後編
「雪シネマの興行を君も見たのかい?」
ボレックス*2を
「いや、僕は観ていない」
夜にぼた雪が降った日の翌朝には早起きをして、霧が出ていれば、スキーか自転車で雪原を走りまわったけれど、雪シネマを見ることはついに出来なかった。
「
そう父親からきいて、僕の雪シネマへの
家のすぐ裏の雪原が
「映画演出論」とか「撮影技法」といった講義の合間に学生達は会話を楽しむのだったが、僕はそのなかに
たまには面白い話題を出せよと、友人の一人から
「雪シネマ」を語りだすと、周りにいた友人達はもちろん興味を示したが、それまで僕達から少し距離をおいてフィルムの編集をしていたFも、やわらかい視線を
「
翌年の冬、Fが僕の実家に泊まりに来たときの母の感想だ。男友達の家に一人で泊まりに来るなんて、どんな
Fは東洋系のアメリカ人だった。
「似たような話を聞いたことがあるわ」
Fと話したのは、この時が初めてだった。
「祖父から聞いた話よ。祖父は、中国の北部でモンゴル人か中国人にきいたらしいの」
Fがお祖父さんから聞いたという話は、
冬の朝、霧の中に迷い込んだ者が、森の妖精や動物に案内されて幻を見せられる。幻は
何時間も観つづけていた
「
ボレックスのファインダーを
「
「単純なスラップスティックじゃないのかな。ただのドタバタだから、面白かったという感想だけしか記憶に残らない」
「あるいは、
「私は、
この時、Fは
雪電影を観た者は、裕福で健康で幸せな人生をおくる。雪電影を観た者は長生きをする。そして、雪電影をみた者は、
彼が食うに困ることはなかったにせよ
「起こさないでくれよ。
記憶のスクリーンに映る雪電影を楽しみながら
長寿、
僕は、映画学校を後二ヶ月で卒業する予定だった。
映画制作を専攻していたにもかかわらず、僕は映画監督や脚本家やカメラマンになろうとは思っていなかった。友人達は、自作の脚本やフィルムを
映画をつくることが人生を
卒業資格を得るために大学に提出する論文を僕は既に書き上げていて、「映画観客の心理動向」といった
一本の映画は個人の生き方を大きく変える力を持っている、という映画への
映画が、それを観た人間の人生に直接かかわるなんてことが、本当にあるだろうか。
確かに、多くの映画は、僕に涙を流させ、僕を笑わせ、何日も心を去らない
自分の才能に
「
友人が言った。
広い窓が天井近くについているため、その喫茶室から見える
窓に眼をやる度に、単調な降雪に
「映画も演劇も確かに
気象学校の学生だった彼も、僕と同様、卒業式までの学生生活最後の休暇で、帰郷していた。
「君が観て楽しいのは観測箱だけかと思っていたよ」
「幻の中の
幻という言葉から、僕は、雪電影を連想した。
「
雪シネマも雪電影も決して空想の産物などではない。観察可能な「現象」だろうと、友人は強調した。
「僕は子供の時、正月から一ヶ月間、毎日早起きして、霧の日には裏の雪原に出かけたんだ。でも、雪シネマを見ることはできなかったよ」
「王爺さんが正月からひと月の間と言ったのなら、君は期間を間違えていたかもしれない。中国の
少年時代の好奇心が、復活した。
僕はその友人から、この地域の過去十年間、冬一月から三月までの気象データを借り受けた。
もう、二月に入っていたから、間にあわないかもしれない。しかし、僕は雪電影の研究を止めようとはしなかった。現実味の無い作業に僕の時間のほとんどが奪われたが、馬鹿げたことをしているとは、これっぽっちも思わなかった。
温度、湿度、降雪量、などなど
明日だ。今年の雪シネマは、明日興行される。それも、すぐ裏の雪原で。
僕は期待に踊る心を独りでは
「私も今日あたり、電話しようと思ったのよ。祖父の古い友人を訪ねたり
Fのほうが先に
「明日の朝、雪シネマが興行されると僕は思う」
「私、行っていい? どうしても見物してみたいの」
