第2話 ゆかりとの晩餐

 橋本を殺してから、もう既に10か月が経っていた。この間に僕は非常に仕事が忙しく、海外を飛び回っていた。アメリカに12回、ヨーロッパに7回、中国に8回、東南アジアに7回、南米に5回、アフリカに3回・・・・・・と世界中を飛び回っていた。血の晩餐を開くにしても、あまりにも忙しすぎて実行する暇もないほどであった。だが睡眠時間の少ない僕にとっては、夜中や明け方に晩餐のことを考えることも何度もあった。そんな時には、今までの晩餐を思い出したり次の晩に現地の女を抱いたりして気を紛らわさせていた。

 勿論そんなことでは自分の気持ちを満たすことはできやしなかった。しかしそれ以外に自分の心をどうすることもできやしなかった。だがようやく冬になって東京にも雪が降ることもある季節になってから、ようやく次の晩餐を開くことができそうになっていた。仕事は忙しくはあったが、一時期のような殺人的な忙しさからは大分解放されていた。

 

 僕の心の中では、もう次の週末には実行することを決めていた。場所は八王子で招待客を探そうと思っていた。晩餐でもそうだったが、僕は今までの人生の中でほとんど思い通りにいかなかったことなどはまったくなかった。だからこそ人生のあらゆることがつまらなく感じてしまうようになってしまったのかもしれない。


 人を殺したことはあっても、人に恋したり、愛したりしたことはまったくなかった。そのことは別に僕の心をどうこうしたという訳でもなかったが、もし世間一般でいうような情熱的な恋愛にでも陥っていたとしたら、僕の人生も全く違うものになっていたのかもしれない。ありえないことだが結婚して表面的には幸せな家庭を築いて、ごく平凡な生活を送っていたのかもしれない。いややはりそんなことはないだろう。僕にとっての生きる証は血の晩餐だけなのだから。

 異常な性格であることはわかっていた。法律に触れるかどうかよりも、こうした社会的に見れば狂気に駆られる自分を止める術が何もないことが何よりも寂しかった。だが一方で自分のこうした行動は、甘美で素晴らしいものであるということを心の底から感じていた。

 

 木曜日は仕事が終わってから、次の日の成功を祈ってマンションの自分の部屋のワインクーラーでよく冷やしたドンペリを抜いて、バカラのグラスで一人で乾杯をしたのだった。それは計画の前日には必ず行う儀式だった。そうして静かにゆっくりと翌日の夜の晩餐を思い描くのだった。その儀式は実際の殺人の時よりもわくわくして楽しかったかもしれなかった。

 部屋の曇ったガラスを少し手で擦ると、外の風景がよく見えた。東京のど真ん中であっても冬の晴れた日には星が見える。今晩は少し不気味なほど美しく輝いていた。僕はその中の少し青っぽく輝いている一つの星に、シャンパングラスをかざして明日の成功を祈った。今日はプッチーニの『蝶々夫人』を部屋に流していた。晩餐の前の晩の祝いにはぴったりだった。


 翌日は仕事が終わると、もう8時を過ぎていた。僕は急いでマンションまで帰ると、すぐにスーツから赤色のシャツとセーターとデニムに着替えた。そして偽装のために本当は好きではないルイ・ヴィトンのクラッチバッグを持ち、プリウスの車のキーをポケットに入れると、黒いライダースジャケットを上に羽織って部屋を出た。

 外は暗く寒かった。だが僕の心はこれから始まる晩餐に向けて弾んでいた。久しぶりにかけるエンジンの音はどことなく変な感じがしたが、しばらくすると普通の音に戻ってきたような気がしていた。僕は車を発進させると、八王子に向けて甲州街道を走らせた。

 甲州街道は結構混んでいた。僕は渋滞の中でモーツァルトのピアノコンチェルトを聴いていた。いくら僕でも決行の当日ともなれば心が高ぶるのだった。その心の高ぶりを運転中の今は少し抑えなければならず、そのためにはモーツァルトは最適な音楽だった。その明るく美しい旋律は、さすが神童と呼ばれたに相応しい素晴らしいものであった。僕はその音楽に少し心を奪われながら、ゆっくりと落ち着いて運転していた。だから多少の渋滞もそんなに苦にはならなかった。


