第3話 エミコとしの その3 硝子の靴は死んでも手放すな


 

 あれだけ鬱陶しかった残暑もウィークデーに降った雨ですっかり消えてしまい、トレンチコートやブルゾンが目の前を闊歩している。見上げればスカイブルーのキャンパスの上を薄くたなびく巻雲。柔らかな日差しが心地よく、何をするにしても最高の陽気だ。今日が「体育の日」なんて名前でさえなければ完璧だったのになあ。

 若い両親に連れられたロリショタが「パンダ」「パンダ」と連呼し、意識高い系の大学生カップルがミュシャの素晴らしさを誉め交わす。公園の奥ではチャリティーバザーが活況だ。

 ああ、ここはなんて平和な所なんだろう。

 …………話の流れから秋葉原だと思った? 残念! 上野でした!


「なぜ上野? 秋葉原の最寄り駅は秋葉原だよね?」


 音谷しのは定時到着。どうやら〆切はキッチリ守るタイプのようだ。


「それはまもなくわかる…………それよりも私にはアンタの恰好の方がわからないよ」

「?」


 ある程度予想はしていたが、音谷しのはこのリア充空間にまあ浮いていた。上下モスグリーンの作業ジャンパーと作業ズボン。お前はどこぞの有野課長か。いや違う。訂正、浮いてはいない。公園管理人のおっちゃんが同じ格好をしていた。


「あんた……さぁ。あれだけ服持っているのになぜこれをチョイスする?」

「動きやすいし、汚れも……」

「ハイハイ、そんなところだと思いましたよ」

「エミコ、怒っている?」

「怒っていません」


 むしろその指摘の方がカチンとくる。なんで私がコイツの服に怒らないといけないのか。それじゃまるで私が今日のイベントをすごく楽しみにしていたみたいじゃないか。


「エミコは可愛い恰好しているね」


 どこまでも空気を読まないヤツである。知っているけど。


「それに色彩感覚がいい。風景の中に埋もれていない。三次元のフィギュアが好きな人だからそういうセンスが優れているのかな」


 惜しげない賛美の言葉に体内季節がたちまち夏に逆戻り。良くも悪くも本当のことしか言わない人間なのでその言の葉の一葉一葉が新緑のように眩しい。


「べべ、別に? しまむらとかジーユーとかで買ったやつを適当に着ているだけ、だし? ぎゃ、逆に今はどこもデザインがまともだからむしろヲタクっぽい格好になる方が難しいでしょ? マネキンの恰好パクればいいのよ、パクれば」


 しかし、そう言うとひどく怪訝な顔をされた。


「エミコ、服にお金をかける人だったの?」

「か、かける人ですよ。かけまくりですわよ」

「…………本当に?」

「本当に本当…………嘘は言っていない、っす」

「本当かなあ。私、エミコがお菓子食べているところ一度も見たことないよ。エミコ、ダイエットなんかする神経持ってないよね? 飲み物だっていつも持参の水筒。誰もいない理科室の水道で水だし麦茶を作っていたよね? そんな人が服? ファッション…………むがむがむがむが」


 幸いにしてお口に喉輪をかけている私たちを見咎める人はいない。きっと両国が近いせいだろう。さすが東京。世界の新海誠監督がほれ込む街。


「じーーーーーーーーーーーーーーーーっっっ」

「わかったわかった! はい、そうです。見栄を張りました。本当はほとんど先輩からのお下がりです! でも、全部じゃないから。ちゃんとその先輩から勉強しているし! むしろ外見だけしか取り柄のない人だからそれ抜いたらあの人の存在意義が無くなるし!」


 最後の方は微妙にディスっていたような気もするが、まあ事実なので問題ない。あの人、基本自分にしか興味がないくせに私がボロ着を着ているのを嫌がるんだよね。実際夏のワンフェスに備えて女子関連の予算をゼロにしていたら『えみちー、ちょっとお勉強しようか』と言われてそのまま監禁同様の勢いであの人の自宅に連れ込まれたこともあったなあ。


「ほんと、なんでだろ」

「わからないの?」

「全然」


 そう答えると音谷しのは妙に呆れた顔をして「エミコは本当にバカだね」と言うのであった。なんだとコノヤロー。


「いや、バカだから」

「二度まで言うか。アンタこそどうなのよ? 普通芸術家だったらもっと芸術家らしい服装をするんじゃないの? もっと奇抜というか、個性的な?」

「自分の服装のことを考えてもお金にならない。無駄」

「まあ私も大概だから否定はしないけどさあ、もったいないと思うよ。一つ一つのパーツの造形はいいし、バランスだって悪くない。肌も二次元みたいに白いし。うーん」


 えいっ、と課長ジャンパーをTOUCHしてみる。おおっ、なかなかいいものを持っているじゃないの。オビツのドール素体だったらこれは標準、いやLか?

 音谷しのはしばらく目を瞬かせて私のするがままに任せていたが、突然ステップ・スウェー(格ゲーで言うところのバクステ)をかましてきた。


「なななななななっ……………………!」

「おお、顔が真っ赤だー」

「エミコはバカなの? ねえ、バカなの?」


 ぽかぽかという効果音では物足りないむしろ鋭いジャブの連打が飛んできたが、スウェーでさらりと流す。さて、そろそろ行くか。


「あ、よくよく考えてみればむしろそういう恰好でよかったのかも」

「???」

「一応…………ゴニョニョだから?」

「!?」


 目的地をざっくりと教えると音谷しのはせかせかと歩き出した。私もそれに続こうとしたが、ふと立ち止まり振り返る。そして、もう一度我が級友の姿を見た。立ち止まらない。振り返りもしない。道路の上の白い縞々を一つ、また一つ乗り越えていく。

