梅雨と傘
季節柄、次の短編は梅雨を題材にした話をお願いしますとのことだった。
ありがたいことに、僕はもう何十年も作家をやらせていただいているのだが、ちょっと愚痴を聞いて欲しい。
正直ネタ切れである。
毎週毎週、短編を投稿して来て、うん十年。僕はAIではないのでそろそろアイデアが枯れていた。毎週、何処かへ足を運んで常に新鮮なネタを摂取しているのだが、どうにも限界らしかった。ところで先週食べた青森のマグロはうまかった。新鮮なネタであった。ホースホースである。
さて、何か妙案はないかと僕は、行きつけの喫茶店でいつものようにネット検索をかけた。
梅雨の元々の語源は中国からで、
だがこれも一説に過ぎず、結局のところ、語源ははっきりとしなかった。
つまりこれは、世界が大いに広がることを意味する。自由である。正体のわからぬ梅雨は自由に弄くり回して良いのである。水を得たり! 我、魚なり!
舞台は梅の町である。住居の屋根は熟した果肉が赤く梅色。道路を埋め尽くす梅カー。人々は梅に足を滑らせ、梅拾い業者なんて流行ったりする。梅立て地なんか海岸に出来ちゃったり。
梅雨の季節には梅の嵐。人々の毎年の悩みだ。反梅団体と、梅推進団体の間でちょっとした小競り合いがあり、夏には梅祭りという名の梅のぶつけ合い戦争がある。なぜ梅の季節ではないかというと、タネは抜く準備期間が必要だからだ。当たったら危ない。
「……面白くなる要素が皆無である」
一人ツッコミ。
この感じはあれだ。『男の娘ニンジャ』を描いたときと同じ。勢いだけで書き、地雷を踏んだあの時のダメさ加減と同質。こういう時は何もやらぬが吉。地雷原を歩きたくはない。
僕は冷めたコーヒーを口に含んだ。
しかし奇妙なことに、かの史上最悪の駄作、『男の娘ニンジャ』がマニアに受けて実は長編化しているのだから世の中はわからない。あれがなければ、僕はもっと早くにのたれ死んでいたことだろう。男の娘好きなファンは大事にしたいが、さすがにこの歳で女装して握手会に出る勇気はない。あれも黒歴史だ。
なんて昔日の記憶を蘇らせながら、僕はぼんやりと窓外に目を向ける。
土気色の侘しい空の元、赤や黄、青などのカラフルな傘が往来していた。
雨は陰鬱の象徴であったり、悲しい物語の舞台装置として語られることが多い。けれども僕は存外雨が嫌いではなかった。
人知れず夜降る雨は孤独に泣くレディのようで、昼食時に暴れる天気雨は無邪気な少女のよう。例えば今日の雨は、きっと恋人に振られて大泣きする乙女のような雨だと思う。
学生時代、梅雨の時期は有り難かった。
部活が休みになることを願い、てるてる坊主を逆さに吊るしたものだ。村雨はヒステリックかと思えば実はお淑やかな女ですぐに止み、夕立は気まぐれな女でよく帰り道、振り回されたっけ。あるいはこんな風に雨を擬人化したキャラでいくのもいいかもしれない。
しかし世界観や設定よりも重要なのは人間をどう描くか。奇抜なアイデアはもはやAIに勝てはしない。人間を描くというニッチな分野のみが、人間作家の生き残る術。
とはいえ僕は本当に人間を描けて来たのだろうか。
人の心に刺さるような何かを残せたのだろうか。
人生の節々で疑問こそすれど、答えを出さぬまま生きてきた。そればかり考えて最近の筆はめっきり遅くなっていた。
答えを出してしまえば、書く意味がなくなってしまう恐ろしさがあったのかもしれない。そもそも僕はなぜ本を書いているのだろう。特にこれといったヒット作を生み出せたわけでもなく、人生と情熱を注ぎ込んだ長編を生み出したわけでもない。昔はただ単純に楽しかったことだけ覚えているが、今、面と向かって「書くのが楽しい」と言えるかと聞かれれば自信はなかった。おそらく僕にとって書くという行為は呼吸と同じだった。呼吸を止めてしまえば僕という人間は存在意義も価値も失って死を迎える。
気がつくと僕はシルバーと呼ばれる年齢になっていた。はて、ゴールドは一体何歳からだろう。プラチナ老害とか呼ばれてみたい。
今日までの人生は、ただ漠然と、ただ淡々と毎月の誌面に小説を投稿する日々だった。共働きをせねば、苦しい生活を余儀なくされたし、それが理由で僕らは子供を望まなかった。昔はその選択が正しいと夫婦共に思っていたけれど、こうして死に歩いて行くのが確かに感ぜられるようになり、急に不安を覚えたりする。