 八王子の町に着いたのは、もう既に11時近くになっていた。車を停めて繁華街に行って、物色すると0時は過ぎるだろう。いい時間のころ合いだと僕は思った。これくらいの時間だともうかなり酔っている人間がほとんどで、自宅に住んでいて門限のあるようなきちんとした躾のなされた女の子は帰宅している時間だからだ。だから必然的に町に残っているのは、酔っぱらった男たちとどうしようもない女たちだけになる。そんな人間たちの中から、今宵の僕の晩餐の招待客が選ばれるのだ。

 僕は京王八王子駅の北側にあるコインパーキングに車を停めると、セキュリティーのビデオカメラがないことを確認した。そこから繁華街に向かって少し歩いていき、ブラブラと彷徨った。僕が思った通り週末なので町にはまだ相当多くの人がおり、そのほとんどが酔っぱらっていた。サラリーマンやOLもいれば飲み屋の女たちや学生も多かった。僕はその中からゆっくりと獲物を物色し始めた。勿論ターゲットとなるのは、一人でいる男か女であった。目的が目的だけに複数人のグループは対象外であった。

 ゆっくりと落ち着いて相手を探すと、男でも女でも酔っぱらって一人でふらふらと歩いているのが何人もいた。僕はその中から、いかにも男好きで尻軽そうな一人の女の子に目を付けた。彼女は髪を金髪に染め、酔いを冷ましているのか雑居ビルの階段に座り込んでタバコを吸っていた。しばらく距離をおいて彼女を観察すると、他には連れがいないようだった。それで僕は今晩のターゲットは彼女にすることに決めた。ゆっくりと彼女のところまで歩いて行き、彼女の前に立った。

 

 「はーい、彼女。こんなとこで何してるの?僕と夜のドライブにでも出かけない?」僕は軽い男を装いながら笑顔を浮かべて彼女にそう話しかけた。

 「えー、何?ドライブ?」彼女はいかにも頭の悪そうな話し方でそう答えた。

 「そうだよ。冬の海にでも行かない?」僕は微笑みながらそう言った。

 「うーん。行こうかなあ。あんた、男前だし好みのタイプだわ・・・・・・。それに暇だし・・・・・・。」相当酔っているようだった。彼女は立ち上がりながら少しよろけてそう言った。彼女の息はかなりアルコール臭かった。

 「それじゃあ決まりだね。行こうか。」僕はそう言うと、彼女の腕をもって歩き始めた。彼女は少しふらつきながら僕に連れられて歩き始めた。

 僕たちは車が止めてあるパーキングまで来ると、僕の車の前で立ち止まった。

 「なんだ。地味な車に乗ってるのね。」彼女は少しがっかりしたようにそう言った。僕はシートベルトをするのに戸惑っていた彼女に付けてあげた。

 「まあね。そんなことよりのど乾いてないかい?何か飲めば?ビールならあるよ。」僕はそう言うと、後部座席に置いてあるビールを指さした。

 「うん。のどが渇いたからちょうだい。」彼女はそう言った。僕はビールを取ると、缶を開けて小さな睡眠薬を中に入れて彼女に渡した。彼女は何も言わずにそれを受け取ると、グビグビとそれを飲み始めた。僕はそれを横目で見ると、シートベルトをしてエンジンをかけた。

 「レッツゴー。」彼女は酔いながらそう言った。その話し方がいかにも馬鹿っぽくて僕は一瞬全身に虫唾が走った。だが数時間後にはこいつは生贄になるのだと思って心の中を落ち着かせた。

 「名前はなんていうの?」僕は車を走らせながらそう言った。

 「ゆかりちゃんでーす。あんたは?」

 「博だよ。」僕は偽名を使ってそう答えた。

 「なんか音楽かけていい?」ゆかりはそう言うと、カーステをいじり始めた。

 「ああいいよ。ブルーストゥースでつなげてかければいいよ。」僕はそう言った。

 「じゃあ私のステーションからかけるわ。」ゆかりはそう言うと、カーステに自分のスマホを接続させて音楽を流し始めた。

 僕の嫌いなヒップホップが大音量で流れ始めた。だが僕は何も言わずに運転を続けた。ゆかりは相当酔っているらしく、音楽を聴きながら少し音程を外しながら適当な歌詞で歌っていた。

