寒緋の怨

田所米子

寒緋の怨

 行燈の薄明りは、乱された前から覗く胸元を白く照らす。もっちりと熟れた肌は、触れればまさしく掌に吸い付くがごとしである。だからといって、その気が沸き起こりはしないのだが。

「あなた……」

 長い睫毛に囲まれた潤んだ瞳が放つ媚びは甘やかだった。一たびこの目に見据えられて、その気にならぬ男など世の中にそういやしないだろう。

 己がその例外であったのは、自分と妻と、どちらにとってより不幸だったのだろう。しばし自問した男は、柔な肢体をそっと褥に押し倒す。

「すまぬ。正月が明けたばかりで、いささか疲れておってな」

 しかし、ほつれた黒髪がかかる耳元で囁くのは、睦言ではなく弁明であった。

「寒さがいよいよ厳しくなったせいか、お前はますます調子を崩しているだろう。今日の夕餉も、ほとんどを戻してしまっていたではないか。だから今宵は、もう休め」

「え、ええ……。旦那様の御心遣い、ありがたく頂戴いたします」

 我ながら空々しい虚言であったが、人を疑うことを知らぬうら若き妻は、容易く騙されてくれた。親子ほどとはいかぬものの齢が離れた妻の、愚鈍とも言い換えられる純粋さには、何度助けられたか分からない。

「明日の晩は、助八の許で酒を馳走になる。ちと、商いについて。帰りは遅くなるから、お前は早く休んでおれ」

「はい」

 頬を桜色に上気させ、わたくしどもも助八さまご夫婦のように、子宝を沢山授かりたいものですねなどと、瞳を輝かせる様はいっそ眩いほどだった。

 一心に己を慕いまめまめしく尽くしてくれる可憐な、十六になったばかりの妻を裏切っておいて、いささかも胸が痛まぬと言えば嘘になる。だが胸を刺す苦味の分だけ、明日の逢瀬は一層甘美になるのだ。

 褌の中で疼くものをどうにか沈めつつ、妻の細い手を握る。

「お優しい旦那様の許に輿入れできたさきは、天下一の幸せ者にございまする」

 すると妻は、うっとりと目蓋を降ろして眠りについた。

 ――お前はほんに、幸せな頭をした女子おなごじゃのう。ほんに女子かどうか、疑わしいぐらいじゃ。

 宗次郎の頬に浮かんだ笑みがさきに見咎められなかったのは、夫婦のどちらにとっても幸福であったに違いない。

「では、行ってくるでの」

「ええ。どうか、足元にはお気を付けくださいね。思わぬものに足元を掬われて、お怪我をなさいませぬように」

 翌日、夕餉を済ませはやばやと三和土たたきに立った宗次郎を、さきは深々と頭を垂れて見送った。助八さまとおふみどのに、いつもお世話になっておりますとお伝えくださいと言い添えて。その言葉が旧知の商人仲間である助八夫婦の耳には入らぬことは、宗次郎だけが知っておればよい。

 反物を商う我が家から離れた宗次郎は、家々が並ぶ通りを抜ける。目指すは町はずれの、ひっそりとしたやしろ。いったいいつから捨て置かれているのか、堂に苔さえ結んだ社の境内には、しかし一本の寒緋桜が見事に枝を広げていた。

 緋色もあでやかな、釣鐘に似た花を付けるこの桜は、海原の向こう――元々は清の南方で生まれたと聞く。そんな桜が、どうして、どうやってこの薩摩に齎されたのか。

 まだ五つか六つだった宗次郎を肩車して、遠い昔に流行り病で亡くなった父が、琉球を経てやってきたのだと教えてくれた気もする。が、宗次郎が寒緋桜の下を目指すのは、彩りに乏しい季節、元日に華を添えるがごとく開く花を、亡き父母がこよなく愛していたからではなかった。

