最終話


「……で、あっちは誰ですか」


 ナハーシュの顔はフレイの用意した資料で確認していたので、シリウスは知っていた。

 黒幕はコイツか、と忌々しげに睨み付けるが、ふと部屋にはもう一人見知らぬ顔があることに気が付いた。

 くすんだ灰色の髪に、まだ少年といっても差し支えない容姿。

 チラリと視線をやったグレンもわずかに眉を顰めた。

 少年はニヤリと表情を歪める。

「おいらが何者かって? こういえばわかるかな――“狩り人”」

 堂々と名乗ってくれた相手を見据えて、グレンがボソリと呟く。

「…………あの時と姿が違ぇな」

 あの時は、くすんだ泥色の髪の男だった、と呟くグレンを見上げてシリウスも眉を顰める。

 あの時とは領主の屋敷でのことだろうが、姿が違うとは一体どういうことか。

「……別人という可能性は?」

「……いや、匂いも気配も一緒だ。アイツで間違いねぇ」

 ちょうどいい、ここで二人まとめて消す、と獰猛な笑みを浮かべたグレンの本気を感じ取り、シリウスはぞくりと背筋が震えた。

 やるなら、俺を抱えたままじゃなくて、降ろしてからにしてください、と内心で願う。

「せっかくここまで来てくれたんだし……ヴェルメリオが持ってるその“龍王の宝”、おいらに寄越せよっ!」

 ニヤリと狡賢い笑みを浮かべた灰色髪の少年が、隠し持っていたらしい拳銃を取り出すと、銃口をグレンへと向け発砲する。

 反射的に怯んだシリウスだが、銃弾はグレンに届く前に、金剛杖によって叩き落される。

 無茶苦茶だなこの人、とシリウスはグレンについて深く考えることを諦めていた。

 刹那、グレンに小脇に抱えられていたシリウスは、視界の端で不審な動きを捉えた。

「――グレン!」

 水槽の淵まで移動していたナハーシュが、抱えていた領主を水槽の中へと戻していた。

 鎖の重みに引かれて領主の身体が沈んでいく。

 何考えてんだあのクソ人間。

「チッ……水底深くに沈めちまえば、助けに行けないとか考えてんだろ」

 シリウスの疑問に答えるように、グレンが舌打ちとともに呟いた。

 なるほど。人間だったら確かにな。

「俺が行きます」

 考えるより先に口が動いた。

 一瞬目を瞠ったグレンだが、すぐに唇の端を釣り上げて笑うと、シリウスに短く告げる。

「まかせた」

「はい」

 シリウスはかけていた黒縁眼鏡をシャツのポケットへとしまう。

 グレンは小脇に抱えていたシリウスを持ち上げると、水槽目がけて力いっぱい投げる。

 投げられる瞬間、腕を両足で強く蹴って飛び、シリウスは指先から綺麗に着水した。

 口を開けて唖然としているナハーシュの姿が一瞬視界に入ったが、すぐに水中に潜り見えなくなる。

 ヤツらはグレンにまかせておけば大丈夫だろう。

 宣言通り二人まとめて消してくれる気がする。

 ならばシリウスは、今自分にできることをするだけだ。

 鎖に引きずられ沈んでいく領主の姿を水の底に捉える。

 嫌な水だ。潜ってからすぐにそう思った。

 一見普通に見えて、絶対的に違う。体にまとわりつくような重たい感じ。

 真水でもない、ましてや海水でもない、あまり長く浸かっていたいとは思えない。

 何か水に混ざってる、とシリウスは感じた。

 急いだ方がいいかもしれない。早く領主と一緒にここから出た方がいい。

 必死に手を伸ばし、水槽の底に着く寸前で領主の身体を抱き留めた。

「領主!」

 無事を確認しようとしてすぐ目に入った赤い痕に、シリウスは思わず息をのんだ。

 その光景を見てなくてもわかる。おそらくは、指で撫でられたのであろう痕が、目元、頬、顎から首筋にかけて、そのままうっすらと赤くなって残っていた。

 ローレライの体質のせいだ。

「あの野郎……素手で触りやがったのか」

 ローレライである自分や領主は、人間より体温が低い。

 言い換えると、自分たちにとって人間の体温は少々熱すぎるのである。

 だから、なるべく人間に直に触れられるのを避けるし、自ら触れることもできればしたくない。

 絶対に触れられない、というわけでもないが、その結果は、現在領主が身を持って証明している通りだ。

 そして、おそらく屋敷での戦闘中に負ったのであろう裂傷、加えて、無造作に一か所切り取られた鮮やかな蒼い髪の毛先、綺麗な尾びれの青い鱗が、無理矢理剥がされた痕を目にしたシリウスは、舌打ちとともに拳を握りしめた。