 彼女は元は地方の専門学校生で今は家出してきているとのことだった。上京している友達の部屋に泊めてもらったり、ネットカフェに泊まったり、時々出会い系で割り切った付き合いをしてホテルに泊まったりしているとのことで、今晩は昨日出会った男から貰ったお金で一人で飲んでいたとのことだった。

 これは僕にとってはとても都合がいい相手だと思った。こうした女がいなくなったとしても誰も気にも留めやしないし、むしろ社会にとって害悪になる異物を取り除くことになるからだ。

 ゆかりは僕の容姿をやたらに褒めた。自分の好みにピッタリだと言った。僕は関心があるようなふりをしながら礼を言うと、空いている道路を少しスピードを出して飛ばし始めた。

 

 ゆかりは元々は和歌山県の田舎の出身らしかったが、ずいぶん前に親と喧嘩して東京に家出してきたとのことだった。田舎には戻る気持ちは全くないと言っていた。

住むところは決まってないけど、東京での生活は退屈な田舎の生活に比べて楽しくて仕方ないと言っていた。僕は幸福の絶頂で死ねる彼女は幸福だと心の中で密かに思っていた。

 そのうちに薬の効き目があって彼女は眠り始めた。僕はいよいよ久しぶりに晩餐が始まることに心を躍らせていた。眠り込んだ彼女の品のない顔を見て僕は微笑んだ。僕はハンドルでカーステを操作して、音楽を変えることにした。曲はモーツァルトの葬送行進曲にした。このシチュエーションにはやはりぴったりの曲だった。この曲で彼女をあの世へと送ってあげるのだ。

 

 ゆかりは本当に静かに寝入っていた。僕は興奮しながら今宵生贄を捧げるための地へと車を走らせていった。その場所をどこにするかについては、まだはっきりと決まってはいなかったが、静岡方面にすることだけは決めていた。時間の経過とともに夜も深まっていき、車の数もだんだんと減っていった。そして音楽の力が僕の心を一層興奮させていった。

 これから始まる晩餐に招待されたゆかりは、なんて幸せな女なのだろうと思った。これまでに僕が殺した人間の中でも、最も幸せの中で死ねるのだから・・・・・・。今までに殺した人間は、今の自分が幸せで人生が楽しくて仕方ないといった人間は一人としていなかった。みんな何かしら人生に不満を持っていた。そういった意味で、ゆかりは今までで一番幸福な招待客だった。

 ゆかりは僕にとってたった今のこの瞬間では、この世で最も大切な人間であった。そう思うと、横に乗せて走る彼女の横顔がなんとなく愛おしいものに思えてきた。この特別な感情は、殺す前には相手が男女を問わず必ず僕の心の奥底から沸き上がってくるものだった。それは自分でも何故だかわからなかった。ただこれも晩餐を前にした僕の心の中の精神的な儀式の一つであるようだった。

 

 しばらくの間、音楽に酔いしれながら国道を走らせていった。車は既に沼津を抜けて別の国道を御前崎の方へと走っていた。車はほとんど走ってはいなかった。僕はかなりスビートを出して走らせてはいたが、晩餐後のように生と死の狭間を楽しむことはしていなかった。精神的には確かにかなり高揚していたが、心の中では別の落ち着き払った自分がいた。その別の自分が全体を俯瞰でみていて支配していた。

 

 ゆかりは相変わらず助手席でぐっすりと眠り込んでいた。僕はベートーヴェンの第九をかけながら、車をずっと走らせていった。車の窓は締め切っていたが、微かに潮の香りがしていた。もう既に御前崎を過ぎていた。冬の真っ黒な海が月明かりに照らされて見え隠れしていた。そしてすぐに道路は海岸線に出てきた。いつの間にか道幅がかなり狭くなっていたので、多分もう県道か村道になっていたのであろう。僕はナビが表示しているさらに未舗装の細い道へと入っていくと、さらに車を走らせた。自分が心でイメージしていたちょっとした荒れ地に辿り着くと、僕は車を道から見えないところにゆっくりと停めた。

