Earth climber

真花

Earth climber

 まるで全てを知らないかのように信じて、まるで全てを知っているかのように穏やかに、彼は登っていた。

 夏の慰めにコーラとバニラアイスを買おうとコンビニまで歩いていたら、男がうつ伏せになっていた。大きなバックパック、ゴツい靴とグローブ、倒れている訳ではないと分かるのは、その男が両手両足を掻いて頭の方向に進んでいることと、起き上がった首の先の目が意志を宿していたから。

 重い荷物を引き摺るように、しかしリズミカルに男は進んでゆく。不審さはあるけど、力強いその動きには洗練さがあって、素人が遊びでやってるのではないだろうと判断した。彼の進行方向に暫く並走して、方向性のない悪意などがなさそうなことを確認する。

「あの、何をやってるんですか?」

 男がピタ、と止まる。ゾウガメの置物のよう。くるりと私の方向を向き、私の姿を上から下まで目で検分したら、男は体の力を抜く。

「ちょっと休憩にするか」

 男は体を器用に回して地面に座り、私をもう一度見る。私も彼の顔を見る、三十歳くらいだろうか。

「地球を登っているんだ」

「地球? 地面を這っているんじゃないんですか?」

「うん。俺は地球を登っている」

 私は「登る」の定義について思考を巡らせて、やっぱり首を捻る。

「登るってのは上に向かうことじゃないんですか?」

「それは間違ってない。ただ、俺にとっての上ってのがあっちなんだ」

 男は真っ直ぐ「あっち」を指す。街並みが思っていたよりずっと奥まで見える。

「それは、西ですね」

「西であることと、上であることは両立するだろ?」

 確かに、それが一緒ではいけないと言う理由はない。ないけど、ああそうか、重力。

「重力に逆らうのが上で、登るなんじゃないんですか?」

「違う。頂きに向かう道が、登る道だ」

「西に頂きがあるんですか?」

「行ってみないと分からない。しかし、どの方向に進むかは実は問題ではなくて、決めた方向に真っ直ぐ登ってゆくことがこの星の頂きに至る道だと考えている。最初に西と決めたから、頂きに着くまで西に進むんだ」

「でも、西に真っ直ぐだと、地球一周してまた最初の所に戻っちゃいますよ?」

「それこそ分からないだろ。地球を登り切った人間はまだいないのだから」

 だからってそれをする? 前提が間違っていたら明後日の方向の結果が出るだけなのに? 彼には正しい道を進んでいる確信があるの? それとも何も考えていないの? 人生の大事な時間をどうしてそんなことに使えるの? だって、ただ道を這っているだけでしょ?

「納得いかないって顔だな」

「だって、理解出来ないです。やると何かいいことがあるんですか? スポンサーが付いてるんですか?」

「功名心はないよ。金にもならない。と言うより、もっと素直に訊けばいい。何でそんな下らないことをしているのか、ってね」

 私は一生懸命に首を振る。

「下らないとは思っていません。けど、素晴らしいとも思っていません。まだ、そのどちらかを決める程にあなたのことを分かってません。……すみません。どうして、地球を登るんですか?」

 男は得心したように微笑む。

「俺がそれをしたいからだ。俺は地球を登り切りたい。この星の頂きに至りたい。登山家が『そこに山があるから』とうそぶくが、山なんかよりもずっとでかい登るものが、すぐそこにあるじゃないか」