 領主の身体に、この傷跡が消えず残ろうものなら、怒りでおかしくなるかもしれない。

 直後、突如として水底から檻がせり上がってきた。

「――ッ!?」

 上へ浮上しようと見上げるのと同時に、頭上からも檻が降ってきていることに気が付いた。

 避けようにも間に合わなかった。

 シリウスは領主と共に、水底で檻の中に閉じ込められた。

「クソッ……そう簡単に逃がす気はないってか」

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 自分は今一人ではない。上にはグレンがいる。

 ならば、今できることをやらなければいけない。


「――……ス、バルくん……?」


 戸惑いを含んだ小さな声が聞こえ、腕の中で領主が身じろぎした。

「領主! ちょっと待ってください。今、鎖はずしますから」

 シリウスは、まずは領主の首輪をはずしにかかる。

 ぼんやりとしていた領主の表情が、シリウスを見据えてハッとしたように我に返った。

「何故、君が……ッ、まさか君も、……こんなところにいてはいけません!」

 思いのほか強い力で腕を掴まれて、手錠外しに取り掛かろうとしていたシリウスの方が驚いた。

「落ち着いてください。俺は、ナハーシュってやつに捕まったわけじゃないです。……あー、まぁ、現状捕まってるようなもんですけど、違います」

 手をだしてください、と手錠を外してやりながら、シリウスは領主に説明した。

 ウィリディスはヴェルメリオと一時的な同盟を結んだこと、ここはメランの地にある研究施設で、今外ではスピカたちが、そしてすぐ上にはグレンがいること。

 領主は、初めこそ驚いたような表情になって聞いていたが、次第に眉根を下げて困ったような、泣きそうな表情になった。

「君たちは――」

 領主が何か言いかけた刹那、轟音と共に、激しい揺れが伝わってきた。

 離れないように、反射的に領主の腕を掴む。

 檻の中から見上げても残念ながら地上の様子はわからない。

 領主を捕える鎖ははずした。

 だからあとは逃げるだけなのだが。

「上の心配はしなくていいと思いますけど。……問題は俺達です。この檻破るのは、どう考えても無理です」

 もしかしたら領主なら可能か、とシリウスは思ったが、視線を戻した先で額を押さえる領主を見て顔色を変える。

「領主! しっかりしてください!」

「………………問題ありません。ただの立ちくらみです」

 そんなわけあるか。立ってねぇだろ。ここ水中だし。水底だし。

 考えるとしたら、この水のせいか。

 無理もない、つい先ほどまで領主は意識が朦朧としているような状態だったのだ。

 今は、気力のみで意識を保っているとみるべきか。

 おそらくはこの水に長く浸かり過ぎているであろう、領主の方がこのままでは持たないかもしれない。

 かくいうシリウスも、そろそろ身体に倦怠感を覚えてきている。

 どうしたものか、と舌打ちをこぼしたシリウスに、領主が告げた。

「…………スバルくん。頼みがあります」

「なんすか」


「あの男――グレンに、私の音を届けてください」


 ***


 上手くやれるか、いや、やれないとか言っている場合ではない。

 やるしかないのだ。

 領主の指示通り、音は届けた。

 と言っても、シリウスはただ言われた通りに“詠った”だけだ。

 その声がちゃんと届いたのかはわからないし、相手に意図が伝わったのかもわからない。

 眉根を寄せるシリウスに、領主は大丈夫だと頷く。

 まるで相手を信用しているような、そんな雰囲気を感じて、何故かわからないがシリウスは少しだけ面白くなかった。

 領主は水槽の向こう側、侵入する際にグレンが天井に穴を開けた無人の部屋をじっと見据えている。

 檻の中でただひたすら時期を待つ。

 その時が来るのを待つ。

「スバルくん。君の声が頼りです」

 何故、今だったのか、このタイミングだったのか、シリウス自身もよくわからないが、この時言葉が零れたのは無意識だ。


「――シリウスです」


「え?」

 キョトンとした表情をした領主が振り向く。

 その濃い蒼の瞳を至近距離で見据えて、シリウスはぶっきらぼうに告げる。


「俺の名前は、シリウスです」


 スバルじゃありません。

 領主が勝手に呼び始めたこの名前も嫌いではなかったけれど。

 貴方には、本当の名前で呼んでほしい。

「――……そ、れと」

 あんたの名前は、とシリウスがボソリと問いかければ、領主がパチリと目を瞬かせた。

「あぁ……そういえば、私もちゃんと名乗ったことはありませんでしたね」

 何しろ領主と呼ばれているものですから、あまり名乗る習慣がないもので、と困ったような表情をした領主は静かに告げる。

「私の名前は、アルファルドです」

「……アルファルド、さん」

「長ければ、アルでも構いません」

 アル、さん。

 やっと知ることができた領主の名前を心の中で呟く。


「シリウスくん。頼りにしています」


 わずかに目元を和らげて、そっと綺麗に微笑んだ。

 変化が起きたのはその後だった。

 天井に新たな穴を開けて、まずナハーシュが、そして狩り人と名乗った少年と、グレンが水槽の向こう側の部屋へ落ちてきた。

 グレンは水槽にチラリと一度だけ視線を向けると、小さく笑ったような気がした。

 それから、灰色髪の少年が仕掛けてくる攻撃をよけながらも、手にした金剛杖で部屋の壁、床を無造作にぶち壊し始める。

 部屋中を穴だらけに破壊したグレンが、天井の穴から上の階へと退いた。

 準備が整った。

「シリウスくん!」

 促す声に、シリウスは頷くと、音を発した。

 “共鳴振動”

