プラスチックアイドル ~硝子の魔法を夢みるプラスチックガール~
希依
第1話 エミコとしの その1 プラスチック粉をかぶったお姫様
***
―――「フィギュア」、と聞いて何を想像する?
ちなみに「フィギュア・スケート」の方でなく、人形の方の「フィギュア」だ。
たぶん、多くの人は美少女フィギュアを想像するんじゃないかと思う。もちろん女性向けもあるし、アメコミ系や野球・プロレスといったスポーツ系だってある。
いずれにせよ趣味が“モノ”として具現化したものといえるだろう。
もっとぶっちゃけてしまうと数あるグッズの一つ。
趣味があって初めて成立する記号とさえいえる。
だからこそ「フィギュア」はそれ単体で存在することはできない。
異論はウェルカム。でも、かつて人気フィギュアメーカーが原作依存からの脱却を目指し、自らコンテンツを制作したものの、成功しなかったことを私は知ってたりする。今ではそのメーカーはむしろ積極的にグッズの企画・制作をやるようになったとか。
とにかくフィギュアは原作ありきなのを否定できる人はいないと思う。
でも、それでも、私は…………。
「アニメでヲタクの主人公が出てくる場面があるじゃないですか? ああいうシーンで美少女フィギュアが棚に大量に並んでいると無性に腹が立つんですよ! あれはレッテルですよ! フィギュアはヲタクのオマケじゃない! 独立した文化なんです!」
日曜昼前のドトール。imacやノートを広げる人たちの視線を集めるちょっと手前ぐらいの声量で私は訴える。もちろんテーブルをドンなどしない。あくまで振りだけ。
「うんうん、えみちーは本当にフィギュアが好きなんだねー」
すべてを受け止めるかのような慈愛に満ちた笑顔。
でも、実際は私の言っていることをリピートしているだけ。先輩のそういうところを短くない付き合いで知っているので私はそれ以上言葉を重ねるのを止めた。というか、すでに十分に話していた。定価の高騰が止まらないこと(倍ですよ倍)、商品化が遅いこと(放映後一年は長い!せめて半年!)、造形レベルの限界点(むしろ劣化してない?)………。
「どうしたの???」
あれだけ長々と与太話に付き合わされたにも関わらず、嫌な顔一つせずキョトンとした顔で私を見つめている。小首をかしげる様はラブコメのヒロインが抜け出たかのよう。こういうところを見る度に自分が男でなくて本当に良かったと思う。
『先輩』こと
半年前、中学デビューの妄想に憑りつかれ、ヲタ系の部室を徘徊する私を、かたや僅か一年で赫赫たる戦果を現在進行形で増やし続けている二奈先輩はどういうわけか気に入った。
結局私はヲタカーストの最底辺に収まったものの、先輩は変わらず声をかけてくれている。
魂を成形するゲスさが共振したに違いない。
「そういえば、えみちーは●●●●●見たー?」
メイドインECサイトで固めた外見はゆるふわな雰囲気そのまま。一方で化粧はせず、小物も小学生からのお気に入りを使い続ける等身大スタイル。こういう人はいつの時代もどんな世界のどんな立場でも他人を吸引するのだろう。それがたまたまヲタクだっただけのこと。
「二奈先輩、そろそろ出たほうがいいんじゃないですか?」
「えー」
「というか、先ほどから先輩のLINE、鳴りすぎです。その音の一つ一つに人の気持ちが籠っていることをたまには理解したほうがいいですよ」
「えみちーと話しているほうが楽しいしー」
この人との付き合いで既読スルーより恐ろしいものがあることを知った。開かなければ既読にならないのである。そのくせいざとなれば単独行動:A+なのだからタチが悪いことこの上ない。とはいえ、このままでは火の粉が降りかかりかねないのでトレイを取り上げる。
「あつぅ…………」
