フェルマータ

フェルマータ

 私はため息をついてタクトを置いた。

 ――ダメだ。どうやっても、音がそろわない……。

 区民会館にある集会室。毎月、第2金曜と第4金曜の夜はここに集まって、コーラスの練習をすることになっている。


「山さん、今日もいつものお店でいいでしょ?」

「今日は孫が来てるから、早く帰らんとね」

「亜紀ちゃんは、今日は彼氏のうちに行くの?」

「今、ケンカ中~」


 歌い終わったとたんに、おしゃべりに興じるメンバー。レッスンに来ているというより、おしゃべりの合間に歌を歌っている感じだ。


 ――分からない。なんで、こんな集まりのために、わざわざここを借りてるんだろ。お金と時間のムダじゃないの。


 うちの会社に合唱部があると知ったのは、ほんの1か月前だ。 

 加藤部長から、「指揮者が定年退職するみたいだから、4月から竹下さんがやってくれない?」と頼まれたのだ。

 何度も断ったが、「君にとって、いい勉強になると思うよ」と言われて、渋々引き受けた。


 ――面接で、学生時代は合唱部の指揮者だったなんて、言わなきゃよかった。指揮者が一番簡単そうだからやってただけなのに。


 合唱部のメンバーは20人ほど。30代から定年間際の人まで、いろんな部署の人が参加している。

 たぶん共通しているのは、それぞれの部署の落ちこぼれってこと。仕事ができる人は、こんな時間に、歌ってなんかいられない。


 ――私だって、ちょっと前まではそうだったのに。

 