 ローレライの声で発した音で、水槽のガラスを共振させ、割る。

 始めは小さなヒビ、そこから深い亀裂が生じ、そしてガラス全体へと蜘蛛の巣のように広がり、砕け散った。

 ガラスが割れたことにより、水槽の水が部屋へと流れ込む。

 何が起こったのかまったく理解できていなかったナハーシュと、灰色髪の少年は、当然の如く逃げ遅れ、叫び声を残して迫りくる大量の水に流された。

 水槽の水が部屋を満たすことはなく、グレンが部屋中に開けた穴から隣の部屋、下の階へと流れていく。

 後に残されたのは、割れた水槽と、檻の中でむき出しのコンクリートの上に座り込むローレライ二人。


「……無事か」


 天井の穴から降りてきたグレンが、シリウスたちを捕えていた檻を、素手で力任せにこじ開けた。

 やっぱり無茶苦茶だ、この人。

 理解不能とばかりに苦い顔をするシリウスの前で、グレンの金色の瞳が領主の蒼の瞳と交錯する。

 互いに言葉はない。

 けれどもそれが、シリウスには、まるで二人が視線だけで会話をかわしたかのように見えた。


「…………戻るぞ」


 壊しすぎたからな、ここはもうやばい。グレンは低い声音で呟くと、一方で領主を肩に担ぎあげ、もう一方でシリウスを小脇に抱えた。


 そのままスピカたちが待つ地上まで運ばれた。


 ***


 地上でのいざこざは、すでに片が付いていたようだ。

 何がどうなったのか、シリウスには詳しくはわからないが、とりあえず終わったんだな、ということはわかった。


『――領主ッ!』


 ヴェルメリオの連中よりもいち早くシリウスたちの姿を見とめたスピカたちが、駆け寄ってくるのが見えた。

 グレンの肩に担がれた領主が、彼らの声を聞いて目を瞬かせた。

 シリウスは、以前領主が「人魚姫」の話をした時のことを思い出した。

 冗談だと告げた彼の問いの答えが、今、目の前にある。

「……あんたを探してくれる人、ちゃんといるじゃないですか。アルさん」

 シリウスの呟きに、領主は何か眩しいモノを見るように瞳を細めて、小さく、嬉しそうに微笑んだ。

「……みたいですね」

 集まってきた領主の部下たちを見渡して、グレンはアトリアにシリウスを預けると、領主を肩から降ろして両手で抱えなおした。

 それぞれ安堵の表情を浮かべたスピカたちは、よほど心配していたのだろう、グレンには目もくれず、抱えられた領主に詰め寄る。

「御無事ですか領主!?」

「手当が先ですよ! 救急箱はあるか!?」

「いや、それより海水ですか!? 海水ですよね!?」

「スバルさんも無事で何よりです!」

 抱えてくれているアトリアに、「お疲れ様です」と労われたシリウスは、「別に」と視線をそらした。

 地上では一体どういう状況になっていたのか、現場にいなかった身としては聞いてみないとわからない。

 だが、見た限り負傷している者はいないようだし、シャウラやベガなんかは元気が有り余っているようにも見える。

 シリウスはアトリアに抱えられたまま、和の中心にいる領主を見やる。

 領主はグレンに抱えられたまま、部下たちの声に穏やかに受け答えをしていたが、ふいに視線を落とした。


「……私は、君たちに謝らなければなりませんね」


 静かに発せられた領主の言葉に、部下たちはピタリと口をつぐんだ。

 彼らも察したのだろう。

