第3話 次の晩餐
晩餐が開かれた後の数日間はまるでエリートビジネスマンが数日間の休暇でリフレッシュして、その後のハードな仕事をバリバリとこなしていくようなそんな風に仕事では頑張っていた。それは晩餐によって僕の精神が完全にリフレッシュできたからであった。家に帰るのは毎晩0時を軽く過ぎてはいたが、いつものことだし別に苦にはならなかった。週末には仕事で知り合って誘われた女性と都内のホテルでワンナイトラブを楽しんだりもしていた。
このように表面的には僕の生活は非常に充実しているように見えていた。勿論精神的にも、晩餐が開かれてから数か月の間は、苦しみながら死んでいくシーンを思い出しながら満足を得られるので満たされていた。しかし大抵半年を少し過ぎたあたりになると、僕の心の中では段々と次の晩餐会の準備へと心が掻き立てられるのだった。
そんなある日、いつものようにパワフルに仕事をしていると、部長から呼び出しがあった。僕はよく部長室の中に入っていたので、そんなに気兼ねすることなくいつもと同じ様な気楽な気持ちで部長室へと入った。部長は少し髪の毛が薄く、上も横も大きいかなり恰幅のいい威厳のある人だった。年齢は50代前半というところだろうか。
「横川君、実は例のタイのプラント工場の件でこれからすぐに向こうへ飛んで欲しいんだ。向こうの従業員とプラント責任者の山西君との間にトラブルがあって、どうもストライキになりそうなんだ。そこで君が山西君をうまくサポートして、何とかことが大きくならないうちに事態を収拾してほしいんだ。」部長は大きな椅子に座って、僕の目をじっと真剣な眼差しで見つめながらそう言った。
「わかりました。すぐに向かいます。」僕はすぐにそう返事をした。
「前に僕が第二食料部にいた時にブラジルのオレンジの買い付けのトラブルの時も、うまく収拾してくれたことはよく覚えているよ。君しかいないんだ。期待してるよ。」部長は立ち上がって僕の肩に手を置きながらそう言った。
「ありがとうございます。ご期待にきっと添えるように頑張ってきます。」僕はそう言った。そして一礼をすると、くるりと背を向けて部長室から足早に立ち去った。
それからすぐに僕はアシスタントの女の子に航空券の手配を頼み、出張の用意を始めた。用意をしながら現地の山西氏に電話をかけて状況を尋ねた。彼の話では、急激なインフレでこれまでの賃金では生活が苦しくなって早急に賃金を上げろということで大きくもめており、現地の組合は要求が通らなければストライキを決行すると脅しているとのことだった。山西氏も何度も公式・非公式で折衝を行ってきたが、どうしても双方が納得できる妥協点が見いだせないとのことであった。
山西氏というのは、僕の会社が組んでプラント建設を受注した日本の大手ゼネコンの人間で何度かあったことはあるが、どちらかというと技術畑の人間なのでそうした交渉には向かないような印象を受けていた。
僕はこのプロジェクト自体には直接は関わっていなかった。だから僕が出ていくのは本来はおかしいのだろうが、部長に有能だと認められて白羽の矢が立てられてのだから、やるしかないだろう。それにやれる自信しかなかった。
アシスタントの女の子に色々と指示をだして、会社に置いてある小さなキャリーケースの中に荷物をまとめ、航空券の手配を済ませるとすぐに会社を出た。僕はキャリーを引きづりながら東京駅へと向かった。すでに成田発の夜の便しかないという時間だったので、成田発のタイ航空を手配してもらっていた。それで成田エクスプレスに乗った。運よくすぐの発車の便で空席があったので僕はすぐに成田へ向かうことができた。突然の海外出張などいつものことなので、特段戸惑いはなかったが何故かいつも僕は不思議なもので満席や悪天候などで足止めをくうことなど一度もなく、順調に海外へ飛びたてていた。
電車の中は平日の午後ということもあって、ガラガラに空いていた。僕は成田エクスプレスの固定式の対面シートが好きではなかった。だから個人的に海外へ行くときには、大抵自分の車を使用していた。あるいは渋滞が予想されるときには、スカイライナーに乗っていた。だが今日は車内が空いていたので、対面に座る人がいなかったから比較的ゆったりした気分で成田へと向かった。
