『2020年夏』殺人事件
半社会人
『2020年夏』殺人事件
その死体は床に転がって、単なる物質の一つと化していた。
五つの輪っか、赤い球体、その他雑多な物が散らばった部屋。
なかにはその上に覆いかぶさる形で、体を彩っているものもある。
K警部はため息をついた。
物が入り乱れた、秩序を持たない部屋の中央に倒れた、『それ』を見下ろす。
部屋には鑑識が右往左往し、検視官は念入りに『それ』を
しばらく作業を見守っていた警部は、やがて口を開いた。
「それで、どんな具合ですか」
死体を精査していた検視官が顔をあげて
「刺殺の兆候があるね」
「刺殺の――兆候? 」
「ああ」
警部の眉間に皺が寄る。
検視官も困惑したように
「こんな死体は初めてだ」
「兆候とはどういう意味ですか? 刺殺なら刺殺のはっきりとした
痕跡があるものでしょう。兆候程度に留まるわけがない」
「だが、この死体は――」
検視官は再び『それ』をかえりみて
「刺殺の跡だけでなく、
「……つまりどういうことです? 死因はなんなんですか? 」
「色んな可能性があるってことさ。どれでもあり得るし、どれでもない可能性がある」
検視官は首を振ると、困惑する警部をよそにまた死体の検分にもどった。
K警部はその背中ごしに死体を見やると再びため息をついて
「……F刑事」
と先に臨場していた部下の部長刑事を呼ばわった。
手帳をめくって何やら書きなぐっていたF刑事は警部の方にやってくると
「はい、警部」
「さっき聞いたよ。被害者だが、あらゆる殺され方のオンパレードだそうじゃないか」
「ええ。死因がまだ特定できてない状態です」
「被害者の名は? 」
「それがなんとも変わっていまして……」
「珍名か。最近は多い」
「ええ。ですがその比ではなく」
「『悪魔』とでも言うんじゃないだろうな? 」
軽い冗談のつもりで言った警部だったが
「違います。被害者の名前は、『2020年夏』です」
F刑事は神妙に告げた。
※※※※※※※※※※※※
「――何だって? 」
聞き間違いか?
うろたえる警部を前にF刑事はもう一度口を開いて
「ですから、『2020年夏』です」
と述べた。
しばし沈黙があった。
警部は言われたことの意味がよく分からなかったようで、呆然としている。
頭の中で、その奇妙な文字列がぐるぐると回る。
うまく咀嚼しようにもそもそもが飲み込むのに適していない情報。
やがて、F刑事の真剣な目を警部はのぞき込むと
「ふざけているのか? 」
「私もここでふざけられたらどんなによかったかと思いますよ」
「そんな名前の人間がいるか! 」
「しかし、実在しているのです」
「それは西暦でいう、
どこからが苗字でどこからが名前だ。
F刑事はこくりと頷いた。
「紀年法というやつですね。いわゆるグレゴリオ暦で運用されている暦に対応した――」
「西暦の定義が聞きたいわけじゃない」
警部は苦虫を嚙み潰したような表情で
「そもそも男なのか、女なのか」
「まだ判然としません」
F刑事は手帳を繰りながら上司の質問に答えていく。
死亡時刻は?
――分かりません。
第一発見者は?
――分かりません。
どこからの通報だった?
――分かりません。
被害者の親族は?
――分かりません。
「分からないことだらけじゃないか! 」
「はい。まったく、不可思議な事件です」
F刑事はそのわりには落ち着いた様子だった。
警部は頭を振ると
「どうしてそんなに不明点が多いんだ」
「それも分かりません。分からないということだけが分かっているのです」
「君はソクラテスか」
「法に縛られるという意味ではそうかもしれませんね」
冷静に答えるF刑事に警部はあきれて
「……分かったよ。何も分かっていないということがな」
それから、混乱の種であるその死体を見やった。
仰向けに倒れ、視線は一点を向いている。
空を見つめたその体はしかし空とは程遠く、何に使うのかもよく分からない
輪投げの輪、赤いボールなど様々なものでおおわれている。
一見したところそうした特徴を持つだけのありふれた死体なのだが、
しかし見つめれば見つめるほど分からなくなってくる。
そもそも人間にとって死体というものは、見るということ事態が苦痛の一つである。
それでもしっかり確認しようとすれば、おのずから何か語ってくれるものだ。
それは検視官や監察医ではないK警部に対しても同じはずだった。
だが、この死体は『見えてこない』。
それどころか、見つめようとする度に、その輪郭がぼやけてくる。
男か女かも分からない。
自殺か他殺か。他殺にしても銃殺か絞殺か毒殺か刺殺かさえも分からない。
まるで現実感のない、『2020年夏』という名の死体。
悪夢だ。
これは悪夢に違いない。
警部は自分のワーカーホリックぶりに笑った。
日夜、血生臭い事件ばかり追い続けているから、こんな夢を見るのだ。
そんな風に警部が一人苦笑していると
「しかし、容疑者が誰かは分かっています」
F刑事の物事を弁えた声が耳に響いた。
「容疑者? 」
「はい。別室に待機してもらっています」
「――なら、話を聞こうじゃないか」
悪夢なら早く覚めてくれ。
そう願いながらも、事件のとっかかりとみると放ってはおけないのが警部の
F刑事に続いて、警部はその簡素な部屋を出た。
しばらく廊下を歩き、別の部屋に行きつく。
最初に目についたのは、均等に並べられた椅子だった。
どれにものっぺりした、印象に残らない顔の男女が座っている。
「彼らが、この事件の……参考人です」
F刑事が静かに告げた。
10数人はいるだろうか。
居並び、まっすぐこちらを見つめてくる彼ら。
F刑事は言葉を継いで
「『2020年夏』とはいずれも面識がありました」
「なるほど」
警部は頷いた。
それから、警戒心を抱かせないように出来るだけ柔和な表情を作りながら
「すみません、みなさん。もう事件のことはご存じとは思いますが……」
一人一人に順番に顔を向ける。
「少々お話を伺いたいのです。よろしいですか? 」
不承不承といったように何人かが頷いた。
警部はその内の一人に近づいて
「では、ええと……お名前は?」
突飛な言葉を予想していなかったわけではない。
「『善意』よ」
警部はしかし、これが悪夢であることを確信した。
※※※※※※※※※※※※
「――失礼。なんとおっしゃいました? 」
「『善意』よ。二度もいわせないで」
警部はF刑事にちらりと視線を遣った。
F刑事はこくりと頷いた。
ああ、やはりこいつらもなのか!