 この展開が訪れるだろうことは、領主の姿を見た時からわかっていたのだ。

 全員の視線を受けながら、領主は顔を上げると、部下たちを見渡し、彼らから視線をそらすことなく、静かに言葉を紡ぐ。

「ご覧の通り、私は“人”ではありません。今まで黙っていて、申し訳ありませんでした」

 二本の足ではない、青い鱗が美しいローレライの尾びれが、領主がシリウスと同じ、人ではないことを示している。

 長く伸びた鮮やかな蒼色の髪と濃い蒼の瞳も、普段とは違う。

 アトリアに抱えられていたシリウスは、領主の告白に彼らがどういう反応をするのか、もう薄々察しがついていた。

 先ほどまでの、領主の姿を目の前にしても変わらなかったやり取りを見ていればわかる。

 領主を見つめる全員が、驚き、というよりも、あぁやっぱりね、という顔をしていた。

 なにかはわからなかったけれども、人じゃないとは思っていた、と皆は後に語る。


 ナハーシュの研究所に押し入る前、グレンが「おまえらに、“あいつの正体”を知る覚悟はあるのか」とスピカたちに問いかけた時、一瞬彼らは押し黙った。

 それから、シリウスのことを見ながらアトリアが言った。

「薄々、気がついてはいますよ」

「何で言ってくれないのかな、とは思うけど」

「……それは、俺たちも同じだから」

 スバルさん、と呼んだベガが、ふいに服の裾を捲り上げる。

 それに倣うように、アトリア、カストル、カペラ、シャウラ、ミルザムが、それぞれシリウスに見えるように、腕をまくったり、襟元を広げたり、後ろ髪をかき上げてうなじをあらわにしたりする。

「あんたら……」

 露わになったのは、それぞれが隠していた、身体に刻まれた元奴隷の焼き印である。

 自分にも刻まれているそれと形や文様は違えど、意味は同じである印を目にして、シリウスは目を瞠る。

「俺たちも、スバルさんと同じなんですよ」

「領主に拾われたんです」

 アトリアは、前髪で隠していた左右で色の違う瞳を珍しがられて、カストルは、人間ではなく木霊の末裔として能力に目をつけられて、カペラは、藤と桃色のグラデーションの髪色を珍しがられて、シャウラは、物の怪憑きとして呪い道具の利用価値があると目を付けられ、ミルザムは、夕陽色の髪と瞳の色を鬼子と身内から忌み嫌われて、ベガは、人間ではなく人狼の血を引く一族として、それぞれ売られ、捨てられ、死にかけていた所を、領主に救われ、居場所と名前をもらった。

 スピカとリゲルとミラは、もともとウィリディスの地の領主の屋敷に仕えていたらしい。

「俺たちは、こういう集まりなんです」

 シリウスの瞳を見据えて、アトリアが告げる。

「人間だろうが、人でなかろうが、関係ない」

 凛としたスピカの声に、全員が頷き、揺ぎ無い強い意思を秘めた瞳で、興味なさげに様子を見守っていたグレンを見返す。

「その話は、我々が領主から直接聞きます」

 だから言わなくていいと。

 第三者に間接的に教えられるくらいなら、直接自分たちが聞く。

 彼らの答えに、「そうか」と、グレンは短く吐息で笑っただけだった。


 領主の前にスピカが進み出る。

 そして、静かにその膝を折った。

「――貴方が何者であろうと、我々は、今までも、そしてこれからも、貴方の部下として、尊敬する貴方に、ついていくだけです。我々は強要されたのではなく、我々の意思でここにいるのです。……皆、貴方に、救われた者ですから」