僕は座席に座りながら、これから向かうタイについて考えていた。タイには仕事とプライベートで何度か訪れたことがあった。バンコクは勿論チェンマイやパタヤにも行ったことがあった。個人的な好みにもよるのだろうが、タイは物価が大変安く少し不衛生な点とバンコク市内の物凄い渋滞を除けば、結構楽しいところだと思っていて気に入っていた。他の東南アジア諸国に比べて料理はおいしいし、高級ホテルに泊まってさえいれば日本にいる時とは全く違った生活を送ることができる。だが昼間はまあまあだが、夜の治安は決していいとは言えない。特に僕は危険な地域についていろいろと知っていた。
危険と言っても、中南米やアフリカのような国とは違った危険さであって、特に性風俗産業の地域の辺りがキナ臭かった。僕はエイズの問題もあるので、そういった店にはあまり立ち寄りはしなかったが、晩餐を開くのに適した場所を選定するために、よく夜中にそういった地域を徘徊することがあった。ただこれまでに一度もバンコク晩餐会を開いたことはなかった。しかしそのことが逆に今回の出張での晩餐会の開催の可能性を高めていた。僕の頭の中では前回の晩餐から大分日にちが経ってしまったため、新たな血を欲し始めており、すでに次の晩餐への計画が思い巡らされていた。
そういった点で、今回の出張は仕事とは全く別にして特別の意味のあるものだった。そう思うと僕の心は既に興奮でいっぱいだった。生贄には恐らくバンコクの売春婦がなるだろうと思っていた。ただその場合、血の香りは味わうことはできても、血の味は味わうことができない・・・・・・やはりエイズの恐れがあるからだ。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか第2ターミナル駅に到着した。僕はキャリーケースを引きづりながら、出発ロビーへと向かった。出発ロビーには意外と人がたくさんいた。僕はタイ航空のカウンターにいくと、そこでチェックイン手続きをした。オンラインですでにチェックインをしていたが、パスポートを見せる必要があったからだ。それから売店に行って、これから必要になると思われる下着類を購入し、ATMでかなり多額の現金を下ろした。そして出国手続きを済ませると、ビジネスクラスのラウンジで出発までの時間をのんびりと過ごすことにした。
ラウンジにはほとんど人がいなかった。僕は比較的広々とした場所に陣取ると、ビールを取ってきた。それからこれから出張に出かけるタイの労使交渉に関する書類に目を通し始めた。一回ざっと目を通しただけで、大体の事情は飲み込めた。さすがにまだ解決策をどうするかについては、頭の中で決まってはいなかったが何とかする自信はあったので、別に心配はしていなかった。
僕は急いで会社を出たので、今晩泊まるホテルの手配はしていなかった。アシスタントの女の子にも、自分で後で空港から予約するので不要と伝えていた。僕はバンコクでは「スコータイ」というホテルが大変気に入っていた。「オリエンタル」や「シャングリラ」など、バンコクには一流の上に超が付くホテルがいくつもあったが、僕は特にこのホテルが気に入っていた。設備・サービスともに申し分がなく、僕に言わせればバンコクで一番のホテルだった。僕はネットでとりあえず3泊分を予約した。
やがて搭乗案内がアナウンスされ、僕は搭乗口へと向かった。機内に入ると僕は自分の席に荷物を置き、上着をCAに預けるとすぐにトイレに行った。何故かいつも飛行機に搭乗するとそうするのが僕の習慣となっていたのだ。それから席に着くと、ウェルカム・シャンパンを飲みながら離陸を待った。しばらくすると機体が動き出し、成田空港から飛び立った。
機体が水平飛行に移行すると、僕はこれから始まる出張を前にしてできるだけ体力を温存するために睡眠をとることにした。そこでシートを倒してフットレストを上げ、ブランケットを身体に掛けると深い眠りについた。