 きっと私の考えすぎなんだろうと思う。でも、あの向こうには芸術を志す若者の多くが憧れる場所がある。でも、アイツは視線を泳がすこともしなかった。それがただ…………すごいなあと思った。

 ファッションビルの3F、スーツとネクタイとジーンズを抜けた先の教室の半分ほどのテナントスペース。渋谷パルコのエヴァショップとかお台場のノイタミナとかそういうのを想像してもらえるとわかりやすい。

 “それ”はそこにあった。


「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!」

「ふぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!」


 テナントの全貌が目に入るなり、私たちは松木安太郎と川平慈英と化す。

 フロアに並んだアクリルケースの中で女の子たちの時間が止まっていた。彼女たちの多くは水着やワンピースのような薄着でなかにはほとんど下着同然の姿の子もいる。年齢は二十代から十代後半、どう見ても小学生ぐらいの子さえいて一人はご丁寧にもジュニア水着だ。

 ちなみにすべて等身大。だから肌の表面積はフィギュアの比ではない。見渡す限りのフレッシュカラー、16進表記#FFE6CEが濁流となって私たちの目をドドリアさんばりに眩ませる。

 音谷しののアトリエにあった「オビツ150」がアニメ調の瞳が直接顔に描かれていたのに対して、ここにいる子たちはアクリル製のドールアイが嵌め込まれているの最大の特徴だ。つまりはよりリアルな造形だということ。

 等身大の人形というと男性諸君のリビドーを満たすための「ラブドール」が真っ先に浮かぶ人もいるだろうが、ここにいる子たちにはそういう機能はない(改造すればできなくもないが)。

 彼女たちはアクリルケースの中でショーウィンドウのように奇麗に飾られ、クラシカルな椅子や花で彩られたそれらは芸術的ですらある。だからこそ、彼女たちには「秘宝館」的ないやらしさや猥雑さはない。むしろフィギュア寄りの造形は幻想的で少女が心の中に描く御伽話フェアリーテイルが目の前に広がっていた。

 ぶっちゃけてしまうと彼女たちただひたすらにカワイイ。店内に視線を移せば女性スタッフがケースの中ををいじっているし、店内の客のほとんどは私たちを含め女性客しかいない。そりゃそうだよね。自分でメイド服やゴスロリ服を着たいとは思わないけど、この子たちが着たら絶対に可愛い。

 彼女たちを作っているのは台湾のメーカーで元々は「ラブドール」のメーカーだったが、その耽美的な造形があまりにも素晴らしすぎためにアダルト要素が必ずしもファンに求められなくなり、今ではそれらの要素をオミットした等身大ドールのみを生産・販売するようになった。

 世間でのドールの普及に積極的なメーカーとしてもファンの間では有名でこのショールームも彼女たちをより日常的な存在にしたいというコンセプトで設けられている。


「すげえ」

「すごいね」


 アクリルケースは吐く息で点滅するように白く曇っている。

 なんてきれいなんだろう。同じXX染色体由来だというのに自分の肉体とこうまで違いが出るものなのか。男どもは服の下にいつもこんな幻想を期待しているのか。だったらアホだ。


「…………たぶん触ったら柔らかいんだろうなあ」

「触ってみますか?」


 ギョッとして振り返ると先ほどディスプレイを弄っていた女性スタッフがにこっと笑っていた。どうやら作業は終えていたらしい。

 美人だ。二十代後半ぐらいでストレートロングのパンツスーツ姿はいかにも仕事ができそうな感じ。スーツの上に店のエプロンをつけているのでちょっと妙な姿であるものの、それが逆に敷居の低さを印象づける。少しぐらいセクハラな質問をしても笑顔で殴ってきそうだ。


「えっと、えっと…………」


 音谷しのと顔を見合わすが、この女も私とスタッフをREM《急速眼球運動》するばかりで要領を得ない。それでも己の欲求の高さが勝利するとやがてこくりと頷いた。


「では、触れる前に手をアルコール消毒してください。それとシリコンですので爪は絶対に立てないでくださいね。可愛いお肌に傷がついてしまうので」


 アルコール洗浄をした手を恐る恐る白い頬の上に置くとふんわりとした感触が伝わってきて息を呑む。「オビツ150」とのもう一つの大きな違いは質感にある。全身がシリコンで覆われているので本物の人体のように柔らかい。しかし、いいことばかりではなくメンテが大変だ。石油由来の臭いと油滲みがすごいと聞く。

 お姉さんの方を振り向くと私の意図を察したのかにっこりとほほ笑んだ。私は再び「メルフィ」ちゃんに向き直ると震える手を少しずつ下にずらすとやがてフレアキャミソールの上に置いた。ハアハア…………息が自然と荒くなる。傍から見なくとも痴漢の動きのそのもの。

 すーはー、すーはー、すーはー、視界の隅では鼻呼吸とリンクして左胸に置かれた音谷しのの手がリズムよく揉みしだく。段々と荒くなっているのは気のせいではない。


「どうですか? 柔らかいでしょう?」

「すごく…………柔らかいです…………」

「おっぱい本体も触ってみますか?」


 そう言ってキャミソールをペロンと捲ろうとしたので目を剥いてしまった。現実世界でやったら即通報案件の出来事に私は思わずお姉さんの腕を掴んでしまっていた。


「…………お客、さま?」

「えっと、その、ええと…………」


 わかっている。わかってはいるのだ。「メルフィ」ちゃんは等身大ドールであり、モノであり、生きてもいない。それにここはショールームなのだ。決して安くはない商品をちゃんとチェックしないなど商談として絶対にありえない。車を買うのにボンネットを開けないようなものだ。でも、車のエンジンと人工美少女のおっぱいははたして同じなのだろうか?


「触るだけなら大丈夫ですよ、お客様。乳首に爪を立てたり、吸ったりするのだけはご遠慮いただいておりますけど」


 うん。おまえは何を言っているんだ?


