【小説】夕霧太夫(ゆうぎりだゆう)

紀瀬川 沙

本文

 わちきのような、あ、いけません・・・失礼致しました。

 つい・・・どうも昔の名残でございましていけません。今ばかりは、場違いな言の葉は絶えて用いるべきではございませんでした。ここなる離れの間には、わたくし達二人しかおりませんけれども、間の外にはどなたか供人の方でもおりまするやもしれません。はなはだ迂闊でございました、お許しを。

 わたくしのような尼削ぎの者を、今日はまたわざわざ嵯峨野の山寺より召して、道々人目を忍んでお屋敷へと招き入れなさり、先々代の祇園萬屋夕霧太夫についてお話を聞こし召したいとは、一体いかがなされたのでございましょうか。まさかわたくしのごとき未熟な尼一人を召して、対面にて夕霧太夫のお話とあわせて、今のわたくしの専修なします大無量寿経を説法させなさる訳でもございませんでしょう。

 まぁ、あなた様がご事情を今は仰せになることができないでいらっしゃるのも、わたくしは重々承知致しておりますので、ひとまずはご所望なされたお話を正直に在りのまま申し上げることと致します。わたくしとしては、そのお相手が、今や武家伝奏をお務めなさる清華家は徳大寺権大納言様でいらっしゃり、時を隔てて、今度はこのような今出川のやんごとないお公家様の町にて御対面賜りますとは、誠に一身に余る光栄であると存じ上げますので。

 お相手がお相手であらせられなければ、世と交わりを絶って久しいこの沙門の身に、かような花街のお噂を述べしむるも当て事もないことで、わたくしもいくらお公家様の御所望とはいえ、お受け致すことはできませんでした。況いてわたくしの現在おります西寿寺は捨世派でございまして、わたくしのような身の上の者を取り上げてくだすったことさえいみじきことで、念仏三昧の精進する日頃から一時でも離れて此度のような再びの世との交わり方は、決して許されることではございませんから。

 お相手があなた様だったからこそ、今日こうして御前に侍ることが自他ともに許された訳でございます。

 わたくしがまだ祇園におりました頃のいつぞや、あなた様が後朝の文とてお歌を記しお渡しくださった真弓紙の短冊に螺鈿のお函、髪を下ろし尼寺におります今でも内密に、大事に大事に蔵ってございます。まぁそれは今は宜しいとして。

 ただ、わたくしも一度は夕霧太夫を襲して、浮揚するような、世に時寵かしき所と見られる所に身を置くことができましたとは申しましても、いよいよ三十路の門見え始めた所で意を決し、数多の落籍かし手ござれども、これより先は専らひとり阿弥陀如来を仰ぎて浄土を志すと心に定めまして今日に至っております。爾来、祇園などの花街はもちろんのこと、世を遁れて、尼寺西寿寺の山門の内にて月日を経て参りました。

 したがって、祇園、ひいては同じく洛中の嶋原ほどまでの廓話でわたくしが知っておりますのも限りがございますもので。大体、わたくしが姐さんのあと同じく夕霧太夫を名のりました頃を最後に、そこから遡りまして、精々水揚げ前の禿として、まだ天神でございました先々代の夕霧太夫にお付きして彼方此方の宴席にお伴させて頂いていた時分くらいまでのことにとどまってしまいますでしょうか。それでもようございましたならば、謹んでお話させて頂こうと思います。以下はわたくしのような卑賤の者の昔語りとて、不興と思し召さずに、どうぞ御傾聴くださいませ。

 ああ、いざ申し上げようという今頃になりまして、わたくしの心の方がたいそう揺さ振られて参りました。今まで徒人にさえ話すこともないでおりましたのに、此度あなた様のような高貴な御仁を前にして慣れない昔語りをさせて頂きますは、はなはだ心許なく存じます。