店の外は灼熱地獄。アスファルトから立ち上がる陽炎に意識を失いそうになる。しかし、二奈先輩は顔色一つ変えずぴょんと擬音がつきそうな足取りで歩き出した。さすが勝ち組ヲタ。リアルイベの物販列であらゆる気候を経験しているだけのことはある。
しかし、私たちが今から目指すのはさいスパでもアリーナでもない。どこの市町村にも一つはあるような駅から徒歩十分の市民体育館であった。
「地方主体のヲタイベント、てどうなんだろうねえ」
「さあ、期待していませんケド」
私の暮らす市は少し前ぐらいから地域振興の一環としてヲタク文化に目をつけた。とはいえ、舞台となった有名作品はまるでなく、せいぜい市内出身の漫画家が何人かいるぐらい。その僅かな線を無理やりこじつけて、同人即売会を企画したというわけだ。
しかし、その実態は専門学校の生徒やらヲタ系部活の部員やらをかき集めた、合同文化祭みたいなもの。せいぜい有名即売会の売れ残りを捌くのが関の山。あとは新人さんたちを温かな目で見守るぐらいであろう。とはいえ、行政がわざわざハコをタダで貸してくれるのだ。口ではボロクソに言いながらもイベントを楽しみにしている人は多かったりする。
「えみちー、どうしようー? コスプレの衣装を着る約束重なっちゃったよー」
「私をいくら見ても●●●ちゃんの衣装なんて着ませんよ。炎上するならお一人でどうぞ」
「えー」
ロビーでフレンズたちに囲まれる先輩を投げ捨てると私はエレベーターに乗った。
会場は整然とテーブルが並び、空調は惜しげもなく効いている。参加者たちが和やかに談笑し、コスプレしている連中は歓声とシャッター音を交わす。そんな登校日のような、同窓会のような上級ヲタたちの空気を振り払い、私はテーブルの路地をずんずん進んでいく。
そして、倉庫の鉄扉がすぐ横にある隅っこに“それら”はあった。出しっぱなしの無骨な掃除機からは埃が漂い、敷かれたブルーシートはくたびれている。そして、その上にはひと昔前のトイやらプラモやらが手書きの値札とともに大量に積んであった。
「……んふぅ!(これだよ、これ!)」
ガッツポ。知り合いもいない、他人の活動にまるで興味がない、人間的にもド底辺トイヲタの私がフィギュアの入れ替え作業も差し置いて来たのはまさしくこのため。
市政戦略課の担当者は同人界隈だけではなく、地域に点在するショップにも声をかけていた。全滅寸前の“おもちゃ屋さん”や店主のこじらせ感満載の輸入雑貨店、零細のリサイクルショップ……。はたして彼らはどうやって今日の人件費を捻出しているのだろう?
やばい、テンションが上がる。
そこに積まれた山はまさしく宝の山…………なわけない。
金銭的にプレミアがつくようなものはネットオークションが隆盛になる前にそのほとんどが「せどり」によって発掘されつくされている。ここにあるのは本当に無価値なものばかりだ。
例えば、ブリスター封入されたメカフィギュア。造形も可動も優れたものが作り直されている。例えば、2000年代に流行った萌え系アニメのフィギュア。今の感性では目がやたらと大きく見えるし、造形もやや怪しい。萌えも時代とともに変わるのだ。
そんなモノを定価で買いますか? 同じお金なら今流行っているものを買いますよね? しかも、経年劣化で壊れているかもしれない。Fateのように十年周期で人気が再燃焼する例外もあるが、それらもやはり新しく商品が作り直されるものだ。
でも、このゴミたちを私はこの上なく愛しいと思っている。
アメリカ人のようなガレージ(それと大金)があればまるごと引き取ってもいい。
誇張でもなんでもなく、本当にそれぐらい大好きだ。
直撃世代でもなければ、原作に思い入れもない、そんな私がなぜ埃と黄ばみとベタベタまみれのフィギュアやトイにこれほど心が惹かれるのだろう?
