第4章 「去りてまた遭う」 第1話 幼心2


 先夜、夢を見た。いつもの夢では、私は永遠の放浪者であった。

 本当の家を探していた。よくどこかの家にいるのだが、そこが間違いで出て行かなくてはならない。しかしとらわれている訳でもないらしいのに、なかなか出て行くことが出来ない。外には道があった。あの道を歩いて本当の家に帰らなくては。家族が待っているのに。

 そしてその日、ついに本当の家に私はいた。見つけたとわかっていた。卵から孵ったひなが、苦しい旅の果てについに親の住む家を見つけたようだった。


 家の中は薄暗かった。私が部屋に座っていると、その大きな果てしも無く広い部屋へ人々が入ってきた。澄んだお鈴の音が、幾重にも打ち鳴らされている。私の老いた耳にも美しく生き生きと響き渡り、空気にはまた色味がついた。

 はたして、五人の小さな姿が私に寄り添った。人々も私の本当の家の中で、回廊の柱のように、私を立ったまま取り囲み、静かにしていた。しかもどことなく心が波だっているのが伝わってきた。

 ふと、あれ、自分はもうこのまま死んじゃうのかしら、と風のように思った。


 そうではあるまい。私の世界がまたひろがったのだ。その中に薫に似た顔がある。私の祖父と私の父である。と思った瞬間には、薫が彼らのそばにあらわれて、三つの同じ顔で私に微笑んだ。


 祖父の荒垣信衛門が五歳の私のほおにほおずりしたとき、私は「いたかやい」と照れた。そのときはじめて彼の愛情を感じたからだ。私は急性盲腸炎(当時はこう呼ばれた)になって、手術され入院していたのだ。回虫がいる時代だったので、虫下しなるものを飲まされたところ、虫が苦しがって虫垂に入り込んだとか。

 冬の夜だった。大八車に寝かされて、星を見ながら近くの医院へ運ばれた。その時はもう痛みを感じなかったから、虫は静かにして、あるいは死んでいたかもしれない。いずれにしろ開腹手術となった。私の父がそのさまを見ていることになった。母は膝が立たず外で待っていた。


 別の祖父を、私は探した。母方の祖父母もいるのだろうか。少しうしろにそれとわかる瘦身の男の姿があり、天然パーマで顔立ちの良い老婆がいた。祖母は二十年間も寝たきりの祖父を看護したのだ。寡婦になると、かえって行き場所がなかったのは気の毒だった。長男の家で、ある夜看取られずに旅立った。私の大好きな心のふるさとの住人である。


 あえて数えたことはなかったが、どんなにたくさんの人を見送ったことだろう。叔父や叔母、ほとんどが亡くなった。その子供たちも幾人も。こうして二十世紀から二十一世紀へと生きてきた、さらに私の孫も二十二世紀を迎えるのだろう。もし地球がまだ住める場所だったとして。あるいは、先進国の屋台骨がまだ老齢人口を支えることができていたとして。


 私に優しかった叔母の顔、遊び友達だった従兄弟がいる、もちろん弟もあいかわらず大きく、にかっとした笑い顔でそこにいた。

 私は、どうぞご自由にご歓談ください、お久しぶりです。こうしてお会いするとは思ってもいませんでした。みなさん、お幸せそうでなによりです、と思った。


 彼らは一様に頭を動かした。同じような動きだが少しずつ違う、大洋から波の寄せるような感じだ。私という砂浜に懐かしい愛しい人々が心を寄せてきてくれた。父がいる、母がいる。最愛の息子もいる。夕顔のような美しい面輪は死んだ時のまま、永遠に清らかな知的な若者だった。


  私はたまらず、彼を抱きしめた。生きた身体ではないが、ある重さが感じられた、存在の重さが。彼らにも質量があるようだった。わずかな質量、飛び回ることができるほどの。

「よく頑張ったね、充。母さんの誇らしい息子。これからたくさん話をしようね」


 充の慎ましい微笑を私はいつまでも見つめた。言葉を交わさずとも理解し合えるのがわかる。ふとみると、充は猫を胸に抱いていた。それは一時えさを与えていたグレーだった。その周囲にも何匹か、それぞれ個性を持つ猫が数匹漂っていた。

 そうか、私の頭の中に保存されているすべてを、こうしてまるで霊ででもあるかのように彼らと交信しているのだな。今日の悟りであった。八十年生きていて、そんな簡単なことがやっと肚にすとんとおちていったりするものだ。わかりそうな事でも、脳神経がつながらない限り決して理解しないらしかった。


 しかし、ここに集うものが私の記憶の中の幻影であるとすれば、私の印象やわたしの考えを通してのみかれらの考えを推測するにすぎない、かれら個人の本当の思いを聞くことはできないという理屈になる。私は悪夢になりかけた夢の中でのように、答えのない苦しい質問をつづけた。話をすればあるいはかれらの真正な声が聞けるのかも知れなかった。


 しかし、私のような世慣れぬ老女に出来ることではないような気がする。


 助けを求めるのではないが、かれらを、ぐるりとその顔を見渡してみた。

 すると、かれらの姿は私の思い出の時代に応じて、若くなったり年老いたり変幻するのだった。どこかに、かれらの本性を潜ませながら。そのはずだった。

  私に関する彼らの好意はたしかにわかる、と言わざるを得ない。幻影の父はときどき怒っていた。私には苦い心当たりがある。


 母はどこに、と思うや父の大きな肩の後ろによりかかるように、数年前逝った母の顔が笑って、私にありがとう、と口を動かした。嬉しかった。父はもう笑っていた。

 友人の一団もいた。本気で本心を語り合った友人、憧れていた友人、十代で命を絶った友人、さまざまに忘れられない人々が。

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