 苛立ちを抑えながら、私はタクトで指揮台を叩いた。みんなが注目する。

「えーと、吉田さん、途中からテンポがずれてますよ」

「ありゃ」

 吉田さんは照れくさそうに鼻をかいた。吉田さんは、確か総務部の定年間近の人だ。

「5小節目から歌ってもらえますか?」

「5小節?」

 楽譜を見て「1、2、3」と数えている姿を見て、「あ、じゃあ、最初からでいいです。伴奏、お願いします」と私はピアノ担当の小松さんに頭を下げた。

 小松さんは地方の音大を出た後、結婚してうちの会社でパートをしているおばさんだ。


 ピアノに合わせて吉田さんは歌い出すが、途中からどんどんテンポがズレていく。

 私は途中で「ハイ、そこまで」と止めた。

「『いつもいつも』の入りが遅れてるんです。『つぶやいた』の後は一拍休み。そこで伸ばしちゃうから、入りづらいんじゃないですか?」

「いやあ、どうかな」

 吉田さんは真っ赤になっている。私は構わず、「もう一度、最初から」とタクトを振り上げた。

「吉田さんのソロだね」「頑張れ~」とまわりから声がかかる。

 ――いちいち励ますのやめてよ。ウザいから。

 その後、何回練習しても、吉田さんのテンポは直るどころか、ますますズレていった。


「時間になったから、今日はここまでにしましょう」

 リーダーの浜さんが手を叩いた。

「お疲れさまでしたあ」

「あー、今日もたくさん歌ったあ」

 みんな帰り支度を始める。私は吉田さんをつかまえた。


「いいですか。手拍子を叩きながら歌ったら、たぶんズレなくなると思います。こういう風に」

 手拍子を4拍子のリズムで打ちながら歌ってみせると、吉田さんは「いやあ、竹下さんは熱心だねえ」と複雑そうな表情で言う。

「竹下さん、歌うまいね。歌うほうに回ったら?」

「若い子の歌声があると、華やかだもんねえ」

 まわりのおじさんとおばさんは誉めてくれるが、私は余計にイラっとした。

 ――そういうのはいいから、ちゃんとしてよ。


 みんなが帰って指揮台を片付けていると、「お疲れ様。今日で2回目だけど、うちのメンバーはどう?」と浜さんから声をかけられた。

「どうって言われても……なんで皆さん、コーラスやってるんですか? 歌いたくて来てる感じじゃないですけど」

 私の言葉に、浜さんは苦笑する。


「まあ、うちのメンバーはコンクールに出るために練習してるわけじゃないからね。歌うのが楽しければそれでいいっていうか」

「それなら、カラオケでよくないですか?」

「うーん、それを言われるとねえ」

 浜さんは何か言いたげな表情をしながら、「まあ、慣れるまで時間がかかるだろうし。次もお願いしますよ」と出て行った。

 ――まただ、あの表情。あの、何を言ってもダメだ、的な顔。

 私は唇をキュッとかみしめる。


「私たち、竹下さんのように仕事ができるわけじゃないんです」

 目の前に、5人のスタッフが並んでいる。みんな、非難するような目で私を見ていた。

「えっ、どういうこと?」

「毎日、細かくフィードバック受けるの、つらすぎます」

「私なりに考えてやってるのに、すぐにダメ出しされちゃうし」

「お客さんの前で注意されるのはキツいって言うか」

「ちょ・ちょっと待ってよ。私、みんなのためを思って言ってるんだよ? だって、早く仕事をできるようになったほうがいいじゃない」


 ――何度も注意される自分には問題ないって思ってるの?

というホンネを言うのはグッとこらえた。


「私たちはもっと楽しくやりたいっていうか」

「前の店長さんは、もっと僕らのことを認めてくれました」

「私も認めてるよ? ただ、もうちょっと効率的なやり方があるでしょって言ってるだけじゃない。それに、仕事だから、楽しいことばっかじゃないでしょ?」

 5人は顔を見合わせて、「これ以上、何を言ってもムダ」みたいに、首を振っている。

「とにかく、私たち、今日で辞めさせてもらいます」


 創業以来、最年少の店長。

 そんな風にもてはやされて、入社1年で激戦区の店長に任命された。

 半年間、右も左も分からないなか、必死で現場を回そうとしてきたのに。

 加藤部長は、「時期尚早だったかな」と言った。

 私がどんなに頑張って売り上げを維持しているのかを話しても、「まあ、君もまだ、若いからね。この失敗を糧に学んでほしい」と言うだけだ。


 ――失敗って。私は何も悪くないじゃない!

 結局、本社の資材調達部に配属となった。


 電車に揺られながら、私はさっきの浜さんの言葉を反芻する。

 ――歌うのが楽しければ、それでいい。

「楽しいって」

 思わずつぶやく。

 ――楽しく歌いたい。楽しく仕事したい。私、最後に楽しいって思ったの、いつだっけ?


「今日は、皆さんと一緒に歌いたい歌があります」

 私が切り出すと、みんな驚いたような顔でこちらを見る。

「皆さんも知っているかもしれませんが、『切手のない贈り物』です。私は、母がママさんコーラスをやっていて、しょっちゅう家でこの歌を聞いていました。この歌を楽しそうに歌っている母が好きで、合唱部に入ろうって思ったんです。今日は、この歌を歌いたいんですけど、いいですか?」


 みんな、みるみる顔がほころんでいく。

「もちろん。そういう提案、嬉しいよ」

「いいじゃない、私もこの歌大好き!」

 楽譜を配ると、みんな食い入るように見ている。ピアノの小松さんも「いいわね。私もこの曲は昔よく歌った」と言ってくれる。

「とりあえず、いきなり歌ってみますか?」

 みんなに聞くと、「いいね、やってみよう!」とテンションが上がっている。


 私はタクトを振り上げる。

 軽快な前奏。そして。

「私から、あなたへ~♪」

 みんな思い思いに歌っている。音程はバラバラだ。

 でも、なんだか私は今、泣きそうになってる。

 みんな、この間とはまるで違う表情で歌っているからだ。


 ――そうだ。私にはまだまだ、できないことばっかだ。失敗してばっかだけど、ちょっとずつ、ちょっとずつ、できるようになってけばいいんだ。だって、私はまだ若葉マークなんだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

フェルマータ @nagi77

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