第4章 「去りてまた遭う」 第1話 幼心3 


 突然、不気味な轟を聞いた。わたしの家の無限の広間も一瞬ざわめいた。


 はるか彼方、本当はここに属さないものの影がふたつ、ぼんやりとしかし禍々しく揺らいでいた。


 ひとつは私の亡き夫だ。四十九日もたっていない。かれは首根っこをつかまれて、ゆらゆらしている。掴んでいるのは小さな女の姿だが、すぐに感じた。怒りと恨みにうん脹れて巨大化している。その手が夫の影を動かしていた。私に向かって口を動かしているようだった。


「どうだ、あんたの人生は滅茶苦茶だっただろう、この男のおかげで。こいつの人生もガラクタだったろう。そのはずさ、あたしがこいつに無念の念を送っていたのだから。復讐の念を。アハハ」


 その長い波長がわたしに達したときには、女の姿は夫の姿もろとも、もう見えなくなっていた。おそらく最近死んだのだろう。恨みの深さのためにこうして一瞬、私の家に入り込んできたのだ。

 しかし、誰だ。夫をどうして操っていたなどと。その姿はまったく見通せなかなった。


 父がそばにいる。そうだった、私は父に深く謝らなければならない。

 その人柄の優しさといい、娘への愛情といい父は本当に完璧だったのに、私は自己中心的にしか考えられず、というか、本能に振り回されてばかりで父をいつも落胆させた。ふさわしくない男ばかり追いかけて迷惑をかけ、父のメンツもつぶした。それでもその後もいつもそばに居てくれた。


  私の長男があんなに早く彼岸にあらわれたとき、きっと悲しく思ったことだろう。私がここまで愚かだとは思わなかっただろう。私は父の眼を見つめ、心を大きく開いた。父はそれを受け入れてくれた。これからもずっと守り導くからね、と聞こえた。母は父のそばに立ち、安心した顔で、ながいことありがとう、と介護期間の礼を言う。父もそれには笑い顔をみせた。


 ああ、 よかった、と私の心が花咲くように吐息をもらした。


 弟の波動がわかった。五つの水子たちが彼にまとわりついている。

 昔ながらに「和夫ちゃん」と私は彼に呼びかける。

「危篤になっていたときね、私がね、みんなここに居るからね、安心してねって言ったら、とても大きな声でオウと返事したでしょ。覚えてる?」


 弟はにかっと笑った。どうしてか、大声が出せたんだよ、と聞こえた。


「残念ながらちょっと早かったけど、結局さあ、和夫ちゃん、強運だったよ。努力もしたでしょうけど。いい伴侶を見つけて子供はしっかり育って、ねえ、立派だった。十分な人生だったね」

 私がそう言ったのか、たんに思ったのか。いずれにしろ、最も近い一家が丸くそろって立ち並んで揺れていた。


 そこに、もうひとつの、いつも私の心に生きている長男の充が再び来て、ふわりとその優しい万全の配慮の網を私の回りにかけてくれた。


  私は、彼の方を向き、これまで何故か夢を見ることも叶わず、いつもそれを願っていたのにやっとこうして出会いの機会をもてた感激ひとしおで、充の死の後、どんなにひどいことが世界に私に起こったか、話した。

  知らなかったのは父も同じだったので、父にか充にか分からないような感じで、私は話した。話したのではなく、話すまでもなかったのだが。


 父と充はまるで同じ人物ででもあるかのように、唱和して私を慰め、守ってくれていたのだ。それがはっきりとわかった。

  ふたりの魂は、百合の樹の花殻が裸の樹となっても永遠に枝先に、天を向いて合掌しているように、ほの赤く、ほの緑に白かった。

  私は、なにひとつなし得ず、何をしても失敗し、毎日が苦しく我慢するしかなかった日々のことを訴えたいと思った。するともうふたりはふんわりと頷いて、白百合の香りを漂わせた。


 それから、子供の時から大好きだった父の弟、義晴おじさんもみつけた。

 私にとっては子供心にもハンサムで優しい人柄であった。彼が亡くなる少し前、二十年ぶりにある葬儀で、見回していた私の眼に、世にも見目麗しい男の眼がみえた。あまりに美しく整っていて、懐かしく眼をはずすこともできなかった。

  すると、あさこじゃなかと? と向こうから声をかけてきた。

  あ、義晴おじさん、とやっとわかった。今、彼は遠くに遠慮がちに立っていたが、その眼だけはいつも私と彼との美の遺伝子的親和力を発信していた。


 赤ん坊の時から父代わりだった母方の祖父も、どうしても話したい人であった。私が知っている、瘦身のがんこそうな眼の鋭い老人だ。坊主頭で足にはゲートルを巻いている。あるいは、ふと私に強い言葉を使ってしまって、私がしょんぼりすると、皺の中のいたずらっぽい目つきで私を笑わせようと覗き込んだその視線とか、私の思いのままに祖父は姿を変えた。


「おじいちゃんが間もなく死ぬとわかったとき、本当に悲しかったんだよ。おじいちゃんはそんな私の顔を見て、どうした、泣いているようにみえるが、と言ったの。あのとき、私はもう二十四歳にもなっていたけど、心は子供とおなじだったんだよ」


「よかじゃっと。わかっとっと。おまいはむぞか子じゃった、みんなを幸せにしっくれたっと。敗戦のころのみんなの希望のごっじゃったと」

 私は赤ん坊になり、祖父のふところに入っていたり、縁側で賢そうに議論していた姿になっていたと思う。



 しかし次第に、さきほどちら、と接触したふたつの影が気になってきた。彼らは居ない。


 頭の中の渦はゆるゆると穏やかになり、記憶の中の姿が薄れて、かすかな和音のようなお鈴の最後の響きのような、虹の色へと収れんするような、現実の感覚へともどるのがわかった。

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