葉桜の君に

朔(ついたち)

若葉の頃

 四月六日。

 秋田葉太が教鞭を執る私立滝川学園は、今日が二○二○年度の始業日だ。

 「三密」を避けて行われたクラス単位の始業式を終え、秋田は真新しい出席簿を手に、自分が受け持つ三年一組の教室に赴いた。


 「日本史の秋田葉太、四十六歳です。一年間宜しくお願いします」


 自己紹介を手短かに済ませ早速点呼に取り掛かる。今日から新年度が始まるとは言え、政府は明日の夜『緊急事態宣言』を発出する予定だ。つまり再び休校となる予定で、教育委員会からも正午までに生徒全員を下校させよとの通達がきていた。


 中村守、沼尻博也、根本愛……淡々と名前を読み上げる。この学年が一年生の時から、クラス担任を持ち上がってきた秋田にとって、生徒の顔ぶれは目新しくはない。今日欠席した生徒でも名簿を見れば顔が浮かぶ。

 だが、

「春川桜子さん」

その生徒だけは馴染みがなかった。


 彼女の席は窓際の列の先頭だ。最前列に並ぶ他の生徒達がにかしこまっている中で、春川桜子はクラスの一切に関心が無いという表情かおで窓の外を眺めている。

「春川桜子さん?」

「はい」

 教壇にいる秋田の2度目の点呼に、春川は顔を真横に向けたままぞんざいに答えた。

 無理もない。本当なら彼女は今頃卒業している筈なのだ。だが不登校で一年遅れ、三年生を二回やる羽目になってしまった。

 反抗的だが端正な横顔に中学の頃付き合っていた少女の面影が重なり、秋田は春川の顔と名前をしっかり頭に刻み込んだ。


 出欠の次は中庭での写真撮影。それが終われば休校中の課題の配布。時間に追われていることを自分への言い訳にして、秋田は春川の横柄な態度を咎めることはしなかった。空気を読んで長い物に巻かれ、面倒を避ける『事なかれ主義』。それが秋田のこれまでのやり方だ。


 *


 新年度2日目はオンラインの入学式。

 秋田はスーツに身を固め、人気ひとけのない街を駅に向かって急ぐ。

 近道をしようと公園を横切った時、外郭に並ぶ桜の木蔭に見覚えのある少女がいるのが目に止まった。


 「あ」

 先に声を上げたのは春川の方だった。バツが悪そうに首をすくめている。散歩の途中だったのか、中型犬が彼女の足元に座り込んでいた。

 正面から見るとそれ程似てもいないなと、秋田は余計な事を考える。


 「おはよう。自宅はこの辺かな?」

 確か登録では港区の筈だったが……。


 「あー」

 春川は面倒くさそうに、

「引っ越したんです。親の離婚で」

と吐き捨てる。

 口許を歪める表情に、秋田はやはり鈴木杏子昔の恋人を思い出した。


 *


 別の日。オンライン授業の収録の帰りに、秋田は再び公園の中を通った。期待通り春川が数日前と同じ木の下に佇んで、若葉が茂る梢を見上げている。彼女は秋田が近づくと、

「この木だけ葉桜になるのが早かったんですよね」

と、誰に言うともなく呟いた。


 「それはほら、そこの店の換気扇から温風が出ているからね」

 秋田が指を指し、春川は公園に隣接する団子屋を振り返った。うるち米を蒸した時に出る水蒸気が吹きかかるせいで、この木だけ毎年開花が早く、その分早く盛りが終わる。この辺りの住人にはよく知られていることだと秋田は説明した。


 「ふーん……」

 春川は得心がいったような、そうでもないような様子で聞いていたが、

「それで何か用?」

と、鬱陶しそうに秋田を見た。


 目上に対する態度ではない。春川の物言いにムッとしつつ、秋田は鞄から書類を取り出した。


 「この調査票……世帯主とか連絡先とか変更事項を記入して再提出するように」

 

 差し出された書類を見て春川は鼻を鳴らした。そして調査票を秋田の手に押し戻すと、

「あたし学校辞めるから」

と、ひとこと言い放った。


 「どうして?」

 込み入った話になったので、秋田は春川を促して公園のベンチに腰を下ろす。


 「この間始業式を迎えたばかりなのに随分といきなりな話じゃないか」


 自主退学するなら年度末にすることも出来た筈だ。

 秋田の疑問に春川はだるそうにベンチにもたれ、ジャージの両脚を投げ出した。


 「だって都知事とかが年度の開始を九月にしようとか言い出すんだもん。前期分の学費だって払えるかわかんないのに延長になったらその分の費用とかどうしろってのよ?」

 言われてみれば春川は滝川学園に三年以上在籍している。通常、低額所得者を対象とする助成金は高校入学後三十六ヶ月を超過した者には支給されないことになっていた。春川の親が離婚によって所得減になったとしたら年間百万円を超える授業料はかなりの負担だ。しかもそれが更に半年延長されるのだ。


 秋田が気の利いたアドバイスを探していると、沈黙に痺れを切らしたのか春川が立ち上がった。


 「じゃあセンセ、あたしバイトの時間なんで」

 