 スピカの言葉に、領主は蒼の瞳を見開いて部下たちを見やった。

 アトリア、カストル、カペラ、シャウラ、リゲル、ミルザム、ミラ、ベガ、全員がそれぞれ強く頷き返した。

「……いい部下持ってんじゃねぇか」

 ボゾリと呟いたグレンの腕の中で、領主が泣きそうに微笑んだ。


「……本当ですね」


 ありがとう、と微笑みとともに領主が呟いた。


 ***


 張りつめていた糸が緩んだのか、体力気力共に限界だったのか、「後は任せても良いですか」と領主が事後処理をスピカたちに託したところで、ようやくヴェルメリオの連中がグレンの前に姿を見せ始めた。

 おそらく今まで気をつかって、近寄らないでいてくれたのだろう。

 アトリアに抱えられて、シリウスは自分はどうしようかと、そろそろ降ろしてもらおうかと考え始めた時だ。


「グレンさま! 迎えが参りました!」


 ドクリと心臓が音を立てる。

 聞き覚えのある声がした。懐かしい声がした。

「アトリア、止まれ」

 移動しようとしていたアトリアのシャツを掴んで引き止める。

「どうしました?」

 アトリアの問いに答える余裕はない。

 首を巡らして、その姿を探した。

 幻聴?

 流行る鼓動を抑え込むようにして、隙間なく視線を巡らせて、視界の端にそれを捉えた。

 笑みを刻んでグレンの元へ駆け寄ってくる小柄な少女。

 グレン目指して少女は一直線に走り寄ってきたが、何かを感じたのか、ふと笑みを引っ込めて振り返った。

 アトリアの肩越しに、シリウスはその少女と目があった。

 目をぱちくりと瞬かせてから、少女はその瞳を大きく見開いた。


「あなた、まさか、シリウス!?」


 幼い顔立ち、赤みがかった亜麻色の短い髪。

 シリウスは息をのんだ。


「ま、さか……ス、テラ……?」


 互いに呆然としたように見つめていた。

 シリウスの頭の中ではめまぐるしく思考が回転している。

 ずっと探していた友が、ステラが今目の前にいる。

 何故、コイツがここに、ヴェルメリオの領主の仲間なのか、いや、そもそも何で陸に、足が、ちゃんと自力で歩いて――

「本物!? ホントにホントにシリウス、あなたなの!?」

 掴みかからんばかりの勢いで、いや本気でアトリアを押しのけるように掴みかかってきたステラに思わずマーメイドキック。

「うるせぇよ、ステラ。少し黙れ」

 こっちだって混乱しているんだ。

 アトリアの肩を叩いて降ろすよう促し、自分の“足”でゆっくりと地面に立つ。

 気をきかせたアトリアは、そっとその場を離れてくれた。

 マーメイドキックをもろに食らって尻餅をついたステラが恨みがましげに見上げてきた。

「痛っ……久々の再会がこれなの!? 他にもっと何かあるでしょ!?」

 あるさ。あるとも。言いたいことも疑問も文句も山ほどある。

 あるのに、何故か言葉が出てこなかった。

 膝をついて、尻餅をついているステラと視線を合わせると、チュニックの襟首をつかんで引き寄せる。

「シリウス……?」

 戸惑いを含んだ懐かしい声音を耳にしながら、その胸に額を押し付ける。


「………………バーカ」


 逢えたのだ。

 ずっとずっと探していた。

 ずっとずっとコイツの声が聴きたかった。

 コイツを探すために陸に上がったのだ。

 コイツを見つけるために、わざと人間に捕まったのだ。


 幼馴染の友に、ようやく会うことができたという事実に、安堵している自分がいた。


 ***


 領主の屋敷が再建されるまで、シリウスたちはヴェルメリオの地のグレンの屋敷に滞在することになった。

 一応同盟を組んでいることになっているから、領地争い上問題はない。

 事後処理は全てフレイとスピカにまかせて、両領主は休息についていた。


 グレンの屋敷にも水槽があった。

 なんでもステラのために増設したものらしいのだが、全面ガラス張りの自然に囲まれたかのような開放的だった領主の屋敷の水槽とは違い、四方は壁に囲まれた室内プールのような造りである。