 エンジンを切りシートベルトを外すと、しばらくの間自分の座席でこれから始まる晩餐の悦楽を想像してゆっくりと目を閉じて気分を楽しんでいた。

 それからシートの下のレバーを引くとトランクを開けた。音楽も消して僕はドアを開けて外に出た。確かに外は寒かったが、僕の心の中の異常なまでの高揚のために、身体にはそのことを全く感じさせなかった。ドアを閉めると、僕は開いたトランクの中から今晩の晩餐に使用する道具を選んだ。

 僕は村正と呼んでいる今まで数多くの血を吸っているナイフを取り出し、他には手錠を取り出した。そして着ていた服を脱ぐと、どこにでも売っている白いTシャツに着替えた。下半身には真っ黒のスキーウェアを身に着けた。そして手に黒い軍手を付けると、トランクを閉じて、ゆかりの寝ている助手席側のドアを開けた。

 

 ゆかりは相変わらずぐっすりと寝入っていた。ドアから入ってくる冷たい空気を受けても、ピクリとも動かなかった。僕は彼女の腕を自分の肩に乗せると、車の中から彼女の身体を引きずり出した。そして彼女の背中の上の方に左腕を回し、もう一方の腕で彼女の膝を支えて右足でドアを閉めた。

 彼女の身体はそんなに重くはなかった。もっとも僕は殺人のために身体も毎日就寝前に鍛えていたので、相撲取りのような太った人間は別として、大抵の人間なら持ち上げられる自信はあった。ぐっすりと眠っている彼女を、月の光がうっすらと照らしているちょっとした太さのある木の下まで運ぶとそこに下ろした。それからその木の太い枝に先程トランクの中から出した手錠をかけると、彼女の右腕を伸ばして手錠をかけてつないだ。

 

 いよいよこれから晩餐が始まるのだ。

 

 僕はポケットの中に入れてあった気付け薬を彼女の鼻の前にもっていって嗅がせた。ゆかりは一瞬ピクリと全身を震わせた後目覚めたのだった。


 「寒い。一体ここはどこ?」まだ寝ぼけているのか、ゆかりは自分の置かれている状況がまだはっきりとわかっていないようだった。

 「海だよ。ドライブして海に来たんだ。」僕は微笑みながら低い声でそう言った。

 「あんた、いったい何してるの!!この手錠は何よ!!ふざけないでよ!!」ゆかりは自分の腕が手錠でつながれていることに気づくと、錯乱しながら怒りと恐怖の混じった声でそう叫んだ。

 「ふざけてなんかいないさ。僕はいたって真面目だよ。ようこそ今宵の晩餐へ。」僕はそうした彼女の声を聞くと、嫌が上にも気持ちが高ぶってくるのを抑えられずにそう言った。

 「何よそれ!!いい加減にしてよ!!」ゆかりは大声でそう叫んだ。僕はそんな彼女に冷笑を浮かべると、村正と呼んでいるナイフを取り出した。村正が月の光に反射して不気味にきらきらと輝いていた。

 「キャー!!!やめてよ。何しようっていうの!!助けてー!!誰か!!」ゆかりは狂乱しながら逃げようと必死になっていた。だが手錠で木につながれているのでどうしようもなかった。

 僕は一言も発さずに村正を握り直すと、ゆかりの右大腿部の筋肉へと思い切り突き刺し、すぐに左大腿部の同じ部分を突き刺した。

 「ギャー!!!痛い!!!お母さん助けて!!!」ゆかりはそう泣き叫んだ。

 「誰も助けになんか来やしないよ。」僕は冷たくそういった。

 「痛いかい?そうだろう。誰でもそうさ。そしてお前のような下品な女でも流れ出る血の色は美しい。」僕はそう言った。

 「狂ってるわ。」

 「そうかもしれない。だが今の世の中狂っている方が正常なのさ。」

 「ああ!!痛い。お願い。助けて。何でもするから。」ゆかりは苦痛にのたうち回りながらそう言った。

 「何言ってるんだ。僕はお前を助けているんだよ。」

 「じゃあ早くこの手錠を外して病院に連れて行ってよ。」

 「それはできないな。お前は全く誤解している。助けるというのはそういうことじゃない。お前の魂の救済なんだよ。」

 「あと僕がお前をナイフで刺したところは、切断すると歩けなくなる筋肉なんだよ。だからその木を折ったとしてもここから逃げることはできない。」

 「ああ、誰か助けて!!!お願い。何でもするわ。」ゆかりは泣きながら懇願した。

 「何でもするか・・・・・・。それじゃあ生贄になってもらおうか。」

 「お願い・・・助けて・・・・・・。」

 「知ってるかい。この村正っていうナイフはとってもよく切れるんだ。さて試しに次はお前のどこを切ろうか。淫乱なお前が男たちを誘惑した胸にするかな。」僕はそう言い終わると、すばやくゆかりの初めは左胸を3センチほど突き刺して切り裂き、続いて右胸を同じように切り裂いた。