と、頭の中で思考を巡らせている折。
「すみません、そろそろ……」
と青年が苦笑いを浮かべつつ声を掛けた。店員の彼はチラチラと時計を見ていた。どうやら閉店時間からもう三十分以上も経っていたらしい。
「ああ、すまない」
結局アイデアは思い浮かばなかった。
僕は端末に腕をピッとかざし、会計を済ませた。こう書くと、SFチックではあるが、僕が歳を取っただけのことである。あの店員も生身の人間ではない。ヒューマノイドらしい。
やはりSFだった。
時の流れは凄まじい。いや、人間は太古よりもほとんど進化はしていないのかもしれないけれど、科学の進歩だけは凄まじい速度で進化していた。
AIやロボットは、かつてのSF作家たちが論じたように、もはや僕たちの生活に広く浸透している。中には作家AIなんてのもいて、戦々恐々としたのは記憶に久しい。
正直、物書きAIが登場した当初は疑っていた。
AIなんて代物が愛を語るには百年早いと。例えAIが愛を論じたとしても、単に演算の結果、口当たりの良い言葉を連ねているだけだろうと、過去の僕は疑っていた。しかし今となっちゃ、僕らの語る安っぽい言葉より、AIたちの研鑽された文章に人間は及ばなくなりつつあった。
彼らの書く物語に面白くないものはない。だからある種、売れもしない小説を書き続けるのは、一人AIとの戦争なのかもしれない。
店を出たところで僕は天を仰ぐ。傘を持ってきていなかった。雨が降り始めてからなんとか引き伸ばしにかかったけれど、閉店になるまで止みはしなかった。
出かけるときはカラリとしていたが、こんな季節に傘を持たず出かける自分は阿呆だとすら思う。僕はボケ始めているのだろうか。
「こりゃ、止みそうもない」
ポツリと雨粒がまぶたを叩く。
ぼんやりと見える駅前のローターリーには、ひっきりなしに車の往来があった。老若男女問わず、迎えが出入りしていた。見上げても空は一向に止む気配はない。仕方なくコンビニまで走るかと足を踏み出しかけた時、雨脚が急に強まった。
大量に振り落ちる雨はドラムロールのように地面を叩き、周りの雑音をかき消した。
まるで滝のような豪雨。
傘を忘れた人たちは足止めを食らって、しばらく止みそうもない天を仰いでいた。雨に踊らされる人々を傍観するのはなかなか愉快だ。科学が進歩しても、自然の前に人類の矮小さは如何ともしがたいのが摂理であろう。
振り返った僕は、AI店員に少し雨宿りさせて欲しいとのジェスチャーを向ける。彼は渋々頷きみせ、閉店準備に取り掛かった。
タクシーを呼ぶほどの距離でもないし、さてどうしたものか。
若くエネルギッシュだった昔ならば、カップ麺が出来上がるまでの間に家にたどり着くのだけれども。
そうして風呂に直行して、こんな日にはカエルの歌でカラオケ。そして湯上りの一杯のことを考えるのだ。しかしもう結構な歳だし、転んだりして、服を汚したりなんかしてしまえば妻に小言を言われる。
不意に通知音が鳴り、届いたメッセージを開いた。
『どこにいますか?』
機嫌の悪そうな短い文面だった。
そうそう、言い忘れたけれど、僕が喫茶店に来たのは気分転換の他に、妻と喧嘩していることにあった。はて、夫婦喧嘩の理由はなんだったのだろうかと思い出して、僕は苦笑した。語るべくもなく実につまらない話である。妻らない話である。……いや意味がわからないか。
僕は短く『喫茶店 傘を忘れた 雨宿り』と5・7・5調で返した。すると『お夕食? それともお風呂? 迎えいる?』と5・7・5。『食べなさい しばらく待機 待ちぼうけ』と返信すれば、『今日は雨 朝まで待つ気? お腹減る』とのやりとりを最後に妻からの返信は途絶えた。
十分経って雨脚が鎮まりそうもなければコンビニに行きゃあいい。このところ、雨に魅入られた僕は、もう何十本もビニル傘コレクションがあった。今更一本増えたところで趣味だからと言ってやればいい。これまで妻の趣味を散々受け入れて来たのだ。傘の一本や二本で小言を言われる筋合いはなかろう。
と、これが夫婦喧嘩の理由。本当にどうでもいい話であろう?
