我が逃走

          /我が逃走


 知人の間でのことだが、「逃げ足の」というと、私の名がまず間違いなくあげられ、然る後に速やかに悪口雑言の嵐が吹き荒れることとなる。

 やれ、下半身に節操がないだの、責任もとらずに逃げても平気の平左だの、自慢の足はくさいだのきたないだの、そのような真実と虚構の織り混ぜられた悪評でさんざめく。まさに玉石混交であり、その様相は芋を洗うようである。


 「逃げ足」などと唾棄すべき枕詞を授かってしまうのも、己の不徳の総決算であることを鑑みれば、至極もっともなことではあるのだけれど、だからといって納得できるのかというと、首を左右に振らざるをえない。

 そう、このような事態を認められようかという意味合いをこめて。


 しかれども、私のように海水浴場における一粒の砂よりもちっぽけで矮小な存在が、ここでどれだけ拳を振り上げ、その厚意に欠けた知人たちへの抗議に気焔をあげたところで、我が評価は一向に上がるところを知らない。それどころか、下がることは火を見るよりも明らかである。


 無駄なことにエネルギーを浪費しているだけの余裕は、今の私にはない。

 なぜならば、逃げるという行為に、己の持てるところの力の全てを注いでいるからである。


 この時の、私の顔面に興味を抱くのはやめていただきたい。

 というのも、その勇猛果敢たる様が、否応なしにメジロドーベル(すごい顔をして走る馬)の連想を促すからである。

 このような形相を前にされると、まず百年の恋であろうと冷める。

 きゃっきゃうふふといちゃこらすることに余念のない同級生たちを尻目に、もくもくと研鑽に努めた陸上部時代のストイックな私が彼らに呪詛を吐き出し続けねばらなぬという不遇を被ったのは、まず間違いなくここに起因する。

 そうでなければ、あのように禁欲的で慎ましやかの権化のような、灰色の学園生活などという黒歴史を、誰が好んで過ごそうか。


 閑話休題。


 ともかく、私は己の代名詞とも言うべき逃げ足を活用しているわけである。

 その原因というのは、話せばながくなるので、どこから話せばいいものやら。

 とにかく、初めから最後まで話せばよいのでそうさせていただく。




            /事の発端


 つい五分ほど前のことである。

 コンビニに群がる蛾のように、ふらふらと店に足を踏み入れ、夜食になりそうなものを物色してから、家路についた、まさにその時のことである。


 電信柱によりかかるように立つ、妙齢のご婦人の姿が目の端に捉えられたのである。

 気分がすぐれぬのか、はたまた恋人と取っ組み合いのけんかでも繰り広げられたのか。

 すわ一大事!とばかりに、持ち前の紳士的な態度そのままに、ご婦人に声をおかけした次第である。


 どこかで見たことがあるシチュエーションだと思われるかもしれないが、それは全くの気のせいであるので、あしからず。


「どうされましたか」


 尾てい骨に響くような重低音である。

 そのような声を絞り出すためには、並々ならぬ努力が必要であり、女性と親しむためにはどのような労力も厭わぬこの苦労をねぎらっていただきたいものだ。


「ああ、わたくし、あなたのような方にお声をかけていただけるのを、今か今かと待ち焦がれていたのです」


 言うや否や、あろうことかその女性は私に抱きついてきたのである。

 メジロドーベルなどと言われた学生時代の不遇の全てを帳消しにするが如き僥倖に私は面くらい、その当然の帰結として固まったまま動けなくなった。


 ご婦人から漂ってくる背徳的な芳しさと、背に回された両の腕のあまりの細さ、そして、これでもかこれでもかと当てられる乳の感触。

 これほどまでに女性の接近を許したのは、自転車をこぐことに余念のない女生徒の不注意がたたり、私の背中めがけて突っ込み、あわや大惨事に発展しかねなかった件くらいしかない。

 その時でさえ、前輪とハンドルを挟んでいたのだから、この度の快挙がどれほどのものであるか、言わずと知れようものだ。


 心臓が刻むかつてない鼓動の早さに、けれど私は知らんぷりを決め込み、あくまでダンディな声音を保つことに腐心する。


「お嬢さん、いかがなされたというのです」


「実は」お嬢さんはぎゅうと腕に力を込める。「お化けに追われているのです」


「ははは、そのようなもの、全て気の迷いです。ホラーなんてのは、あまねくホラにすぎませんよ」


「でも、あすこに」


 女性は首を動かし、後方に目をやった。

 そこには爛々と輝く二つの眼があったのである。

 暗闇のせいでわかり辛いが、かなりの巨体であろうことは確認できた。


「それでは失礼」


 言うや否や、ご婦人の腕を、あらん限りの力でもって振り切り、一目散に逃げ出した次第である。

 お化けに追われているなどと、頭の螺子が一本では足りないくらい抜け落ちている、ある種の憐憫を誘う女性の魔手を振り切らんとした、というわけでもない。

 お化けが、こわかったのである。 


「待ってください」などと、ご婦人が追いかけてくるが、そのようなことはナンセンスである。


 なにしろ、女性は文字通りに地に足がついていない。

 空中に浮かびあがり、ふらふらと右往左往しながら、追跡してくるのだ。


「お嬢さん、どうして貴方はそのように浮いているのですか」


「色男を前にして、少しばかり色に溺れそうになったものですから」


 確かにそのロジックを尊重するのであれば、地に足など着こうはずもない。

 私という、光源氏もかくやという煌々たる美貌をもつ益荒男に惚れない女性がいるのであれば、それは世界のほうが間違っているに違いない。


 もう騙されてもいいや。

 そのような思考がまったく思い浮かばなかったというと、それは真っ赤な嘘であろう。


 だが、こちとら四半世紀を一人身で乗り切ってきた、業の者である。

 そのような甘言に弄されるほど、人生に夢も希望も抱いてはいないのである。


 そこで、私に圧倒的閃きがもたらされる。

 この女性は疑似餌なのではないかと。


 ふらふらと寄ってくる無頼漢どもを、乳や甘言で弄しては、後ろに控える本体がぺろりと食べてしまうのだ。

 提灯あんこうを想像すると分かり良いだろうか。


 本体が猛牛の如く走るものだから、疑似餌であるところのご婦人がああも揺れているのではなかろうかしらん。




            /我が逃走の続き


 そんなわけで、私は己のアイデンティティーとも言うべき逃げ足を、これでもかと活用している次第である。

 今こそ、恋人も作らず、甘酸っぱい青春も送らず、ただ禁欲的に陸上に身をささげた私の本領を発揮すべきときではなかろうか。


 メジロドーベルが如き形相でならまちを駆け抜ける私を見かけたらば、ぜひ熱きエールを。

 それが乙女からのものであれば謹んで受け取る所存である。


 男どもは、きっと私の背後にはぷかぷかと揺れる(もちろん、乳も)女性がいるので、そちらに熱い抱擁を。

 逃走に犠牲はつきものであるから、後ろ髪はひかれるであろうが、尊い心づかいを無駄にせぬよう、きっと逃げおおせてみせる所存である。

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