「そこに地球があるから、登りたい」

 男は頷く。

「その通り。金も名誉も使命もない。この星の一番を超えたいと言う衝動だよ。そしてこの星の一番は間違いなく地球そのものだ」

「それは人生を懸けるに」

「足る」

 断言する笑顔が清々しくて、それが鏡になって自分はどうか、ずっと渦巻いている胸の内のものが加速を得る。次の言葉が出ない。自然と右手が胸を押さえる。

「じゃあそろそろ俺は休憩を終えるよ」

「あの」

 口を突いて言葉が出る。

「応援します」

「ありがとう」

 男は満面の笑みになる。体を動かそうとするのを、もう一ついいですか、と止める。

「また、伺いたいんです。携帯のGPS情報って、貰えませんか?」

 初対面でやり取りするものじゃないのは分かっている。だけど、終わりにしたくなかった。男は、ほう、と納得したような表情になる。

「それは面白いな。交換しよう」

「私、田町さくら、大学二年生です。応援、します」

「俺は近藤重政。武士みたいな名前だけどれっきとした現代人だよ。シゲさんって呼んでくれ」

「みんなそう呼ぶんですか?」

「いや、今決めた。今日から俺はアースクライマーのシゲさんだ」

「シゲさん、頑張って下さい」

「じゃあ、またな」

 シゲさんはくるりと体をうつ伏せにすると、最初と同じように、西へ、登って行った。

 私は暫くその背中を見送ってから当初の目的地であるコンビニに、小走りで向かう。コーラもアイスも買うのだけど、加えてノートを二冊買った。

 家に戻ったら冷たいものを冷蔵庫に入れて、自室の机に就いてノートを広げる。一冊目には「アースクライマーのシゲさんとの記録」と最初のページに記して、今日のやり取りを思い出せるだけ書き込んだ。追体験する程にシゲさんが胸の中で存在感を増して、同時に、比較された自分の像が情けなく見える。

「ここで終わったらまた昨日までの私を続けることになる」

 精一杯の胆力を込めて二冊目のノートを開く。大きく深呼吸をして、後戻りをしない覚悟を乗せて、文字を並べる。

『私はどう生きたいのか』

 たった十文字、だけど無限に存在する解のある問い。長いモラトリアムがきっと自然な形で終焉を迎えようとしていた。でも、さくらは結論を出せないままに今日まで生きていた。大学に進学したことすら猶予延長のチケットを買ったように思える。他の誰が何を決めたとか、そう言うことが自分の選択に影響しないことは分かった。迷っている期間が長くなれば自ずと解決する訳でもないことも分かった。時間が進むことは前に進むことではない。今が少し過去にズレるだけなのだ。

『シゲさんは、自分の手と足で、登っていた。私は登っていない。登らなければ、掴めない』

 将来について考えていない訳ではない。実のところ選択肢は絞られている。三つだ。一つは、普通に卒業をして普通に就職活動をして、雇ってくれたところで働く道。特別にやりたい業種とかがある訳ではないから、茫洋とした就職戦線になるだろう。次に、大学院に進学して、もうほんの少しモラトリアムを伸ばす努力をする道。特に研究がしたい訳ではないから、欺くみたいで少し嫌だが、悩む時間を稼げる。そして、趣味でやっている小説でプロを目指す道。公募は一次選考は通るけど、その先にどうやって進めばいいのかまだ闇の中だ。

 第四の道があるのだろうか。私もアースクライマーになるとか? それはない。

『どっちの道に進みたいのか、安定とか収入とかそう言う要素まで含めると、決まらない』

 そこでペンは止まってしまって、十五分くらい紙面と睨めっこをして、今日はここまで、天井に呟いてノートを閉じる。

「明日、シゲさんに訊いてみよう」

 さくらは自分の小説を書いて、寝た。いつもよりも言葉に艶があった。


 翌朝、GPSを頼りにシゲさんを探す。自転車で行けそうな距離だったからそうした。

 路上でシゲさんが登っているのを見つけた。背中のバックパックに「地球登り中」と書かれた足の裏くらいの広さの札が付いている。

「シゲさん、おはようございます」

「おはよう」

 そう言うとシゲさんは座る。

「背中の札はどうしたんですか?」

「昨日あの後、声を掛けて来た人が、不審者と見分ける必要がある、って作ってくれた」

「確かに、あった方がいいかも知れないですね」

 さくらは目的があって来たのに、いきなりその話をすることに柔らかな抵抗を覚えて黙る。

「さくらさん、こんな早く来たってことは何か訊きたいことがあるんでしょ?」

 シゲさんがじっと目を見てくる。

「図星です。すいません、自分の都合で」

「それでいいんだよ。自分の想いのために動くことが何より大事だよ。他人の迷惑なんて二の次でいいし、俺は迷惑だなんて思わないから。夜討ち朝駆けドンと来いだ」

 言いながら胸を叩くシゲさん。それでも、物怖じするように私は口籠る。

 シゲさんは今度は何も言わずに待っていてくれる。そのうちに、シゲさんがいて私がいて、地面があって自転車があって、その周りに街があってと言う全てが馴染んで来て、ずっと一人で抱えていた問題を今ここでシゲさんに話すことの方が自然なような気がして。

