浮かぶ瀬も

煙 亜月

第1話

 ことし県下で行なわれるインターハイの競技種目は唯一、剣道のみだ。が、それすらも中止だろう。つくづく本年は異例である。それでもわたしにはさしたる不安も抱かなかった。部活動もないし、高校自体もない。近所の神社にある道場も閉まっている。あるのは手のタコと竹刀だけなのだ。

 ちぇっ。

 またつまらぬガチャを回してしまった。「あーあ、もう。この提供割合、頭おかしくない?」そのガチャへつぎ込むわたしもわたしなのだが。

 イヤホンの外で母の呼ぶ声がする。時刻と状況、およびイントネーションからして――「勉強しろ」か。

「いまリスニングしとるけん、ちょっと待って!」素早く完璧な回答を述べたのち、ゲームを再開する。クーラーの温度も下げる。充電ケーブルにつなぎっぱなしのスマホがカイロなみの熱を放っていたからだ。

「あっこー、降りてきいや。ミホちゃん、きょうるんよ。練習付き合ってくれるってー」

 まじ? というより、正気? 

 ちぇっ。

 一応の身なりは整え、階段を降りる。あーあ、もう。朝っぱらから、あーあ、だ!

「あっちゃん、おはよう。勉強しとったん? すごいね」と、刺子の剣道着と袴姿のミホが頬笑む。

「ま、これでも高校生やん、なあ? ミホも、よく朝からそんな格好しとるよね。熱中症になるよ? 上がり? 一緒にゲームしてアイス食べよ?」

 ミホは口許だけで頬笑み、「形の練習、見てほしいんよ。わたし、高校でぜったい三段取るから。だから、ちょっとだけ」といった。

 ミホと稽古、か。目だけは笑わねえんだよな、この子。


「ちょっと、やめやめ。ミホ、なんか飲もう。死んじゃう。十中八九死んじゃう」

 稽古開始から三十分。炎天下である。

 家から持ってきたとびっきりの(つまりは軽い)木刀を提げ、ベンチに向かってよろよろと歩く。蝉だけが元気だ。でも、こうもうるさいと風情もへったくれもない。木のベンチにどっかと座りこむ。

 自宅からほど近いこの公園は、やはり子どもの姿は見かけない。だから安心して木刀を振れるわけだが、それにしても、だ。真夏の公園で女子高生がふたりで稽古しているだなんて、なかなか見られない光景だ。それに、真夏は木刀なんて振るもんじゃない――個人的意見ではあるが。

「うん、わたしも喉乾いた。暑いなあ」

 暑いなあ、じゃねえよ、ミホさんよ。ミホは自分のリュックを開け、スポーツドリンクの二リットルボトルを二本出す。渡された一本をわたしはがぶがぶと飲む。どうもかさばるリュックだとは思っていたが――こいつ、四リットル背負ってきたのか。つまり、二リットル分はわたしに汗をかけ、と。

「大丈夫?」ミホが気遣う。

「ミホなあ」そよ風に涼みながらわたしはいう。

「うん?」

「形なのに、なんであんなに離れてやるん?」

 ミホは口許だけで笑い、「全剣連が対人稽古、禁止しょうるんよ。だから三メートル離れて、屋外でならまだいいかな、って」とこともなげにいう。

「ああ――そうだね」わたしは二の句も継げずにスポーツドリンクを飲んだ。

 この期に及んで剣道か。それにしてもこの子、前世はぜったいサムライかなにかだ。いくら汗ばんでいても、ベンチでは背中つけるだろ、ふつう。ミホは身体の関節という関節が九〇度の角度を保たないと死んじゃうひとみたいな居ずまいだ。そんなひとがいるのかどうか知らないけど。でも、顧問も先輩もいないのに、この姿勢はそうそう保てない。わたしなら十秒でギブアップだな。

 タオルで顔をひらひらとあおぎながらわたしは訊いた。

「つーかさ、なんでそんなに頑張るの? っていうか頑張れるの?」

「なんで、って?」

「部活もないならインターハイもないし。一応、そこの県の体育館でちょろっとやるらしいけど、それにしてもほぼ駄目っぽいんでしょ?」

 ミホは少しうつむいて答えた。

「わたしね、勝ちたいの。相手がだれであれ、どんなかたちであれ。勝つのが好きだから。だから――」

「だから、インターハイは――」遮っていう。

「あっちゃんは、旗が上がったり公式戦で勝ったり、だれかに認められないと勝った気がしないの?」

 わたしは顎をくっ、と引いてミホの眼差しを見る。この子、遠山の目付だ。わたしの方を見ながらもその焦点は遥か遠景に結ばれ、それより手前にある物や人は、写真用語でいうならパンフォーカスで合焦している。視点が固着しないための技法だ――いまのミホの目は、その遠山の目付。眼球が動かないのが証拠だ。決して武装を解いた目ではない。

「それ、どういう意味? いや、まあ、別になんでもいいんだけどさ。剣道の勝ち負けくらい」

 ミホがくれたスポーツドリンクをたらふく飲んでしまった。表面がささくれだった木製のベンチに思い切り背中をあずける。ぬるい風で胸元の汗が冷える心地よさにだけ神経を集中させる。