目が覚めた時には、もう既にバンコク到着まで1時間を切っていた。僕は異常にのどが渇いていたので、CAをコールボタンで呼ぶと、彼女にビールとスパークリング・ウォーターを頼んだ。彼女はすぐに僕のところへ運んできてくれた。それから僕はそれらを次々に一気に飲み干すと、出張用の資料に再び詳しく目を通し始めた。
なるほど事態はかなり深刻な様だった。ただどうもゼネコンの責任者の山西氏に全体をまとめる力がないように僕は思えた。そのために事態が一層深みにはまっているような気がした。僕は自分がいけば何とかなると感じていた。具体的に頭の中で対策は練りあがりつつあった。
まず第一に知らなければならないことは、ゼネコン側がどこまでの賃上げに最大応じられるのか、また組合側の要求額は一体どの程度の額なのかだった。次に組合側のリーダーが一体どんな性格なのか、清廉潔白な人物なのか、それともごく普通の人物なのかを知ることが大事だった。それによって、相手側を買収してある程度の賃上げでうまくことを収めることができれば安上がりになるからだった。普通の人間ならば、目の前にある程度の金を積まれれば妥協してくるはずである。しかもタイのような経済格差がはっきりとした国においては、そうした行為が非常に有効なことは、僕はこれまでの経験から知っていた。彼らの多くは仲間全体のことよりも、まずとにかく金が欲しいのだ。僕はこうしたやり方が好きとか嫌いとかではなく、商社マンとしては当然行って然るべき行為であると考えていた。会社の利益のためには、途上国の人々の生活が犠牲になろうと、環境が破壊されようとそんなことはお構いなしだ。またそうしたことが平然と眉一つ動かさずにできないようでは、商社マンとして一流になることはできやしなかった。
そうしているうちに、飛行機はバンコク国際空港に到着した。僕はCAから手渡された上着を着て荷物を持つと、急ぎ足で入国審査へと向かった。タイの国民性なのかもしれないが、この入国審査がのんびりしていて非常に時間がかかるので僕は嫌だった。結構人が並んでいる列の後ろに並ぶと、心の中ではイライラしながら自分の順番を待った。それからようやく自分の順番が来て入国するとすぐに税関を抜けて入国した。僕は親しげに声をかけてくるタイ人を無視して、銀行の両替所へと向かった。そしてそこで30万円ほどキャッシュで両替すると、空港タクシー乗り場へと行き金を支払ってタクシーに乗った。
タクシーは快調にハイウェーを飛ばしていった。僕は車窓からバンコクの急激な発展を目の当たりにしていた。東京も顔負けの立派な高層ビルが立ち並んでいた。ただそれはバンコクの表の顔であった。一歩路地裏に入ると、不衛生極まりないスラム街があるのを僕は知っていたし、大半の庶民の生活の場はそこにあった。
表の顔はタイのほんの一握りの上流階級のものであって、他の途上国と同様に歴然とした貧富の差がそこにはあった。これは欧米でも同じであって、そこには完全な階級社会が存在する。共産主義者などの反政府主義者などが言うのは嘘っぱちで、日本が世界で最も貧富の差が少ない平等な国であると僕は世界中を回っていて痛感していた。
いつしかタクシーはハイウェーを下りて、バンコクの恐怖の大渋滞に飲み込まれていた。ただ僕の宿泊するホテルはそれほどハイウェーから離れていなかったので、しばらくの間渋滞のイライラに耐えるとほどなく着いたのであった。
僕はフロントでチェックインをすぐに済ませると、シャワーを浴びたらすぐに出発するからホテルのリムジンを用意しておくようにと伝えた。一応ネットで事前にリクエストしておいたので、フロントの女性はすぐに了解した。それから僕は自分の部屋へと向かった。