「あの」

 言いながら半歩前に身を乗り出す。シゲさんは退かずに居る。

「私、これからどう生きていけばいいのか、決められなくて」

 シゲさんは頷く。

「きっとどうすればいいかを決めて貰うことは出来ないし、したくない。でも、どうやってシゲさんなら考えるのか、決めるのか、伺いたくて、来ました」

「そうか」

 シゲさんはしばし虚空を見詰めてから、ちょいちょいと手招きする。

「俺の前に、座ってよ。同じ目線で話そう」

 私は二人共が手を伸ばせばギリギリ届くくらいの場所にしゃがむ。

「候補はあるのかい? それとも何にもないところからかい?」

「あります。普通に就職するか、大学院を目指すか、趣味でやってる小説で身を立てるか、です」

「俺の考え方では、まず、自分が死ぬことは考えない、そこから始める」

 死のうと思ったことなどない。多分違う、あ、そうか。

「人生が途中で途切れることを前提にしない、つまり、自分の人生はずっと続くと考えるんですね」

「そう。何歳までにこうしなきゃならない、と言う縛りがそれでなくなる。ちなみに日本人なら男女ともに六十四歳までは次の年に生きている確率は九十九パーセントオーバーだから、死なない前提というのは現実に即している。始めるのが遅すぎるのも、早すぎるのも、選択には加味しなくていい」

「でもそれでは待ってる間に時間が過ぎてしまう」

「二つ目。意志を持って保留する、もしくは時を待つ以外で、漫然と待つという選択はしない。それでも有限な時間だ、自分が望むように使える期間は長くしたい」

 自分が「待つ」と言ったのが的外れでありながらも次の彼の話の呼び水になったことで、小さく胸を撫で下ろす。でも同時に、そんな表面的なところに固執している場合ではないことも感じる。

「出来ることはどんどんやるってことですね」

「違う。三つ目。計画的にやる。どんなに素晴らしい衝動を持っていても、それをただ燃やすだけでは進まない。強いエネルギーは方向性を決めてこそ真価を発揮するんだ。それが最大になるようにするにはどうすればいいかを考えて計画する。そして確実に実行する」

「衝動が強くなかったらどうすればいいんですか?」

 言っていて、衝動が激しかったらこんな風に迷ってもいないだろうと、内心で自分に反論する。

「自分がどこに行きたいかを、だから最初に決めないといけない。今までの三つはその後のことだね。そしてさくらさんが困っているのはここだよね?」

「そうです」

「未来の自分は想像は出来るけど、実際にやった訳じゃないから、正確に未来がどうなるかなんて分からない。ただ一つ抜け道があるのは、自分が描いた通りに全てを持っていく、と言うのがあるけど、これは困難だ。そこで忘れないで欲しいのは、選択をしたからと言って絶対に再選択をしてはいけない訳じゃないってことだ」

「再選択、ですか?」

「今日決めたことを、来年にひっくり返してもいいんだ。恋人とだって別れることもあるだろう? 未来は分からない。だから決めて進むけど、変えてもいい」

 確かに、今未来を選んだら、ずっとそれをしなくてはいけないと思い込んでいた。就職をするのなら小説は諦めなくてはならないと決め付けていた。

「意志を持つ保留と、変化しうる決定、似ています」

「似てる。その通り。二足のわらじを履いてもいい。一番が二つあっても何も問題ない。人生が豊かに進むということは、自分に取っての最高のものと大切なものが増えると言うことだから、一番だらけになる。さて、そんな中で何を選ぶかだけど、これはどう言う基準で選んでもいい」

