蒸し暑い夏の夜のことである。

 寝苦しさは耐え難く、汗の流れは絶え間ない。


 まんじりともせず一夜を明かしかねない熱帯夜において、それでも私は必死に快い眠りの尻尾をつかまんとした。

 けれども掴もうとすればするほど、目の皮はぴんと張り、夢を結ぶことがかなわないでいた。


 じっとりと湿った布団の不愉快さに苛立ちながら、私は修行僧の如く堅忍し、その褒美としてようやく船を漕がんとした。


 そよそよと涼やかな風が、カーテンを揺らしながら侵入してきた。

 あまりの心地よさに包まれ、またたきの内に夢の世界へ足を踏み入れかけたその時のこと。


 ぷ-ん。

 蚊の羽音である。


 小さき虫など歯牙にもかけず、今は惰眠を貪るべきである。

 その判断に従い、些事と断じ放っておいた。


 すると、どうであろう。

 身体のいたるところから痒みが襲ってくるのだからたまらない。


 怒り心頭に発した私は端然と上掛けを跳ね除けて灯りを点し、仄かで侘しい光に誘われた虫たちに天誅を下した。


 ぱんぱんぱんと軽快な響きが夜のならまちにこだました。

 こうして愛すべき眠りの時間の確保に成功した私は、ようやく眠りにつくことができた。



 たいそう骨を折った私を労うべく、ほそやかな眉のろうたける乙女を夢に迷いこませてくれてもよかったものを、そのような蛾媚は露ほども現れず、それどころか何の因果か私は蚊になってぷんぷん飛び回っていたのだ!


 これはいったい何するものぞ!

 私は大いに困惑し、すっかり我を失ってしまった。


 自棄っぱちになった私は、本能のおもむくままに人の肌に口を突きたて、うっとりするほど快い妙味を骨の髄まで堪能することに腐心し、まさに天にも昇らんという至福の渦中においてあまりに突然に押しつぶされた。


 ぱあん、と大きな音がしたかと思うと、全てが真っ暗になった。

 どうやら、血を拝借した人物に擲打されたらしい。



 冷や汗とともに目を覚ました。

 まだ夜闇は深く、携帯で確認してみると、暁の邂逅はまだ遠いようである。


 携帯のほの明かりに誘われ、蚊がぷうんと飛んできて、ディスプレイ上を這い回った。

 ふと、さきほどの夢が思い出された。


 私はどうすべきかしばし逡巡し、それから思いっきり平手で打ってやった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

怪談と私 甲(キノエ) @kinoe2501

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