第4章 「去りてまた遭う」 第2話 迷妄2
しかし、あの幻は何を意味していたのか。誰だ。あの女は。復讐といっていた。夫に念を送って操り、私を破滅させようとした。夫をも? ということは夫が捨てた女たちのひとりか。その集団か。
集団、、、待ってよ、そうだあの娘、彼の影響でインドのカルトに入団してそこで指導者にまでなったというあの娘。結婚後にも電話してきて、夫をそれに誘っていた。彼女ならそんなことも可能かもしれない。
夫の自慢話をうけたまわって聴くのはむしろ良い方だった。
多分彼が二十歳頃、高校生ほどの木下梓と知り合った。
彼好みの黒髪の長い、個性的な顔立ちをしていたという。梓は処女だったので、彼は徐々に処女膜を指で押し広げていき、出血などということにならないよう気を使って時をかけた。
性的な関係はうまくスタートした。年齢の差もあったので、梓が彼に依存するようになったのも当然であり、結婚へと押し流されていきそうにもなっていた。しかし当時の彼には結婚などは荷が重かった。
ただ一度の好奇心から、彼はなにかのドラッグを手に入れた。現実的な彼は普通そんなものには近づかないのだが、すべての条件が整ったのだろう。
ともかくセックスにおける興奮の高さといったら形容できないほどだったという。ただ、やっと薬効が切れた時の空虚感もまた形容できないほど嫌悪すべきものだったという。
ところが、梓はすっかりそれを忘れられなくなった。何度も彼にせがんだが、頑として拒絶された。
そうするうちに亀裂が大きくなって行き、彼が別れを告げた。ヒッピー時代の潮流というのだろうか、梓はいつのまにかインドに渡り、麻薬をつかったセックスカルトの一員となっていた。黄色の衣服を着た一団である。教祖自身はやがてアメリカに逃亡して残されたのは大量の廃人たちであった。しかし梓は何故かそれを乗り越え、自身ある種の指導者となって、脳内麻薬による人間解放、という説を広めていたのだった。
梓が意気揚々として、虎視眈々として、かってのセックスの教師に誘いの電話をしたとき、驚くべきことに彼が結婚して子供までいると聞く。あるいはその時期すでに梓の生活が狂い始めていたのかもしれない。尋常でなくなっていたのかもしれない。
そんな成り行きから、梓がなにかの秘法をつかって、夫を狙い撃ちにした可能性は他の誰よりもある。夫の様子には、結婚の最初、それ以後ほどの謎はなく、真面目で理性的で現実主義、清潔好き、完璧主義というポジティブな状態にとどまっていたのだから。
あ、そう言えば。もうひとつの存在が思い出された。私の過去から私を恨んでいるかもしれない人物が突然思い出された。それも同じく宗教がらみである。そうでなくては誰がそこまで夫を変化させ、私を苦しめる魔法のような力を使えるだろう。
立木崇はいつの間にか、私の近くに居て、非常に真面目に、自分は世を動かすような大きなことをしたい、一緒に進もうと議論をふっかけてくる男であった。
私に恋人が出来たとき、君はピンクのセーターでひっかけたのだ、と私を非難した。その意味すらわからない私であったのだ。
数年後、東京に消えていた崇がまたあらわれた。以前とはまったく感じが違う。良い感じに変わっていた。当時若者をその言葉がどことなく引き付けていたのだ。もっと正しいものが、もっと本物が世の中にあるはずだと思わせたのだ。超理論研究会というその言葉が。
主に学生をターゲットにしたのは、後世の麻原彰晃と同じだったが、そこにも真面目故に誘われてきた若者たちが共同生活をしていた。私はまさにそんなものに好奇心をかきたてられ、崇について行った。何故だろう、普通でない別の有意義な生き方を探していたからだ。
しかもそこは、男女一緒に暮らしながら男女関係絶対禁止の世界であった。交際は愚か、心で恋することも許されなかったのだ。今から思えばよくぞ無事に戻ってこられたと思うが、当時はなにか危険があるとも思わなかった。それはキリスト教の一派であり、聖書を研究し現実世界へ対応するための教義を習うところであったのだ。
結局、私は俗物過ぎた。あるいは聖書と現実をあまりに摺り合わせようとするところを納得しがたかった。ふと我に返って連絡を絶った。それは正しかったと思う。
しかし、崇はどうだったか。そこの教義によれば、条件が整えば、結婚は許され純潔をお互いに捧げ合い、永遠に愛し合う男女となる。それはしかし簡単な過程ではなかった。もし崇がそれを全う出来なかったら、八つ当たりで私を呪ったかもしれない。影は女だったので、崇に関わる存在と思われる。それどころか、そうだ、そもそもそこを逃げ出した私には救いはなく、悪魔の手に堕ちるしかないと言われていた。
ずいぶんと愚かしい収支計算ではある。
そう考えると、私にはもっとひどい人生もありえたわけだ。
そう考えると、また同じ伝だが、もっとひどい人生から、だれか私を必死で助けることが出来た人も居るはずだ。
そう言えば、そうだやはりあれか。三たび私のもうろくした頭脳が光った。
宗教関係というなら、神道系の古来の宗派、天理教、大本教の系譜にいくつかの小団体があり、父は老年になってからそこへたどり着いていた。
そこでは真の自分、実相という概念を中心にしていた。プラトンのイデア論を拝借したかと見える。
曰く、この世界は影に過ぎない、歪んでいる。しかしそれはただの影であり、その実像は黄金の輝きと鋼鉄の強さをそなえた完璧な存在である。神そのものである。無数の神がおわします。燦然たる鉄壁の実相の世界を実観すれば、即座にそれが顕現する。
身は泥まみれ、傷だらけであってもたいしたことではない。実相は光り輝いたままであり、心が揺らがなければ即実相がこの世に顕現することになるはずだ。
私もその祈りの形式をまねた。苦しくてたまらずまねて自分に言い聞かせ、唱えた。 夫は悪人ではない、私を苦しめてもいない。その実相は光り輝いている、云々。
そうだったなあ、それによって私が生き延びてきたことを最近は、耄碌して忘れていた。それで彼も、あと五年と何度も言われながら生き延びていたのだろう。何という矛盾だ。
あ、そうだ、夫の親族も彼の幸せを祈っていただろう。そこにどんな強力な祈り手がいたかはつまびらかではないが。ともかく親族には戦死や餓死が多かった。
そして、かの水子たち、かれらの実相も父同様にあそこに永代供養してある。
そうだった。あの子たちはこの秘跡を私に教えようとやってきたのか。いつもいたのだが、初めて私の脳波に関与してきたのだ。
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