「…………―――で…………します」

「えっ?」

「二の腕でお願いします。よ、よく言うじゃないですか!? 二の腕とおっぱいの柔らかさは同じだって! だ、だからメルフィちゃんの二の腕を触らせて、ください」


 お姉さんは私の中二男子中学生のような発言に吹き出しかけたが、そこはさすがにプロとしての意地を見せた。白い二の腕を示すと「どうぞ」と言った。

 手を伸ばすとほんのりと漂うベビーパウダーの甘い匂い。

 左右から伸びた二本の手がおっかなびっくり羽が落ちるように触れる。ぷるるん。その感触は想像と何一つ変わらず、指は驚いて震えた。やがて、それも落ち着くと優しくゆっくりと指は柔らかさの中に沈むのに任せた。

 やばい。これはこれでやばい。やばすぎる。

 脳みそが痺れ、インパルスが過剰放電を起こす。しかし、頭がショートする寸前、


「お客様、お客様」


 囁くようでありながら強いメッセージ性を含んだ言葉に私の思考回路はわずかばかり機能を取り戻す。おもむろにお姉さんの視線の先を追うと音谷しのの顔に赤いものがゆっくりと垂れているのが見えた。鼻血であった。

 平謝りする私たちにお姉さんは涙を拭うとパイプ椅子を二脚用意してくれた。そして、再び起きつつある笑いの衝動から逃げるように奥に消えていった。


「エロ場面で鼻血を出すなんてマンガの世界だけだと思ったよ」


 音谷しのはティッシュで鼻を拭いていたが、もう止まったようだ。


「私もそう思う。本当に出るんだね」


 それから十秒ほど沈黙。気まずい感じはない。むしろ腹の奥にあるむずむずした気持ちをどう言語化したいいか戸惑っているような感じ、だと私は思った。


「柔らかかったな」

「うん、柔らかかった。あとは温かかったら完璧だね。医療用チューブをシリコンと軟質プラスチック層の間に這わせて温水を循環させればできる」

「それ、ほとんど人体と変わらないじゃん」


 音谷しのが笑う。

 確かにおかしい。それは世界中のどこにだって溢れているというのになぜ別の材料でわざわざ似たものを作ろうとするのだろう?

 ふとそんなことを思うと手が自然と音谷しのの胸に伸びた。

 シャツの中の“本物”は当たり前のように柔らかい。

 音谷しのは無反応のまま同じように私のワンピースに手を伸ばした。不思議と悪い気分ではなく、ふわふわとした羽のようなものが身体の内側を広がっていく。


「女の子、ていいね」

「うん、いい」


 気づけば私たちの手は重ねられていた。

 熱いぐらいに温かく、脈動は自分たちがシリコンではないことを訴えている。

 アクリルケースの森の中で儚げに笑う少女たち。不気味の谷を超えた彼女たちの存在はひどく非現実めいていて、自分たちの存在も現実との境をふわーんふわーと漂う。

 今、私たちは熱に浮かされているの違いない。ほんの数分後でさえ襲ってきそうな後悔と恥ずかしさに頭の片隅が焦けつきつつあるのを私はどこか楽しんでいる気がした。


「…………あれからあんたの話をずっと考えていたんだ」


 返事はないし、手がぎゅっと握り返されることもない。


「あんたの言う通り、確かに絶対的なモノなんてないのもかもしれない。神サマの視点で見たら芸術も文化も『ニンゲン』の習性の一つなのかもしれない。でもさあ、それならそれで面白いと思わない?」


 音谷しのが私の顔を覗き込む。瞳の奥に縋るような色が見えた。


「見なよ、ここにいる子たちを。この子たちは人間じゃない、ただのモノ。でも、人に似せただけでこんなにも愛おしく感じる。人が人の形をしたものにモノ以外の感情を持つということは人は人に特別な感情を持っているということなんじゃないの?」

「…………特別、なのかな」

「人を芸術の題材にしている音谷しのは人が大好きなんだよ。その気持ちはアマゾンの狩猟民族でも虐待された子供にだってきっと伝わると私は思うな」


 言い終えた途端、身体が火照て熱い。うん、柄にもなく語ってしまった。やはり語るならフィギュアだ。というか、あんだけすごいものを作れるくせにこの女は何を不安がっているのか。戯言を抜かす前に一つでも多く作品を作りやがれ。

 音谷しのはしばらく黙って『妖精たち』を眺めていたが、やがて、フッと微笑んだ。


「ありがとう、エミコ」

「お、おう」

「でも、エミコが結局言いたかったのは、エロは最強、てことだよね? 確かに下半身に訴えるのが一番わかりやすいかも」

「なんだってー!!!!」


 エロ。かつてのビデオやパソコン、インターネット、VRといったわかる人にはすごいのだが、使ってみないとその魅力が伝わりづらい技術は常にエロが時代の先導を担っていたものだ。

 カ〇ロット、エロがナンバーワンだ‼ 脳裏で戦闘民族の王子がドヤ顔で言うのが見えた。仕方ないよね、このエリート王子だって一巻からいるお色香担当に負けたわけだし。


「やめてよね…………、頼むから作風を突然変えないでよね…………」

「ふふ、どうしようかな」


 いつにも増して意地の悪い顔をして小首をかしげる。間違いなく頭の中でエロエロなフィギュアのことを考えている。この女のことだから口にするのも憚られるようなやつをだ。


「そういえばエミコはエロフィギュアは買わないよね? フィギュアの立派なジャンルなのに」

「えっ?…………18歳になっていないし…………」


 店内の人間に聞かれないように小声で囁く。一応年齢制限のある店ではないが、中学生がおいそれと買えるようなものを売る店ではない。ネットの掲示板か何かで修学旅行で来た田舎のバカな男子高校生(しかも制服姿)が入店を拒否されたと読んだことがある。