そんなことを思いながら、きっと宝物に違いない私の十四歳の夏は今年もまた一つドブの中に消えていく―――はずだった。
ブルーシートの山をあらかた眺め終え、脳裏に二奈先輩のことが浮かび始めたころ、ふとプルーシート組の隅にもう一つテーブルがあるのに気付いた。
そのすぐ後ろのパイプ椅子に座っているのは女の子一人だけ。
白いブラウスと黒のプリーツスカート、この辺ならどこにでも見られるようなありふれた公立中学の夏服。ずっと俯いているので顔は見えないが、肩まで伸びた黒い髪はろくに櫛すら入れていない。分厚い近眼眼鏡をかけていればひと昔前のテンプレヲタク女のようだ。
視線を少しずらすとその子の存在意義がすぐにわかった。
テーブルの上に素っ気なく置かれた小さな
こんなところにディーラーがいるとは。
さっきの学生サークルのテーブルにも立体造形はいくつかあったが、こんな場末のようなところで、それも女の子一人で出展している根性に私は目を剥く。
サークル名は―――「Shumhato」。
女の子のほうは相変わらずスケッチブックに鉛筆を走らせるのに夢中で私が側にいることに全く気づこうともしない。
だから、その奇異な存在に捉われるあまり、私のヲタとしての眼力は曇っていた。本質に気づけなかったんだ。
/でも、私は必ず気づいていたはずだ。
そのとき視界の中を光が横切ったような気がした。
/その瞬間のことを私は一生忘れられないだろう。
―――それは少女の
/天使を見た羊飼いの少女の気持ちが少しわかったような。
サイズは1/6、だろうか。しかし、モデルが小さいので物としては大きくはない。
肩甲骨まで伸びた黒髪と同じ色の瞳に白いワンピースと同じ色のサンダル。ありふれた設定で特徴らしい特徴はなく、自分の
「……なんてきれいなの」
漏れた声に反応して俯いた顔が上がるのが視界に入った。しかし、私の視線は石化したかのように動かない。そのフィギュアの造形があまりに素晴らしすぎたから。
人体は『
彩色もまた素晴らしかった。特に肌の色などはこれまで見たことがない。本当にそこに血が通っているようでありながら、二次元のキャラが持つ幻想的な美しさも兼ね備えている。塗料はおろか、どういった塗装技法を施されたかも見当がつかない。まさか妖精が作ったのか?
「いらっしゃいませー」
その声でようやく私は現実に引き戻される。
「えっと…………あなたがこのフィギュアの原型師さん?」
女の子は「原型師」という言葉をすぐに理解できなかったものの、少し考えるとこくりと頷いた。人形みたいな子だな、と思った。それも悪い意味で。顔のパーツの一つ一つは悪くないのだが、無表情で、体調管理もできていないのか病的に青白い。無論、他人の目を気にしているような要素も皆無。フィギュアが浮かべる、砂糖菓子のような微笑とはえらい違いだ。
「昨日できたばかりですよー。どうぞ見ていってくださいー」
平坦というか、棒読みの声。職業体験の小学生でももっとマシな呼び込みができるだろう。
「あはは、すごい造形ですね」
「よかったら一つどうですかー?」
コストコでイベリコ豚の試食を勧めるかのようにさらりと言うので私も「ううん、じゃあ……」と答えかけて後にハッとする―――というか、これ買えるのかい!?
「…………売ってくれるの?」
私がそう言うと女の子の瞳にほんの一瞬不思議そうな感情が灯った。が、すぐにそれは消えて再びこくりと頷く。
そりゃ即売会だから売って全然当たり前だ。けれど、私は高鳴る鼓動で全身が震える寸前だった。もしかしなくても震えたかもしれない。だって、だって!
「ごほごほ……、い、いくらでしょうか?」
いきなり「お願いですから、譲ってください」と言わなかったのはせめてもの私の矜持だ。
「二百万円になります」
「二百万円ねえ、やっぱそれぐらいするよねえ」
「はい、二百万円です」
困った。億が一レアものに出くわしたときに備えて二万円ぐらいは常に持つようにしているが、ちょっと足りない。しゃーない、ATMに行ってお金をおろしてくるか。
「現金ダメならスマホ決済で払えます。クレジットは無理」
そう言って提示されたスマホ画面には一行の英語と¥マークと2,000,000の表示。
…………あれ? もしかしなくてもこの子ガチだったりする?
