第2話 エミコとしの その2 さよなら、王子様



***


 

 音谷しのはろくでなしだ。

 みんな騙されている。

 『兄貴』をまんまとかっさらわれた上、期せずして自分のナドレまで晒したあの日の夜、ティエリアもかくやな屈辱の涙にむせた。しかし、幸か不幸かあれは音谷しの。模型雑誌限定のMSVな女である。所詮は1シーンのみの相手、何を気にすることがあろうか。


「私のフィギュアになって」

「ごめんなさい、音谷さん。言っていることが全くわかりませんわ」


 昼休み。

 音谷しのはいつものように前田さんの椅子に座るとこれまたいつものように完全栄養食のボトルを喉に流しこんでいた。ケミカルな臭いにたちまち食欲が吐き気に変わる。


「お金は出すから。私のフィギュアになって」

「うん。わざとやっているでしょ、あんた」


 驚きと好奇の視線は一週間も続けば日常になってしまうらしい。むしろ万年ボッチとどこか近寄りがたい有名人のカップリングを微笑ましく見ている節すらある。

 音谷しのは学校に通い続けていた。

 朝のHRホームルームから帰りのHRホームルーム、月曜から金曜まで五日間連続。それどころか学校外でもエンカウントする。家電量販店やリサイクルショップ、あげくは場末の模型屋にすら出没し、毎回コレ!といった掘り出し物を(私より先に)ゲットしやがるのだ。


「ああもう! ホント最悪!」

「昼休みが来る度に誰もいない場所を求めて徘徊するほうが中学生的には最悪だと思うけど(ごくごくごく)?」

「うっさいうっさい! 一人で予約開始情報を確認しているときが私には至福の時間なの!」

「廊下の踊り場の隅でスマホを見ながらニヤニヤしている顔(げふー)、とても気持ち悪いからやめたほうがいいよ(形容しがたい添加物臭)」


 スマホの液晶に映る私の笑顔は確かにキモいが、その横に並ぶ私ばかりのサムネイルはドン引きを超えて背筋が本能的に寒くなる。マジデヤバイヨ、コノヒト。


「うん、資料だから。これも資料(カメラぱしゃり)」

「やめて! 仲がいいように見えるでしょ! 委員長ポジの良原さんにこれ以上慈愛の表情を浮かべさせないで!」

「エミコは私のフィギュアになるから(別に問題ない)」

「(断言)もらいましたー。というか、なんで私なのさ。あんたと私じゃ体形も顔の造形も大してレベルの違いはないでしょうが」


 音谷しのはボトルを音もなく置くと私をじーっと見つめた。


「えっ……!」

「鏡でやってみたけど、自分の(パーツ)はよく見えないもの」


 ……うん。それはそうと、その飲み物ほんのり塗料の臭いがするけど、大丈夫?

 音谷しのに付き合っていると話が進まないのでまとめるとこうだ。どうやらこの天才現代芸術家先生が珍しく学校に来ているのは(フィギュアの)資料を集めるためらしい。女子生徒を凝視したり、スケッチしたりしていたが、一人ぐらいはフル可動でポージングができるモデルが欲しいと。いかがでしたか? 気に入ったら私のアフィから高額トイを買ってくださいね!


「……モデルをやってくれたらあのフィギュアをあげるわ」

「よっしゃ、乗った!」

「一人で何を言っているの、エミコ?」


 夕方にはまだ少し早い時刻。大学病院に行くであろう高齢者がまばらに座るバスの車内に私たちはちょこんと座っていた。県道を進む車窓は中古車のディーラーとラーメン屋とパチンコ屋ばかりで実に目に美味しくない。終点地である美術大学の生徒らしき姿は無いが、彼女たちはこの風景を毎日眺めてどんな想像力をかきたてられるのだろうかとふと思う。


「ラブコメの導入部だったらこんな流れになるんじゃないっすかねー」

「絶対にない。ありえない。私のフィギュアが報酬だったら時給1200円のエミコは一年間私の奴隷だよ。そこまで欲しくないから。一年間も雇うくらいなら超精密スキャンをして3Dモデルにする」


