春の夢


 薄紅色の蕾がほころび、白色の葩がほろほろと、春の訪れを告げている。


 大学の裏門からサークル棟まではソメイヨシノの並木が続いていて、夜のヴェールに包まれても、屋外灯のおかげでその典雅なありさまがのぞめる。


 義理人情に厚い友人をもったおかげで、夜がふけるまで研究室でひとりで惰眠を貪ることとなった私は、ぶちぶちと文句を呟きながら、家路を急いでいた。

 そこに、「わたし、きれい?」と声をかけられた。


 草木も眠る丑三つ時に、見知らぬ女性がそのような科白を口にしたならば、注意したまえ。

 たとえそこが、我が家の庭のように見知った大学のキャンパスであっても、である。


 初対面の女性に対して失礼ではあり、私の紳士としての矜持には反するのではあるが、まずはそのご尊顔を、うやうやしく拝見すべきだ。


 もし大きなマスクをしているのであれば、肯定とも否定ともつかぬよう曖昧に微笑んだ然る後に速やかに、その場を離れるのがよろしかろう。


 口裂け女の都市伝説は、かつての純粋無垢であったお子様であるところの私を大いに恐縮させ、闇夜への怖れをこれでもかこれでもかと掻きたてたものである。


 だからこそ、彼女が無類の鼈甲飴フリークであると小耳にはさもうものなら、すわ駄菓子屋と小銭を握り締め、図抜けて足が速いと聞けば、端然として陸上部の門戸を叩いた。


 こうして私はメジロドーベル(すごい顔をして走る馬)が如き勇猛な走りを手に入れ、百年の恋も冷めるその形相を得た当然の帰結として異性から程遠い、灰色の学生生活を余儀なくされることとなる。


 かつての己の頭をはたいて啓蒙させてやりたいと何度も臍を噛んだものだが、今こそ積年の雪辱を晴らす機会かもしれぬ。


 怖れながらも一抹の期待を胸に、私は丁寧に女性の面を眺め渡した。


 そこには顔の造詣をわからなくするようなマスクはなく、むしゃぶりつきたくなる小さな桃色の唇がちょこんとついていた。

 瞳はぱっちりと大きな二重で、その上にはきちんと整えられた眉がのっている。

 頬はさわり心地よさそうで、ややぷっくらと膨れていて、さっと朱がさしている。


 蛾眉と称するに相応しい美人であった。


 美しいものを素直に美しいと言えないのは悲劇であり、大罪でもある。

 私は洗練された男性の態度を醸し出すことに腐心し、己に可能な力の全てを総動員し、尾てい骨に響く声音をつかった。


「きれいですとも」


 すると、女性の目が細められ、口角が品よく吊り上げ、こう言った。


「これでも、きれい?」


 見る見る間に、女性の美貌が年月というと石に磨耗させられていく。

 顔には幾重にも年輪が刻まれ、頬はこけ、髪に白いものが混じり始める。


 徐々に老いていく女性は、仕舞いには骨になり、かちかちと歯を鳴らして笑ったのだが、私はそこで怒涛の逃げを発揮することとなり、その後どうなったのかは定かではない。


 後日、大学に8年も居座り続ける傲岸不遜な友人から聞いた話であるが、私が怪異と遭遇した場所にはかつてそれは立派な桜があったそうだ。

 たがしかし、どれだけの栄華を誇ろうと、衰えは避けられないもので、桜はばっさりと伐採されてしまったらしい。


 私は幹から上を失った桜の前に立った。

 根があれば命を吹き返すのだろうか。

 残念ながら、私にはわからないし、それを見守るほど大学に居座る気はない。


 儚くも美しく舞い降りる葩もそうだが、地に落ち、心ない靴底たちに蹂躙されたそられもまた、閑寂な風趣があるのは確かだ。

 それならば伐採された桜とて、美しいと称しても問題はなかろう。


「きれいですとも」と私は言った。

 美しいものを美しいと言えないのは、悲劇であり大罪なのだ。


 びゅうと吹いた芳春な風にのって、「これでも、きれい?」と聞こえたような気がしたが、空耳かどうか、私は知らない。

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