「ちなみに二百万円、て百万円の二倍の二百万?」
「はい、その二百万円です」
「関西のおばちゃんがよく言う、要求金額がもれなく百万倍になるアレじゃなくて?」
「あなたは何を言っているんですか?」
二百万円―――脳細胞がフル回転で演算する。その金額を得るために母親の会社で事務をどれだけ手伝えばいいだろう? いやいや、無理だ無理。畜生、パンツでも売ってみるか。
「ごめんなさい。後生ですから二万円で勘弁してください」
気づけば床に額をこすりつけていた。わお、これから今日この日は土下座記念日だね!
「これじゃ足りない!? じゃあ、何が足りないか教えてよ! パンツが欲しいの? ならこの場で脱ぐよ! キャストオフするよ! しゃーない、上だってあげるから!」
「いや、いらないから」
私の渾身のキレ芸を奇妙な原型師はさらりと流す。
フィギュア一体で二百万円。その値段に見合うとしたら、イベント用に制作された一点もの、それも等身大サイズのものだろう。なんなら声優の直筆サインもおまけで。それでなければスワロフスキーとかプラチナとか材料そのものが高いか。
「高い! 高すぎるよ!」
「値段は私が決めているんじゃない。だから、どうにもできない」
乾いた声が空調の効いた体育館に響いた。
小さな声だったが、その一言は私たちの関係を確実に決定づけた。
彼女はふとフィギュアに触れるか触れないかの距離で手を伸ばした。そこに躊躇いや迷いが一切ない。まるで動物が子供を守るかのように私の視線を遮る。
―――“妥協は絶対にしない”、そう言われた気がした。
「ごめんなさい」
一体この子は何なんだ!?
田舎に片足突っ込んだ町の体育館で無名の、それも中学生の女の子が、とんでもなく素晴らしい神、神&神造形のフィギュアを聞いたことのないような金額で売っている。
何もかもが現実感がないというのに彼女の眼だけは
彼女は大人で私はどうしようもなく子供。そんなものを否応なく知らしめるのだ。
「ひどい」
「えっ?」
負け惜しみの末に呟きが漏れたが、私はすぐに無理やり笑顔を作った。
わかるのだ。他でもない私だからこそわかってしまう。このフィギュアは本当に二百万円の価値があると。それをもし否定したなら私のちっぽけだけどとても大切な何かが崩壊する。
「残念。本当に欲しかったけど、仕方がないね」
「……いいの?」
「まあね。フィギュアとの出会いは一期一会。欲しいもの全部を手に入れることなんて無理無理。お金もそうだし、予約に気がつかないときや凡ミスで予約そのものが吹っ飛ぶときもあるしね。まあトイヲタならこんなこと日常茶飯事だから! ときには笑って悔しさを飲み込むときも必要だね。本気で何かを欲しいという気持ちが人生を新鮮にさせるのですよ!」
ガハハ、と笑う私を見て、彼女はくすりと笑った。
「その考え方、素敵だと思う」
その言葉がひどく嬉しかったのか、それとも初めて見せた笑顔が予想に反して可愛かったせいのか、私の身体はカーッと熱くなるなり、そのまま固まってしまった。
「そんなにこの子が欲しいなら」
「えっ、くれるの?」
「なんでそうなるの。バカ?」
「バカ!?」
私を軽く睨みつけるとパイプ椅子の後ろにあるスクールバッグをごそごそ探った。やがて、取り出したのは一辺が20センチほどの白無地の箱だった。
「レジンの複製でいいなら」