「ちょっと! 驚天動地の表情をしないでもらえますかね!?」

「そうか、そうか、つまりエミコはそういう子なんだね」

「エーミールみたいな分かり方はやめろ」

「ひょっとしなくてもエミコはお人形遊びが大好きなまま身体だけ大きくなった女の子なんだね。そうなんだ」


 突然、痛いところを突かれたので振り上げた手が中空で止まってしまう。そんなところを見逃す音谷しのではもちろんないわけで。


「うんうん、悪いことじゃないよ。むしろ可愛い。人間の悪意ばかりが拡散する時代にエミコは天使の心を持っているんだね」

「やめろー、頼むからやめてくれー。むしろ罵倒されたほうがいいわ」


 さすがに店内でバカ騒ぎすることに気が引けたのか、音谷しのは両手で顔を覆って笑いを忍んだ。やがてそれも収まると少しだけ動作が完全停止していたが、


「本当に………どうしよう」


 妙にすっきりした表情で顔を上げたので「どうもしねえよ」と脇腹を小突いて一連の会話の流れを終わらせた。

 


 秋葉原に着いたのはビルの向こうに茜雲の影が見え始めた頃だった。あれから音谷しのは「メルティ」ちゃんの購入を巡ってスタッフさんと本気ガチの商談話に突入。おかげで予定が大幅に狂った。なお購入は会社の人を通した上で次回持ち越しとなったようだ。

 秋葉原で起きたことはとりたてて取り上げる必要はないかな。ラジオ会館やまんだらけ、リバティー、その他諸々のトイ関連の店を巡ったが、特別なことは何一つもない。ヲタク女子がヲタクショップに行ったときに交わされる会話を私たちも同じようにしただけだ。

 本当に秋葉原でなくたってどこにでもある平凡な光景の一つに過ぎなかったんだ。

 ただし、今回の一番の目的であるボークスにいたときはさすがに音谷しのは音谷しのだった。もっともそのときのことを完全に描写するとフィギュアの作り方のハウツー本になるので9割9分割愛させていただく。

 万世橋交差点から100メートルほど離れた万世橋の上。私たちは興奮の余韻が引いていくのを感じながらしばらく呆けたように秋葉原の街並みを眺めていた。

 けばけばしいネオンが輝く様はかつてのサイバーパンクを彷彿とさせるかのようだ。外国人にもそう見えるのだろう。カメラを構える姿は後を絶たない。一方で足元には塗りつぶされたかのような夜河の暗闇が東西に広がっている。

 空に星など見えるはずもなく、代わりに見える街から蒸留された仄かな光の膜に私は目を細めた。ここはどこまでも現実感がない街だ。しかし、いつかはこういう街での一瞬一刻が私の現実になる日が来るのだろうか。

 ―――きっと音谷しのはいろんな街の空を知っているんだろうなあ。

「ごめん、覚えていない」

「そうだろうね! あんたはそういうやつだもんね!」

「あーー」


 でも、今の現実の私は横にいる変な女と妙にオーガニックな会話を交わしている。


「そんなことよりもエミコ」


 音谷しのは身体を覆うように大きいキャンバスバッグから白い箱を取り出すと私に渡した。いつぞやの体育館で買ったガレキ(二万円)である。


「それからこれとこれ、あとこれも…………」

「うえー」


 次から次に手渡されるビニール袋はどれもずしりと重い。塗料にパテ、筆やヤスリといった各種工具。ボークスの店内ではどれもソシャゲのチュートリアルぐらいの説明量を提供されていたが、私は早々にスキップすると買い物は任せて一人「ドルフィードリーム」に逃げ込んだ。


「エミコ、帰ったら必ずエアブラシとコンプレッサーを注文してね」

「う、うーん…………」

「絶対。ぜーったいだよ。約束したからね」


 さすがにエアブラシ関係は超重いので後日通販で買うことになっている。中国メーカーの安くて小さくて軽いのも秋葉原なら手に入るのだが、それは音谷しのが許してくれなかった。


「怖い怖い怖い、なんであんたこういうときは必死なのよ…………」

「それはね、エミコ。エアブラシが正義であり真理だからだよ。一度使ったらぜーったいに筆には戻れない。エアブラシなら自分の思い描いていたものが簡単に現実になる。エアブラシはね、魔法の筆なんだよ。ちょっとメンテナンスは大変でシンナー臭いけど、それは仕方ないことなんだよ、エアブラシはその対価に見合う…………」

「わかった、わかったから!」


 リュックにしまって早々にこの話を切り上げようとしたが、不意にある考えが頭を掠めて私は心の中で呻いた。


「どうしたの?」


 それを言いたいのは私の方だ。この女はどうしてこういうときだけは目ざといのか。表情は変わらなかったはずだし、そもそもこの暗がりでわかるはずもないのに。


「う、うん…………」


 その考え、というか妄想が浮かんだのはほんの少し前のことだ。秋葉原の約束をした電話の直後ぐらいから兆しはあったが、浮かぶ度に頭を振って否定してきた。何度も。でも、今日一日この女と時間を共有しているうちにパテ成形の如く肉抜き穴が埋まっていた。


 ―――きっと、楽しいんだろうな。

「よく考えたら、いや、考えなくても…………」


 言ってしまえ。何を遠慮することがある? 否定されたら否定されたでいいじゃないか。そもそもこいつと私は…………何なのだろう?