 あとにも申しますが、思わず口走ってしまいましたのでここで先に申しますと、わたくしがいうところの姐さんとは先々代の夕霧太夫を指します。わたくしは禿として廓に入った頃より、何かと姐さんに附いて生きて参りました。その為に今日ここにも召されたのでござりましょう。

 もしかすると話の途中、権大納言様の御身にも思い当たりたまう節も出来しますやもしれません。どうか、お嫌な時にお勤めが回って参ったとはお思いにならずにお聞きください。

 ああ、そうでございます、しつこいとお思いやもしれませぬが、ここでもう一つだけ。どうか御辛抱を。

 ほんにお恥ずかしうございますが、落飾しました今でさえ先のように、廓での思い出話をしようという時には里言葉がつい零れ出てしまうもので、御気分を害されましたならば、失礼致しました。とは申しますものの、これから姐さん、つまり先々代の夕霧太夫とわたくしとの思い出を語れとのことでございますから、所々里言葉が出てしまい勝ちになりますものも、権大納言様におかれましては、何とか堪忍してお聞きくださいまし。嶋原から発しましたこの里言葉も、今では遠く江戸の吉原なる所でも用いられるようになっておると申しますから、何卒はしたないとはお思いになりませぬよう。

 先々代の夕霧太夫が栄耀栄華真っ盛りの時分に八坂のお社の大鳥居前で頓死してから、もう十余年近くになりますか。思えば歳月というものが過ぎゆくのも、たいそうお早うございます。

 姐さんがお亡くなりになりましたあの日はもう、わたくし達祇園の者は皆大童でございました。不幸中の幸いと申しますか、祇園からすぐ近くでしたので、朝まだきの内に姐さんの御亡骸を衆目に曝さないよう疾く引き取って参ったのです。

 瞬く間に夕霧太夫の死の報せは京洛を駈け巡り、弔いか野次馬か、兎に角数多の人が押し掛けて、あの日は午から晩までずっと祇園は上を下への大騒ぎでございました。

 何分、わたくしらがすぐさま姐さんを屋へと引き揚げてしまいましたので、人々は何も知る術がなく、太夫の死因をめぐり衢には蜚語が溢れ返りまして。

 あれから一般には、あの朝夕霧太夫は通例でありました八坂のお社への御参詣に際して、折柄の明け方の冷えにより元々患っていた心の臓をとうとう壊したといわれておりますでしょう。ですが、わたくしにはそうは思えないのです。そうだとしたならば、禿か誰かお付きの者もいるはずでございますし。これは、恐らくは春秋越国の傾国西施に当ててどなたかが考え出したものでございましょう。

 とにかく、夕霧太夫の生前照るように美しい風丰をそのままに、その亡骸だけが依然美しく脱け殻のようにしてお社の大鳥居前、石段を昇りおえてすぐなる甃の上に横たわっておったことだけは本当でございます。今となってはもはや、そのこと以外はすべて推測の域を出ぬものと申して宜しいでしょう。

あなた様は、では何が太夫を死なせたかとお尋ねになりますでしょうが、それはわたくしにも一向分かりかね、結局わたくしの推測となってしまうのでございます。

 一時巷では、夕霧太夫は誠のない色里の中でも初めて心から愛する人を見付け将来を契っていたのだが、かの人に裏切られて世を儚んだ末に毒を呷って自裁して果てたのだという流説もございましたが、だとすればそれは他ならぬ・・・あ、いや、今日わたくしがここに召されましたのは、このような顛末を申し上げる為にではござりませんで、失礼致しました。

 続きを。かようなことは御前にて改めて申すまでもございませんでしょうが、わたくし達のおりました祇園萬屋の夕霧太夫という名跡は、寛永に嶋原にて吉野太夫と並び称されて、新町へ遷ったあともますます栄えました夕霧太夫からの流れを汲んだお名前でございます。近頃大坂の竹本座かどこかが浄瑠璃で当時の夕霧太夫を書いたようで、浄瑠璃の当たり次第では再び夕霧の名が京大坂を出でて天下に知れ渡る日も近いかもしれません。

 しかし新町の太夫が御健在の時からわたくし達の時まで数十年くだりました頃には、夕霧の名は既に長きに渡り跡絶えたままでありまして、継ぐ者さえ現れないといった始末でございました。

 そこへ来てわたくしの姐さんが現れ、お公家様のような高貴な御方の揃ってお好みになる、典麗かつ嬋媛な容姿に加え、歌から舞踊、俳諧、管弦、書まで得意としないものがないというほどの煥発な才気で瞬く間にここ都の宴座敷を席捲なさるようになったのでございます。もっとも、その時分でもまだ姐さんは夕霧の高名を冠してはおりませんでしたが。これは疑いなく、姐さんが名ばかりでなく、実の芸を伴った御方であったということを実際に示す好い事例でありましょう。

 今でこそ祇園は嶋原に勝るとも劣らない色里となりましたが、当時少なくとも姉さんが出る前まではやはり嶋原の方が、揚屋の角屋や置屋の輪違屋など数多の絢爛な大廈高楼を構え、一度足を踏み入れれば百花繚乱の傾城が時寵いて咲き、花街としては栄えておるような雰囲気が慥かにございました。それでも、わたくし達のおりました祇園は皆傾城から揚屋、置屋まで、洛東とは申せ四条通によって洛中と繋がって、四条大橋の架かる鴨川を挟んで木屋町、河原町、東桐院の各大通とも接続するという祇園の好立地を頼み、洛中とは申せ今やわずかに鄙と思わるる位置にありました嶋原に対抗しようという心持ちをもっておりました。

 ですが何も、わたくしら種々の理由で祇園へと流れ到った者どもも、洛中嶋原輪違屋などに数多いる傾城に対し、自らが比肩できるといった自信がなくば、大人しく洛東に咲いているばかりでございましたでしょう。

 そこに、姐さんが適さか祇園の傾城としておりまして、天神から夕霧太夫とお上りになる代では、わたくしらお側に侍る者の僻目においてはもちろんのこと、夜毎遊興なしますお大尽の方々の平らかな目から見ても、不世出の芸妓である姐さんを擁する祇園にはいよいよ栄華の種が蒔かれているといった風情がこれも確かにございました。

 それも偏に、宴にて所望される殆どすべての芸を緻密に網羅しておりました姐さんの技巧と、それほどの手腕を有しながらも決してお客人及びわたくしら伴の者に対しても高慢に構えることのない姐さんの純粋素朴なお人柄がなしたものでございましょう。

 或る月卿は姐さんと和歌の贈答をして有頂天でいらっしゃり、或る雲客は姐さんの奏でます琴の調べを恍惚と聞こし召し、中には姐さんの面前にただましますだけで何も仰せにならないで延々お酒を聞こし召すだけのような御方もいらっしゃりました。

 そのようなお大尽様各々の御様子は、天神からずっと姐さんに附き、宴席では後方にて太棹を担当しておりましたわたくしの目にはとても面白う映りました。天神であった姐さん、のちの夕霧太夫を前にした殿方は、御身分の高低或いは御身代の多寡に拘わらず一様に幸せなお顔付きを示されておりました。

 わたくしら、姐さんを見習う雛達は悉皆、きっと何時かは姐さんのような芸妓になりたいと願って日々を送っていたのでございます。

 わたくしもそののち、一度は夕霧太夫の名を冠し、持て囃されて祇園に咲きましたけれども、姐さんの技芸をずっと間近で見てきましたので、心の奥では先代の夕霧太夫と比べて自らの至らなさを感じ、これが即ち祇園の凋落とまではゆかないものの、どこか後ろ目痛く思い続けていました。

 まぁわずかばかり話は変わりますが、わたくしのあとの、今様祇園に咲き誇る夕霧太夫はお噂に依りますと当世に相当華やいでいる御様子、姐さんを祇園の夕霧太夫の初代、わたくしを二代と考えますと、やはり何でも初代と三代目がようござりんす。あなた様は直截に姐さんを御覧になったことはないかもしれませんが、それほどに姐さん、後の先々代の夕霧太夫は卓越致しておりました。

 そして、ちょうどその頃でございましたか、今から十年ちょっと前のことにもなりますか、かような祇園の勃興ぶりに鑑みて、祇園の屋の主達仲間が談ずる寄合いで、跡絶えていた名代の芸妓夕霧太夫の名を姐さんが新たに冠するという話が持ち上がりました。

 取りも直さず、その年の内に姐さんは夕霧太夫と改めて、その披露に際しての祝賀する宴はまさに夢のごとく栄耀を極めておりました。

 彼らとしては、祇園に名物を作りまして、正式に王城にて嶋原と並び立つ花街祇園を明確に打ち出そうという魂胆だったようでございます。そして姐さんが襲したとはいえそれは数十年も前のいわば名跡でございまして、今や名ばかり知れ渡っておりました夕霧太夫が、いよいよ現し世に生まれるという目新しさもあり、彼らの思惑通り祇園は以降、前代未聞の殷賑ぶりを誇り続けたのでございます。

 わたくし達はそのような屋主達の思惑なぞ知る由もなく、ただ敬愛する姐さんがあの、寛永年間の新町扇屋の名妓夕霧太夫に匹敵するのだということが世間に認知されたような気がして、無邪気に雀躍しておりました。

 姐さんが夕霧太夫を冠してから数年は、まさに世は姐さんの為だけにあるのだと申すことができるほど、祇園萬屋夕霧太夫は京一番の芸妓として時代に寵されておりました。この間には、京中の財の少なくとも半分は夕霧太夫へと献ぜられたと申しても決して大袈裟ではございませんでしょう。新造となりましたわたくしも、依然姐さんの後ろに控え、楽器を打ち鳴らし、時にはご一緒に舞わせて頂くという光栄にも与りました。

 夕霧全盛の姐さんではございましたが、それ以前とどこか変わったかと申しますと、まったくそのようなこともなく、わたくしら後輩の者どもへは往時と同じ温厚柔和に接してくれておりました。

 わたくしなぞ、水揚げの時、いや、今は尼となりました者が自らの水揚げのことを申しますことは誠に没義道ではござりますが、何卒ここは二人ばかりの席にてお許しくださいませ。

 これはもはやまったくの不運としか申し上げようもございませんが、わたくしの水揚げのお相手は、優な心有る堂上方の御仁ではなく、見るからに、そして現に下世話粗暴のお士だったのでございます。今でこそこれが身の不運であったとは分かりますが、その時のわたくしは、まだ何も弁えてはございませんで、ただただ一夜が長く痛く苦しかったということしか感じませんでした。無論、感懐を正直にかのお士に示すようなことは絶対に許されぬことでございましたから、わたくしはお士の眠る明け方になってようやくひとり声を潜めて泣いておりました。

 それからわたくしの廓での夜で、あれより嫌だったものは最後までございませんでした。

 そんな或る日、午から沈み込んでいるわたくしの様子を具に御覧じ憐憫の情を催されたのでございましょう、姐さんがわたくしに、御自分の持っていらっしゃった象牙に蒔絵を施した笄と、銀を貼りました斑の鼈甲の山高櫛をくだすったのでございます。

 わたくしはもう、何とお礼を申し上げたらよいか、本当に嬉しくて、それからはその笄と櫛をしているだけで、丸で姐さんがわたくしを優しく麗しく守ってくれておりますようで、世に恐れるべきものは悉く消え去ってしまいました。わたくしのこの喜びはあなた様にはなかなかお分かり頂けないかもしれませんが、どうかわたくしのこの口ぶりから推し量ってくんなまし。