 造形作家先生は生身の身体そのものにまるで関心がないようだ。国家や民族がなくなる程情報化されていない近未来になったら義体にするんじゃないだろうか。ま、それは私もだけど。


「結局やるの、やらないの、どっち?」


 バイトは母親のコネ頼みの身としては時給1200円はチートだ。

 消費型ヲタクはどこまでも金にシビアなのである。


「すっごーい! 君はお金をいっぱいもってる―――くそ、なんだよ。全然出てこねーな。やっぱ辛ぇわ」

「フレンド(ドヤ顔)」

「ちゃんと言えなくていい。そりゃ(グッドな表現だったのに使えなくなって)辛ぇでしょ」


 キャンパスの隣ともいえる場所に音谷しののアトリエはあった。PS初期のポリゴンのような白い真四角の建物で小さなモミジと色鮮やかなプランターに囲まれた庭まである。日常系萌えアニメならお茶とケーキをいただきたいところだ。


「エミコも買えば? 体が軽くなるよ(小さくサムズアップ)」

「カナダ人が全員あんただったら虚偽広告で訴えられなかったでしょうね」


 門扉のすぐ横にある自動販売機には赤い牛やらモンスターやら星やらが大量に並んでいた。うわあー、クラブ(語尾上げ)みたいだー。なお後日聞いたところによるとこの自販機は卒業制作やらで徹夜続きの学生の拠り所であり、そこから思わぬ出会いにつながったとか何とか。


「親とかいないでしょうね? 公開処刑だったら時給千円割り増しだから!」

「どっちもいないから。エリナのほうは……うん? あの人どこ行ってたっけ? まいいか。関係ないし」


 モラトリアムを早々に完了させた級友は空気清浄機とルンバのモーター音だけが響く無垢フローリングを歩く。その背中を、ホームエレベーターを潜り抜ける顔を私は一瞬見惚れた。


「ふ、ふーん。ずいぶんきれいじゃない? 社員とか、あーアシスタントとかいるの?」

「ここは伯母さんが勝手に来てなんかやってる。それ以外は…………お金とか契約とか権利とかそういうやつは会社の人。クリエイティブなことは私一人だけ。道具とか材料欲しいときに電話するぐらい」

「はあ……。アンタ、てほんと別世界の人間なのねえ。実感した」

「なにそれ」


 エレベーターの扉が開く。止まることなく、当たり前に。


「世界は一つだけしかない。早いもの勝ちだから。エミコも自分のやりたいように変えればいいじゃない」


 今日最後の白色光が遠くの窓から差し込む。少し眩しくて顔がほんのり熱い。


「時間がもったいないから早くして」

「…………まったく。あんたはホントに」


 本当に本当にまったくもったくもうだ、コノヤロー。文句の一つでも言いたいところだったが、アトリエの中身が目に入った途端、そんなものはおろか思考の全てが吹っ飛んでしまった。

 私とてフィギュアヲタの端くれ。悔しいとか羨ましいとか思うことさえあれど、驚くことはあるまい、と思っていた。ため息がつくほど広いスペースにLED照明つきのショーケースが何台も陳列され、せいぜい作品ごとにきっちり展示されているぐらいだろうと。ま、まあ金さえあれば誰でもできるレベルの話だ。


「ちくしょう……ちくしょおおおおっ―――!」


 確かにショーケースは並んでいた。ケースの中にはグッスマ・アルターといった大手メーカーから私でも現物を見るのが初めてというマイナーどころまで整然とフィギュアが並び、外箱も埃と紫外線対策で収納棚に一片の隙間もなく積まれている。

