昼と夜、人と神の時間


 朝というのはすがすがしい気持ちがします。また、夜もなんだかしんみりとした空間で、それはそれでいいものです。でも昼か夜、どちらか一方の時間にしか生きられないとしたら、昼を取りますよね? 夜はなんだか怖いですもの。 

 その、夜は怖いという感覚も、日本の思想です。



 〈昼と夜の空間性〉

 その昔、人々の意識では昼=人間の活動する時間/夜=人外(神など)の活動する時間となっていました。そしてこの分類からもわかる通り、古代日本の「朝→ゆふべよひ→夜中→あかとき」という時間帯は単なる「時」ではなく、空間性も持ち合わせていたのです。

 夜が神の世界というのは、例えばカップルの男性が女性のもとへ通う風習は神婚を真似てできたものということや、夜がしばしば神聖さを示す接頭辞「さ」をつけて「さ夜」とうたわれていたことなどからもわかります。

 ただ、そんな難しく考えなくても、昔は夜中に人間が外を出歩くことは禁忌とされていたことを考えれば、納得がいきます。もちろん道が暗くて危ないというのも一つの要因ですが、それ以上に夜中は神や魑魅魍魎が盛んに活動する時間ですから、意識的な危機感があったのでしょう。



 〈朝と夕〉

 そのように考えると、昼と夜は完全に対立をしていますが、そのちょうど間ともいえる(1)と夕はどうでしょうか。大和言葉からひも解いていきましょう。

 まずは朝。【あさかげ、あさき(2)、あさぎり、(あさげ、)あさごほり、あささむ、あさじめり、あさなぎ】など、古代の複合語の多くが自然現象と絡んでいます。自然現象が多いというのはつまり、そこに「神のちから」があるということで、やはり朝も、夜と昼の境界の時空であることがわかります。


 次に夕です。これには「夕占ゆふうら」という面白い言葉があります。内容としては占いの一種で、夕方人通りのあるちまたに行き、そこで発された言葉のうち、何となく耳に残ったものを書き留めてその言葉を占いの材料とするものです。

 では一体なぜ耳に残った言葉が占いに使用できるかと言いますと、夕は昼と夜の境界です。境界であるがゆえに、もうすでに「人ならざる者」が人の姿として紛れていると考えられていたので、耳に残った言葉は「人ならざる者」の言葉としてとらえられるというのです。

 以上、言葉から見ても、朝と夕は境界の時空であることがわかりました。



 〈まとめ〉

 朝、昼、夕、夜の最大の特徴は、時間だけでなく、その空間までを意識させる概念であったということです。それ故に、単なる時間ではなく「時空の言葉」と言ったほうが適切なくらい、空間の意味が色濃くなっています。

 ちなみに古代では夜中がもっとも危険な時間なので、それに対抗するため男女がつがいとなるのが良いとされていました。だから夜中より少し早い時間の夜に男は「神」に扮して女性のもとへ向かうのです。




(1)正確にはアシタといえば、夜と昼の中間の「朝」の意味になります。しかしここでは少し面倒なので、アサとしました。アサは昼で、アシタはまだ夜の範疇です。

(2)「あさきた」は朝北で、朝吹く北風のことです。

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大和言葉と古代日本の思想 凪常サツキ @sa-na-e

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