 かくて祇園の夕霧太夫が大輪のお優しい華を咲かせておりましたちょうどその時分、元号にすれば今は神上がりたもうた東山の帝の元禄の末でございますか、わたくしらの祇園萬屋へと、山科の僻より足繁くお通いになる一人のお大尽がいらっしゃいました。わたくしなぞもたいそう恩恵に与りました次第でございまして。

 彼の名は、当世にてはもはやここ瑞穂の国の津々浦々まで轟いております大石内蔵助様とおっしゃりました。

 思えば、お討入りからもう十年近く経ちますか。頃は先の姐さんの死より一年足らず早いだけとはいえ、やはりわたくしはどうしても慕っておりました姐さんが可哀相で、大石様を赦し申し上げることができませぬ。それは今でもでございます。

 大石様ら赤穂の御方々は、御自身らの所為により、衢にては忠君の烈士として名を馳せましたけれども、その陰でわたくしらは、恐らくはあれほどの名妓はもう二度とお目に掛かることはできないであろうと思われる御方を喪ってしまいました。無論、お二人のご関係が世間に詳らかではない以上、姐さんの死が世上において大石様らと同等の御嘉賞をもって見られ且つ追悼されることがありませぬのも、仕方のないことなのではございますが。

 大石様は播州赤穂の御家老職を奉じていらっしゃったとはいえ、祇園のわたくしらの許へお通いになっていた頃は既に浪士のお身の上、一体全体どこからそんな千金を得ていらっしゃったのでございましょう、わたくしら、平生より贅を極めるのが仕事のような浮かれた花街の者どもからも、その御遊興の豪奢な様子から〝うき様〟〝うき様〟と呼ばれ、まことに評判でございました。それに、赤穂の御浪士仲間と思しき方々と連れ立っての御遊興、いやそれは決して悪いことではございませんが、わたくしらも無礼にも聊か大石様の御人品を疑い申し上げた時期もございました。

 そして遂には姐さん、それまでは専ら月卿雲客の御方々の翫びものでございました、時は盛りの夕霧太夫をも宴席に揚げるようにおなりになったのでございます。それも一度や二度ではございません。わたくしが同席したり、或いは人伝に聞いただけでも、その回数は両手では算え切れません。

 果たして一国の御家老職に坐した御方が皆、さように莫大な金銀をお持ちになっていらっしゃるのかどうかはわたくしにも判然と致しませんが、大石様に限っては〝うき様〟の名に恥じぬ御遊興を続けていらっしゃいました。

 まぁ時期を同じくして大石様は伏見撞木町の色里へもいらっしゃっていたようでございますが、いかんせんあのように廉い里はみな野暮揃い、きっと大石様のお心は真には繋ぎ止めておらなかったでしょう。その点、わたくしら祇園の夕霧太夫には大石様も盲のように魅せられましたようで、宴の席では自作の地唄「里げしき」を酔いに任せて漫ろ口ずさみ、夕霧太夫の意を引きたいが為だけの御散財もいよいよ嵩じてゆく一方でございました。

 ああ、何故それまで燦めくような雲居の御方々と数多接しておりました姐さんが、その熟達した心を、選りに選ってお士様に明け渡しなさったのかは、往時ですら一向に分かりませんで、今ではもう知る端緒だにございませんでしょう。但し、巷間の根拠もなき邪推よりかは、わたくしのような姐さんと直に交わっておりました者の揣摩の方が、いかばかりか信が置けるのではないでしょうか。

 まぁそれも姐さん当人からしましたら心外なことも多々ございましょうが。

 あなた様がここ今出川までわたくしを召したのも、今日日世間にて過剰に騒がれる大石様に関してのお上の御一存が有らせられる為と存じますので、わたくしの旧懐と悔恨の語りは最後まで全うさせて頂いて差し支えございませんかと。