 ゆかりは絶叫してのたうち回った。そうすることによって益々ゆかりの血が流れ出ていた。僕はその血が月の光に照らされて、怪しいまでに美しく輝いているさまを見て、恍惚感に浸っていた。そして汚れた女の血であるにもかかわらず、ゆかりの血の甘美な香りが僕の魂を震わせた。

 ゆかりは狂ったように大声で何か叫んでいたが、僕の耳の中にはもう何も入ってこなかった。僕はさらにゆかりの腕や腹を突き刺し切り裂いていった。

 

 月の光、絶叫、泣き叫ぶ声、流れ出る血の色、そして甘き血の香り・・・・・・そうしたものが僕の周りの空間をすべて支配していた。僕は至福の時を迎えていた。心の中では『アイーダ』の旋律が流れていた。この瞬間、僕は今すぐ死んでもいいとさえ思った。それほどの幸福感に包まれていた。

 

 いつの間にかゆかりはもう声も出せない程衰弱していた。僕はそろそろ晩餐が終了に近づいていることを悟った。これからはいわば晩餐のデザートとコーヒーの最後の仕上げの時間だった。後は切り刻んだゆかりの身体に最後の助けの一刺しをすればいいだけだった。最後の個所には、首もあれば腹も胸もあった。

 僕は淫乱な女の最期に相応しいように胸でフィニッシュをすることに決めると、村正を握り直してゆかりにこう言った。

 「楽しかったよ。ありがとう。幸せにな。」

 そして僕はゆかりの心臓に村正を突き刺した。

 ゆかりはその瞬間身体を震わせ、そしてすぐに息絶えた。僕は村正に付いたゆかりの鮮血を舌でゆっくりと舐め味わった。

 

 それは僕に例えようのない恍惚感と感動をもたらした。セックスによるエクスタシーなど到底及びもつかない程の表現のしようのない感情の高揚だった。そして生贄の血の味はどんな料理でも味わえることができない素晴らしい味だった。


 生贄となったゆかりは全身から血を流して血塗れになって果てていた。僕は手錠の鍵を外すと、今はもう血の気が失せて紫色になった彼女の唇に優しくそっと接吻した。これは僕の晩餐の招待客への最後の感謝の印だった。勿論男が相手の場合はそんなことはしなかったが、女性の場合は必ずそうすることにしていた。

 そうすることは、その女性に対する僕なりの愛の形でもあった。そしてその行為がなされた後、しばらく僕は甘美な血の香りと言いようのない恍惚感の中に浸るのだった。

 

 十分な満足感が得られた後で、僕はようやく片付けの作業に入るのだった。料理を作るのは好きだが片付けが嫌いだという人が多いと日ごろからよく耳にするが、なぜだか僕にはその理由は分からない。僕にとっては片付けも晩餐の重要な地位を占めていた。勿論犯罪がばれないためでもあったが、招待客を最後までもてなし、晩餐を締めくくることが大事なことだと思っていたからだ。

 まずトランクからインド製の大きな麻袋を取り出すと、ゆかりの足から靴を脱がせてその中に入れた。身体は足を折り曲げながらその袋の中へゆっくりと入れた。それから僕はトランクから折り畳み式のスコップを取り出すと、ゆかりが悶絶した辺りの近くの土を少し掘った。そしてゆかりの血の付いた土や石をその穴の中に集めると、燃料用のアルコールを上からかけた。そして近くの枯れた木の枝にライターで火を付けると、その穴の中に投げ込んだ。

 

