第4章 「去りてまた遭う」 第2話 迷妄1
翌朝は、普通の朝だった。ベッドから降りて、書斎に行き、しかし思い立って珈琲を作りに行く。
とうとう、人生でたったの一度も私のために珈琲を作ってくれる人は居なかったなあ、といまさらのように嘆きつつ。
ドリップする雫をみつめていると、亡夫の言動がますます謎で、不可解で自虐的とも思われてくる。
死ぬ間際には、これまで見たこともないほど立派であった。死をしっかりと見つめながら、刻々と私に説明してくれた。自分という存在がじわじわと薄まって行き、宇宙の彼方まで薄まって行くのだ、と。何度も呼吸困難に陥り、また戻ってきたのだが、ついにもう戻ってこなかった。
その時には、私は本気で悲しんだ。本当はこんなに立派な夫であったのにそれを見通すことが出来なかったと自分を責め、失った尊い者を惜しんだ。
しかし、日常的に思い出すのはどうしても理解不能、不条理そのものの彼の言動であった。
お前を 愛している、絶対に分かれたくない、というのがいくらか本当であるのなら、なぜあそこまで私が嫌うようなことばかりしでくれたのだろう、私にすがっていながら、私をいつも突き飛ばした、ますます激しく。
私が耐えられなくなって去るのを待っているのかとも思った。なぜもっと近づいて愛を感じさせてくれなかったのだろう。
ちがう、結局は愛はなかった、別の理由があったのだ、おそらく私を苦しめること。苦しめがいがあったことだろう。なぜなら私は本当に強かった。ある意味びくともせずに、どんどん彼から離れていっただけだ。決して壊れなかった。
私を壊そうとして、夫は早くから無茶をやった。健康に悪いことが好きで。健康を案じることを馬鹿にして。それが功を奏して早くから廃人になった。
寝たきりならまだしも、ますます無茶を始めた。しかも私にそれを手伝わせて。そうして私をもっと束縛できるために。
あるいは、私の一人暮らしの母を近くに呼び寄せようとしきりに提案した。もちろん、私はすぐに感づいた、きっと私をもっと束縛し自由を奪うためだと。母の看病のために家を留守にすることなどできないように。
しかし、実際はもっと巧妙だった。私が母と過ごす時間を、夫は自分に不利な時間として私を責める理由とした。頭のいいやつだった。
ただそんなことに使ってばかりで、才能をムダにした。それも私には腹立たしいことだった。せめて自分の仕事くらいきちんと果たしてくれたらまだ尊敬する余地が生じたことだろう。
そのすべての合間に、彼は他の人を批判し罵り、軽蔑し、悪口雑言をはいた。私の前で。私に向かって。そのせいで、息子は対人恐怖症になったほどだ。父親の描く世間の様子は悪意に満ちていた、迫害と危険と嘘にみちていた。
その全ての間に、彼は潔癖性だった。
自分の手足を洗うことのみに時間をかけ、手と爪の細胞を破壊して、つまりなにひとつ手を使えなくなった。それが何を意味するか、私の仕事が増えたのである。片付けることも許されない、つまり彼の回りはおのずとゴミ屋敷になっていく。
その中に通り道を確保し、少しの自分の場所を見つけて料理と洗濯をした。
さらに彼は経済的にも私を苦しめた。週の半分をパートにでかける私を彼は許した。それはしてよいのだった。そのお金で私はいま得ている個人年金を払った。それはしてよいのだった。
かれが会社からかすめ取るお金は、巧妙に、私が触れないように貯蓄され、おまけに遺書には、私には当座の生活費としてのみ使ってよいと書かれてある。
私が待っていたのは自由になる日であった。
あと五年、あと五年と医者は宣告したがそのたびにクリアして行った。
自由を得たとき、私はもう八十歳になろうとしていた。
だれもが離婚を勧めた。しかしいわゆる家庭内暴力の犠牲者である私にはとても恐ろしくてできるものではなかった。きっとストーカー殺人となるだろうと信じていた。それより目の前で観察している方がましだ。
夫の私への悪行を述べ終わることはとても出来ない。彼は女装を好み、私に性を強制した。長男をむざむざ自死させた。
もし、閻魔大王がいて、私に尋ねたら答えよう。
よく我慢しました。怖かったので自分を強く保って我慢しました。彼は私を壊すことに全力を用い、私はその中でも決して自分の出来ることを諦めませんでした。たとえそれが最も短い俳句という文芸であれ、スケッチという手早い業であれ。メールだけの友情であれ。
その間に、楽しい旅行など一度もなく、願っていた文化的社会参加もしなかった。そうです、彼が成功したのは私の出来たはずのことを妨げたこと、今や私は自分が何者でありえたのかまったくわからない、のこりの滓で生きているのですから。これこそ彼の成し遂げたことです。
閻魔大王様、なぜでしょうか。
こんな関係を何十年も耐えたのは愚かだったのでしょうか。
それとも私に何か利得があったのでしょうか。私は彼のせいにして自分の能力のなさ、あるいは家事を嫌いだということを見ないことにしたとでも。彼を怠ける理由にしたとでも。
そして彼も私を怠ける理由にしたとでも。
地獄、生き地獄、一種の。本当のではないけれども。愚かさとしか言いようがない。父が嘆くはずだ。それでもたくさんの愛が私を支えてくれていたのだ、それは確かだ。
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