 ・・・・・・左様でございますか、はい、ありがとうございます。では続いて先に進ませて頂くことと致します。

 さて、大石様が山科よりお通いになっていた元禄の末には、姐さん、つまり先々代の夕霧太夫は、わたくしらの傍目にもそれまで窺ったことのないような満ち足りたお顔が見て取れました。

 夜分、揚屋から置屋へと、〝うき様〟の御到着とともにお声が掛けられますと、姐さんはそれこそ表立って顕すことはございませんでしたけれども、それはまぁただでさえ眉目麗しいお顔の上に、たとえれば待ち侘びた海路の日和が遂に到来した暁のような、浮世離れした艶やかな歓びの色を自然と添えておりました。今に至ってはもうそれをあなた様に実際にお見せすることができないことが口惜しう思うぐらいでございます。

 ではどうしてたかだかお士様の内で高貴なだけの御方に、天下の姐さんがこうまでと申しますと、これもまったくのわたくしの勘であることを断っておきますが、お公家様とお士様の御心延えの違いに起因したのではないかと、わたくし勝手ながら思うております。

 もちろん、わたくしの先の経験から申せば、お士様のお相手はお嫌でございますが、それは卑俗なお士でのこと、姐さんと大石様のごとき双方既に貴き御身同士でありますれば、そこではもはや公と武の御相違はその新味で心憎い所だけが際立つものなのでございましょう。

 あなた様に代表されます、絵に描きましたような輝かしきお公家様の、気高く優しいお心も当然素晴らしいのではございますが、大石様におかれましては、あなた様には敵いませんが一応の貴顕に加え、お士様に特有の直情径行な御性質がございました。

 そんなような所が、ずっと月卿雲客の御方々の柔らかな翫びものでございました夕霧太夫の赤心を捉えて離さなかったのではありますまいか。たといそれが真であっても、或いは偽りであったとしましても。

単にわたくしの一私見としては、そう思われてならないのでございます。

 しかしながらあなた様をはじめ、お上が御遺憾にお思いになっていらっしゃる通り、大石様はそこからたった一年にも満たない内に祇園のお大尽から一転、巷の人々曰く義士として一世一代の行いに出なすった。花街でわたくしらには〝うき様〟〝うき様〟と呼ばれての大遊興、それだけではございません、姐さんとのあのようなお付き合いまでなさっておりましたのに・・・。それらを突然、何の言置きもなくうち置いてでございます。

 わたくしらとの宴席は殿方であらば皆浮かれることは禁じ得ませんでしょうから、さような大事を前にしても愉快な御様子にお変わりがないのは仕方ありません。ですが姐さんとの語らいに際しては、既にすぐ目前に迫っております義挙を心得ながら、あえて噯にも出さずに甘言ばかりを弄していらっしゃったなら・・・いくら誠のない色里の中とはいえ、その苦しい中で経年揉まれながらも根気強く堪え忍び、とうとう大輪の花を咲かせました姐さんの、元来純真なお心を、余りにも乱暴に蹂躙なさっているではございませんか。

 思えば思うほど無念で・・・口惜しうございます。

 ああ、所詮誠なぞどこを捜しても有るべうもなき廓での話などと、冷酷なことはどうかお思いにならないでくださいまし。

 祇園の最高位夕霧太夫といえども、どうして人の心を持っていないなどというようなことがございましょう。畏れ多くも、あなた様と姐さん、そしてわたくしは、人であるという一点だけは同じうしておるのございますから、その心もお察しになって頂ければ幸いでございます。

 せっかく、嘘の海の底より幽かに輝く真実の玉を見付け出しなさったかと思われた姐さんでございましたが、それがすぐさま脆くも摧かれますとは、当人ばかりかわちきらでさえ思いの寄らなかったことでございまして。今や周知の事実でございます大石様らのあの挙によって、姐さんの澄んだ眸に似た清らかなお心は私かに、いかほど大きく深く瑕付けられましたでしょうか。