「本当に見物できる保証はないぜ」
「それでも行くわ。私には予感があるの」
その日の夜、最終到着の汽車からFは降りた。
駅まで迎えに行ったときには、ぼた雪が降り始めていた。
「こんな凄い雪は見たことがないわ」
一粒一粒に
窓からもれる明りが、外の雪景色をわずかに見せている。その雪をみながら、二人は夜中まで話し込んだ。雪や映画や、雪シネマのことを。
それぞれの持つ期待を可能な限り言葉にして出し、それでもなお興奮の
Fは、もう母の部屋から起き出していて外出の支度を終えていた。
玄関のドアをあけると、冷たく重量のある空気が足元に入り込んで来た。
「スキーで行くの?」
「いや、自転車で行くんだ」
僕は
雪の上を自転車で走るなんて、想像も出来なかったに違いない。Fは、僕が自転車を二台出してくるまで、冗談だと思っていたらしい。
「タイヤが沈まない?」
「うん、雪がカチカチに凍っているからね」
おっかなびっくり、Fは自転車をこぎだした。
「東に向かって走ってみよう。
数十秒ほど走っただけで、僕らは濃い霧の中に突入した。
「雲の中を走っているみたい」
Fは、はしゃいでいる。
「生きていること自体、幻みたいなものかもしれない」
僕は友人の言葉を思いだした。
この世で最も
「まるで、雪電影を見ているようだ」
王爺さんの笑顔が、霧のなかを
「おや?」
光が微妙に変化した。
僕らは自転車をとめた。
真正面から霧を分けながら異質な光線がゆっくりとやってきて僕らの目の前で一時停止した。そして、ちょっとためらうように二、三回渦をまいたあと、ふっくらと僕らを包み込んだ。
二人は自転車を降りた。
「音が聴こえないか?」
「聴こえるわ。チンドン屋さんよ」
Fと僕は、顔を見合わせ、微笑んだ。
「雪シネマの興行宣伝だ」
ぼんやりと
Fは、慌ててカメラバッグからボレックスを取り出した。
「雪シネマ」とレタリングされ、リアリスティクに
ポスターやブロマイドや
そして、ついに
「皆様ようこそ。本年度初興行、雪シネマのロードショウでございます」
僕は、感激のあまり
「まさか人間は見ていないでしょうね」
こちらに横顔を向け、ほかの誰かに語りかけるように狐が
「誰も見ていないよ」
「見ていませんよ」
僕らは、
「まさか人間が、それも、二人で見ていないでしょうね」
「見ていないよ」
「二人でなんか見ていませんよ」
「もし……」
狐は
「もし見ていたら、どのように
僕はFの顔を見た。
「二人とも、楽しい楽しい人生をおくらせてあげればいいわ」
Fは、ニヤっと笑って大声でこたえた。
「よしよし、それなら二人とも、とびっきりのハッピーライフを
その合図を待っていたように、
カシャカシャと映写機のまわる音が響き、
ラストカットはフェードアウトで終わったような気がする。
クレジットタイトルも流れたようだった。しかし、スクリーンが霧の中に溶けるように消えたと同時に、主演の名前も助演の名前も僕らの記憶から消えてしまった。
観客はFと僕の二人だけだったのに、狐の興行師は満足そうな顔で
全てが突然に消え、気がつくと僕たちは、もとの白い闇の中に立っていた。
Fは、いままでスクリーンが浮いていた宙を見つめて、口をポカンと開けたまま涙を流している。
「すごい長編だったね」
Fは、こっくりをした。
「ストーリーを憶えているかい?」
「何にも、憶えていないわ」
「僕も憶えていない。でも、面白かったね」
「ええ、ほんとうに面白かったわ」
ボレックスのフレームカウンターはひと
僕もFも、確かに雪電影を…
ワクワクするような人生の予告編を観たのだった。
了
*2 ボレックス:スイス製のムービーカメラ。
雪シネマ Mondyon Nohant 紋屋ノアン @mtake
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます