第4章 「去りてまた遭う」 第3話 生と死を生きる


 自分でも、毎日が食べたか飲んだか、わからない。起きたのか寝たままだったのか。このままで死ぬのだろうか。あっちへ行けるのなら全然悪くないように思える。


 それにしても、私はまた夫を許す理由をみつけてしまったのだろうか。悪意に操られていたと。耄碌した頭から生まれた妄想に違いないあの存在たち、かれらの力をもう信用してしまったとでも。

 今日までの科学の考え方に従えば、物理的化学的にみて生命現象はいわば機械的に生成すると説明できるだろう。そこに偶然の運不運はあるが、とりあえず有機体が死滅すると、あとにはその生化学的物質が灰となって残る。エネルギーは放出されてまた別の物質に化するだろう。頭脳が蓄えた記憶、思い、知識、すべて基盤を失う。それらがばらばらなエネルギーとなっては、もうどうしようもないことだろう。そこに摩訶不思議な神と魂を持ち出す以外には。つまり存在の永続性を。コンタクトの永続性を。


 どこに取り付く島もないような老いた脳内で、私が捏ね上げたスピリチュアルな世界が、その全貌と働きが理解されてきたような気がする。ここではその真偽は問題ではなく、それでこの老いた脳が、幼い日ふるさとで父母を信頼し愛したその時のように、満足し安心できればそれでいいのだ。いやそれ以上の大きな愛の輪を信じられたらそれに超したことはない。悪さえも本源的なものではないとして。


「でもねえ、私や夫への恨みを持ち続けた人がいるとして」

 私が頭を傾けると、翠がそこにいて香しい楠のような薫りをふりまいた。

「実相完全円満」

 麗しい音波があたりに広がった。五人がそろって歌うかのように口を開け閉めしている。

「でもお姉さんにも非があったんでしょう? 恨まれるような?」

 礼がそう言いながら、私の人差し指をぎゅっと握っている。孫のゆうりがよくそんな風に握った。

「確かに。私だって人を平気で苦しめた、あるいは苦しんでいると知っているのにほっておいた。恨まれて当たり前だわね」


 腰の辺りの服に、薫と桂がしがみついている。息子たちがそんな風にまとわりついていた。子供の純な愛情というものの痛ましさが胸をつらぬいた。彼らは生存のために親を愛し必要とする、たとえそんな理由があるにせよ、美しく悲しい純情である。私もそんな風に自分の両親を愛し信じて、たよって生きていたのだ。


 すると、恐らく昔からありながら、今の世でも隠されたままでいる中にも、たまたま報道されるにいたった子供の虐待事件についての苦痛が私をとりこにしそうになった。 

「でも、独裁者やサディストや、それは本源的な悪でしょうに」

 五人の弟妹は、複雑な音波をばらまきながら、くるくる回転している。かれらとてそんな偶然か必然かわかりもしないことはくるくるするしかないのらしい。 

 現に彼らが何故生まれなかったのか、そこから疑問は生じる。壮大なシステムの当然の結果として、なのかあるいは、そのシステムは不完全なものとしてすでに最高権力者から見捨てられてでもいるのだろうか。そのほうがつじつまが合うと私には見えて仕方がない。

「かもしれない、ちがうかもしれない」

「でもわからない、わからないなら」

「システムの意図を探すのじゃなく、システムをすみずみまで知って、うまく使う知恵だね」

「必要なのはそれ、システムをうまく使うのが人間の頭脳に与えられた課題」

「生と死、心の安定の人間的問題はお姉さんにはもう解けたでしょ」

「死は、生をもっと拡大してくれるんでしょ、そうらしいよね」

「システムを理解し、保管し万全に働くようにって、人間の課題」

「はあ、あんたたち五人でそう言うのね。そうかもね、でもまだまだ遠いじゃない。もう文明発祥から五千年は経っているのに、進歩がないのじゃない」


 五人は声を揃え、同じ色の波長に染まりながら歌った。

「人間、がんばれ、もっと追求。社会の悪を苦しみを無くすための方途を研究するんだよ」

「かみさまに頼るんじゃなくてね、そのための知性なんだから理想の地球を作るのが役目だよ」

「そうなの!! 確かに知識人ほどもう人間を諦めているところがあるわねえ。そこを必死で各自が考えて、それを議論し共有しなくてはね。あまりにひどい今の地球。欠点を指摘し、改善し合う方法を開発するべきだよね。私も諦めすぎていた。夫とも、もう話さない、勝手にしなさい、とすぐに諦めた、だって水掛け論なんだもの。ここをクリアするディベートの方法があるのだろうか」


 私はしばらく考え込む。この無茶苦茶な世界をすっきりと整理し、切り捨てたり足したりして、公益を旨とする人間関係、また情緒も充たされる社会、そんな満足のいく、というか努力のむくわれる世界を、どうしたら論理的にまとめあげていけるのだろうか。少なくとも私には無理だ、とてもその規模に追いつけない。ひとりで出来ることでもない。


 ほんのこの前、ある天才について聞いたことがある。彼は(これが彼女だったら面白いのに)物事を見たとき、すぐにその骨組みと仕組み、細かな点の美醜、正否まで認識でき、かつそれを補正することができる。しかも数式が浮かんでくるというのだ。習ってもいない公式が抽出されてくる。こんな人物と義務教育もやっと終えられたような集中力のない、あるいはまずい親に育てられた人間とが、さてどんなディベートができるというのだろう。あるいはわがままいっぱいに育ち、オシャレとファッションと結婚しか頭にない人物と。あるいは日本であれ、イスラムであれ、アジアであれ伝統的な社会の枠組みでうまく生きることが重大であるような人間と。

 かなり無理なように見える。蟻と象が結婚するようなものだ。


 しかし、もし、こうしたらこんなに誰もが満足できる社会になりますよ、とうまく宣伝したら、ちょうどヒトラーのように、国中が挙げて賛成するかもしれない、洗脳されてであれ。それにしても、そんな試みにはものすごい年月がかかり、かつ担当者も何世代にもわたり熟慮を重ね、構築し、完成させねばならないだろうから、言っていいかどうかは別として、優生学ということを考えねばならないだろう。この二人には子供を諦めてもらうとか。あるいは、ウエイターにぴったりでそこに喜びを感じるような人種をつくるとか、あながち不可能ではないだろう。言うべきではないだろうが。


「お姉さんたら、ご苦労様、ひとりでそんなに考え込んで」

「もう十分だよ、世の人には知られなくてもわかっているんだよ」

「ほら、ちょっとお父さんとそれから長男とゆっくり話したら」

「いつも夢見ていたんでしょ。いつでも話せるんだよ」

「お姉さんがその能力と、環境の許す限りのことをやってきたこと、認めてくれるよ」

「愚かだから仕方ないって?」


 まだ慣れていない、私が彼らと生活していることに。怒りも恨みも呪いも苦痛も悲哀も、次第に洗い清められていくのかもしれない。わからないことではあるが、その可能性の方を信じたほうが良さそうだ。きっと効率的だ。


 私は、頭の中がいっそう激しく回転するのに任せる。

 もちろんまっすぐ歩けてはいないのだろう。手をさしのべて、微かな空気の圧力に触れ、挨拶しながら嬉しさが莫大であるのを感じる。

 私の両脚の筋肉はまだ剛い。心臓は正しく血液を末端まで送る。まだ肉体は死なない。そのままで彼らと共に無限の色と音と動きを生きるのだ。


           了

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希少率0、8%木原東子の思惑全集 巻6 生御霊語り 「小夜子の憂き世」「姥拾い」「耄にして碌」「去りてまた遭う」 @touten

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