「部屋が狭いし、一戸建てじゃないからエアブラシしんどいかも」

「換気ブース作ればいいんじゃないかな」

「答え早。いや、確かにそうなんだけど…………」

「防毒マスクは絶対に買うこと。素顔で作業したら大変なことになるよ…………」


 それから有機溶剤の恐ろしさを具体例つきで懇々と説明された。うん、私たち何をやっているのだろう。大都会の片隅の暗がりでコンビニで買った森永マミーとレッドブル250mlを飲みながらシンナーの弊害について真剣に話しているとは。私たちの隣で仲睦まじくスマホの写真をチェックしているドイツ人のカップルもまさか思うまい。


「いや、確かにそうなんだけどさ」


 さっきから私は何回「いや」と言っているのだろう?


「ふと思ったんだけど」

「うん」

「学校の技術室が使えたら最高じゃない?」

「そうだね」


 街灯に照らされた顔が微笑したのを見て、体温がぐんぐん上がっていく。


「美術室は美術部が使っているけど、技術室は使っている部活がないから放課後とか土日も使い放題。広いし、窓も大きいから換気も問題ない」

「いいね」

「もともと汚いから多少汚しても許されそう」

「うん」


 喋っているうちに急に目頭が熱くなってきた。涙が零れる代わりに技術室を使うメリットを早口で捲し立てる。内容が重複する。推定だけで言っている。その仮定は本当にあり得るのか。


「エミコは新しい部を作りたいの?」


 優しい声だった。でも、違う。そうじゃない。そうじゃないんだ。


「いや…………単に思いついただけ。でも、言っているうちに自分でも悪いアイデアではないかなあって。本当にありかもね」


 あはは、と笑うと音谷しのも頷いた。

 悪いアイデアのはずがない。

 もし―――実現さえできたら、メチャクチャ面白いに決まっている。

 冗談みたいな存在の音谷しのと一緒にフィギュアを作る。

 この女は次にどんなフィギュアを作るのだろう?

 この女と一緒に作る私のフィギュアはどんなものになるのだろう?

 妄想が止まらない。ワクワクが止まらない。

 そして、私自身はどうなっているだろう?

 たとえこの先数日しか学校に来なくてもかまわない。

 だって、あの夏の終わりの体育館で出会ったあの日から今日に至るまでたった一カ月程度だというのに、私の浪費ばかりの日常はこの女にすっかり振り回されっぱなしなのだから。


「やりなよ、エミコ」

「えっ」

「絶対に面白いよ」


 月よりも眩しい人工の光を照らされた瞳が私をじっと見つめていた。真剣な目だった。アトリエで見せたときのような気迫に呑まれて私は言うべき言葉を失ってしまう。

 すると、音谷しのはおもむろに私の両手をぎゅっと握った。夜気の冷たさがどくどくと血流のリズムとともに熱せられていく。


「私の世界に来て。私の見ているものをあなたも見て」


 声に「色」が見えた気がした。 

「白」だった。全ての感情が混じりあった、音谷しのの全てが溶け合った末の「白色」。

 それはどんな光よりも眩しくて、世界を塗り替えていく。

 しかし、それは一瞬だけでたちまち秋の闇に戻っていく。夏の色がわずかに残ったどこか胸が切なくなるような夜の色に。

 音谷しのの両手は既にない。橋の欄干に腕を乗せるとUDXの方を見るともなく見ていた。烏のような髪がさらさらと風に流されている。


「エミコはどうしてフィギュアが好きなの?」

「…………あんたこそどうなのよ?」

「内緒」

「ぶっ飛ばすぞ」


 黙って待っていたが、本当に話す気がないようだった。


 ただ一言、

「ネットでフィギュアの世界を知った」

 たったそれだけ言った。その声音には先ほどの「白」が含まれていた。


「……あっそ」

「うん」

「ふん、アンタのことだからてっきりもっと商売的なことだと思っていた。クールジャパンでカワイイ的なものをもっと……」

「ねえ…………、エミコ。今…………、エミコは私のことをどんな風に思った?」


 音谷しのの首がゆっくりと振り向く。まるで捻じれていくかのように。そのときのプレッシャーと恐怖をとてもではないが説明することはできない。


「ひ、ひーっ」 

「今、私のことを日本のヲタクをロクに理解もしないのにその上っ面だけ利用してこういうときだけ同じ日本人面するような自称アーティストだと思った…………のかな?」


 いくつか心当たりのある名前と作品が浮かぶ。あー、確かに「音谷しの」の名前でフィギュアを作品として発表したら世間的にはその系統に入っちゃうかもなあ。


「いやいや、大丈夫だから! あなたの作品は必ず世のヲタクたちに受け入れられますよ。むしろネットでバズるんじゃね?」

「嘘だッ!!! エミコは嘘を言っている!」

「言ってねえから! というか突然キレるな!」

「いや、言っているね! 絶対に私のことを―――」


 あー、聞こえない聞こえない。ネタでもヤバい単語を耳に入れないように両手で耳を塞ぐ。そのとき目の前をヤクルトのユニフォームを着た男が通り過ぎるのが見えた。そして、なぜか背番号は55だったことを覚えている。


「ハアハアハアハアハアハア…………」

「ハアハア…………なんで私まで。あんた、SNSやっているなら今すぐ垢を消しなさいよ」


 それにしてもひどい目に遭った。どこまでもマイペースなこの女にこんなとんでもない地雷があったとは。今後は絶対に踏まないようにしないと。


「あーもう! 私がなぜフィギュアを買うようになったかだっけ?」

「ハアハア…………うん」


 頭をがりがり手で掻いて考えてみたものの、特にドラマチックなものは出てこない。


「…………プリキュア、だったなあ」

「?」 

「最初に買ったフィギュア」


 そう。食玩の小さなフィギュアだった。はっきり覚えている。ハートキャッチだ。よりにもよって初めてハマったプリキュアが大きなお友達に大人気だったハートキャッチだったことに今となっては呪われた運命を感じる。とにかく小さい頃の私がそれが欲しくて仕方がなかった。

 でも、食玩とは名ばかりのシリカゲルよりも小さいガムを母親が素直に買ってくれるはずがない。そのときは涙目で諦めさせられた。ところがである。私の大好きな「キュアマリン」は次にイオンに来たときには影も形もなくなっていた。当時のキュアマリンはヲタクのアイドルだったからね! このとき「ブロッサム」で妥協してそれがきっかけで中の人が好きになってその人の歌を聴くようになって自分も歌うようになっていたら今ごろ私は歌い手コースだったかもしれない。でも、私はぐうたらな「マリン」が大好きだったんだ!

 次にマリンを見つけたのは約一カ月後だった。今思うと何らかの理由で店頭に出し忘れたものが陳列されたのだろう。奇跡の再会に私は狂喜した。そして、どんな手を使ってでも手に入れようとし、実際その半時間後に手に入れた。

 初めてのフィギュアを私はそれこそ穴が開くほど見続けた。毎日角度を変えて、光からいろんな方向から当てて、どこからどこまでが色分けされていて、どれとどれがパーツが分かれているのか、10センチ程度から得られる情報量をすべて読み取ろうとした。開封するだけで満足してしまう今と比べると隔世の感を覚える。


「しっかし、フィギュアの何がこうまで私を惹きつけたのかねえー」


 人形が特別好きだったわけではない。むしろヒトの形が気味悪くて苦手だった。だから、物心ついた頃から私はぬいぐるみ派。テディベアとかもふもふの犬のぬいぐるみがいつも遊び相手だった。今だって大好き。ぬいぐるみ専門店を見かければ頬が緩む。


「…………思い入れの違い、か?」 


 テレビの中の「マリン」が自分と同じ現実に存在する不可思議さ。あまつさえ触ることができるし、スカートの中を覗き込むことだってできる。しかも、私はその子の性格もその子が今まで何を行ってきたかもみんな知っている。そんな子を好き勝手できてしまうその圧倒的特権の魔力たるや。支配欲の具現化といってもいい。

 歪んでいる、とは思わない。

 他者を自分の好き勝手にしたい。それは人間なら誰しも思う願望の一つだろう。


「そう、願望なんだよ」

「願望? 永遠に歳をとらない美少女を籠の中に閉じ込めていつまでも眺めていたい、とか?」

「うーん、私はそういうのにすごい惹かれるけど……コラッ! ドン引きするな! そういうのだけじゃなくて、もっとピュアというか」


 自分にとって大事な存在を現実の存在にしたい。

 私にとってはそれは彼方の向こうにいる女の子たちだ。

 物語の傍観者でしかありえない自分がどうにかして近づきたいと願った末の結晶。

 もっとも自分には形にする能力はないから、お金を払って叶えるわけだけど。


「別に特別なことじゃなく、ずっと大昔からどこにでもある話でしょ。昔の人にとってのそれは神話の神様だったり、歴史の英雄だったりなわけだし」


 私が話を終えると音谷しのはしばらく神妙な表情で考え続けていた。

 その横顔を見ながら―――ふとなぜ音谷しのがすごい女なのかが改めてわかった気がした。

 音谷しのはゆっくりと私の顔を見つめるとやがて言った。


「エミコはおかしい」


 ガクっ。


「おかしいとは思っていたけど、本当にヘンな人だったんだね」


 ガクガクっ。

 あれ、結構いい話をしていたと思ったんだけど、なあ?


「エミコは本当にバカだねえ」

「あんたねー…………」

「あはは、エミコはほんとバカだ…………くくく、苦しい」


 くつくつと涙まで流して笑い転げる姿に私は早々に匙を投げた。けれど、苦り切った顔とは裏腹に全身を巡る感情はそれほど悪くない。

 それにしてもよく笑うなあ。

 怒って、笑って、そして、横顔に深い不安をふっと浮かべて。

 最初に会ったときはフィギュアよりも表情に乏しいヤツだと思っていたのに今はこんなにもいろんな顔を知っている。それがなんだか面白くて。

 会話の途切れ目はいつも唐突だ。

 物語のようにきれいに纏まって終わることなどありはしない。時間の切れ目に気付いて慌てて栞を挟んでまた明日。伏線も流れも何もかも次に持ち越し。


「じゃあ、またな」


 話せなかったことは次に話せばいい。

 だから、いつも忘れてしまう。

 「また」という言葉にどれだけの願いを託しているかを



***


 

 気持ちのいい日だった。

 好天は今だに続いていて暑くもなく寒くもない。真綿に包まれたような柔らかい光の中を歩いているとソシャゲの周回をしていることがいかにも阿呆らしく思えた。

 教室に着いた後も窓から差し込む陽の温かさはスマホを眠らせ続け、船をこぎながらとりとめのないことをうつらうつら頭に浮かべていた。

 ―――新しい部活のことを調べないとなー。

 ―――やっぱり面倒くさいなー。

 音谷しのが来ていないことに気づいたのは三時間目の体育でボカロ好きの米村さんと柔軟のペアを組んでいるときだった。互いに身体を天井に反らせて誰得の胸を強調しながら私は「あいつ、本業に戻ったな」と思った。


「えっ―――」


 私の声にとてもよく似た声が教室に響くと教室中の視線が私に集まっていた。担任も前田さんも良原さんも米村さんもその他有象無象のクラスメイトの多くがどこか同情するような視線を送っている。なぜだ? なぜみんな私を見ている?