 プールサイドに頬杖をついて座りこんでいたグレンは、水面下を気だるげに眺めていた。

 水の中では領主が揺蕩っていた。

 疲労した身体を休めるように、全身の力を抜いて水の流れに身を任せている。

 警戒されていた当初に比べて、こんな無防備な姿をさらせるほどに信用されるようになった、ということは、――

「……俺のことを、思い出したか?」

 グレンの低い声音が空間に響いた。

 一瞬の静寂の後、水の中にいた領主の閉じていた瞼がピクリと反応し、ゆっくりと開いた。

 直後、浮上してきた領主が水面から顔をのぞかせた。

 その表情は少しだけ不満そうにグレンを見据えてきた。

「…………貴方も大概、意地が悪い。わかっていたなら、言えばいいだろうに」

 無駄に脅すようなことを言うから、あれはあれで精神的に追い詰められた、と領主が恨みがましげに告げてきた。

「言っても信じそうになかったけどな」

 そんなことは…、と言いつつも領主は気まり悪げに視線を逸らした。

 まぁ彼の気持ちも分からなくもない。

 何せ出会ったことがあるとはいえ、それは十年以上も前のかなり昔のことだったし、出会った状況が状況だし、それ以前に互いの名前すら知らないまま別れることになったのだ。

 ハッキリ完全に記憶しているほうが難しいくらいだと、グレン自身も思う。

 ナハーシュに買われたローレライの子ども、それが領主だったのだが、当時盗賊まがいのことをしていたグレンは、偶然忍び込んだナハーシュの研究所で傷ついた彼を見つけ、海まで彼を逃がす手助けをした。

 実際のところは、その際ナハーシュの雇った用心棒たちに見つかり、グレンは囮として捕まり、彼が無事に逃げられたのかは見届けられなかったのだが。

 確かに最初は、人の姿をしていることに驚いたし、髪の色も瞳の色も昔と違ったけど、成長して大人になった領主が、あの時のローレライだと気が付くことができた。

「…………貴方の人相が悪い。時期が悪い。タイミングが悪い。立場が悪い」

 結論、グレンがいろいろと悪かったということか。

 顔の半分だけを水面から覗かせて、不満げに睨み付けてくる濃い蒼の瞳を眺めながら、グレンは“ずっとつけていた”手袋をはずして、袖が濡れるのも構わず水の中へと手を差し入れた。