 眼に突き刺さるかのごとく澄んだ月の、白銀の光の下。凛と咲き誇った寒緋桜の幹に背を預けて、桜の化身かと見紛うような少年が、宗次郎を待っていた。

「平太」

 寒くなかったか、と白く透き通った面をした少年を気遣えば、その頬はたちまち頭上の花弁のごとく赤らむ。これまた寒緋桜のごとく赤い唇を吸うと、細い首までもが色づいた。

「宗次郎どの」

 うっとりと男の胸板にしなだれかかった少年は、見事な睫毛に囲まれた双眸を上げる。

 もつれるように朽ちかけた堂に入り、夜風を浴びて冷たくなった少年の着物を剥ぎ取れば、褌はこんもりと隆起していた。

「ああ、こんなに冷えているじゃないか。だから、中で待っていろと言ったのに」

「でも、少しでも早く宗次郎どのに会いたかったから」

 なんとも可愛らしい睦言を吐く少年の足指の間から、土踏まずにまで赤い蛞蝓を這わせると、少年の吐息は千々に乱れる。

 小さな足が十分に温まったのを見計らい、可愛らしい百合の蕾と、己の筋の浮き出たそれを擦り合わせると、しなやかな身体はぴくりと跳ねた。

 小さな唇を噛みしめ、眦を赤くする少年を更に可愛がってやりたくて、未熟な蕾を口に含む。二つの玉の付け根を、竿の裏を、鈴の部分をくまなくくすぐると、青い欲望はついに弾けた。

「今度はお前が満足させておくれ」

 言うが早いが、柔らかな白桃を割ると、まだ突起のない喉からは盛った雌猫の声が漏れる。親の目を盗んでこの社に足を運んでいる平太であるから、欲望の全てを注ぎこんで、無理をさせてはいけない。

「もっと。ねえ、もっと。もっと、」

 弁えてはいるのだが、稚い情人に愛らしく強請られては、つい腰使いに熱が入ろうというもの。

 二人して果てた後、しばしの名残を惜しむ最中。少年は男の耳元で無邪気に囁いた。

「姉上は。姉上はいかがされておりますか。まさか……」

 気づいては、おられますまいよね。

 愛らしい口元を持ち上げた少年は、宗次郎の妻さきの、三つ下の弟であった。

 士人の間では男の道を知らぬ者は一人前にあらずと囁かれる薩摩だとて、妻の弟に手を出せば、眉を顰める者もあるやもしれぬ。しかし宗次郎には、己の劣情の焔を抑えきれなかった。そも、父母を早くに亡くしてからたちまち傾きかけた店をなんとか立て直した宗次郎が、気ままな独り身暮らしを終わらせる気になったのは、平太のなんとも可憐な姿を垣間見たからなのだから。


 昨年の正月、姉のさきとともに晴着を纏って寒緋桜を仰いでいた平太の愛らしさは、桜の精もかくはあるまいとうならせるほどで。その美童ぶりに魅入られ姉弟の後をついて行った宗次郎は、油問屋を営むさきの生家に行き着いたという次第なのである。つまり宗次郎は、平太に近づきたい一心で、さきを妻にと望んだのだ。

 念願叶って迎えた白無垢姿のさきは、平太の姉だけあって麗しい花嫁であった。が、平太の可憐さにはやはり及ばなくて。

「平太は、義兄さま――宗次郎どのをお慕いしております」

 少年が好む甘味を携え、妻の生家に足蹴よく訪れた宗次郎と平太が心を通わせるまでには、一月もあれば十分だった。

 清国には、結ばれる定めの男女の足を赤い紐で括る、月下老人という縁結びの神がいるという。月下老人の紐で足を括られた者は、どんな障害があろうと必ず結ばれる定めなのだとか。

 初めて結ばれた晩、いつか肥前からやって来た商人に聞かされた海の向こうの伝承を語ると、平太は痛みを堪えてにっこりと微笑んだ。

「ならば僕たちの足にも、その赤い紐が結ばれているのでしょう。僕たちは男同士だけれど、きっとそうにちがいありません」

 ならばこそ宗次郎は、生涯をかけてこの義弟を愛し抜こうと誓ったのである。たとえさきが子を産もうと、平太が元服して妻を迎えようと、宗次郎が真に愛するのは平太のみだと。