「好きかどうかが、基準じゃないんですか?」

 シゲさんは首を振る。

「好きも衝動も一つの理由だけど、経済や社会的地位、余暇がどれだけ取れるか、家族とどれだけ過ごせるか、人間関係がどうか、結婚、出産、どれも同様の重さがある。素の状態では」

「素じゃないと?」

「素の状態と言うのは理論的な仮定でしか存在しなくて、実際にはその一つひとつが個人の価値観によって重要度が変わって来る。個人の、と言うのはつまり、その人その人によって価値観が違えば理由の重要度の順位も変わるってことだよ。……そう、理由には順位がある。もちろん、その人が変化すればその順位も変化する」

 家族との時間や社会的地位を人生の選択の理由としてあまり考えたことがなかった反面、結婚・出産は重要だと常に思っていた。その二つを基準として、書くこと、経済、余暇などを順番に並べると言うことだ。書くことをそう言うものと同列に扱うことは不愉快だけど、順位は付く。

「付いた順位を参考に、自分の想いと欲望と思考の全てが納得する方向を決める。これは一旦決めなくてはならない。そして、選んだ道に実際に踏み出す。その中に入らないとリアルは存在しない。ここで計画が効いて来る。例えば、小説で身を立てるならば、どうすればいいかを考えて実行しなくてはならない。そこまでやって、もし違うなと思ったなら、既に『一つのことを真剣にやった』新しいさくらさんになってるのだから、価値観が変わっているのは当然だから、納得して道を変える」

「本気の自分で実験をするんですね」

「その通り」

「選択肢が明瞭にありながら、捨身に近く飛び込むことをずっとしてなかった。リアルの手前でずっと足踏みをしていたんですね。それでは判断が出来ないのは当然だ、そう言われているように思います」

「やり直しや方針変更は若い方がやりやすいのは事実だし、歳を取るごとにプライドとか収入面とかしがらみとかでやり辛くなるし、会社なら雇ってくれなくなる。そう言う条件を加味しても、さくらさんの言う通りだよ」

 シゲさんは言葉を出し終えたら、じっと今までのやり取りが私に吸収されるのを待つみたいに黙って、私は私で彼の思う通りに意味を咀嚼してゆく。沈黙がいずれ透明になって、風が通り抜ける。

「ありがとうございます。でももう一つだけ踏み込んだ質問をしてもいいですか?」

「なんなりと」

「シゲさんはどうやって今の生き方に辿り着いたんですか?」

 ふふふ、とシゲさんは笑う。

「アースクライミングをしたい衝動が一番、それ以外の価値観から見てもアースクライミングをするのが人生の中心に来ると本当の意味で確定したのは先月だよ」

「先月ですか?」

「それは実際に始めたのが先月だから。それまではずっと準備をしていた。十五歳のときにアースクライミングをしたいと思ってから十九年間をかけて備えたんだ。もちろん、だからずっと中心には置いていたと言うことだけどね」

 人生が終わらないと信じていないと出来ない選択だ。

「十九年間は何をしていたんですか?」

「お金を貯めないといけないから、授業料のかからない医大に行って医者になって、十年間精神科医として働いて稼いだ。同時に肉体を鍛えて、クライミングの練習も欠かさなかったよ」

 計画性。待ってもいない。

「精神科医も面白くて、めっちゃ本気でやった。そっちのリアルの中に居るときにこそ、アースクライミングの夢を見る。だからクライミングの練習は部分的とは言え、俺のアースクライミングのリアルでもあったんだ」

 リアルが、リアルを、呼ぶと言うことなのだろう。シゲさんは私に説いたことを全て実際にしている。

「それで、今なんですね。夢を叶えた始まりのときに私はいるんですね」

「叶えてないよ。夢は始まったんだ。俺は地球の頂きに到達すると言う目標を持っている。そこに至る過程こそが夢だろう。でもきっと、頂きと言うリアルの先にはさらに面白いことがあるんだ。それはいつもそうだ。だから、目標を達成することを恐れてはいけない。次は必ずあるから」