「知らなかったの?」


 前田さんが小声で尋ねるが、返事が返せない。担任は私の様子を少しだけ窺うとやがて言葉を重ねた。


「音谷さんは既に出国しているそうです。急なことでみなさんも驚いたでしょうが、たとえわずかな時間でも彼女と時間を共有できたことを―――」


 足元がグラグラ揺れているような気がした。

 HRホームルームが終わっても立ち上がれない。やがて教室から私以外誰もいなくなった。しかし、教室の扉からヒョイとあの女が平然と入ってくるような気がしてくる。

 椅子から立ち上がるとやっぱり足元が揺れ、最初の一歩がよろめく。

 ああ、そうか。

 目の前が真っ暗になるとはこういうことなのか。

 自分に起こったことを理解すると今度は唐突に怒りがこみあげてきた。

 音谷しのはいつだってどこまでも音谷しのだ。

 そんなこと最初からわかっていたじゃないか。それを怒るほうがどうかしている。私はあの女に何を期待していたというのか。

 窓枠の影が焼き付いたリノリウムの廊下を歩いていると制服のポケットが揺れた。震え続けるスマホを見てみれば二奈先輩からのLINEだった。

 取り留めのないことを返信していると頭の隅で連絡手段は途絶えていないことに気づいたが何食わぬ顔でスマホを閉じる。

 あの女に謝ってほしいのか―――違う。

 あの女に感謝してほしいのか―――絶対に違う。

 千回近く通い続けた道を歩きながら、うんざりするほど何も変わらない風景を眺めながら、私は考え続ける。

 私は音谷しのにどうしてもらいたかったのだろう?

 秋葉原の夜に悩みを打ち明けてもらいたかったのだろうか。

 しかし、いくら考え続けてもおそらく最後になったであろうあの一日に後悔の入り込む余地は見いだせなかった。それどころ記憶が少しも色褪せていないことに驚く。

 目を閉じると鮮明に思い出すことができる。

 キラキラと輝く電気街のネオン。

 朝から歩き続けて疲労困憊なのにそれでも尽きることのない会話のネタ。

 何がそんなにおかしいのか、ケラケラと笑い続けるヲタク女二人。

 自分の部屋に戻るとまずはカーテンを開いた。紫外線を含んだ自然光がアクリルケースに入り込み、並べたフィギュアの経年劣化を進めた。

 静かだった。

 当たり前の話だが、フィギュアは話したりしない。

 私はこの静寂の中で今までどう当たり前に過ごしてきたのだろう。


「しの」


 乾いてひび割れた声がむなしく響く。

 とうとう最後まで口に出すことのなかった、たった二文字の単語。


「あはははは、なーにやってんだか」


 自分にツッコミを入れると気持ちは凪いでいた。

 センチメンタルを続けるには私の残念ボッチの経験値はあまりに多すぎた。手に入れられなかったフィギュアを諦めるよりももっと容易く非プラスチックに見切りをつける。そういえばあの女と最初に会ったときも私はそんなことを言っていたな。ここで伏線回収かー。

 私は結局死ぬまで独りボッチなのかなあ。

 五臓六腑にドライアイスをぶち込まれたような恐怖に捉われかけるが、そこは必死に考えないようにする。そんなことよりももっと現実的なことを考えなきゃ。


「そうだ、フィギュアだ」


 机の上には秋葉原の戦利品が積まれたままになっていた。あの女に唆されて何やら大量に買ってしまったがどうしたものだか。ま、商品そのものはいいものだ。きっかけそのものは残念至極だが、参戦するにはいい機会なのかもしれない。何よりネタとして面白い。

 ボークスやコトブキヤの袋からメイクパステルやらサンドペーパーやらを取り出しては部屋の貴重なスペースに振り分けていく。それらをどうにか都合をつけると最後に二つの紙箱が残った。一つはキャラグミンの秋山殿。

 もう一つは版権ブラックの「海外製」ガンプラも吃驚のあの超高難度ガレージキットもどき。

 普通に考えればあの女へのトラウマを開封することなどせず、秋山殿一択なのだが、


「せっかくだから、オレはこの白い箱を選ぶぜー!」


 私の潜在能力ポテンシャルではこの先何年何十年かけたとしてもあの女のフィギュアに辿り着けることはまずない。そして、世界一の可能性を秘めたはずのガレージキットは埃だらけの部屋の隅にずっと放置され続けるのだ。

 もし再び開くとするならそれは音谷しのの名声が絶頂になり、そのおこぼれを与るときになるだろう。結局何にもなれなかった私は音谷しのとの過ごしたたった数カ月を宝物のようにずっと、ずっと自慢するのだ。

 だったら、真っ新なうちに見るのもいいのではないか。

 そんなことを脳のバックグラウンド処理の隅で思ったような思わないような。


「 うそ         」

  

 ―――世界は一つだけしかない。早いもの勝ちだから。エミコも自分のやりたいように変えればいいじゃない

 ―――エミコはフィギュアを大好きなのを私は知っている。フィギュアが大好きなエミコのフィギュアを私を見たいな

 ―――私の世界に来て。私の見ているものをあなたも見て

 

 箱の奥から白い光が輝きだすのを見た。

 あった。

 サイズは1/6。肩甲骨まで伸びた黒髪、白いワンピースとサンダル。肉感と幻想的な美しさも兼ね備えた肌。そして、妖精の住む湖を思わせるあの瞳。

 本物と唯一違うのはパーツが分割されたままであること。

 でも、あの『白い少女』のフィギュアだ。

 嘘、でしょ。

 まさか箱を開けた瞬間に彩色されたとでもいうのか。

 そんな馬鹿な!? 音谷しのは本当に本当の魔法使いだった…………?

