失業して身体を売り始めた美人のお姉ちゃんと中学生でも書けると聞いてラノベ作家を目指し始めた弟の話
枕木きのこ
お姉ちゃんと弟
「あ、それ俺のアイスじゃん。何食ってんの」
弟が二階の自室からリビングに降りてくると、お姉ちゃんはソファで膝を抱えてソーダ味のアイスを食べて、いつも通りツイッターをスワイプする作業をしていた。ス。パッ。ス。パッ。更新されていく何某のあれこれを見るともなく眺めながら、背後で鳴る弟の声に、
「別にいいじゃん」
無気力に答える。その無気力に任せてずぶずぶとソファに沈んでいく妄想をしてから、それはあまりによくある演出だし、沈めるだけ浮かんでいると考えるのは前提が傲慢だなと思ってやめた。
夏はまだ先だというのに、このところ日本はどこもかしこも暑かった。しかし今からエアコンを稼働させていては夏本番に我慢できそうにない——という万人が抱く謎の理論によって、彼らの家もあらゆる窓を全開にすることで忍んでいた。密を避ける点でも窓を開放するのは良いことだから、が最近のお母さんの口癖だったが、弟はこれがなんとなく情けなく感じられて大嫌いだった。
お姉ちゃんは普段、東京の街で一人暮らしをしている。コロナがある程度落ち着きを見せ、自粛が緩和され始めたために久しぶりに実家へと戻ってきたのだ。だから当然冷凍庫のアイスが弟の物かどうかなど知る由もなく、知らなければ食べてしまっても仕方ない。
何より最近のお姉ちゃんは口周りがむず痒くて、暇とアイスがあるなら冷やしたかった。
一回四万。それが失業を余儀なくされた最近のお姉ちゃんの値段だ。二時間拘束だから、時給二万。今までの何倍だろうか。しかし弟は知る由もない。だからアイスの恨み晴らすべしと、四万の身体を蹴ったりもする。これも仕方ない。
弟は自粛中、お父さんにおねだりしてパソコンを買ってもらった。ユーチューバーになってもいいかな、とぼんやりと考えていたためにマックブックである。今はオンラインでいろいろな情報を得られる側面があるため、ゲームを買ってやるよりもずっとましだ、とお父さんは思っていたが、お互いの心の内はやはり、わかっていない。
鍵付きのアカウントで日がな一日世事を収集していた弟は、「ラノベなんて中学生でも書ける」という文言を見つけた。もちろんこれはライトノベルを揶揄した物言いである。弟はライトノベルを「ライトノベルだ」と意識して読んだことはない。もしかしたら今まで読んだ中のいくつかはそれに分類されるのかもしれない、と考えたことはあるが、そもそもの線引きが曖昧である以上明確にはわからない。しいて言うなら「ファンタジーはあまり読まない」という認識だった。
三段論法で言えば、中学生でも書けるというのなら、俺でも書ける。——弟はこのツイートを曲解して、それからの日々を「読む」から「書く」へ転換した。
そうした中での自分へのご褒美がアイスだったのだ。
「買って来いよ」
「え、やだよ。あちーもん。お前こそ最近引きこもってんだろ、たまには外出ろよ。そんな貧弱な身体じゃモテないぞ」
実際お姉ちゃんは筋肉質な身体よりはなよっとした男のほうが好きだった。個人で売っている手前そのほうが怖くないし、最悪力負けもしないように思われるからだ。男の好みを自身の優位性で決めるあたりに人間の本質が現れている。
「うるせー。もし俺が一発当てても姉ちゃんは養わん」
「結構ですー。お前に養ってもらうくらいなら死にますー」
言ってから、身体売るくらいなら死ぬし、と高校生の頃に笑っていたのを思い出して、あとは続かず、アイスを頬張る。
風俗は恥ずかしいことじゃない。労働はすべからく身体を売ることだ。直接的か間接的かによってそんなに差異はない。働く。お金をもらう。過程も結果も等しい。でも人々はそれを語るとき伏し目がちになるし、「落ちる」と言う。男性も女性も一緒だ。そんな物言いをする人たちは、今どのあたりを浮かんでいると考えているのだろう。その前提は傲慢かもしれない。
実際お姉ちゃんも羽振りがよくなったことを友人に問われ答えた際に、じっとりとした視線を向けられた。
「病気とか怖くないの?」
「知らない人とセックスとか無理。愛がないよ愛が」
「彼氏いなかったっけ」
お姉ちゃんも病気は怖い。でも別にセックスをしなくても病気にはなる。生きている以上リスクは常にある。それが最近よくわかった。あえて進んで行かなくても——もちろん進んで行けばより可能性は高まるが——病気にはなる。
それに、愛がなくても
弟はいい加減アイスを諦めて、冷蔵庫からカルピスを取り出して飲んだ。白濁液が、若干の余韻を残して喉を通っていく。
たまに顔を見せたかと思えば、相変わらずお姉ちゃんは馬鹿みたいだ。嫌いな人種だ。能天気だ。将来性がない。