 バアっと火が燃え上がった。それはまるでゆかりの最期の生の炎だったのかもしれなかった。ほんの一瞬だが、とても美しい炎であった。


 僕はその穴をスコップを使って土と石で元に戻すと、スコップの土をきれいに落としてから折り畳んで再びトランクの中にしまった。そしてゆかりの入っている麻袋を同じインド製の麻紐で結ぶと、トランクの中まで運んで行った。それからゆかりの返り血を浴びている白いTシャツを脱ぎ捨てて持参した青色のシャツに着替えると、同じようにトランクの中に入れて最後に血塗れの軍手と妖しいほどまでに美しい輝きを持つ村正をしまった。黒のスキーウェアを脱いでそれも中に入れた。このスキーウェアは特殊防水加工が施してあるので、水は勿論血も弾いて付くことはなかった。

 僕は真冬の寒空の下でほとんど半裸状態になっていたが、異常なまでの精神の高ぶりが寒さなど全く感じさせないでいた。それでも来た時とは違った服にすべて着替えると、トランクをバタンと音をさせて閉めた。その音が心の中の弦に、妙に静かに響いた。

 僕はそれから冷えた車のエンジンをかけ、しばらくの間アイドリングをしていた。BGMにはショパンのピアノソナタ2番を流していた。ミラーを見ると、満足した僕の表情が映った。しばらくして僕は車を発進させた。僕の心の中ではゆかりの遺体の処理場所は既にもう決まっていた。

 同じ場所での獲物の収穫はしない、同じ場所での晩餐は行わない、そして同じ場所での遺体の処分は行わない。これが3大原則であった。今晩も当然その原則を守ることにしていた。

 ゆかりの処理場所として選んだのは、富士五湖の一つの西湖だった。

 この時期のこんな時間に訪れる者など恐らくいないだろうし、また富士五湖の中でも最も水深が深く、最も神秘的で周りを富士の樹海が囲んでいるこの場所は処理場所としてはとても相応しいと感じていた。数年前ある若い女の遺体を処理したのはその富士の樹海であった。恐らく今頃は完全に土に返っていることだろう。それとももしかしら狐などの動物に掘り返されて食べられてしまったのかもしれない。


 西湖に着いたときにはもうかなり遅くなっていた。BGMも既にショパンのピアノソナタの3番に変わっていた。この曲の第一楽章は何となくベートーヴェンの曲を彷彿させるようなダイナミックなスケールの曲で結構気にいっていた。勿論有名な葬送行進曲もあるので、ゆかりへの感謝の気持ちも込めて聞き入っていた。

 

 僕は舗装道路から少しは外れた道に入り、そこで車を停めた。車の外に出ると、先ほどよりもかなり寒く感じられた。所々にある水たまりが凍り付いているのが月の光に照らされて分かった。多分零下になっているとは思ったが、身体の方は晩餐の高揚した気持ちのためにそれ程の寒さを感じはしなかった。

 トランクを開け、遺体の入っている麻袋を取り出すと、湖の岸まで歩いて行った。そして近くに落ちている大きな石を袋の中に紐を解いていくつか入れると、再び紐で結んだのだった。それから僕は靴を脱ぐと、麻袋を両手で抱えて湖の中へと入っ行った。勿論周りに人影など全くなく、不気味なほどに静まり返っていた。

 当然湖の水は異常なまでに冷たかった。所々少し凍っているところもあった。だが僕にとってはそのことも晩餐の一部であり、ある意味で楽しんでいた。僕は腰まで湖の水の中に浸かっていた。その時どこからか大きな木が流れて僕の身体に少し触れた。そこで僕はゆかりの入っている麻袋をその木に結び付けた。軽く結んだだけであったので、しばらくすれば袋の重さでその木から解けるようにうまく結んだのだった。そうしてその木をゆっくりと湖の中心へと向かうようにそっと手で押してやったのだった。

 僕の思っていた以上にうまくその木は湖の中心の方へとゆっくりと流れていき、そしてやがて静まり返った空気の中で、紐が解けてゆかりが湖の底に沈んでいくのが耳で聞き取れたのだった。

 それから僕は今宵の晩餐の全てが終わったことを、大きな満足感とともに味わっていた。だが下半身は凍り付いたかのように冷え切っていた。そこで湖の中からゆっくりと岸へと向かっていった。

 岸へ上がった瞬間、僕はゆかりに対して今宵の楽しい晩餐への感謝の気持ちを込めて、沈んでいった場所をしばらくの間見つめて微笑んだ。心の中ではゆかりが死んでいく時の断末魔の叫び声が全身を震わせるほどのエクスタシーを感じさせていた。