部屋に着くとすぐに現地の建設事務所に電話を入れた。労使紛争のために生憎と西山氏は不在であったが、僕は彼の部下に僕が今バンコクに着いてホテルに入ったので、これからすぐに現地へ向かう旨を伝えた。それから僕はすぐに部屋を出ると、ホテルのフロントへ戻った。僕はリムジンの用意ができてることを確認すると、玄関に回すように伝えた。すぐにリムジンが玄関に着いた。車はトヨタのSUVだった。そこで僕はリムジンに乗り込むと、運転手に目的地の住所がかかれた紙を渡し、仕事で急いでいるから安全かつ早くそこに向かってほしい旨を伝えた。彼はうなずいてカーナビに住所を入力して出発した。
僕は先ほど考えていた組合側のリーダーの買収という謀略がうまくいくことを半分確信していたが、半分では何となく不安であった。ただ自分には自信があったので、どんな場面になろうと切り抜けられると考えていた。そうは言っても念のために資料をタブレットでゆっくりと読み返していた。到着するまでには大分時間があったし、他に何もすることもなかったので仕事に没頭した。幸いなことに運転手は、僕が仕事をするから話しかけないで欲しいと言っていたので、何も話しかけずに少量のボリュームの音楽をかけてただ僕に言われたとおりに忠実に運転していた。
一通りの資料を読み返すと、僕は後は自分自身を信じるだけだと思って何も考えずにぼんやりと車窓の外の景色を見つめていた。もうとうにバンコクの市外へと車は来ていた。外にはのどかな田園風景が広がっていた。灼熱の太陽の下で見るからに貧しそうな農民たちは一生懸命水田で作業をしていた。この国はなんだかんだ言っても、まだまだ大農業国なのである。僕とは違うセクションの同期入社のやつが食料輸入の関係でタイによく来るといつぞや言っていたことがあったが、この風景を見れば農業が盛んであるということは十分に頷けた。
それから一時間ほどして突然のどかな農村から、一見して目的地のプラントだとすぐにわかるような広い工事現場が見えてきた。車が段々と近づいていくと、それはかなり大きなものであることが分かった。僕には当然そこが目指す場所であることがすぐに理解できた。ただ不思議なことに、日曜日でもないのに工事の作業風景が一切見られなかった。これはもしかしたらストライキが始まったのかもしれないと感じていた。しばらくすると、その工事現場の中に立つ比較的立派な建物の前にが停まった。やはりそこが建設工事事務所であった。
僕が車から降りると、何人もの日本人が出迎えに出てきてくれた。僕は彼らに応接室に案内されながら、現在の状況を尋ねた。するとやはり今日の午後からストライキに突入したとのことだった。彼らを取り巻く空気も何となく重苦しくてピリピリとした緊張感が走っていた。
応接室に入ると、現地の責任者の山西氏が座って待っていた。彼は僕にいわゆる社交辞令を述べようとしていたので、僕はそれを途中で遮ってすぐに彼に彼の会社がギリギリ幾らまでなら妥協して出せるのかということと、現在の組合側の要求額が幾らなのかということを尋ねた。彼はすぐに紙にその数字を書いて示してくれた。それから僕は彼に組合側のリーダーがどんなタイプの人間かを聞いた。すると幸運なことに、僕が期待していたようなごく普通の男らしかった。それで僕は彼に少し時間をもらい、タブレットの電卓機能を使いながら、紙に数字を書きながら幾つかの計算をしてみた。その作業が終わると、彼に僕の買収作戦を切り出し、実際の数字を出しながらこちら側として損失が大きくならないような、多少の賃上げと待遇の改善をするという案を打診した。幸いなことに、タイバーツがかなり下がっていて日本円換算だとそんなに大した金額にならずに済むということも説明した。彼は僕の案に驚嘆をして称賛した。だが僕はそれは全てうまくいってからにしてほしいと彼に伝えた。
ある程度の打ち合わせが終わった後、組合側に新提案があるということでリーダーとその補佐役の二人を応接室に呼んだ。彼らは僕という見知らぬ人間がいることに初めは相当警戒しているようだったが、僕が交渉とは全く関係のない彼らの生い立ちや家族のことなんかについて話していくうちに、段々と打ち解けていった。二人とも農村の貧しい出で、家族のために働いているとのことだった。