弟は今「異世界転生したら魔法学園でモテモテになっちゃった話」を書くのに忙しかったけれど、その中にお姉ちゃんのような女は出てこない。それは弟が意識的に排除しているわけではなく、お姉ちゃんのようなテンプレがなかったのだ。世の中、典型的な人間はあまり多くない。
弟が産まれたときには小学生だったお姉ちゃんは、共働きの両親に代わってよく弟の面倒を見た。顔がよく、性格も気さくなお姉ちゃんに友達は多かったけれど、彼女にとって最優先はしわくちゃの顔をしてすぐにお漏らしをする弟だった。母性というには幼かったけれど、お姉ちゃんの中にそれに似た感情を芽生えさせ、今のお姉ちゃんにしたのは、間違いなく弟の存在だった。
あるいは性的に果敢になった男の野望に満ちた瞳を直視できるのも、慈愛を教えてくれた弟のおかげと言える。
「大体あんた一発当てる予定があるわけ?」
お姉ちゃんが問うと弟は黙った。黙ってカルピスをしまって、黙って自室に戻ろうとした。
「えー、無視? おーい」
ズンズンと音を立てて二階へ上がっていく弟に俄然興味がわいて、お姉ちゃんはパッとソファから離れると駆け足で弟を追った。
「ついてくんなついてくんな!」
先に部屋に戻った弟はドアを力いっぱいに閉めようとしたが、大人の男を相手にしているお姉ちゃんには可愛い抵抗に思えた。しばらくの攻防こそあったものの、お姉ちゃんは侵入に成功する。
部屋のパソコンは運悪く文書を開いたままだった。スクリーンセーバーを嫌って設定していなかったのがあだとなった。お姉ちゃんの目に「やだもう、ミレー様ったら! ハレンチ!」というワードがそこらの童貞より素早く突っ込んできた。
「うわー。ほわー。ハレンチってすげー」
観念した弟は、ドアの近くで目を伏せて動かなかった。
お姉ちゃんはスクロールしてまじまじと文章を眺めていたが、笑わなかった。でも、頭の中ではツイッターをスワイプしているよりは面白く感じていた。
「いいじゃんいいじゃん」
「思ってないくせに」
「まあ思ってないかも」
実際、あまり文章や話自体を良いとは思わなかった。構成も拙い。
「笑え笑え」
「別に笑いもしないけど。何も面白かないよ別に」お姉ちゃんはいくつか文章を飛ばし読みしながら、弟を思って振り返ることはなく、「本気なの?」
と何気なく聞いてみた。
「……まあ、今は、それなりに」
「ふーん」
「もういいだろ?」
「え、恥ずかしいの?」
「うるさいなあ」
お姉ちゃんは文字を追うことを止めてようやく弟のほうを見た。
「中学生なんだから夢語れよー。今語らないでいつ語るんだよ」
「……でも小説家になれるのなんて数パーセントの人だけだろ。なれないのに目指してるのが恥ずかしいんじゃん」
「そんなの、なんでもそうだよ。甲子園行けるのもJリーガーになれるのも宇宙飛行士になれるのも、身体売れるのだって数パーセントの人間だけだぜ? それを恥ずかしいとか言ってたら夢ってなんだよって話じゃん。それに小説家はさ——村上龍が言ってたけど——いつでもなれるし、だれでもなれるんだよ。掲げ続けりゃいいじゃん」
弟は村上龍のことはよく知らなかったけれど、なにかを言い返さないと気が済まなくなり、
「掲げ続けておっさんになった時に『こんなもん中学生でも書ける』とか言われたらどうすんの」
と言ってから、それがあったから書き始めているので頭がこんがらがってきた。鶏が先か卵が先か、のようで、そうでもない。
「そんなもん構ってないで書き続けりゃいいじゃん。好きならさあ」
「まあ……」
それでも伏し目がちになる弟のために、お姉ちゃんは公平性を持って自身の近況も伝える。
「お姉ちゃんも色々言われるけどセックスワーカーしばらく続けるつもりだよ。ある意味ハーレムだわ」
「え」
今までに数回この告白をしてきたけれど、初めて正面から見つめ返されたな、とお姉ちゃんは思った。
短い追いかけっことお互いの曝露のせいで余計に暑くなった二人は家中の戸締りをして二人でアイスを買いに出かけた。二人で出かけるのはずいぶんと久しぶりだ。お姉ちゃんが先日会ったお客さんが「蜜です蜜です」と言いながら果てたことを語ると弟は笑い、弟が自分の書いた話に初めて評価が付いたことを誇るとお姉ちゃんは頭を撫でてやった。
お姉ちゃんは夕飯を食べると東京に帰っていった。
弟はお姉ちゃんが帰ると自室に戻った。
お姉ちゃんはツイッターをスワイプし続けて、弟はラノベを書き続けた。
——いろんな
失業して身体を売り始めた美人のお姉ちゃんと中学生でも書けると聞いてラノベ作家を目指し始めた弟の話 枕木きのこ @orange344
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