 けれど! フローリングの真ん中でロートアイアンの椅子にちょこんと座っている“彼女”を目にした途端、私は全身からしなしなと力が抜けるとがっくりと膝をついた。


「ふっ、負けたよ。さすがの私もオビツ150を出されたら完敗だ」

「動かすからエミコは足の方を持って」


 無表情を装っているが、音谷しのの口元がほんの少し緩んでいるのを私は見逃さない。どうやらこの女もまんざらではないらしい。

 オビツ150―――ドール素体メーカーのオビツが販売している文字通り150センチサイズのドール素体。有償オプションのアニメ風彩色済ヘッドも勿論ある。等身大だから着せられる服は無限大。コスプレだってし放題。秋葉原の店頭で見るたびにいつか手に入れたいなあと恋焦がれた。実際は自重に関節が耐え切れず自壊することもあるらしいが、そんなことたあ問題ない。これは心意気なのだ。等身大の女の子をまるまる一人手に入れるという。

 重さは本体だけで10キログラム。音谷しのと二人がかりで部屋の隅に運ぶ。その絵面は二時間サスペンスそのものだが、私には幸せな時間だ。「150ちゃん」の全身はノンノの表紙のようなゆるふわガーリースタイル。関節が目立たないように足は白いストッキングで包まれ、スカートの下から伸びるレースの柔らかさが実に心地いい。


「等身大いいよね…………」

「いい…………」


 部屋の隅に「150ちゃん」を置くとどちらともなく呟いた。


「日本人はとかくコンパクトなのが好きだけど、やっぱり大きいは正義だよね。嘘っぽさを消すために情報量が段違いに多くなるし何より―――」

「存在感が違う」

「そうそう! わかっているじゃん、音谷しの!」

「…………音谷しの?」


 ゲッ、まずい。テンションがテンアゲ↑↑になっていたせいでつい漏れてしまった。しかし、そこは気づかなかったふりをして言葉を重ねようとしたが、音谷しのは一転して乗ることはなく眉根を寄せて私の目を覗き込み続けるのであった。


「じーーーーーーーーーーーーーっっっ」

「ち、近い! あと3センチでチューしちゃうから!」

「なんでフルネームで呼ぶかな?」

「えっ。」

「私は日本にずっと住んでいるわけじゃないけど、フルネームは違う気がする」


 素直に驚いた。この女のことだから、どうせ発音が違うとかそんなところだと思っていた。


「フルネーム呼びは自称〝ライバル〟の意地悪ポンコツお嬢様キャラが名前を呼びたいんだけど素直に呼ぶのが悔しいときに使うものじゃない?」

「思いきりわかっているじゃない!」


 ツッコミを思わず入れるが、背中の冷や汗は消えない。

 間違いない。この女はヲタだ。現代社会が生み出した忌まわしき烙印スティグマを持つ人間の一人だ。そもそも私はどうしてこの女がヲタではないと思いこんでいたのか? 

 私が小さく二歩後退すると音谷しのは一歩前進するや否や手首をぎゅっと掴んだ。そして、冷たい手を持つ女は平坦な声で囁いた。その目は思いきり笑っている。


「すっごーい」

「???」

「エミコは私の自称〝ライバル〟なフレンズだったんだ。じゃあ、私は?」

「そんなのわかりきったことじゃない。あんたは芸術が得意なフレ―――」


 キラリン☆ 3センチ前のよく見るとマンガのキャラみたいに黒目が大きい瞳からそんな音が確かに聞こえた。その瞬間この問答がリアルフレンド申請だと気づき、たちまち全身の血がログインボーナスで最高レアを引いてしまったかのように血液が沸騰する。


「ゲフンゲフン、ええと…………あんたは……ええと……人がレアものを手に入れようとするときに横からかっさらうのが得意な、そう! トンビ! いや、トウゾクカモメよ!」


 遠足のときに看板で注意書きを見たトンビはともかくトウゾクカモメに至っては名前のイメージだけで言っている。いや、RPGでそんな名前の敵がいたっけ? 


「ふーん、まあいいや」


 音谷しのは私の手首をさっと放り投げるとサービスルームに入っていった。ようやく本題というか作業に取り掛かるらしい。扉の奥からガサゴソと音が聞こえてくる。


「とにかくアンタとの関係は利用するされるだけの関係だから。チヤホヤされたいのだったらせいぜい私に課金を惜しまないことね!」

「そっか。エミコと私はお金だけの関係というわけか」


 扉の隙間からのぞかせた表情はやっぱり伝達能力が欠けていた。


「そうよ。フレンド欄に人権キャラを出してなかったら容赦なく切るから」

「大丈夫。アトリエに入った時点で時給1200円は発生しているから」

「うそ、じゃあもうお金が?…………ってはっ!?」


 脳裏にちらついた資金不足で予約できなかった今月の新作が私の思考を3フレームばかり遅らせた。だから、このドケチ女が血の通ったことをするわけがないことにうわなにをするやめふぃgま


「お金だけの関係だものね」

「…………ちょっと待って。何それ。あんた、私に何をさせる気なの!?」

「フィギュアは質問しない」


 微笑みともに渡されたのは衣装一式だった。メインとなるのは首に細いサテンリボンが結ばれた藤紫と漆黒のドッキングワンピース。デザインはモダンクラシカルであり、純白のパニエやブーツ、アクセサリーも同様のコンセプトで統一されている。頭がおかしいことにワンピースを黒白反転させた下着(レースもリボンもあるよ!)まで用意していやがった。


「うん、いい」


 雇雇用主は着替えた私を見て目を細める。しかし、こちとらはショート寸前、今すぐ帰りたい。

 鏡の中にいるそいつは岸田メルのアトリエ系主人公をオルタ化闇墜ちしたかのような感じだった。腹立たしいことにいいセンスである。原作が自分でなければワンクリック予約したいところだ。


「あんた…………どこにこんな服持っていたのよ…………」


 もちろん返事などない。音谷しのは私の全身を時折頷きながら隅々まで確認すると、腰の大きなリボンが崩れないように恭しくサービスルームに導く。


「いいと言うまで身体を曲げない。できたら息もしない」

「できるか!」


 どうやら服の型を崩したくないらしい。

 部屋の中はまあすごかった。おまえは愛着の代償を物欲でしか満たせない子役女優かとツッコミたくなるような左右にずらっと並んだ保護カバーの群れ。その中心に楽屋からそのまま移してきたかのようなドレッサーが鎮座している。LED照明の輝度がいい感じでフィギュアレビューの撮影スペースに使いたいなあ。

 音谷しのは私を椅子に座らせると化粧を始めた。ドレッサーの上に並んだ化粧品の数は服に負けずすさまじく、資生堂からシャネル、あげくは判読不可能の文字が並んだものまである。


「動かない」


 強い力が顔に加わると私の顔はピクリとも動かなくなった。

 狭い室内に荒い鼻息と刷毛の細かな音が響く。

 そして、私は初めて音谷しのが魔法を使うのを目にした。

 少し大きめの手が握るタクトが振るわれると光はメロディーとなり、心拍音はハーモニーになる。そして、驚きは胸の奥に仄かな温かさを残していく。

 自分の顔が今どんな風に変化しているかは全く気にならない。だって、魔法だから。ビビディバビディブーで奇跡が起こるのはピタゴラスの定理と同じこと。

 ブラシが唇の上に小さな羽を残していく。かすかに冷たい軌跡は刺激閾になり、恥骨の更に奥から原初の喜びを湧き上がらせる。

 奇跡はどこにでもありふれているという。でも、奇跡を起こせる人はめったにいない。だから、私たちは目が離せない。瞬きができないから涙があふれてくる。

 舞踏会になんか行きたくない。

 灰を被ったままでいい。

 魔法使いの奇跡をずっと見ていたい。

 金と権力しか取り柄のない男なんかくそくらえだ。

 でも、いつだって時計の針は午前零時に終息していく―――。


「できた」


 理想のフィギュアがそこに“在った”。

 いや、まだ正確には受肉をしていない幻影か。

 どこまでも透き通った月夜を連想させる透明な漆黒をその女の子は纏っていた。ウェーブのかかったロングヘアは玲瓏に赤朽葉の色に揺れ、黒衣から覗く細い四肢は白百合のようにどこか不安げに佇んでいる。

 ああ、なぜだろう。

 この子を見ていると体育館で出会ったあの『白い少女』のことを思い出す。

 そして、無性に彼女のことが、光の中で燦々と輝く姿が泣きたくなるほど恋しくなる。


「…………あんた的にはどうなのよ?」


 ふと呟かれた声にさっきまで魔法使いだった少女はぱちくりと瞬かせるとマウスを動かす手を止めた。ちなみに撮影はまだ終わっていない。私はアトリエの中心に立ち続けていて、その周囲360度を脚立つき高解像度カメラの群れに囲まれている。昔、深夜に見たB級SF映画に出てきた虫型エイリアンバグに囲まれている気分だ。


「うーん、パーフェクト」

「疑問形ですらないんかーい」


 浮かれた調子のキータッチがカチカチカチカチと小気味よく響いていく。私はそれを聞きながら影の消えた光の中心で『黒い少女』の幻が舞い踊っているのを眺めている。


「『この子』をいくらで売るのか知らないけど、ちょーっとは私にロイヤリティが発生したりしない? 10パーとか」


 カチカチカチカチ。へんじがない。ただのどけちのようだ。


「さっきのは嘘」

「時給じゃないってこと!$ 愛しているわ、しのちゃん¥!」

「私の作るモノが完璧なんてありえない。そもそも完璧の定義すらわかってない」

「あー、そっちですか」


 カチ……カチ…………カチ。


「私はね、ほんの少し前まで本当の芸術は人種も宗教も文化も何もかも乗り越えられる、て思ってたんだよ。美しいと思う心は何億光年の距離だって変わらない、て思ってた」

「要は私の造形を見ろー!!!!、てことね」

「でも、ある科学雑誌を読んだらこんな記事が載っていた。ジャングルの原住民にマーラーを聴かせて彼らがどんな反応をするかという実験の記事。実験結果は彼らにとって交響曲は単なる音の羅列でしかなかった。芸術は絶対的なものじゃない。相対的・後天的なものに過ぎないんだよ」

「…………たった一つの論文でしょ? 主婦向けの健康番組じゃあるまいし、世の中の論文をいちいち信じていたら何も食べられなくなるわよ」


 口ではそう言うが、私には実感として音谷しのの言うことがわかる気がした。あの体育館の、あのブルーシートに積み上げられていたひと昔前のフィギュアたち。今の造形技術とそこまで差があるわけでもない。でも、ゴミ同然の値段にすらならないかつての“萌え”。


「…………怖くなった。もし仮にそうなら、未来の芸術を見せられたとしても今の私には理解できない。芸術家だと自認している私も未来ではゴッホの絵を買わなかった人たちと変わらないんだ」


 静寂の中で言の葉が紡がれていくのを私はただ聞いていた。その言の葉によってかつての奇跡の存在はおろかその意味さえも虚空にほどかれていく。


「結局、私の作品にお金以上の価値なんてない。そのお金だってたまたま運よく馬鹿みたいにお金が余っている人たちの趣味と私の作風が合っていたからもらえるだけの話。あの人たちの趣味に合わなくなったらそれで終わり。ゲームオーバー」


 そのとき私の頭に「白い少女」の残像がよぎった。しかし、私が口を開く前に音谷しのは窓の外を見つめると吹き消すように呟くのだった。


「芸術なんてものがもし本当にあるとしても、それはお金を払うものじゃないよ」


 ステンレス製のフレームの中で空が燃えていた。

 天空をどこまでも広がる紅と地平から染み込んでいく紺碧のグラテーション。

 いつまでも見ていたいのに見ていると胸の奥が締め付けられるように痛い。


「ごめん、もうちょっとで終わらせるから」


 音谷しのはそう言うと再びマウスを動かし始めた。

 カチカチカチカチ―――正確無比なリズムでキーが打ち込まれていく。

 

 作業が終わったのはぴったり15分後だった。



***


 

 パッケージの封に少しだけ刃を出したカッターを滑り込ませるとフラップに折れ跡が残らないように慎重に、ゆっくり開けていく。なお通販などで買った場合はパッケージに白い保護紙が巻かれていることが多い。あるのならこれも破れないよう更に慎重に開封していく。


(なんでそこで反論しないのかなー?)


 外箱から透明のブリスターを取り出す。これまたゆっくり慎重に。ブリスターは何か所か凹凸で封がされているので一つ一つ剥がしていく。このとき力を入れすぎるとパーツが盛大に吹っ飛ぶので厳に注意である。飛んだら最後、腐海の中をライト片手に延々と探す羽目になる。


(しのたんのすごいところを一番理解しているのはえみちーでしょ?)


 いよいよフィギュア本体が御開帳だが、その前にちょっと深呼吸。椅子から立ち上がるとすぐ横にある扇風機のスイッチをオフにする。たちまち首筋に滲む汗。部屋にクーラーはあるが、スペースというスペースが外箱とダンボールのジャングルなのでたちまちビル風状態。よって暑すぎるか寒すぎるかのどちらかしかない。


(何を力んでいるんや(うどんが似合う優しい目をした監督のスタンプ))


 フィギュアはブリスターから取り出してすぐに飾れないものが多い。複数の塗装パーツが干渉して「色移り」が置きそうな箇所、首とか腰回り、前髪の下とかに保護シートが挟まれているのだが、それらを外して、またパーツを組み立てなおす必要がある。


(えみちー、可愛い服着たんでしょ? 写真ハラデイ)


 無論、無理矢理剥がしてはいけない。破れないようにそっと、そっと…………。さっき扇風機を止めたのは風で飛ばないようにするためだ。外れたらブリスターに戻す。保護シートがどこに入っていたかをメモするのも忘れずに。仕舞うときに必要になる。


(えみちーがエンジェルだってこと知っているの私だけだったのに(TДT))

   (先輩気持ちい悪いです。)―――既読


 台座にフィギュア本体をはめてポージング。サンプルを見ながら、可動域の限界を見極めつつ、理想の姿を探す。それができたら崩さないように素早くアクリルケースの中に! ちなみに私が使っているのは照明付きアンドUVカットつきだ。自分本体はUVカットなんてしたことないけどね!


(私から奪われたことを一生忘れないでね。私も一生忘れないし)

   (先輩最低です。(メカクレ美少女スタンプ))―――既読


 眺める。眺める。とにかく飽きるまで眺める。

 ぽわーん。

 マンガだったら小さい花とか一緒にそんな擬音がつきそうなシチュエーション。

 私にとって至福の時間。

 ここまでに使った時間は30分。実に効率的。時間が少ない現代社会人でもすぐに楽しめる。

 でも、このたった30分が私というヲタクの全て。

 何かを創作するために研磨するわけでもないし、誰かを熱狂的に追いかけるわけでもない。

 予約して―――開けて―――眺めて―――しまって―――その繰り返し。

「なんだかなあ」

 アクリルケースから視線を外すとアマゾンとあみあみのダンボールで埋め尽くされた部屋の全貌が否が応でも目に入ってくる。女はおろか人間としても終わっている部屋だ。

 

