言うならそうなのかな。」

「それより僕に何か恩返しできることはありますか?恩返しがしたくてわざわざ人間の姿になってあなたの元に来たんですよ。」

「なんとなく事情はわかったけどさ、なんで人間の姿になってくるかね。なんだか人を殺しちゃったみたいだよ。」

「でもイノシシのまま来たらそれこそまた撃ち殺されて終わりじゃないですか。」

「確かにそうだけどさ。死んでまで恩返しに来なくていいよ。死んでから来ることががあるなんて、普通思わないよ。」

「童話の読み過ぎですよ。」

 死してなお大したことを言うものだと感心していると、男が急にうずくまった。

「すみません、恩返しに来た立場で恐縮ですが、先ほどのお肉頂いてもいいですか?どうも飢えてしまって。」

「マジかよ。イノシシというか君の肉だぞ。」

「おいしそうじゃないですか。」

 幽霊も腹が減るらしく、しかも食うものには頓着しないようだ。後学のためによく記憶しておこう。それはそういうものと受け入れて、鍋を出してやることにした。


 男は豪快に鍋に食らいついた。これほど気持ちの良い食べっぷりは人間にもなかなか見られない。せっかく自分のために作った飯だが、この男が食べているのを見るのはなかなか爽快だったし、私自身の食い気はいつの間にか失せていたので惜しくはなかった。男が箸を上げるときに、ぼろ絹の袂から黒々と深い傷痕が見えた。あのイノシシの右前足に掛けた罠の噛んだ痕がそれにあたるのか。どうしたものか、この男の話が現実味を帯びてきた。とぼけた男だが、やはり怖くなってきた。赤茶色の頭巾の下には、きっと銃創が隠れている。


「僕、恩返しに来たのに結局頂いてばかりですね。でももう力もついたので、何なりとお役に立って見せましょう。」

「私に返されるべき恩なんてないんだ。どうか気にしないでおくれよ。」

「そうだ、僕がこの家に住み着いたら曰く付きで家賃安くなるんじゃないですか?」

「イノシシの幽霊が契約後に来て曰く付きになるわけないだろ。」

「それなら狩りを手伝いましょうか?」

「止めておけよ。嫌な奴でもいたのかよ。」

 このままだとずっとこの部屋で考え込むつもりらしい。一つ目と二つ目に出てきた案があれでは先が思いやられるし、こちらとしてもこの男にやらせたいことなど特段思いつかない。何か面倒が起こる前にケリをつけてしまいたかった。

「俺は撃ち殺したイノシシに恨まれてないことがわかっただけで満足だよ。やむを得ない事情があるにせよ、動物を撃ち殺すのはなんとなく罪悪感があるもんだよ。狩りは好きなんだけどさ、やってるとときどきそういうのが心のどこかに引っかかることがあってね。今回もちょっとだけモヤモヤしてたんだ。だから君のおかげで安心したよ。まあ他のイノシシには恨まれてるだろうけどさ。」

「じゃあ、僕はちゃんと恩返しできたってことですか?」

「ああ。だからもういいんだ。あの世でゆっくり休んでくれよ。」


 すると男の身体が光の粒に包まれ、土色だったぼろ絹を真っ白く染め上げた。その粒子は、彼自身から生まれていた。

「猟師さん・・・。もう、行く時間みたいです。お邪魔してすみませんでした。ありがとうございました。」

「じゃあな。家族にも、会えるといいな。」

男のすべてはやがて眩い光に変わり、あとには何も残らなかった。


 軽トラックを修理に出しておいて良かった。

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