 

 止めどなく流れ出る血、そしてその血の何とも形容のし難いほどの甘美な香りと村正に付いた血の味わい深さが再び僕の心に沸き上がってきて、しばらくの間僕の魂を感動に打ち震わせていた。

 寒さも冷たさも不思議と今は感じなかった。感じていたのはエクスタシーだけであった。僕は下半身を濡らしたまま、車のドアを閉めてエンジンをかけた。しばらくアイドリングをしながらシートに座っていた。目覚めてすぐの夢から覚めていない時の状態のような何かフワフワした気分であった。

 ようやくエンジンが温まってきたので暖房を最強にしてつけた。熱風が車内の冷え切った空気を急速に温めていった。僕は風向を下半身にあたるようにした。すると今まで感じていなかった冷たさが急に僕の下半身を襲ったのだった。僕はカーステで『アイーダ』を流すと、音楽に陶酔しながらゆっくりと車を走らせ始めた。

 

 しばらくして舗装道路に出ると、突然僕はスピードを上げて飛ばし始めた。次々と襲い掛かってくるカーブを生と死の狭間にいる瞬間を味わいながら切り落とししていった。僕は音楽に半分心を持っていかれながら、少しでもブレーキングかハンドリングの操作に誤りがあれば死ぬという、そのデッドラインにいる自分の状況を満喫していた。そうすることによってのみ、僕の心の中に満足感を得させてくれるのだった。

 

 仕事も、セックスも、ドラッグも、ほかの全てのことが僕を少しも満たしてはくれなかった。晩餐会で生贄を捧げることと、こうして死の淵に立つことだけが僕の心を満たしてくれた。今まで一度もやったことはないが、ピストルに実弾を入れて行うロシアンルーレットなども恐らく僕を満たしてくれることであろう。だからチャンスがあったら是非やってみたいと思っていた。

 暴力を振るうことは嫌いではなかったが、自分から喧嘩を仕掛けるような馬鹿なことはしない。特に日本国内では絶対にそうしたことはしなかった。もし事件沙汰になって、指紋でもとられたりして自分の社会的な評判をおとすようなことがあったりしたら、僕の晩餐会の開催に大いに影響が出ると考えられるからだった。


 僕はいわゆる二重人格者ではないと思うが、二つの仮面を持つ人間であることは確かであった。普段のエリート中のエリートといった自分と、海外へ出張した時や国内で晩餐会を開催するような自分と二つの仮面を持っていた。どちらが本当の自分の姿なのかと仮に尋ねられたのなら、僕は両方ともに自分であると答えるであろう。ただより後者の方の自分の方が本当の自分であるように感じられる。普段の僕は他人に羨ましがられたり、妬まれる程の完璧な人間を演じている。勉強でも仕事でも、今まで一度として他人に負けたことはなかったし、スポーツも芸術方面でも何でもこなすことができた。異性からも物心ついた時からずっと学校で一番もてていた。実家も名家で財産も相当なもので経済的にも非常に恵まれていた。そして加えてこれらすべてが、他の人の努力の何十分の一ほどのおおよそ努力とは呼べないようなちょっとしたものだけで実現していた。

 ただこのことは僕にとっては、人生をまったく面白くないものにしていた。感情の起伏を計る装置で測定したのなら、普段の僕はずっとまっすぐな直線を描いていることだろう。表に出している笑顔やその他の表情とは裏腹に、全てのことに対して全く興味も湧かなかったし、楽しくも嬉しくもなかった。

 だが晩餐を開いた時の僕は全く違う。いや、開いている時だけではなく、その前後についても表現のしようのないような心の奥底から湧き上がってくる、とてつもないエクスタシーを感じるのであった。晩餐実行の計画を練っている時も同じような感情にとらわれるのだった。そして計画の段階や晩餐を思い返すときなどに女性とのセックスでは味わえない、マスターベーションによる絶頂感を味わうのだった。そうして心身ともに生きているということを初めて実感するのだった。


 他人はこんな僕のことを異常だと思うかもしれないが、この地球上に何十億もの人間がいればこうした人間が出てくるのも不思議ではあるまい。一方では自分を犠牲にしてまで他人に献身的に尽くす人間だっているのだから、僕のような自分のために他人をいくらでも犠牲にして生きている人間だって多くいるのが現実だ。


 いつの間にか僕は車を猛スピードで走らせながら、相模湖の近くまで来ていた。当然高速は使わずに一般道路を通ってきた訳だが、もうこんなところまで来ていたとは思いもしなかった。西湖でずぶ濡れになったズボンや靴下はいつの間にか乾いていた。まだ山の中なのでカーブは続いていたが、僕のドライビングテクニックで次々と切り落としていった。別に僕はハンドル操作を誤ってここから谷底に落ちたとしても悔いは全くなかった。このまま幸福感に包まれたまま死んでゆけるのなら、それの方が普段の無味乾燥の生活を味わうよりもずっと嬉しかった。

 

 突然先ほど味わったゆかりの血の味が思い出された。あれほど甘美で全身を震わせるような味は、人間の生の血以外に僕にはありはしなかった。特に若い女の血の味は格別であった。

 それがどんなに薄汚れた女の血であろうと、僕には特別なものだった。やはり男の血よりも甘い味がするのだった。血の味を思い出しながら、僕のペニスは硬直して勃起していた。僕はチャックを開いてそれを外の空間に解放してあげると、左手で握ると物凄いスピードで上下に動かした。段々と絶頂に達していく気分を思う存分味わいながら、僕はエクスタシーに達して果てた。

 車の天井と左手に、今出たばかりの僕の生暖かい精液が付着していた。僕は左手に付いたそれを少し舐めてみた。

 いつものように甘さの中に少し苦さがあった。しかし耐えられないような苦さではない。その味から女が精液を飲むというのも、別に不思議ではないと思った。僕は縮んで元の大きさに戻ったペニスをティッシュで拭き、パンツの中にと仕舞い込むと、車の天井に付着した精液も拭き取った。珍しいことではない。こんなことはしょっちゅうあることだった。女とのセックスで得られる満足感よりも、こちらの方がずっと僕にとっては感じることができるからだった。

 なぜ僕がこんなに他人とは異なった方法で満足を得られるのかは自分でもわからなかった。僕は両親の愛情に包まれずに育ってきた訳では決してなかった。だからよく精神分析で言われる幼少期における愛情の欠如のために、こんな風になってしまったのではない。ただもしかしたら、自分が子供の頃からずっと自分の望むものはすべて手に入ったし、ほとんど何においても僕を超えるものは出てくることはなかったという、人生に対する無味乾燥の観念的なものが、僕をこうした行為に走らせるようになったのかもしれない。いずれにせよ、他人とは全く異なった行為が僕の乾いた心を満足させてくれた。


 車は既に都内に入っていた。僕は音楽をジャズのダイナ・ワシントンに変えると、明け方前の都心の空に吸い込まれていくかのように飛ばしていった。夜もそうだがこの時間帯もジャズのよく似合う時間だった。

 タクシーとトラックのほかには、ほとんど乗用車は走っていなかった。僕はその中をジャジーな気分に浸りながら車を飛ばしていた。何もかもうまくいっていた。ゆかりは永遠に西湖の湖底に沈んで眠り続けることだろう。たとえ偶然に浮かび上がるようなことがあったとしても、僕に容疑がかかるわけはない。僕と彼女を結ぶ線はないし、今夜の犯行時刻のアリバイ作りもしてあった。このアリバイ崩しは、警察の劣悪な知能を集めたところでどう考えても不可能であった。


 僕は車を駐車場に停めると,自分の部屋へと向かった。鍵を開けて自分の部屋の中に入ると、服をすべて脱ぎ捨ててバスルームへ入った。そしてすぐに熱いシャワーを頭のてっぺんから浴びた。

 普通ならシャワーを浴びることによって疲れが取れるのだろうが、晩餐の後に全く疲労感などは感じなかった僕の身体が、逆にシャワーを浴びたことによって疲れが呼び起こされたようだった。全身を急に疲労感が襲ってきた。それと同時に急激な睡魔も僕を襲ってきた。僕は髪の毛を乾いたバスタオルでゴジゴシと拭いて体に付いた水滴を拭うと、ビキニのパンツを履いてバスローブを上に羽織った。そして飛び込むようにしてベッドの中に入ると、目を閉じて眠りについたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る