開いた箱の中には梱包材に包まれた白いバラバラ死体もとい分割されたパーツが覗いている。レジンキット。シリコンの型にレジンを流して複製したもの。比較的簡易にできるためガレージキットの黎明期から使われているポピュラーな手法だ。
「これが……この子?」
「塗装する前に一個だけ
違う。即売会で本来売るべきはこっちである。だが、そうなるといよいよこの子は本気で一点もののフィギュアを作って売っているのだ。
「買う? 買わない?」
箱のふたは既に半分ほど閉じようとしていた。彼女の表情は少しだけ自信なさげでまるで自分だけが宝物だと信じているものを初めて他人に明かしているかのよう。
「本当は失敗したものは表に出したくないけど…………」
「失敗した?」
「うん。型を剥がそうとしたら型が壊れちゃった。だから、
「捨てるなんてもったいない! 私に頂戴!」
テーブルに身を乗り出して叫ぶ私の顔の前にチョキがぐいっと出される。
「二万円」
「……捨てるんでしょ?」
静かにかぶりを振った後の顔には一瞬浮かんだ懇ろな色はもう無い。
「ダメ、二万円」
「う、うう……っ」
「買うの? 買わないの?」
「……買わせてください」
「それでよろしい」
白い箱が渡されると彼女は要件は終わったとばかりに手元のスケッチブックに鉛筆を走らせ始めた。そして、それきり私に目を向けることは二度となかった。
***
あの白昼夢のような出来事から半月が過ぎようとしている。今も瞼の裏にはあの少女のフィギュアの幻影が焼き付き、たまに夢にさえ出てくることさえある。
結局あの不思議な原型師の女の子とはあれっきりだ。
別の場所で合流した二奈先輩と一緒にもう一度訪れると既にあの制服姿は跡形もなく消えていた。近くのテーブルで聞いてみるものの、彼女のことは誰も知らないという。顔の広い先輩ならもしやとも思ったが、先輩は首を捻るばかり。ネットで検索しても何も出てこなかった。
あのときはああは言ったものの手に入らなかったものほど余計に欲しくなるというのが人情。ましてや日々物欲だけで動くトイヲタならなおのこと。
焦がされる思いは日に日に高まり、ついには夏休みが終わる直前に都内で開催された別の即売会イベントにまで足を運んでみたりもした。が、情報を得ることすら叶わない。
「あは、えみちーのソレはもはや恋だねー」
「人の心を掌で弄びすぎて頭がドール素体並みの先輩から『恋』という単語を聞くようになったら私も人生終わりですね。ちなみに人の心もとりあえず義務感でワンクリック予約をするようになったらガチで終わりですよ」
「えー、私そんなことしてないよー」
新学期初日。一向に変わることのない暑さに身を焼かれながら私は二奈先輩と一緒に登校していた。ちなみに先輩はまもなくジェットブラックな思い出を共有した連中と対面するはずなのだが、特に何とも思っていないようだ。心底どうでもいいが。
「それで、えみちーは今日の放課後から張り込むの? 暑いのに大変だねー」
「いえいえ、転売屋の■■人と限定品奪い合うと思えば楽なもんですよ!」
あの女の子を探す唯一の手がかりは自分と同じ中学生だということ。あの制服から判断するに公立、それも同じ市内なのは間違いない。ならば放課後に一つずつ張り込んでいけば見つかるはずだ。突然夏休みデビューされたらアウトだが、それはまずないだろう(断言)。
「それで見つけられたら二百万円で買うの?」
先輩の言葉に足が一瞬遅れる。
もちろんそんなことはできやしないし、あの子の為人からいって値引きも無理だろう。
じゃあ、どうして…………?