そこで僕はチャンスだと思ったので、買収作戦のとおり彼らに金額を提示した。初めは彼らも黙って聞いていたが、僕が巧みに事務所の金庫にある現金を目の前に置いたりして説得したら素直に応じてくれた。ストライキもすぐに中止してまた一生懸命に皆で働くということで話がまとまった。
事実彼が仲間のところへ戻ってからそんなに経たないうちに工事は再開された。山西氏は僕に最大限の賛辞を述べて今晩の夕食を御馳走したい旨を申し出てくれた。だが今日は大変疲れているのでホテルでゆっくり休みたい旨を伝え、それを丁重にお断りした。彼はそれはもっともなことだと納得してくれ僕を解放してくれた。僕は山西氏ほか現地のスタッフたちに見送られながら、ホテルのリムジンに再び乗ってバンコクへと戻っていった。
山西氏に行ったことは嘘ではなかった。だが疲れていると言うこと以上に晩餐を開催したいと思っていたのだ。だが疲れていたのは事実だったので、僕はリムジンに乗るとすぐに深い眠りに落ちていった。そして目が覚めたのは、ホテルに丁度着いて運転手に起こされたときだった。まだはっきりとしない頭のままで、彼に礼を言ってチップを渡すと自分の部屋へと戻った。それから服を脱いでシャワーを軽く浴びると、ベッドの中に潜り込んで再び深い眠りの中に入っていったのだった。
目が覚めると、すでにもう夜の10時になっていた。僕はすっかり疲れが取れていて気分爽快になっていた。そして熱いシャワーを浴びると、身支度をして夜の街へと繰り出すことにした。仕事はうまく片付いたし、今度は僕の大好きな晩餐会を開催する番だと自分で感じていた。
会社からのメールを確認すると、部長からねぎらいとお褒めの言葉とあと二日ほど滞在して週末もこちらで過ごして少しのんびりしてから帰っていいとのことだった。僕は部屋を出てタクシーに乗ると、以前来た時に目を付けていたいかがわしい町の方へ行くようにと運転手に言った。
もうこの時間ではあまり渋滞はしていなかったので、僕はすぐに目的地の近くまでいくことができた。ただ僕の目指した場所は車の入れないような狭い路地裏だったので、僕は大通りでタクシーを降りると、そこから歩いてその路地裏を進まなければならなかった。
一歩その場所に足を踏み入れると、悪臭と無秩序が全体を支配していた。麻薬の売人らしき怪しげな男たち、大勢の売春婦たち、そして人生の希望のかけらすらない哀れな人々がそこにはあふれていた。僕は近づいて声をかけてくる売春婦たちの中から、見るからに栄養失調で痩せた少し背の高い少女を選んだ。値段を聞き、彼女に案内されるがままに売春宿へと連れていかれた。部屋の中に入ると、そこにはただ古ぼけた扇風機とベッドが置いてあるだけだった。
彼女は愛想笑いを浮かべながら、すぐに服を脱ぎ始めた。案の定彼女の身体は痩せていて、栄養の関係もあって成長も止まっているようだった。それから彼女は売春用に覚えたであろうたどたどしい英語で僕にも服を脱ぐように言った。僕はそれを断ると、財布の中から彼女が先ほど言った倍の金額を取り出すと、ベッドの上にそれを投げた。彼女はそれを受け取りながら不思議そうに僕の顔を見つめていた。僕は彼女と話がしたいということを言った。すると彼女はお金さえくれれば何でも話すと言った。そこで僕は了解して彼女の身の上話をしてくれるように頼んだ。
彼女は思っていた通りタイ北部の山間部の農村の出身で両親に売られてバンコクにやって来たとのことだった。家族は両親のほかに兄弟が7人いて自分の上の姉も同じようにバンコクの別の店に売られて売春をしていたが、1年前に病気で死んだということだった。歳は13歳で一年前に姉と入れ替わりでバンコクに来たとのことで、小学校すらろくに行っていないようだった。彼女は栄養のせいかとても痩せていて女性らしい身体の特徴などはあまりなかったが、瞳がきれいで顔は結構整っていて身長はかなり高かった。
僕は彼女の容貌と身の上話を聞いて、彼女を晩餐の招待客にすることに決めた。そこで彼女に僕は君が気に入ったから、しばらくの間君と一緒にいたいがどうかと尋ねた。すると彼女は別に構わないがボスに話を通して僕がお金を払わなくてはならないと言った。僕はそのボスのところへ案内するように言った。それで彼女は部屋から出て、少し歩いて売春婦たちを見張っている男の一人に話をし、その男の了解を取ってから僕と一緒に少し歩いてボスのボディーガードらしき屈強な男にタイ語で何か話しかけた。その男は黙って僕のボディーチェックを済ませるとボスの部屋へと案内した。
そのボスの部屋は悪趣味の塊で、少し見ていただけでもうんざりする程だった。僕は彼女を一週間借りたい旨彼に話した。彼は笑って金額を言った。僕は言われた通りの金額をその場で彼に支払った。彼は僕の行為にいささか驚いたようだったが、金を受け取って喜んでいた。同じ金額の保証金も要求された。彼女を返したときに全額戻すと言われた。僕は何も言わずにそれも支払った。
それから彼女の待っている部屋へと戻ると、彼女に今日から一週間自由になったことを告げた。そして明朝の11時に僕がここに来る途中でタクシーを降りた大通りの前に車で迎えに来る旨を伝え、今晩はゆっくり休むようにと言った。彼女は僕が身体を全く求めてこないことに驚いていたが、それほど当惑した様子もなく僕をその通りまで見送りに来るとタクシーに乗った僕に手を振りながら路地裏へと戻っ行った。
ホテルへ向かう途中、明日の晩餐を前にして僕の心はかなり高揚していた。それから気分を落ち着かせると、ホテルのフロントへ明日の朝に三菱パジェロをレンタルしたい旨を伝えていた。そして自分の部屋に戻って熱いお湯をバスタブに溜めてゆっくりと身体を浸からせると、アラームを朝の6時にセットしてベッドの中に潜り込み、すぐにぐっすりと眠りに落ちていったのだった。
翌朝は目覚ましのアラームで爽快な目覚めを迎えた。僕は頭から熱いシャワーを浴びると、バスタオルで髪の毛と身体の水分を拭き取った。それから髭をそり歯を磨くとドライヤーで髪の毛を整えた。それから下着を着けてバスローブを着ると、朝食のルームサービスを頼んだ。そして朝食を食べながらラップトップで昨日の仕事の経過と結果を簡単にまとめて部長宛てにメールをした。時計が7時を回っていることを確認すると、部長に国際電話をかけた。
おおよその経緯については昨晩事務所からメールをしておいたので部長もわかってはいたが、直接僕から電話が来たので喜んでいた。その電話の中で、予想よりも早く簡単に用件が片付いたことと詳細についてはメールに書いてある旨ことを報告した。案の定部長は僕の能力を高く評価してくれた。それから最大級の賛辞を僕に与えてくれ、昨日の繰り返しになるが2日ほど滞在して週末と合わせてリフレッシュしてくるようにと言ってくれた。僕は勿論その申し出を有難く受けると言って、月曜には出社すると述べて電話を切った。
それから僕はフロントに行き、頼んでおいたレンタカーを玄関に回してもらった。すぐに乗り込んで運転をし始めた。普段僕はあまりこういったタイプの車を運転したことがなかったので、初めは少し緊張はしていたが運転にもかなりの自信を持っていたので僕は大渋滞の中へと飲み込まれて行っても、ほんの少しの時間でパジェロの運転を完全にマスターしてしまった。
仕事が完璧にうまくいったことで僕の人生最大の悦びである晩餐会の開催が心置きなくできるということが嬉しかった。その嬉しさの中には仕事がうまくいったことに対する思いはほとんどなく、全てが晩餐への思いであると言っても過言ではない。僕の心の中はもう既に昨晩出会った少女を生贄にするという思いだけでいっぱいになっていた。心の中では晩餐会の計画は出来上がっていた。その計画は彼女にシンデレラのような夢を見させて最後には生贄として殺すことだった。シンデレラ・・・・・・何と彼女に相応しい計画であろうか。僕は我ながら感心していた。
僕はまず彼女にシンデレラになってもらうために、まず今の見すぼらしい身なりをそれなりに整えることを考えていた。そこでブティックが軒を連ねる町へと車を走らせた。あまり高級すぎるブランドで彼女を着飾らせるつもりはなかった。そう言った場所で買い物をする人の数はやはり限られているし、後々特定される恐れがあるので危険な気がしていたからだった。だから地元の割といい感じな店で買い物をすることにした。
僕はそういった店が多く立ち並ぶ町に辿り着くと、車を駐車場へと入れて目ぼしい店があるかどうか探したのだった。しばらくブラブラと歩くと、僕の目に一軒の女性用のブティックが入ってきた。そこはいかにも地元のタイ人が来るような、そんなブティックだった。まだ開店したばかりなのでほかには人はそんなにいなかった。そのため僕が中に入るとすぐに店員が出てきた。
僕はその店員に彼女のスタイルを思い出しながら2着のお洒落な服が欲しいことを言った。すると店員は何着か候補を持ってきて僕に見せた。僕はその中から彼女に似合うと思われる柄の2着を選んだ。それから一つバッグを買ってその店を出た。僕は次にその店の近くにあった装身具店に入ると、今度はそんなに高くもなく安くもない指輪とネックレスと時計を買った。後は靴を一足買って終わりだった。シンデレラならガラスの靴だが、そんなものはありはしなかったので白いエナメル生地の靴を買った。
『惨めな人生の中で最初で最後の晩餐なのだ。精一杯着飾らせてあげよう。』僕は心の中でそう思っていた。
それで彼女をシンデレラに仕立て上げる小道具は全て揃ったのだった。後は雑貨屋で今宵の晩餐に使うためのナイフを買い求めた。そのナイフの刃を見た時、僕は彼女が真っ赤な血を滴らせながら死んでいく光景を思い浮かべて思わず心が震えたのだった。
僕は全ての買い物が終わったので車へと戻り、ナイフはシートの下に隠すとそれ以外の彼女へのプレゼントについては後部シートに全て置いたのだった。それからエンジンをかけると、彼女の待つ通りへと車を走らせたのだった。
だいぶ前から待っていたのか、キョロキョロしながら彼女は強い日差しを避けるように日陰に座っていた。彼女は昨晩とは違った服を着ていた。昨晩は売春するための露出の多い淫乱な感じのする服であったが、今日はおとなしめの服であった。恐らくそれが彼女が持っている中で一番いい服なのだと僕は直感的に悟ったが、どちらにしても安物であることは一見してすぐにわかった。僕は彼女が僕とのデートを心待ちにしている風なのがなんとなく嬉しかった。そして晩餐の開始の鐘は鳴らされたのだった。
僕が車を停めると彼女はすぐに僕に気が付いた。それで乗るように手で合図した。彼女はかけて来ると、急いで助手席のドアを開けた。そしてすぐに飛び乗ると、嬉しそうに笑顔を満面に浮かべていた。僕は後部シートに置いてある先ほど買ってきた服やアクセサリーをプレゼントだからと言って彼女に開けるように言った。それから車を走らせると、僕は彼女に着替えるように言った。彼女はあまりの嬉しさで悲鳴に似たような大声を上げて、タイ語で何か言っていた。そして外から見えることなど全く気にせずに言われたとおりに僕の買ってきた服に着替え、アクセサリーを身に付けた。
馬子にも衣装という諺があるが、まさにその通りだと僕は思った。彼女は見違えたようになった。見た目だけでは上流家庭とは言わなくても少なくとも中流以上には見えた。僕は変身した彼女を連れて、早めの昼食を取ることにした。以前出張の時に会食をしたことのあるなかなかいい感じのイタリアン・レストランへと向かった。
僕は彼女をエスコートしてその店の中に入り、豪華なフルコースのイタリアンのランチを食べた。彼女にとってはどの食べ物も全て初めて見るものばかりだったのは言うまでもない。彼女はしきりに美味しいを連発していたので、僕は彼女に少し静かにするようにたしなめた。すると彼女はすぐにおとなしくなった。
僕は彼女に一目惚れしたことや、彼女を身受けして自分の国に連れ帰るつもりだということなど、嘘を並べ立てて彼女の気持ちを舞い上がらせていた。彼女は眼を輝かせながら僕の話を聞いていた。彼女の今までの生涯は親に搾取され続けて食べ物さえも満足に与えられたことのない不幸なものだった。正直なところ、親や家族のことを恨んでいるとのことだった。だからこれからは弟妹のことよりも自分の幸せを考えたいと言っていた。