 しかし、非日常の世界に入りかけた足を踏みとどめたのは私のヲタとしての経験だった。


「…………違う」


 体育館ではついに拝めなかった白いパンツに空いた凸状の穴に小指を入れ、その接続部たる柔らかさする感じさせる太ましい大腿部を人差し指で舐めるように撫でる。

 間違いない。これは加工されたものだ。

 つまりはレジンの複製ではなく、本物だということ。

 その瞬間、とても熱いものが腹の底からこみ上げてきたかと思うとたちまち頭に殺到した。そして、沸騰した大量の熱いものは目と鼻の孔から吹き零れていく。

 震える指でもう一度パーツの接合部を撫でるとポタっと涙が落ちた。

 切断面はコンマも無駄がない。

 まるで斬鉄剣で切ったかのよう。

 あの女はどんな気持ちでこのフィギュアを切り刻んだのか。

 どんな気持ちで自分本体よりも大事な作品を貶めたのだろうか。


「う、うう…………っ…………っ」


 こんなことしてほしくなかった。

 最高のフィギュアの価値を一銭たりとも落としてほしくなかった!

 音谷しのは間違っている。

 フィギュアを愛する者の一人として絶対に認めることはできない。

 でも、

 でも、

    私は今人生で一番嬉しいと思っている!


 ―――エミコは本当にバカだねえ


 パーツを全て取り出された箱には緩衝材だけが残されていた。

 手が伸びていた。白く濁ったプチプチが捲られ、やがて一枚の紙が姿を現す。

 A4のコピー紙に航空券の写しが印字されていた。

 羽田空港発、ニューヨーク行き。

 数字の羅列は残されたタイムリミットを示している。

 そして、憎くてたまらないSHINOの文字。

 矢も楯もたまらず椅子から立ち上がりかけたが、ネットの発見情報を鵜呑みにして痛い目に遭った数々の哀しみと憎しみが私を押し留める。

 すーはーすーはーすーはー。

 落ち着け、落ち着け、まずは呼吸を整えろと炭次郎も言っている。 

 航空券を隅から隅までチェックして見落としがないかチェックし、それも終えると今度はグーグルマップではたして本当に間に合うのかを確認する。私はトイヲタ。消費型ヲタクの頂点にして限定品求めて常に戦場を渡り歩く剣士、羽織のないモブヲタクとは違うのサ。

 うん、ギリギリ行けそうだな。

 さてと、ここでようやく腰を上げようとすると机の上でスマホが激しく震えたので心臓が止まりそうになった。バイブレーションに苛立ちが感じられるのは気のせいだろうか。

 液晶を見れば、はたして「音谷しの」。

 しかし、出ようとするなりブツリと切られ、怒りを感じる間を与えずに今度はメッセージが送られてくる。はてな、と思ってメッセージを開くと今度こそ部屋を飛び出していた。


「音谷しのぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっ!!!! ふざけた真似しやがってっっっっっっっっ!!!! チクショーっっっ!!! 絶対に許さないっっ!!!」


 メッセージは写真が一枚きりだった。

 空港にある土産物屋の一つなのだろう。昭和のおもちゃ屋めいた雑多な店内にアニメやマンガのグッズが所狭しと並ぶその中にフィギュアが一体置かれていた。

 見誤ることなどありえない。

 それはあの『黒い少女』のフィギュアだった。

 私でありながら私ではない少女は孫悟空やミカサ、セーラームーンに囲まれて儚げに立っていた。哀れなるかな。相方の『白い少女』から遠ざけられ、世界観ガン無視の中に置かれたらそりゃそんな顔もするだろうよ。

 駅に向かってペダルを全力で回転させる。昼間のぬくい空気はどこへやら、顔にぶつかる風は冬の気配を含んでひどく冷たい。しかし、腹の中にそれ以上に冷たいものが一秒ごとに大きくなり、闘争反応はオーバーリミットへ。


「それになんだ! 二万円って!」


 酸素を吸い込むと気づけば叫ぶ。

 腹が立つことに台座の前に手書きの「\20,000」のプライスシートを貼ってやがった! 自分がモデルのフィギュアは二百万円で私がモデルのフィギュアは二万円ってか。ふさげんな! 

 万が一でもフィギュアに造詣の深いギークやナードが目にしたら間違いなく二度とお目にかかれることはないだろう。いや、先入観のない海外の人間の方がむしろ買う。

 まずい、まずい。まずい!

 あのフィギュアを買う権利があるのは世界で私一人だけだ。

 私だけが音谷しのという原作を知っている。

 私だけが音谷しのという最高のろくでなしを誰よりも理解し、誰よりも嫌っている。

 私だけ、なんだ!



 快速急行が黄昏の中を吐き気がするほどノロノロと走っていく。

 速さと距離と時間の方程式に支配された私たちはどんなに早く移動する手段を持ったとしてもグラフの線を飛び越えるはできない。

 スーツ姿が増え始めた下り電車とは対照的にまばらな車内に座りながら私はいつまでも『黒い少女』のフィギュアを買えるかどうかだけを考える。

 ―――でも、不思議なものだ。むしろ酔狂といっていい。

 誰も彼も私に見向きもしない世界で私は一人微笑む。

 何もかもが感触や匂いですらも少しずつ仮想に変わりつつある世界で私はそれでも実体のあるフィギュアに拘っている。自分の手で触れ、自分の支配下に納めないと気が済まない。

 なんと時代錯誤な人間なのだろう。

 スマホを取り出すと高精細ディスプレイの向こうに少女の気配を感じた。

 情報化時代のこのご時世、あの女が世界のどこにいようとコミュニケーションはいくらだってやりようがある。人間関係における物理的距離の壁はとうの昔に取り払われたのだ。

 それでも―――。


    (私はあんたそのものに一切興味はないから。私が興味があるのは音谷しのが作るフィギュアだけだから。そこのところ勘違いするなよ)―――既読


 乗り換え駅まであと三駅。

 ジリジリとした気持ちで私はフィギュアが買われないことを祈り続ける。

 それはそうと、もしフィギュアが首尾よく買えてなおかつ音谷しのがまだそこにいたなら嫌みの一つでも言ってやるか。いやむしろ殴る。

 早く

 早く

 一秒でも早く。

 

     ―――NEXT GIRL MEETS GIRL

  

 

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