「はい!」

 私はシゲさんの目を真っ直ぐに、いつも彼がするように、見て、全霊で返事をした。シゲさんはにっこりと笑う。

「俺が伝えられるのはここまでだよ。役に立つかは分からないけど、受け取ってくれ」

「既に役に立ってます。きっと、私はリアルに身を投じて、その先を決めようと思います」

「じゃあ、そろそろ俺は行くよ」

「はい」

 シゲさんはくるりと姿勢を変えて、登り始める。私もすぐに自転車に乗って家に向かう。まだ午前中の太陽は少し優しくて、シゲさんのようだ。

 二つのノートを埋めてゆく。教わったことをシゲさんのノートに。それから自分が考える価値観やまず投じる未来をもう一方のノートに。その時点で消極的保留の大学院進学は消える。

「就職か、小説か。就活は後一年は保留可能だけど、違うな、企業を調べたりそれ以上に自分を調べることはすぐにでも始めなくちゃ。だって、就活のリアルと小説のリアルは同時並行に出来るものだから。小説ももっと研究して、ただ書く以上のことをしなくちゃ。このノートは今から、私のリアルの物語を記すノートにする」

 さくらはシゲの言ったことを愚直に行動に移すことにした。行動にならなければどんな言葉もティッシュと同じで使い捨てになってしまう。二度会っただけの私に本気の言葉をくれたのだ。信じる方のリアルに身を投じてみよう。そして違うなら変えればいい。


 三日後、シゲさんのGPS信号はかなり西に移動していたが、電車で数時間で行ける範囲だったので出向いた。

「シゲさん、こんにちは」

「さくらさん、こんにちは」

 座るシゲさん。さくらの顔を見るなにニヤリと笑う。

「俺の言葉は届いたようだね」

「はい。大学院を選択肢から外して、就活と小説の二つが二足のわらじで今、私のリアルになってます。これからどうなるのか分からないけど、その根拠を自分で見付けている感触があります」

 ありがとうございます、と頭を下げる。

「何かお礼が出来ればと思うんですけど、何も思い付かなくて……」

「別にいいけど、じゃあ、一つ頼まれてくれないか? ここまで来る間に他にも話をした人が何人もいてね、その内の一人が俺が登ってゆくのをネットで配信するんだって。どうやるのか知らないけど、それを見て欲しい。俺が登っていると言うことの、登り続けていると言うことの証人であり続けて欲しいんだ」

「そんなことでいいんですか?」

「アースクライマーを実際にやってみて思うんだ。誰かが証人になってくれているのといないのでは、天地の開きがあるって。そして道中で出会った人が俺のこころのエネルギーになるって。さくらさんが最初の人で、だから俺を見ていて欲しいんだ」

 私は彼の言葉が入って来る程にこそばゆくなる。

「まるで初恋ですね」

 シゲさんはちょっとだけ固まって。

「そうだね。初恋だね」

 何だか嬉しくて、きっと私は笑っている。

「分かりました。追いかけます。ずっと」

「よろしくね」

「あ、あと、シゲさんの話、小説に書いてもいいですか?」

「そりゃもちろん」

「シゲさん。本当にありがとう。しっかり追っかけるから、安心して登って下さい」

「うん。じゃあね」

 シゲさんは登る構えになり、すぐに登り始める。少しいって、止まって、振り返る。

「じゃあね」

 私は大きく手を振る。

「さようなら」

 今生の別れになる予感を、共有していたのだと思う。


 一年後、シゲさんは大陸を西へ西へと登っていた。配信される動画にはずっと登り続けるシゲさんが映っていて、フォロアーも万単位で居て、もしかしたらコメントを彼が見るかも知れないと思ったこともあったけど、やめた。ときどきインタビューの回があって、シゲさんの気配をそう言うときは思い出して、教わったことをちゃんとやろうと身を引き締める。

 そのインタビューの一つで、海はどうやって渡ったのかと言う質問に、「船」と答えていた。おどけた訳ではなく、そこに海があると言うリアルを前に彼が真剣に出した答えなのだと私には分かる。私も独力では渡れないときには他の何かの力を借りようと思った。いや、あの日道端に居たシゲさんこそ、私にとってのリアルへの船だった。


(了)

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