「わたし、今ならあっちゃんに勝てる気がする」

「へえ、そりゃすごいわ」

 あまり気にも留めないで、ペットボトルを体操服越しに両脇、首筋にあてがいクーリングに努める。きょうも猛暑日だろう。そんな中、屋外で道着袴姿なのは正直、神経を疑う。でもミホならありえなくもないな。そう結論すると、わたしは早く昼が来るように祈った。噴水のそばの時計では、いま十一時ちょうど。さすがに昼食までには帰らせてくれるだろう。いや、帰る。決然と帰る。そしてクーラーとアイスとゲームだ。あーあ、仮病でも使えばよかった。これじゃあ本当に体調を崩しかねない。

「でも、試合とかじゃないし、あんまり意味ないかもね、わたしの個人的な感想だから」

 ミホの目はちっとも笑っていない。今度は遠山の目付ではなく、わたしの双眸を注視している。冗談も愛想もなにもないことに気づく。

「それ、どういう意味」

「えっ、別に大した意味じゃないよ。ただ、さっきの気位だったら、あっちゃんに勝てないかなあ、って」

 わたしは咳払いをひとつしていった。

「ええと、いまさ、あたしが三段で、ミホが二段、けどあたしのやる気と稽古量が足りなくて、それで、自分勝っちゃいそうだなって思ったの、ミホ」 

「あっ、ごめん。うざかった?」と、ミホは取り繕う。「だってさ、スポ少でもわたし、毎日泣いてたし。そのときでもあっちゃんは先生たちに褒められて、防具もみんなの中でいちばん先に着けていいよ、っていわれてて。中学じゃ部長じゃん? わたし、これでも悔しかったんよ。いつも負けてる気がしてた。だから――」

「休憩終わり。整列」わたしは勢いよく立ち、木刀を提げて園庭の中央へ走る。「え? な、なに、あっちゃん?」

「あと二秒!」ミホは大急ぎでペットボトルの蓋を締め、わたしを追い越して中央へ走った。

「遅い。――気をつけ! 神前に、礼!」三〇度の最敬礼を東京――すなわち皇居の方へ――する。「お互いに、礼!」十五度の敬礼。

「お願いします!」唱和する。

「この位置で立ち会う。わたしが下になるから打太刀。ミホは仕太刀。日本剣道形、太刀の形を七本すべて通す。のち、その場で打太刀、仕太刀を交替。一本目、始め!」

 インターハイもないよ。剣道部もだ。学校も、近所の道場も。だれかと竹刀を交える機会もない――そう思い込んでいた。わたしは年初めには場外へ出されていたつもりだったが、ミホはずっと、剣を構えていた。場内に踏みとどまることに心血を注いでいた。ミホには気位――平易な言葉なら、気合いで負けていたのだ。腕はわたしの方が上。が、その慢心はミホに「勝てる」と値踏みされたのだ。


「ミホ? 泣いてんの?」

 中学三年の夏だった。稽古が終わるとミホが給食室の裏で泣いていた。

「っく、ひっ、だ、だって、わたし三年生なのに、剣道九年やってるのに、また二年が試合に選ばれた。わたし、もう剣道辞めたい」

「ああ、そんなことか」

 ミホは明らかに逆上して「そんなことって簡単にいわないで! わたし、剣道やってて結果が出なかった。なにも出なかった!」

 わたしはミホの背中に自分の背中をあずけて座った。「でもさ、剣道って、勝った負けたでいい切れないじゃん。そりゃ、勝てたら嬉しいけど。実生活で役に立たないし、足も速くなんないし、暑いし、寒いし。あとなんかあったっけ」

「手とか足の皮剥けるし」

「そうそれ! 掌とか女子の手じゃないよね。筋肉の付き方もアンバランスだし」

「先生たちはモロ昭和だし、防具も臭いし」

「道着も乾かないし」

 ふたりで照れたように笑って立ち上がる。

「なんか、剣道って身体に悪いね」わたしがいうと、ミホは、

「なんで剣道やってんのかな、うちら」とつぶやき、

「わかんねえ」とわたしが答えた。

「だよね。なんか知らないけどやってるよね」と、ミホは幾分すっきりした面持ちでいった。


 違う。明確な理由があったのだ。わたしは、ミホがいたから竹刀を振れたのだ。自分より下の者がいる、その心地良さに立地したのがわたしの剣道だった。この休校で比較対象がいなくなり、あっさりとやる気を失った。勝負に貪欲なミホとの稽古を通じ、形勢は逆転し始めている。

 形の七本目が終わる。

「打太刀、仕太刀はその場で交替」わたしはかなりのめまいと吐き気を覚えながらも木刀を右手に持ち替える。

「はい!」とミホが応えたものの、「――あっちゃん? ねえ、あ、あっちゃん!」その場で嘔吐するわたしへ血相を変えて駆け寄る。「違う」よろよろと立ち上がる。

「えっ」

「違うんだってば」

 木刀を構えなおす。

 わたしは、勝ちたい。猛烈に。挑戦し、勝利したかったのだ。小学一年の時からずっとだ。――その相手がいまわかった。

 ああ、強くならないといけない。勝利は地位ではない。続くものではない。勝ち取りにいかねばならない。勝ちに来た相手への礼節として、わたしも勝つ。


 日本剣道形、太刀の形一本目。相上段から斬り合う形だ。仕太刀のわたしは諸手右上段を構える。斬られてでも、斬る。静かに気迫を込めた。

 上段の構えは別名「火の構え」――たぎるような夏だった。

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