 先刻申し上げました水揚げの出来事にも示されます通り、姐さんの、誰彼にも等しくお優しい性格もございましたから、大石様はきっと当時の自らの不遇や覚束ない将来を、姐さんの慰めをお求めになって嘆いたりしなさったことでしょう。さすれば姐さんのことでございます、憐れみ、更には愛おしく思う心が沸々と出来して、遂には何時の間にかお相手に心を許してしまわれたのかもしれません。あなた様のような高貴なお公家様には決して窺い申し上げることもできませぬような弱さや打ち拉がれた風情なぞは、大石様には存分にございまして、慣れぬ姐さんのお心には直裁に訴え掛けて参ったはずでございます。

 あの時わたくしが無礼に当たる危険を冒してでも諫めるようなことができていましたならばと思うと、本当に悔やまれる一方でございます。まぁ悔やんでも仕方がありません、悔やむだけならばあれからもはやわたくしは何度致したことでしょうか。そして致し方がないと悟ってもうかなり時を経ておりますのに、どうしてもまたこのような考えは起こって参りますからいけません。

 そして大石様は元禄十五年の秋口に祇園へといらっしゃり、通例のごとく遊興をなしましたのを最後に、以降はたりと御御足は跡絶えたのでございます。あとになって分かったことには、大石様は同じ年の神無月には義挙御遂行の目途を有して江戸へと御下向なされていたようで。わたくしらなぞには当然その旨をおっしゃることもないことということは弁えてございますが、少々虚しく感じてしまいました。そういわれてみれば、あの時の最後のお遊びの様は、前とは少しばかり異なってどこか、惜別を胡麻化しますような、蕩尽にも似た勢いでございました。

 大石様はわたくしらには何の御事情もおっしゃりませんでしたが、これは多分にわたくしの希みをも含んでございますけれども、夕霧太夫の姐さんには前もって何か、まぁまさか義挙についてはおっしゃりませんでしょうが、せめて哀別の辞くらいは諄々と説きなさっておられれば、と思います。まぁしかしそれでも依然姐さんのお気持ちは察するに余りありますけれども。

 ともあれ、それが夕霧太夫と大石様の今生の別れと相成ったのでございます。

 そしてその年の暮れの内に、吉良様のお屋敷へのお討入りの報せが京へも到りまして、明くる年の春如月にはとうとう大石様ら義士四十六人揃って御切腹の由、京においても驚天動地の報せとして伝わりました。

 そこから一年足らずでの八坂のお社における姐さんの怪死のこともございますから、あなた様におかれましては、大石様の死の報せからあとの姐さんの御様子を、さぞ悲しみに明け暮れて陰々滅々たるものだったのではないかとお思いでございましょう。

 しかしながら、そのようなことは決してないのでございます。姐さんは夕霧太夫として、大石様の死ののちも何お変わりなく他の数多のお客人様と接しておりました。そしてそれが花街の頂に君臨する傾城の在るべき姿なのでございましょう。それはもう、わたくしらですら不思議に思ってしまうほど、姐さんは悲しむことも嘆くこともなさりませんでした。却ってわたくしら下の者どもの方が〝うき様〟及びその御朋輩の死をたいそう騒ぎ立てしまい、動揺が尾を引いたぐらいでございまして。

 姐さんのその麗しくも自若とした御風情を表す例として、そういえば〝うき様〟がお亡くなりになってあと、一度だけこんなことがございました。

 それは或る西国のお殿様が江戸より御国許へお帰りになる御道中、京に到りて、都巡りの夜に祇園へとお運びになりました時のこと。かのお殿様は赭ら顔に、でっぷりとお肥りになって、お顔は灯影にもてかてかと光っておるような御方でありんした。そして、平生は隠し果せておられるのでしょうが、宴と御酒が進むにつれていよいよその卑しく嫉妬深い御性質を存分に姐さんへ向けて押し付けて来なすったのです。その御方は、どこでお聞きになりましたのか、宴の途中で姐さんと大石内蔵助様の御交遊をわざと嫌らしく詰ったのでございます。

 すると姐さんは、ただの女ならば顔を火照らせて終わる所でございましたが、そこは夕霧太夫、相手が息を呑むほどの科を作って嫣然と、当意即妙のお歌を詠んで往なしたのでございます。それにはわたくしらはもちろんのこと、詰った本人のお殿様も天晴れと思し召したようで、事態は瞬く間に収束致しました。

 まぁ今思えば、姐さんはあれほど完璧にお心を外に顕さなかった分、余計に、本当の内なるお心には人知れず悲傷が、都の春に降る牡丹雪のように纏わり付いてなお歇まずにおったのでありましょう。当時のわたくしらはただ、姐さんの外なる御様子を気丈と捉えるばかりで、深く推し量ってお慰めすることはできませんでした。

 姐さんはそのまま何らお変わりなく月日をお過ごしになり、春過ぎて夏となり、夏終わり秋が去り、秋散り冬が訪れた或る日の朝まだき、先述のごとくひとりお逝きなさった・・・。それはちょうど、天神と相成っておりましたわたくしが或る夜あなた様を存じ上げました頃と砌を同じくしておりましたかと。

 あとは、先程申しました通りの一連の顛末があっただけでございます。

 そして、もはやこれは姐さんというよりもわたくしの一身に纏わるものでございますが、姐さんの喪も明けない内に祇園の花街では主達の寄合いが再度持たれ、その席でわたくしが新たに夕霧太夫の名を継ぐことに定められたということでございます。もっともわたくしが正式に夕霧太夫を名のりましたのは、きちんと姐さんの喪が明けたあとでございましたが。

 このような所にも、わたくしは浮世の虚しさ、味気なさをつくづく感じました。姐さんの死をめぐる顛末や、続くわたくしの夕霧太夫への経緯などが、先年のわたくしの発心に少なからず影響を及ぼしておりますことは紛れもない事実でございます。

 いで、ここから先はただ単にわたくしについてのお話になってしまいますので、あなた様にとっては御用でないものでございましょう。

 先々代夕霧太夫に関しまして、わたくしが存じ上げているのは以上でございます。今日は貴重なお時間を割いて、わたくしのような者の他愛もない話を御傾聴頂き、誠にありがとうございました。あなた様が今日このようなお話を聞こし召したいとお思いになりました経緯や理由は、あなた様のお口からおっしゃりますようなことはなさらなくとも、そこはわたくしが自ら悟るべきことなのでございましょう。

 大石様ら赤穂の御浪士の挙と、続く先々代の夕霧太夫の死は、やはり今でも巷間では恰好のお噂の種でありましょう。ただでさえ人々の中ではそのいずれの方も依然おおきな人気を博しておりまして、いつ浄瑠璃や講釈の題として新たに取られるやもしれません。

 そうなれば、お上にとりましてはなかなか御厄介な、天下の政に叛く心や奢侈に浮かれる心を民の間に鼓吹するようなことにもなりかねません。さぞや御都合が悪うございましょう。

 分かっております、わたくしとしてはこれを最後として、もう姐さんのことを口外することも決して有るまいと思うておりますから、どうぞ御安心を。かつての仲ではございませんか、あなた様がわたくしを箝口なさるまでもございません。何と申しましても昔から、わたくしは常にあなた様の御意のままにあったではございませんか。

 ですがただ一つだけ、どうか姐さんとわたくしのこと、つまり二人の夕霧太夫のことを、お忘れにならないでおってくださいまし。それだけで、一度は紅灯の巷に翫ばれましたわたくしらは救われるのでございます。

 わたくしも、祇園で見聞しました物事は畢命忘れることはないでしょうから。


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