そんな中、人影が視界の中に飛び込んで来た。駅から脱出してきた若い女性は全身びしょびしょで、全部を拭き取るにはあまりにも小さ過ぎるハンカチで髪の毛を拭き取っていた。
その時ふと昔話を思い出した。まるで梅のように酸っぱい思い出に苦笑する。
「よかったら、」
と僕はハンカチをあげた。
「でも……」
「妻に怒られるのも慣れたものです。ま、今回ばかりは僕の方も反撃しましてね」
「奥さんと喧嘩中なのですか?」
「喧嘩というか、一方的に僕が拗ねてるだけというか。まあ、半日も置いたら妻の機嫌もけろりと治ってくれるもんですから、こうして喫茶店に」
「……あの、こんなこと言っていいのかわかりませんけど、奥さん、もしかしたら折れているだけかもしれませんよ?」
「謝ってあげました?」
「……いえ」
「女性はちゃんと言葉にして欲しい生き物なんです。そして、幾つになっても女性は愛されたい生き物で、だからごめんなさいよりも、ありがとうと言ってあげたほうが、きっと奥様もすぐに機嫌を治してくれると思います」
「そういうもんですか?」
「ええ、そういうもんです」
なるほど一つ勉強になった。
それから「雨、止みませんね」「ええ本当に」という当たり障りのない会話を最後に沈黙が落ちた。
しばらくして、見慣れた姿が近づいてくる。
妻だった。
彼女はわざわざ二本の傘を携えて迎えにきてくれていた。
車で迎えに来てくれればいいのに。
……あ、こういうのがいけないのか。そういえば、昔から彼女は大事なところでいつも言葉にしない。けれどよく気が利いて、僕はそれに甘えてしまっていた。
僕は妻から傘を一つ受け取ると、雨宿りしていた女性に「どうぞ」と渡した。彼女は「ありがとうございます」と丁寧に礼を言った。去りゆこうとする僕の背中に、女性は「あの」と声をかけた。
「いつでも来てください。書間おじさん」
僕は笑顔を作る。
「両親によろしく」
どうにも僕らの世界は狭いらしい。顔はどっち似なんだろう。
「また一緒にやりましょう。新しい創作を。言葉と音と絵と肌触りと味と嗅覚を足した、五感を、チョーっ、ビリビリ! 刺激する創作を! 皆で一緒に!」
古い人間からすれば、やっぱりSFだ。でも彼女の「チョー」なんて言葉遣いはちょっと古い。そんなことを思いながら僕は、むすっとむくれっ面の妻の元へ滑り込む。
「今度からは忘れないでください」
「いや、こういう日があってもいいかもしれない」
僕は傘を持つ妻の手にそっと手を重ね、濡れないように肩を抱き寄せた。
「ちょ、ちょっと。あなた……」
傘に弾かれる雨音は五月蝿く僕たちを包み込み、一切の雑音を通さない。
相合い傘をしたのは何年振りだろうか。
妻は周りの目を気にして恥ずかしがったのか、梅のように頬を染めていた。
「来てくれてありがとう。いつもありがとう」
すると妻はしおらしくなって、閉口した。
一拍の時を置いて、熱を帯びた妻の手がぎゅっと握り返した。そういえば、妻が僕を好きになってくれたという日も、彼女はそんな風に袖を摘んだっけ。
「何を笑っているのですか?」
「雨時々思い出し笑い、かな」
「夕方過ぎには会話も弾むでしょう」
正直妻は、お天気お姉さんとしても現役で通用すると
「ところであなた、帰ったらご飯にします? お風呂にします? そ・れ・と・も、」
色っぽい上目遣いを妻は向けた。
「女装します?」
夫婦喧嘩のそもそもの原因である。さすがにこの歳で女装はきつい。
「そこは、わ・た・し? と言ってくれるのがテンプレなんだけどなあ」
すると妻は耳を真っ赤にしながら、耳打ちをした。
墓穴を掘るとはこのことだった。僕は焦げそうになった。
「……うん、はい」
結婚してからと言うもの、主導権を握られている気がしなくもない。
ちなみに彼女は癖になってしまったらしく、言葉遣いは昔のまま。
「あと、それから」
僕は大事なことを言っておこうと思った。
「世界が進化し変わり果てても僕はずっと変わらず、愛してるから」
なかなか自分でもキザったいセリフが決まったと思う。まるで小説の主人公みたいだ。
「じゃあ今日はスッポン鍋にしましょうねー。旦那さんがケダモノになったらどうしましょ」
「……シモいな!」
「あら、夫婦なのですから、そこはご愛嬌ということで。ふふ、今夜は寝かせませんよ〜」
やっぱり妻は大事なことを言うのが恥ずかしいようだ。いや、もっと恥ずかしいことを言っている気もするけれど。
「私も……ですから」
そう言って妻は指を絡めた。
言葉を込めるように僕は握り返す。
「……私はたくさんいただいてお腹がいっぱいです。あなたはいただけてますか?」
「未だにこの現実がフィクションかと思うほどにね」
彼女は嬉しそうに笑みを零した。
多分僕は彼女の色んな顔を見たくて、物語を見せたかったのだと思う。出逢った時から彼女の笑顔は無邪気な少女のようで、その笑顔を見ると僕は不思議と幸せをいただける。
「お慕いしてます。これからもずっとずっと」
そんなわけで
僕とアリサは雨の中へ消えていく。
『届かない恋文(梅雨と傘)』 完。
短編、お一人語り 碧咲瑠璃 @aosaki_ruri
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