「ええと……被害者とはどういう関係で? 」
『善意』は言った。
「彼が体の調子が悪いっていうから、症状を調べて、対処法を教えてあげたのよ」
「被害者は病気だったんですか? 」
「ええ」
なんということだ。
これでまた死因候補が一つ増えてしまった。
警部が頭を抱えていると、『善意』の隣の子どもが口を開いた。
「『善意』さんは良い人なんだ。『2020年夏』さんのことをすごく心配してたんだもん」
「あら、『無知』の坊やも走りまわってみんなに『夏』のことを聞いてくれたじゃない」
「えへへ……」
警部をよそに仲睦まじく会話しはじめた二人。
その様子を見て端の方に座っていた老人が口を開いた。
「警部さん、ちょっといいかね」
「え、ああ、はい」
「儂は『夏』さんがかわいそうでしかたないんじゃよ。まだ生まれたばかりで、したいこともたくさんあっただろうに」
「ええと……すみません、お名前は? 」
老人は自分の名を『同情』と名乗った。
警部が律儀に老人の言うことに「ええそうですか」と相槌を打っていると
「警部さん、こんな奴らの言うことを聞く必要はない」
眼鏡をかけた理知的な男がしゃべりだした。
「ええと……あなたは? 」
「私か? 私は『傲慢』だ」
男は眼鏡をくいっと指で正すと
「そもそも『夏』が死んだのは自業自得だ。自己責任だよ。病体のくせに、家でじっとしていないのが悪いんだ」
「はあ……なるほど」
『傲慢』を契機に、皆が口々に好き勝手なことをしゃべりだした。
『不安』は言う。
「ねえ、私たちも殺されちゃうの?」
『欺瞞』は言う。
「とりあえず文句は言わないことだ。そうですよね、警部? 」
『悪意』は言う。
「こいつらが『夏』を殺したんだよ」
情報が錯綜していく。
気が付くと、最初は10数人だった参考人――もとい、容疑者は、数百人に膨れ上がっていた。
その誰もが、奇妙な名前――抽象的な、を有している。
誰だ?誰のせいで、『夏』は死んだんだ?
さすがの警部でも証言を拾いきれなくなったところで、いつの間にか
姿を消していたF刑事が現れた。
「警部、ちょっとよろしいですか」
「どうした? 」
未だ鳴り止まない主張の大合唱を背に、警部が耳を傾ける。
「被害者が……」
それだけ言うと、F刑事は自分についてくるように合図した。
警部はあわててその背中を追う。
現場に戻った警部は、もはやこの夢の中では驚くことはないと思っていたが、
それでも目の前の光景が信じられなかった。
他の警官も総立ちで『それ』を見つめる。
『2020年夏』が、立ちあがっていた。
※※※※※※※※※※※※
あぜんとする警察を前に、『夏』は口を開いた。
「私はまだ死んでいない」
それから、ゆっくりと警部たちを見渡して
「勝手に殺さないでくれ」
弱々しいが、しかしはっきり意志のある言葉だった。
「私はまだ――」
『夏』の言葉に耳を傾ける。
しかし、全部を聞かないうちに、警部の視界は崩れだした。
※※※※※※※※※※※※
頭痛がする。
「……夢か」
やはり、夢だった。
警部はべットの上でひとりごちた。
何という夢だろう。
何のための夢なのか。
何かの暗示なのか。
ただの悪夢か。
何も分からない。
「……起きるか」
体をゆっくりと起こし床に足を下ろす。
窓のカーテンを開けた。
陽光が寝室を貫く。
2020年夏。
窓の外には、殺人的な暑さが広がっていた。
――――了――――
『2020年夏』殺人事件 半社会人 @novelman
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