彼女はいつしかとても幸せそうな笑顔を浮かべていた。そんな笑顔を見ると僕はすごく嬉しくなってきた。このシンデレラに見せられるだけの夢を見させて、生贄にするのだ。そのことを想像しただけで僕の方も笑顔が自然と浮かんできた。
僕は彼女の栄養状態が悪いから顔色が良くないと言った。これからは僕が幾らでも好きなものを食べさせてあげると言った。すると彼女はまた満面の笑みを浮かべながら精一杯の礼を言った。僕は食事が終わったので、彼女に何か欲しいものはないかと聞いた。彼女は少し恥ずかしそうにしながらお金が欲しいと言ってきた。僕はその理由を尋ねた。すると彼女は故郷に送金したいのだと言った。
僕はそう言うことならこれからすぐに銀行へ行って送金の手続きをしようと言った。彼女は申し訳なさそうに礼を言った。それから僕たちは、店を出て近くの銀行から恐らく彼女が送金している金額の5年分にあたる金額を送金する手続きを取った。彼女は本当に舞い上がっていた。そして僕に何度も何度も礼を言いながら頭を下げた。
別に僕は彼女をこれから生贄にするから、その罪滅ぼしとして送金したのでは決してなかった。シンデレラが望んだとおりにすることが本日の脚本なのだ。だから僕は彼女に言われたとおりに送金したのだった。ただそれだけだったのだ。
僕たちはそれからバンコクの市内の観光名所を訪ね、当然彼女が行ったことのないワットポーなどの有名な寺院などにも行った。彼女は敬虔な仏教徒らしく寺院では相当熱心に祈っていた。勿論僕にはそんな宗教心などありはしないから横から彼女の祈る姿を見ながら、これだけ祈っていれば後で極楽浄土に行くことができ、ちゃんと成仏できるだろうなんてことを考えていた。
そしてそろそろ日も陰ってきて晩餐会も近づいてきたので、僕は彼女を車に乗せてバンコクの南へと向かって行った。途中バンコクの郊外へ出たところでなかなかよさそうなレストランがあったので、そこで最後の晩餐を彼女に与えることにした。彼女は相変わらずとても喜んでいたが、僕の心の中は既に血の晩餐のことでいっぱいになっていた。
もうすぐ訪れる彼女の身体から滴り落ちる血の色と香り・・・・・・それを想像しただけで僕の心はどうしようもないくらいに高揚してきた。
夕食後僕は彼女に海を見せてあげると言ってさらに南へと車を飛ばして行った。彼女は北部の山岳地帯の出身なので、勿論今までに海を見たことがなかったので大変喜んでいた。僕はすっかり真っ暗になった道の中をかなりのスピードで飛ばしていった。彼女はもう上機嫌でタイの民謡なのだろうか、僕にはまったく聞いたことのない歌を繰り返し歌っていた。
彼女の歌う歌の旋律が何故か僕の今の心にぴったりときていた。そのため『アイーダ』をかけながら車を飛ばしている時のような、非常に高揚した気持ちに僕の心をさせていた。
しばらくすると海が見えてきた。彼女は喜びの声を上げ、僕の左の頬にキスをした。僕は微笑んだだけで何も言わずにさらに車を走らせた。辺りは全く人影もなく、不気味なほど真っ暗だった。ただ僕の車のヘッドライトだけが前方を照らしていた。月も出ていないようだった。
やがて僕は崖に上っていく細い道を見つけると、そこを走って行った。しばらくの間でこぼこした道を走って行くと、海を見渡すことのできる少し広い場所へと出た。僕はそこに車を停めると、彼女に睡眠薬を入れたミネラルウオーターを渡した。そして彼女を先に車から降ろしてからゆっくりと晩餐の用意をしてから降りたのだった。
彼女は海が一番よく見える場所に立つと、手をかざしながら海の方をじっと見つめていた。僕は彼女から少し離れた場所から海を見つめていた。
波が岩にぶつかって砕け散る音が繰り返し聞こえた。僕はその音をバックミュージックにしながら、晩餐の開催の時を静かに心を落ち着かせながら待っていた。手には今朝買ったばかりのナイフを持ちながら・・・・・・。
(完)
血の晩餐 西大寺龍 @tacky1
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