 ―――『本当の芸術は人種も宗教も文化も何もかも乗り越えられる、て思ってた。美しいと思う心は何億光年の距離だって変わらない、て思ってた』


 私だってそう思っていたよ。

 ブリキのアンティークトイと同じように、たとえ希少価値がはるかに低いとしても、何十年後の未来でもその本質的な価値は絶対に変わらないと思っていた。

 いや、違う。

 その思いは変わっちゃいない。

 音谷しのが作り出した、あの神々しいまで美しいフィギュア。

 あのフィギュアが美しくないのならこの世の何が美しいというのだろう。

「…………アンタはすごいんだよ」

 たちまち腹の底から滲み出てくる感情を両手ビンタで締め出すと私は立ち上がった。

 机の横には真新しいダンボールが何個も積み上げられている。それらを脇にどかすと果たして〝それ〟はあった。ビックリするほど素っ気ない白い無地の箱。

「私が証明してみせる」

 箱を開けると世界一優美な人型があった。

 透き通るような肌はカラーレジンそのままの白。ところどころ気泡でニキビ跡のように凹が浮かんでいる。儚げに立つ幻影のような立ち姿は神経質に分割されていて各パーツを嵌めてみようとしても緩すぎるかきつすぎるかのどちらかでまともに接続できない。そして、あの瞳。宇宙の深淵にまで続くような光彩は全く何もない。デカールはおろかサンプル写真すらない。


『何?』

「…………無理だ」

『意味不明』

「無理だって言っているのよ! アンタ、何よ、コレ! コレをどうやったらあの『白い少女』になるのよ! というかサンプル写真ぐらい入れておきなさいよね!」


 電話の先であくびが聞こえた。現在深夜26時。


『見た人の美しい記憶をそのまま再現してほしいが故の〝配慮〟だよ』

「ぶっ殺すわよ!」

『エミコが思うがまま塗ればいいじゃない。自分の理想像を作れば。ガレージキットというものはそういうものでしょ?』

「むーり! 絶対に無理! 無理たったら無理なの! 私はサンプル画像のものがそっくりそのまま欲しぃぃの! それも楽してできるだけ安く!」


 バタバタ手足が動かしていたら埃と塗料の匂いが染みついてむせる。


「ゲホゲホーーっっ」

『エミコ、落ち着いて』

「お願いだからなんとかしてよー。私はアンタのフィギュアが欲しいの!」

『…………ありがと』

「はあ? 礼なんかいらないわよ! 私が欲しいのはサンプル写真よ、カラーレシピよ! そうよ、どうせアンタに頼んでもウン百万請求されるんだから、せめて代行……」

『いいよ、教えてあげる』


 初めて聞く喜色を含んだ声に私は本能的に嫌な予感を感じた。


『秋葉原に行こう』


 秋葉原―――ヲタクの聖地。それはフィギュアとて例外ではなく、新商品を多数入荷する大型店舗から細々と中古を扱う小店舗、それらが表通りから裏通りに至るまで点在している。嵩張るものをわざわざ現地で買う趣味はないが、それでもケースにずらりと並んだフィギュアを眺めているとフィギュアの文化と歴史の奥深さをこれ以上ないほど感じさせてくれる場所だ。


『ボークスに行こう。パテとか塗料とかガレージキットに何が必要なのか教えてあげる。一点モノをいきなり塗装するのが怖いのなら練習用のレジンキットを買えばいいよ。エアブラシもいっぱいあるから見てみよう。コンプレッサーもいいよ、電動ヤスリもいってみよう』


 くっ、自作厨め。テンションがFEVERじゃねーか。


「やっぱり私が塗装するのかい」

『エミコもやってみようよ。誰だって最初は初心者だよ』

「でも、ガレージキットは高いよ。何万円もするものに更に時間とお金をかけて、失敗すればパー。出来たとしても見本以下。効率悪すぎ」

『エミコはフィギュアを大好きなのを私は知っている。フィギュアが大好きなエミコのフィギュアを私を見たいな』


 好きな人間イコール優秀なクリエーターじゃないんだけどなあ。大昔に格ゲーで…………。


『私の世界をエミコも知ってほしい』

「うーーーーーーーーーー…………わかった、わかったわよ! あー、チクショー。ボークスはボークスでもドルフィードリームを買おうとコツコツお金をプールしていたのに! あんたのせいでジャンヌが色気も何もないコンプレッサーになっちゃったじゃない!」


 電話口の向こうでケラケラ笑う声が聞こえた。なんか少し悔しい。

 コイツは今どんな顔をしているのだろう?

 ちょっと、ちょっとだけ見てみたかったな。


『…………じゃあ、その日で。あとレジンキットを持ってきて。状態を確認したいし、現物を見ながらの方が説明しやすいと思うから。それじゃ』

 

 

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