 学校がバイト禁止だと秋田が思い出したのは春川桜子が走り去った後だった。

 ベンチに残された秋田は改めて春川から突き返された書類に目を落とし、家族欄に記された「杏子」という文字をもう一度確かめた。


 *


 前期分の学費が納入期限までに振り込まれず、春川が除籍になったと知らされたのは、それからしばらくしてからのことだ。

 『緊急事態宣言』は結局延長され、巷では『九月年度開始論』が現実味を帯び始めている。


 「秋田先生」

 朝早く登校し、ひとりで報告書を作成していると、美術科の山本が油絵のキャンバスを掲げて職員室に入って来た。


 「これ春川桜子さんの作品なんですけど、返し忘れていたのが見つかって……」

 手に取るとキャンバスいっぱいにあの公園の桜が咲きほころんでいる。だが良く見れば満開の桜の中で、咲き急いで時期を逸した葉桜が不協和音を奏でていた。

 素人にも判る稚拙な絵だが春川の憂鬱な気分が塗り込められているようで、ふいに秋田は忘れていた筈の胸の痛みを思い出す。


 あれは中三の秋だった。皆が受験に本腰を入れ始めた頃。ただひとり就職することに決まっていた鈴木杏子は、クラスでも浮いた存在だった。

 葉太は彼女とのことをクラスメイトに揶揄されたくないばかりに、一方的に交際停止を宣言し、杏子と距離を置いたのだ。


 後ろめたい黒歴史。


 例え自分から切り出さなくとも中学時代の淡い恋などいずれ自然に消滅したのかもしれない。だが、あの頃の葉太は杏子の一番近くにいた。彼女の孤独に寄り添えるのは葉太だけしかいなかったのに切り捨てた。

 あの頃の後悔が、今も秋田葉太が独り身でいる理由のひとつになっている。


 山本から油絵を受け取り公園へと急ぐ。

 きっと今日も桜子は、あの木の下で季節の終わった桜の枝を見上げている。

 葉太には、そんな気がしてならなかった。

 

 *

 

 葉太が期待した通り、桜子はいつもと同じベンチに座り、背もたれに身体を預けて新緑に覆われた桜の梢を見上げていた。


 その隣に葉太は無言のまま腰を下ろす。


 六月だと言うのに今年は空梅雨からつゆで、真夏日が連日続いていた。日頃運動不足の葉太は、ほんの少し早足で歩いただけで汗塗あせまみれだ。全身から吹き出した汗で濡れたポロシャツが葉太のだらしない体にベッタリと貼り付いている。


 「汗臭いんだけど。ってゆーか『密』なんだけど」

 相変わらずの桜子の口調に葉太は苦笑いを浮かべて紙袋を開けた。


 「何それ? わざわざ持ってきてくれたってこと? 捨てちゃえば良かったのに」


 葉太は呼吸を整えて話の糸口を探してみたが何も思いつかなかった。ならば嫌がられても嫌われても、思いつくままを話すしかない。


 「この葉桜って、お前自身か?」


 桜子は葉太の手元をちらりと見る。


 「そんなかっこいいものじゃないけど……。なんとなく似てるじゃん。仲間外れなとことか、ひと足先に終っちゃってるとことか」


 「そうか……。学校辞めて、これからどうする」

 「別に」

 「そっか……」


 教師だと言うのに気の利いた言葉が出てこない。だがそれはいつものことだ。葉太はずっと向き合うことから逃げて来た。生徒から――杏子から――そして自分自身の気持ちから。


 項垂うなだれた葉太の視界に葉桜の木漏れ日が映る。

 新緑をくぐり抜けた夏の日差しが、公園の芝生の上に無数の光の斑点を描いている。それはまるで天使が落とした羽根のようで、葉太のくたびれた人生を励ますようにそこにあった。


 「あのな……春川」

 「何?」




 「人生はお前が思っているより、たぶんずっと――美しいぞ」



 次の瞬間、桜子は鳩が豆鉄砲を食らったように目を見張った。


 「ポエマーだなぁ。似合わないよセンセ」

 桜子の反応に葉太はがっくりと肩を落とす。だが次の瞬間、桜子はその肩に柔らかくてのひらを置いた。


 「ありがとね、センセ」


 そして、照れたように紙袋をひったくると、じゃあねと言ってベンチを立った。秋田にとって一日限りの元教え子が、擦り切れたスニーカーに木漏れ日の斑点を映して走り去って行く。


 「はるかわ!」

 葉太はのどを振り絞った。


 「高卒認定試験って方法もあるからな!」


 その意味を理解したのかしないのか、公園の向こう側で桜子は大きく腕を振った。

 

 それが秋田葉太の二◯二◯年夏のハイライトだ。


 ***


 あれから七年。

 街の教会では身内数名によるつましい結婚式が行われている。


 白いワンピースを着た桜子が、葉太のエスコートでバージンロードを歩く。赤い絨毯の先端では人の良さげな――しかしスーツが全く似合わない新郎が花嫁の桜子を出迎える。

 友人代表として大役を果たした葉太は、席に戻るなり大粒の汗を拭った。

 

 「お疲れ様。我儘をきいてくれてありがとう」

 そう囁いたのは桜子の母親――旧姓鈴木杏子だった。

 葉太が似ていると思ったのも当然、二人は実の母娘だったのだ。

 桜子を介して再会した葉太と杏子は今は気のおけない友人として旧交を温めている。


 滞りなく式は終わり、新郎新婦は光の降り注ぐ中庭に出た。葉桜の作る木漏れ日が桜子の衣装に美しい模様を描く。彼女が投げた小さなブーケは、美しい放物線を描いて杏子と――その隣にいた葉太の元へ飛んできた。

 真っ青な空に浮かぶ祝福の花束。

 眩しい日差しに手をかざして葉太は思う。




 人生は――世界は――




 自分が思うよりもずっと美しいと。





(了)

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葉桜の君に 朔(ついたち) @midnightdaisy1103

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