「何も案じることはない。さきは相変わらずのおっとりぼんやりだし、近頃体調を崩して寝込みがちだから」

「なら、良かった」

 少年の懸念を笑って吹き飛ばすと、柳の眉はぱっと晴れた。

「次は、六日後に。姉上には、どうかご自愛なさいませとお伝えください」

 決してさきの耳には入れられぬ言葉を吐いて、平太はうっすらと雪化粧された境内から去っていた。

 愛しい少年を見送り、さて己もそろそろ戻ろうかと、堂の戸を開いた瞬間だった。

 かーん。かーん。かあーん。

 寒風を浴びて赤らんだ耳に、木に何かを打ち付ける、乾いた音が飛び込んできたのは。

 蛇のごとくはい寄ってくる恐れから目を逸らし、こんな季節に啄木鳥とは、と己を言いくるた直後。ざんばらに髪を乱し胸には鏡をかけ、三本の蝋燭を立てた五徳を被った白装束の姿が眼に飛び込んできたものだから。月代さかやきの奥に宇治の橋姫の昔語りが過ったのは、致し方のないことだった。

 妬む相手を取り殺すため鬼とならんと貴船神社に参拝し、下ったお告げ通りに二十一日も宇治川に浸るという荒行を達成した橋姫は、望みどおりに生きながら鬼となった。そうして妬む相手どころかその縁者をも延々と呪い殺していったという橋姫は、丑の刻参りの元祖でもある。

 人の気配など昼間にも絶えてない、だからこそ密会の場にうってつけの境内は、呪いを成就させる場にももってこいだろう。

 平太と別れてから、次の約束の日が訪れるまでの六日の間。宗次郎は、助八を訪れた帰りで風邪を拾ってきてしまったようだからと取り繕って、さきと床を離した。が、それはさきを裏切っているという後ろめたさがゆえであって、さきに恐れを抱いたがゆえではないはずだった。否、そうであってはならなかった。

 けれどもあの晩以来、夜毎の夢に現れる白装束の女は、紛れもなくさきの顔をしているのである。玳瑁たいまいの櫛など、珍しくもない。そう自嘲しつつも、あの鬼女が咥えていた櫛が、宗次郎が戯れにさきに贈った品であるように思えてならないのだ。

 次なる約束の晩の月は、あの鬼女が胸に下げていた鏡のように煌々と輝いていた。少年への愛おしさではなく、おどろおどろしい予感に駆られ、宗次郎は寒緋桜の下へと急ぐ。いまだ調子が戻らぬさきは、日が沈むと同時に寝床に入ったはずだった。

 夜目にも鮮やかな緋の花が咲き誇る境内は、雪でも降ればその音が聞こえそうな静けさである。下駄の音も、五寸釘が打ち付けられる音もしない。

 ほっと安堵に胸をなで下ろした宗次郎は、しかし次の瞬間、寒緋桜の幹に異変を見つけて凍り付いた。灰茶の幹には、藁で拵えられた人形ひとがたが、しかと打ち付けられていたのである。

 藁人形は、誰ぞの名を認められた紙と共に五寸釘で貫かれていたのだが、宗次郎にはその名を確認する余裕などありはしなかった。

 なぜなら、桜の木の根元には、先の逢瀬で堂の中で待っていろと言い含めたはずの少年が、血に濡れて倒れていたのである。

「――平太」

 宗次郎は慌てて平太に駆け寄り抱き起したが、哀れな少年は既に事切れていた。

「あらまあ。今宵は随分とのんびりしたお出ましですこと」

 からころと下駄が鳴る音に釣られて頭を上げれば、月のごとく輝く鏡を胸にかけた女が、嫣然と微笑んでいた。ただし、その装束は血を吸って、寒緋桜よりもなおいっそう鮮やかな紅に染まっている。