 水面下で捕まえた彼の手をとって指を絡める。

 驚いたように目を見開いた領主だが、すぐにはにかむように目元を和らげた。

「また、貴方に……助けられてしまいましたね……」

「……それ、完全に消えるのか」

 大分薄くはなっていたが、彼の素肌には、未だにナハーシュに直に触れられた指の痕が残っている。

 人間が、ローレライに素手で直接触れた結果だ。

「こうして、しばらく水に浸かっていれば、次第に消えるでしょう」

 大して気にした風もなく、領主は言ってのけるが、グレンは、その後流されたナハーシュがどうなったかは知らないが、もっと殴っとけばよかったか、と内心で舌打ちする。

 絡ませた指に、少しだけ力を込める。

 グレンも水の中でしか、彼に直接触れることができない。

 自分は人間で、相手がローレライである限り、仕方のないことではあるのだが。

 眉間に皺を寄せたグレンを見て、領主はそっと優しく小さく微笑む。

「……まさか、あの時の子どもが、こんな風に成長するとは……」

「おい、ガキ扱いするな。おまえと変わらないだろう」

「……また、会えるとは……思っていなかった」

「……そうか」

 少しだけ口元を綻ばせ、グレンは名残惜しげに指を離した。

 それから気だるげに立ちあがると、悠々と扉の方へ歩いていく。

「余計なのは連れ帰る。……ゆっくり休め」

 余計なの? と首をかしげる領主を背に、グレンが扉を開けると、ちょうどシリウスが言い争いをしながら入ってこようとしている所だった。

 上手く歩けないシリウスを半分引きずるようにして背負っていたステラが、ドアノブに手をかけようとした状態のまま静止している。

「グッ、グレンさま!?」

 驚いた声を上げたステラの襟首を左手で掴み、彼女が背負っていたシリウスを右腕で抱え上げたグレンは、そのまま右腕を無造作に振りかぶる。

「えっ」

 声を上げる暇もなく、シリウスはプールへと投げ込まれ、ステラを小脇に抱えてグレンは悠然と部屋を出て行った。


 ***


「いっ……きなり、人を投げるか普通!?」

 勢いよくプールの水面から顔を出したシリウスは、開口一番に叫んだ。

 不意打ちにも程があるというか、モノみたいに放り投げこまれたのも腹立たしいというか、とりあえずいきなり何しやがる、とシリウスは思いっきり舌打ちした。

「――シリウスくん」

 そこに響いた静かな声音に、シリウスは驚いて瞬きする。

 先客がいたのか。

「アルさん……」

 姿が見えないと思っていたが、ここにいたのか。

 いや、グレンがいたのだから当然といえば当然か。

 冷静さを取り戻し落ち着いたシリウスに、領主はのんびりとした口調で告げた。

「お友達と再会できてよかったですね」

「…………まぁ。そう、ですね」

 念願の目的は果たせたのだから。

 よかったといえば、よかった出来事なのだが、さっきまでステラと散々、戯れのような言い争いをしていたので、今その話題はもういい。少し疲れたし。

「……あの人と、何か話してたんですか」

 シリウスは強引とは思いつつも話題を変える。

「昔の話を少しだけ」

 そう言って領主が柔らかく微笑んだ。

 それはシリウスの嫌いなあの寂しげな微笑みではない、心からの嬉しそうな微笑みだ。

 あぁ、そんな風にも笑えるんだな、とシリウスは思った。

「……一つだけ、聞いてもいいですか」

 ポツリと領主が呟いた。

「君は……どうして、海へ帰らなかったのですか」

 心底不思議だ、という目で見られて、思わずシリウスは舌打ちしたくなった。

 どうしても、何も、ない。

「あんな別れ方されて、気にならないわけがないでしょう」

 共に過ごした日々は、彼の部下たちと比べたら全然少ないけれども。

 それでも、今生の別れみたいな状況で、海へ帰れなんて言われて、素直に従えるわけがない。

 あんたと過ごした時間は、別に、嫌いじゃなかった。

 あんたは、どうだったんだ。

 そんな思いを込めて、領主を見返すと、彼は小さく嬉しそうに微笑だ。

「シリウスくん……」

 囁くように彼が言葉を紡ぐ。


「君の歌が、聞きたいです」


 ベガには、どれだけ懇願されても歌ってやるつもりはないけれど。

 あんたのためなら、俺は……いくらでも歌ってやってもいい。

 シリウスは小さく息を吸う。

 薄い唇が震えて、透き通るような美しい旋律を紡ぎだす。


 ――Ah…


 彼の、綺麗な、紫水晶のような瞳を見つめて、歌を響かせる。

 ローレライの歌声は、美しく高く澄みわたり、空間に浸み込むように響き渡る。


 ――LaLaLa…


 祈りを込めて、思いを歌に乗せて、旋律を奏でる。

 音を紡ぎだしながら、シリウスは領主の傍へと泳ぎ寄ると、そっと彼の頬に手を伸ばす。

 わずかに肌に残る赤い痕を、労わるように指でなぞった。


 ***


「……アルさん?」

 小さく呼びかけると、穏やかな寝息が返ってきた。

 ゆっくり休んでください、とシリウスは心の内でそっと囁く。

 願わくば、どうか彼に、優しい眠りを。

 シリウスは力を抜いて、水面を滑るように漂った。

 ここはグレンの屋敷だけれども、見上げた先の天窓から煌々と輝いている月は、領主の屋敷で眺めていたのと何ら変わりない。

 どこか現実でない幻のような月を見上げたまま、シリウスは小さな声で囁くように歌を紡ぐ。


 ――LaLaLa…


 本当に、時間の感覚がおかしくなるほど目まぐるしい日だった。

 海へ流され、人の姿に化け、領主の屋敷の捜索をして、ヴェルメリオの領主と研究所に乗り込んで、檻に閉じ込められて、崩壊寸前まで破壊した研究所を領主と共に脱出して、ずっと探していた同胞との再会。


 ――LaLaLa…


 言葉にできない想いを詠にこめて、音にする。

 心の内を歌にしてさらけ出す。


 ――LaLaLa…


 人間なんて嫌いだった。

 けれども、アトリアやベガたちと出会って、少しだけ考えを改めた。

 全ての人間が、みんな悪いヤツではないのだと。

 こんな人間もいるのだなと、知ることができた。

 領主の屋敷で過ごした日々は悪くなかった。

 彼らとの日常は、嫌いではなかった。

 そして、アルさん――あんたと巡り合えて、本当に、良かった。


 ――あなたと出逢えた喜びに、感謝を



               <終>

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孤独な領主と不機嫌なローレライ 宮下ユウヤ @santa-yuya

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