もう何度も投げかけた疑問を改めて自分に問いかける。
するとお腹の底がむず痒いような、コットンパフで触れるか触れないかで撫でられたかのような、そんな何とも言えない感覚がいつものようにこみ上げてきた。
夜中に何気なくアマゾンを開いたとき、買うつもりはなかったが、かといって閉じるのも勿体ないような掘り出し物に出会い、刻一刻と決断を迫られつつあるときはいつもこんな感じだ。あるいはあまりに瞬殺すぎて売っている画面を物見遊山で一目見てやろうと「更新」を連打しているときのような。いずれにせよ、ろくでもない状態だ。
でも―――とにかく私は見たいのだ(何を?)。
二ダース分の思春期の塊で詰まった教室は冷房込みでも蒸し暑い。最低限のコミュで人間関係をこなしてしまうと私はスマホの中に没入する。ワンフェスのディーラーにあの子がいないか確認する作業の続き―――昨夜途中で終わった―――をするためだ。
うわあ、ここの『figma改造パーツ』やべえ。あっ、通販もやってる。どうしよ。
桑島法子版のモードレッド卿を買おうか悩みに悩んだ末、カートに入れよう、いややっぱりもう少しよく考えようと頭を上げたとき、ふと教室の空気が変わっていることに気づく。
ハッとして黒板上の時計を見るが長針はまだ担任の来る時間を示していない。
首をちょっと巡らすとどうやら違和感の正体はクラスメイトたちの視線にあるようだ。
そうかー、デビューしちゃったかー。
どれどれ、と私はトイヲタの呼吸、四の型『袋の中身をチラ見』を発動させた。これを秋葉原などで使うとさりげなく敵の戦利品を覗き見てもれなく怒りに震えることができる。
しかし、そこには金髪ギャルも不良パーマも邪気眼も激やせも激太りも誰一人いなかった。
「 うそ」
代わりにあったのはあまりにも―――ご都合主義な“偶然”。
机と制服の森に隠れて小さく揺れる散切りの黒髪。体育館のときと同じようにスケッチブックに視点ロックしたまま、一心不乱に鉛筆を動かしている。
いる。なぜ? 理解が追いつかない。どういうことなのか。
「誰だっけ?」
つい前田さんに尋ねてしまった。
「あー、アレは音谷さんだよ」
金属バットを一カ月半以上振り続けてすっかり黒くなった前田さんは口元を緩めた。
「ここだけの話…………いつもいないから、たまにいるとクラスが間違えたかと思うよね?」
ああ、と喉元から漏れる声とともに脳の内部でピシッという幻音を聴いた。それはシナプスにインパルスが到達する音。つながって一つの形になって。
そうか、そういうことか。そういうことなのか。
あの子は―――「音谷しの」だったのか。
「うん? 音谷さんが……どうもしないよね」
「うん、どうもしない」
笑って答えたとき、ちょうど教室のドアが開いて話はそこでおわる。
確かにどうもしないな。
だって―――、彼女は「音谷しの」なのだから。
音谷しの。
無色透明の
著名な現代芸術家を両親にもち、自身も物心ついてときから芸術家として活動している、らしい。何でも三歳のときに粘土で作った動物がNYのオークションで落札されたとか。その後も立体造形家として日々めざましい活動をしているそうだ。
といっても作品はすべて前衛的なものであり、クラスの誰一人として理解なんてできやしない。私も誰かに教えられて見たことがあるが、わかったのは色がビビットですげーとだけ。
本業が忙しいのか、学校にも来たり来なかったりなのでまあレアキャラだ。今日みたいに好奇心を抱く生徒は多いが、私に限ってそんなものがあるわけもない。二年で同じクラスでなったときも特に感慨もなく、今の今まで音谷しのという存在を意識することすらなかった。
まさか。あるいは、でも。キラキラと舞う埃のなかで佇む小さな少女の姿がちらつく。
―――これはやはり恋なのだろうか?
ぐるぐるぐるぐる。
意外にもまじめに授業を受けている姿も、好奇心と行動力が旺盛のクラスメイトに話しかけられても無表情のままの顔も、教師に渡された大量のおそらく事務的な書類に面倒な顔一つせずにペンを走らせている様も、その他諸々の音谷しのを盗み見るたびに二奈先輩の台詞が蘇り、私のワーキングメモリーを占有する。
興味の対象が
ぐるぐるぐるぐる。
音谷しのはなかなか一人になってくれない。常に誰かが関わるか関わろうとしている。外面も態度も私よりよほど■■■なのに。音谷しのを見る度にパール塗料のような感情に余計な色が混ざっていく。でも、大丈夫。見本写真と違ってもこれはこれでいいはずなんだ。
よし、と思って廊下に出た彼女の五秒後に自分も続く。猫背気味の小さな背中まで五メートル、見た目ほどATフィールドバリバリでないことは今までの観察でわかっている。
あとはTOUCHすればコミュイベントが発生。
「
え?」
音谷しのはゆっくりだけどきびきびした足取りで階段の奥に消えていった。
違う。背中まであと二十センチまでは接近できたんだ。
でも、声が出なかった。完全にフリーズしていた。
嘘でしょ? 体育館では普通に話をしていたじゃない!
二の腕を思いきり殴って気合を入れなおすと階段を降りる。それからはbotの如く自動的にターゲットを追跡するのであった。でも、もし●●できたらどうする? そのときはそのときさ。アマゾンの予約システムのような気軽さで私は足を動かしていく。
音谷しのの足が止まったのは家電量販店のおもちゃ・ホビーコーナーだった。時間にして実に四十五分後のことである。
音谷しのは棚に置かれたフィギュアを一つ一つずつ手に取っては食い入るように見つめていた。その横顔は学校ではついぞ出すことはなかった真剣なものであり、ようやくあの音谷しのに再会できた気がした。
でも、あらあらまあまあ。
この子は“初心者さん”じゃな。
よく二奈先輩に誤解されるのだが、ババはこういう場所にめったに来ないのじゃ。フィギュアは基本予約するものであり、店で買うものではないものだぞよ。来るとしたら予約ミスの挙句藁をも掴む勢いで現実仮想含めて彷徨っているときのみ。ああいうときは本当に辛く苦しいものじゃ。諦められるならいっそどれだけ楽かのう…………。
おおっと。トラウマスイッチが入りかけたが、要は“売れ残り”しかないということ。予約券が争奪のメカ系ならまだしも美少女フィギュア勢の私には暇つぶしにすらならない。
ふぉっふぉっふぉっ、ヲタクとしての格はどうやらこのババの方が上のようじゃな。
天才芸術家さんがどういう経緯でフィギュアに興味を持ったかは知らないが、ここはひとつクラスメイトの誼で歴史から技法、保存の仕方までこのババがじっくり教えてさしあげよう。
すっかり経験者の余裕で足取りも軽くなった私はその横にさりげなーく並ぼうとした。
「ふぉぅっ!?」
突然我知らず声が漏れた。と同時に手が反射的に棚へ伸びる。
意識できたのは「青」ということのみ。しかし、人間の直感とは無意識下でされた情報処理の結果が思考のプロセスをすっ飛ばして出力されたものと聞く。
そしてそれはやはり当然まさしく、『
外箱はボコボコの凹みだらけ、汚れもひどい。不良品置き場あるいはゴミ箱と間違えているんじゃね? でも、それでも『兄貴』だ。私は知っている。ヒロインでも主人公でもライバルでもない全身青タイツの『兄貴』が十年越しでついに可動フィギュア化が叶ったことを。頭がおかしいぐらいの可動範囲で劇中の最高にカッコイイ『兄貴』を全て再現できることを。というか、なぜここにある? 不良品か? ならばよし。私が直す!