 同じく朱に染まった面を微笑ませたまま、さきは宗次郎ににじり寄る。一本歯の下駄が寸毫の躊躇いもなく踏み折ったのは、確かに宗次郎がさきに贈った玳瑁の櫛であった。

「……さき。お前、気付いて、いたのか」

 血潮を啜って泥濘ぬかるんだ土に尻餅をついた宗次郎の喉から飛び出たのは、女のようにか細い悲鳴だった。

「ええ、もちろん」

 これがあの、密かに頭の出来を疑っていたさきだとは。到底妻だとは信じられぬ姿を前にして、宗次郎の身体は金縛りに遭ったかのごとく動かない。

「気づいて、知らぬ振りをしていたのか。何も考えていないような顔をして、平太を呪っていたのか。実の弟だというのに、殺さずにはいられないほど」

 せめて時を稼ごうと、唯一呪いから逃れた舌を動かす。するとさきは――否、鬼女は平太にそっくりな目を大きく瞠り、二、三度瞬きして破顔した。

 白い喉をのけぞらせて嗤う女はやはり恐ろしいが、その恐ろしさは先程までとはまた趣を異にする。

「何を、笑う」

 さきが平太を殺したのは、平太を、ひいては平太と宗次郎の間を妬むがゆえであろう。さきがこうして宇治の橋姫に倣って白装束に身を固めたのは、平太から宗次郎を取り戻すためではないのか。

「――ああ、おかしい。こんなに笑えることは、この先もう二度とないでしょうね」

 平太とともに、散々見下してきたさきに、こうも嘲笑われたままではいられない。場違いに湧いてきた怒りと共に、己の推量を絞り出すと、女の哄笑もまた止んだ。

「こんなに愉しませてくれたお礼に申し上げますけれど、私は、あの子とあなたが乳繰り合っていようが、一向に構わなかったんですのよ。むしろ、好都合だと思っておりました。だからこそ、目を瞑っていたのです」

「ならば、」

「ただあなたとあの子が、助八さんとお酒を呑むだなんて下手な嘘で誤魔化せるだろうと、私を見くびっていたのが気に入らなくて。しいて理由を挙げるとすれば、これぐらいでしょうか」

 濡れた尻は寒緋桜の根に、汗が噴き出る背は幹にぶつかった。つまり、これ以上はもう逃げられない。

「折角ですから、最期にもう一つだけ教えてあげますわ、旦那さま」

 平太の胸をも貫いた守り刀の切先は、冷たい月光を浴びて煌めく。振り下ろされた刃は、宗次郎の心の臓に突き刺さった。

「丑の刻参りは、最中を誰ぞに見られてしまったら、呪いが己に跳ね返ってくると伝えられています。私が平太を殺したのは、つまりそのため」

 最後の力を振り絞って振り返る。すると、五寸釘が深々と貫いているのは、紛れもない己の名であった。いや、藁人形に突き立てられているのは釘のみではない。頭に、胴に、脚に。無数の針が、両の脚の間に特にびっしりと、怨みを込めて突き立てられていた。

「とどのつまり、あなたにこれ以上生きていられると邪魔というか、不愉快だったのです。それに、此度はどうにかなりましたが、これ以上不都合・・・が起きるなどまっぴらですから」

 さきの着物を濡らす紅蓮は返り血にしてはおびただしい。しかも下腹部を源としているようでもある。しかし、少年の躯を押しつぶすように倒れ伏した男が、その意味を解したかどうか。

「あなたと平太の死は、心中であると私が証言いたしましょう。何分心中はご法度の世の中ですから、あなたと平太は葬儀もあげられず、埋葬もされぬでしょう。ですからどうか、獣の腹の中でも仲良く乳繰り合っていてくださいませ」

 哄笑と下駄の音を響かせて、女は寒緋桜の根元から遠ざかる。一本歯は肉の欠片を軽やかに踏み潰し、ばしゃりと波立った紅の潮には緋色の花が一つ、ぽとりと落ちた。

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寒緋の怨 田所米子 @kome_yoneko

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