「…………ふぉっ?」
「……………………」
手にしたはずの『兄貴』だったが、なぜか動かない。あまりの動かなさにケースの展示品に手を出すアホ行動をやっちまったか、いやん見ないで恥ずかちぃと思いきや現実ははるかに青(春)臭さに溢れていた。
私の腕と対照的に『兄貴』から伸びるもの、病的に細くて白いが、意外にもほどよく筋肉で引き締まったそれの持ち主は外箱をじっと見つめていたが、やがて胡乱な目を向けてきた。
「私が先に取った」
「は? 私のほうが箱を掴んでいる面積が広いんですけど」
「そんなのは後からなんとでもできる。私の指が箱の中心に近い。それが一番重要」
10センチメートル。生温かい息が触れるほど間近に迫った音谷しのの双眸からはオプティックブラストが漏れ出す勢い。私は私でアダマンチウム合金並みに意志は硬い。
掌から外箱が潰れる感触が伝わり、心が砕けそうになる。いくら状態が悪いといってもそれをさらに悪化させることはトイヲタの私には決して許せない行為だ。
「あのさ」
「なに?」
頭の後ろで冷静な私が「やめとけ」「やめとけ」と言っていた。でも、止まらない。私はいつもこう。感情と理性が常に喧嘩している。そして、いつも理性が負けるのである。
「音谷さんはこのキャラを知っているの?」
音谷しのの目が大きく見開いた。その理由は私がなぜ彼女の名前を知っているかではないだろう。望み通りの反応を得られて嗜虐心はさらに加速する。
「このキャラの動きとかポーズを知ってから買ったほうがいいと思うな。知らないと価値が半減以下だよ。これ作った人がどんだけバカかがわからないから」
フィギュアは原作ありきだ。グッズだ。それ単体で存在できやしない。
それは永遠の心理だ。
見た目に惚れて買ったものの、原作に触れてからその本当の魅力にようやく気づけたことがどれだけあったことか。PV数目当ての原作未見のレビューにどれだけ腹を立てたことか。
「音谷さんはたぶん資料のつもりで買うと思うから転売目的ではないと思うけど、でもさ、開封もせずに倉庫に眠らせておくのはもったいないと思うんだよね。とにかくこれは可動が神だから。ガシガシ動かしてナンボのフィギュアなんですよ」
ああ、そういうことか。
連戦連敗の
なんてことはない。私は彼女が羨ましかったのだ。
ヲタクに勝ち負けなどない。でも、敗北感を感じることはできる。そして、私は感じている。それが何一つ取り柄のない自分のたった一つだけの拠り所だったにも関わらず。
涼しい顔で大好きなものを領収書つきで買えない自分が悔しかった。
「原作を知らないと買っちゃいけない?」
本当に、本当にさりげない口調。キョトンとした顔に浮かぶのはごくごく単純な疑問。混じりっけなしの真っ新な「なぜ」を彼女はすっと吐き出した。
「かっこいいな、と思ったから。それだけだよ」
それから眉にしわを寄せしばらく考え込んだ後、
「そう、この子は本当にすごいんだ…………私が知らない魅力をまだまだいっぱい持ってるなんて。やっぱり私はこの子を買いたいな。この先もっともっと好きになれるはずだから」
そう言って野辺の花のような笑顔を浮かべるのだ。
掴んでいた手がするりと抜け落ちていく。
「えっ?」
それは誰の声だったのだろう?
最初に感じたのは頬を滑り落ちていく、やたらと温かい存在。唇をかすめたときの僅かな塩気でそれが涙だということにようやく気づいた。知らなかった。涙がこんなに静かに流れるものとは。こんなにも熱いものだったとは。ゴシゴシと目を擦ると鼻の奥がつーんとした。
「あはは……まいったなあ……アニメ以外で泣くなんていつ以来かなあ?」
そう言って苦笑いをすると音谷しのもにっこり笑った。そして、何も言わず北欧風の刺繍が入ったハンカチを差し出した。そのハンカチは柔らかくとてもいい匂いがした。
―――ということは全く無かった。微塵もこれっぽちも毛ほども。あの女はあろうことか私が箱から手を離した途端、一瞬の躊躇なくレジに向かいやがったのである!
「いやいや、この話の流れでありえないでしょ!」
「えっ?」
ビニール袋を提げて階段を登っていくところを捕まえると音谷しのは不審者を見るかのように額に縦皺を寄せた。
「ふざんけんな! 何が『北欧風の刺繍』だ!」
「一万円」
「は?」
「今の時価ならこの金額が適正」
のど輪をかけられながらも平然とした顔で宣うこの厚顔無恥さ。というか、プレミアついてるの知っているんじゃないの…………。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます