第5話:同盟

 ずっとずっと前に、一度だけ、人間を助けたことがある。


 まだ、人間には醜くて愚かな一面があるということを知らず、ただ純粋に見たことのない地上の世界に、人間の生活に憧れを抱いていた、無知なガキの頃の話。


 その日はひどい嵐で、難破船が続出しそうだな、とステラと話していた。

 暴風、豪雨、荒波、さらには霧まで立ち込めてきていて、そんなひどい悪天候の時、案の定、波しぶきとともに、沈んできた人間がいた。

 まだ幼い黒髪の少女だった。

 それを見たステラが「助けないと!」とか言って、後先考えずにつっぱしっていったから、シリウスも渋々彼女の後を追いかけたのだ。

 近くに船があることは、見えていたから、知っていた。

 だから、おそらくその人間はその船の乗客か何かだろうと察しはついた。

 放っておけばいいのにと思ったが、彼女は言って聞くようなヤツじゃない。

 上からは、おそらく落ちた人間を探しているかのような声がする。

 でも、人間に見つかるのはマズイ。

 近頃、地上は物騒だという噂を聞いた。

 ただの噂だから気にしなければいいのだが、念のためだ。

 この溺れた人間には、板切れにでも掴まらせて、船の近くまで流してやるかと考えた。

 手ごろな板切れを拾ってきて、ステラに説明する。

 ステラは嫌そうな顔をしたが、最近こういう噂が出回ってるから念のためだと説得すると不満そうな顔をしながらも頷いた。

 ちゃんと仲間に見つけてもらえるか、一応遠くから様子を見届ける。

 その人間は無事、仲間に見つけてもらえたようだ。

 それをよかったと少しだけ安堵した刹那、何か周囲を圧倒するプレッシャーを感じて視線を向けると、船の船頭に立った男の姿が見えた。

 金色の髪をした目つきの鋭い男だ。

 同時に、そこで初めて、旗と帆に描かれたマークが視界に入り、それがただの船ではなく、海賊船だと気が付いた。

 噂に聞いたことがある、海の盗賊。

 船頭に立った男がこっちを向いた。

 鋭い獣のような金色の瞳が、こちらを向いているように感じたのは錯覚だと思いたい。

 だって、こんなに遠く離れているのだから、こちらが見えるはずがないのだ。

 それでも睨まれている、と本能と同時に肌で感じた。

「かっこいい……!」

 ステラの感嘆する声に我に返った。

「何言ってんだステラ。あれは人間だぞ」

「男らしいっていうか……綺麗な金色が、あれよ、月人の化身みたい!」

 まるで憧れの人を見つけたかのように、ステラが瞳をキラキラと輝かせて語るのが面白くなかった。

 その日から、ステラはその人間の話ばかりをするようになった。


 シリウスはそれが、とても気に食わなかった。


 ***


 激流から解放され、すぐさま浮上して水面から顔を出したシリウスは開口一番に叫んだ。


「チッ……何考えてやがんだ! あのクソ領主!!」


 どれだけの時間、どれだけの距離を流されたのか、もはやシリウスにはわからなかった。

 激しい流れに、初めこそ抗っていたものの、次第に逆らうことを諦めた。

 一度そのまま外に放り出されてから、屋敷に戻った方が効率的に早いと考えたからだ。

 だが、考えが甘かった。

 流されていた時間があまりにも長かったのだ。

「つーか、どこだよここ……」

 一体どこまで流されたのか。

 日は沈んでいて辺りは薄暗かったが、一応人目につくのはまずいので岩場の陰に身を隠す。

 幸いというべきなのか、砂浜がみえることから、陸はすぐそこだ。

 つまりは、まだここは領主の統括する街の中(正しくは街はずれか)と言えるだろう。

 しかし、問題はここから領主の屋敷へ戻れるのか、というところだ。

 自分が流されてきた道を戻るのは、ほぼ無理だろう。

 むしろ、どこをどういう風に流されてきたのか正確には覚えていない。

 だからといって、いつまでもこうしているわけにもいかないのだが。

「……陸から戻るしかないのか」

 何故こうなったのかと原因を思い返して、思わず舌打ちする。

 これはもう領主に文句を言わずにはいられない。

 無意識とはいえ、そのまま海へ帰るという選択肢は、この時のシリウスの頭にはなかった。

 シリウスはゆっくりと水面下を泳ぎつつ、砂浜に人気がないのをしっかり確認してから、身を潜めながらもおそるおそる近づいていく。

 見つかる心配はないと思うが。

 隠れるようにして、岩場に腰を下ろすとシリウスは小さく息を吐く。

 陸から行くということは、人として地上を歩かなければならないのだ。

 領主のように尾びれを人間の足に変えることは、できるとは思うが、やったことはない。

 だが、今はやらなければならない。

 シリウスは目を閉じて、眉間に皺を寄せながら――念じる。

 尾びれを二本の足に変えるイメージをする。

 人間の足――まず、鱗がなくて。

 領主の足は、白くて、滑らかできめ細やかで、細すぎず均整のとれた、長い足。

 普段は黒のスラックスに、ブーツで、時々着物で、素足に下駄を履いていて――

 領主の事を考えたら、流される最後に見た領主の顔が浮かんできた。


 “さようなら”


 哀しげな微笑みを浮かべながら、領主はそう告げた。

 あんたは一体何を考えている?

 あの屋敷で、何が起こっている?


 “足元”に水の“冷たさを感じて”シリウスは目を開けた。

 見下ろすと、ちゃんと二本の足があった。

 黒のスラックスに包まれた人間の足。

 靴のイメージは上手く定まらなかったのか、黒のスラックスから覗く足首から先は素足であったが。

 初めてにしては上出来だろう。

 シリウスはシャツのポケットから黒縁眼鏡――領主の銀縁眼鏡をイメージしたつもりだったが上手くいかなかったようだ――を取り出してかける。

 素足なのは仕方がないとして、今のシリウスの姿は、白いシャツに黒のスラックグレン身に着けた普通の十代くらいの人間に見えるはずである。

 よし、これで陸に行ける。

 街中を素足で歩くのは問題があるかもしれないが、靴を調達している暇も当てもない。

 一刻も早く領主の屋敷へ戻るべく、シリウスは岩に手をつきながらゆっくりと立ち上がる。

 そして――立ちすくんだ。

「……?」

 シリウスは自分の足を見下ろした。

 しばらくそのまま佇んでいたが、ついにストンと腰を下ろす。

 致命的な出来事に気が付いた。

 まさか、まさかまさか、こんな不測の事態に陥るとは。

 額に手を当てて深呼吸した――刹那、近くに人の気配を感じて、シリウスは息をひそめた。

 誰か来た。

 岩を背にして座り込んだまま、張り付くようにして身を縮こませる。

 そこまでして、ふと気が付いた。

 今のシリウスは、ローレライの姿ではない。

 見た目としては、ちゃんと人間と同じ姿をしているはずである。

 万が一気づかれても大丈夫、のはず、と早まる鼓動をなんとか抑えようとする。

 砂を踏む音が近づいてきているような気がするのは、はたして気のせいなのか。

 ローレライだとバレないとは思うが、できる限り人間に会わないにこしたことはないのだ。

 頼むから、どうか気のせいであれ。


「……誰か、いるんですか?」


 そんなシリウスの願いも空しく、声が響いた。

 気付かれてしまった。

 シリウスは一瞬苦々しげな表情をしたが、返事をすることなく、いないふりをしてなんとかこの場を乗り切ろうと考えて、ふと首をかしげた。

 なんだか聞き覚えのある声のような気がしたのだ。

 そうっと振り向いて、岩の隙間から様子を窺い見る。

「え……?」

 思わず声が零れたのは、そこに思いがけない姿を発見したからだ。

 それは向こうも同じだったようで、ゆっくりと近づいてきていた彼は、岩場に隠れるようにして座り込んでいるシリウスの姿を発見して、驚いた顔をした。

「アトリア……!?」

「まさか、スバルさん!?」

 何故アトリアが、ここにいるのか。

 偶然か、それとも、いや、今はそんなことどうでもいい。

「どうしてこんな所にいるんですか!? というか、え? あれ? ……その、足、は……?」

 尾びれではない、シリウスの“足”を見て目を丸くするアトリアに、表情を険しくしてシリウスは掴みかからんばかりの勢いで訴えた。

「今すぐ他の奴ら集めて屋敷に行け! 領主が……!」

 切迫したようなシリウスの様子に、アトリアの表情が引き締まる。

「――ッ!? 領主に何かあったんですか!?」

「わからない」

 詳しいことは何もわかっていないが、推測はできる。

「だが、おそらく敵襲だ……あの人は、一人で迎え撃ってる」

 シリウスよりも領主と付き合いの長いアトリアなら、薄々領主がやらかしそうな事態がわかるだろう。

 詳細はわからずとも、事情を察したアトリアの行動は早かった。

 休暇を取っている他の仲間に連絡を入れると、すぐに屋敷へと集合をかける。

 そのまま端末を片手に操作しながらも、シリウスを見て告げる。

「行きましょう、スバルさん!」

 けれどもシリウスは座り込んだまま首を横に振る。

「……先に行け。俺は後から行く」

「スバルさん?」

 さすがに不審に思ったらしいアトリアが訝しげに眉を顰める。

「まさか、どこかケガでも?」

「いや、ケガはしてない」

 ここで無駄に察しないでほしい。

 舌打ちをこらえてシリウスは苛立たしげに吐き捨てる。

「……いいから、早く行けよ」

「……いいえ。スバルさんを置いていくわけにはいきません」

「俺のことより、領主を……」

 視線をそらして嘯くシリウスを見ていたアトリアが、そこでふいに何かに思い当ったような顔をする。

「もしかして、歩けない、のですか?」

 図星だったので、シリウスはぐっと言葉に詰まった。

 そう、先ほど立ちすくんだまま動けなかった理由もそれだ。

 “歩き方”がわからなかったのだ。

 直立することはできるのだが、足を左右バラバラに動かすということが上手くできない。

 そもそもやり方がわからない。

 黙り込んだシリウスの傍に、アトリアが片膝をついた。

「スバルさん。失礼します」

 そう言うと、アトリアは座り込んでいるシリウスの背中と膝の裏に腕を回すと、横抱きにして抱き上げた。

「なっ……!?」

 フワリと体が浮く感覚に、さすがにシリウスも戸惑い、声を上げる。

 見上げた先にあるアトリアの表情は真剣そのものだ。

「すみません。こうしたほうが早いかと」

「はぁっ!?」

「これなら一緒に移動できますし」

 人間に触れられるのは不快だし嫌いだった。

 だが、アトリアという人間は、これまでシリウスを買ってきた最低な人間たちとは違う。

 しかし、人間であることに変わりはないわけで。

 けれども、アトリアは領主の仲間であり……

 人間は嫌いだったが、領主と一緒にいる彼らのことは、嫌い、では、ないのかも、しれない……?

 もう、シリウス自身、何が何だかわからなくなってきて、上手く思考が働かない。

 いろいろな感情がごちゃ混ぜになったシリウスは、舌打ちとともに表情を歪めた。

「ふざけんなっ! 降ろせ!」

「嫌です。……事態は切迫しているんでしょう? 俺に運ばれるのは嫌かもしれませんが、少しだけ我慢してください」

 そう言って困ったような笑みを見せたアトリアは、そのままシリウスを抱きかかえたまま街を目指して走りだす。

 シリウスは舌打ちしながらも、――振り落とされないように、アトリアの首に腕を回した。


 ***


 領主の屋敷の前にて。

「なんだよ、これ……なんなんだよ!」

「ベガ、落ち着いて……」

「これが落ちついていられるか! 領主は!? スバルさんは!?」

 リゲルの手を振り払って叫ぶベガに、ミラがいつも通りのんびりとした口調で答える。

「見たところ、瓦礫の下敷きになってるとかいう線は薄そうだけどねェ」

「けど、ここでなんかドンパチあったのは確かだな」

 ミルザムが示した先には、血痕、焼け焦げたような跡、おそらく刃物による斬り傷など、明らかにここで何かが起こったであろうと考えられる痕跡があった。

 水槽だったものは水がなくなり、ガラスは粉々に砕け散っており見る影もない。

 もちろん、そこにいたはずの人魚の姿はない。

 同じ街中にいたはずなのに、何故気づけなかったのか。

 ここで、こんな建物一つ消失するほどの派手な戦闘が行われていたとするなら、周辺の住民が気が付いてもおかしくないというのに。

 壊れているのは見事に領主の屋敷のみで、周囲には一切の被害がないところから、あらかじめ何かしらの結界でも張っていたとみるべきか。


「――俺、歌うわ」


 ふいにベガが呟いた。

「は?」

 リゲルがポカンとした顔をする。

「なんだって?」

 ミルザムが不審そうな顔をして言う。

「んふふ……ベガが生ライブする気だ」

 のんきに呟いたのはミラだけだ。

 空を見上げて、ベガは言う。

「歌うたってたら、それ聞いてスバルさんが戻ってくるかもしれない」

 真顔で告げるベガの言葉に、本気を感じ取ったリゲルは戸惑いながら呟く。

「あー……人魚は歌が好きって迷信?」

「まさか、そんなんで出てくるわけねぇって……」

「んー、まぁやってみる価値はあるんじゃないかな」

 否定的なミルザムに、やるだけやればいいよとミラが無責任に言う。


 ――Ah…


 ベガの声が、無残に破壊しつくされた瓦礫の山に響く。

「……つーかさ、俺らの前にも、誰か来たんじゃね?」

 足元に視線を向けたミルザムが呟いた。

「うん、確かに……すでに捜索されたっぽい感じがするね」

 その意見にリゲルが同意する。

「んふふ……ところで、今気が付いたんだけどさ――」

「何かわかったのか?」


 ――LaLaLa…


「――……スピカさんから、いっぱい着信きてるんだよねェ」

 ミラの言葉に、ミルザムとリゲルも端末を確認する。

「げっ……マジだ……!? 俺のもきてる」

「……うわ、僕のとこにも!?」

 端末を確認した二人は、さっと顔色を変える。

「やべーよ! 何で気が付かなかったんだ!?」

「さすがに、これはやばいよねェ……」

「もう、絶対これ緊急事態確定ってことだよね!? ――ベガッ!? 歌ってる場合じゃないよ!?」


 ――Ah…



「……誰だよ、こんな非常時にのんきに歌ってやがんのは」



 ふいに、舌打ちとともに不機嫌そうな声音が響いた。

 ベガたち四人は、ハッとした様子で声のした方を振り向いた。

「スバルさん!?」

 現れたのは、何故かアトリアに抱えられたシリウス。

 直後、複数の足音が近づいて来る。

「……と、スピカさん、アトリアさん、カストルさん、カペラさん、シャウラさんまで!?」

「どうしたんですか……てか、ボロボロ……」

 崩壊した屋敷の前に現れたスピカたちを見て、ベガたちは驚いた。

「あっ! スバルさんに足がある!?」

「その辺のくだりは数時間前に終わったからもういい」

「えぇっ!? 何スかそれ!?」

 理不尽な理由とともに、ベガの素朴な疑問はすぐさまスピカに切って捨てられ、置いてけぼりをくらう四人。

 それでも気になるのか、チラチラと視線を送られたシリウスは思いっきり舌打ちする。

「全員集合した所で、再度状況を説明する」

 スピカのよく通る声が響き、反射的に全員は即座に集まると、居住まいを正した。

 シリウスは、アトリアの肩を叩いて降ろすよう言うと、ゆっくりと自分の足で地面に降り立つ。

「現状は、見ての通り、我々の館は崩壊、領主は行方不明だ。領主と最後に言葉を交わしたスバルの報告によると、領主は館で何者かを待っている様子だったらしい。我々の館の状況から考えるに、その何者かの襲撃にあい、迎え撃った後の安否は不明」

 最後に合流したベガたち四人にとっては初耳の情報である。

「疑問なんですが、スバルさんは、どうして屋敷の外にいるんですか?」

「襲撃前に領主が外へと逃がしたようだ。その後アトリアと合流したことにより、我々は事態を把握することができたのだ」

 すでに一度聞いている説明をシリウスは聞き流しながら、自分の頭の中を整理する。

 慣れない足で立っているのにも疲れてきたので、シリウスは輪から外れて手ごろな瓦礫の上に腰を下ろした。

 状況の把握はできている。

 実際に何が起こったのかは推測しかたてられない。

 そして、肝心の領主の居場所もわからない。

 行方不明――いや、何か手がかりがあるはずだ。きっかけがあったはずだ。

 何か見落としていないか。おかしなところはなかったか、異変はなかったか、どこか違和感はなかったか。

 領主――あんた一体、今どこにいんだよ。

 無意識のうちにシリウスの唇から旋律が零れ落ちる。

 言葉を、歌にして紡ぎだす、小さな囁き。

 ――LaLaLa…

 どうか貴方の元まで届いてほしい、素直に吐き出せない心の内を、音を風に乗せる。

 この音が、歌が、声が聞こえたのなら、


「――それは一体、どういうことなの!?」


 突如響いたスピカの声に、シリウスの思考は一旦打ち切られる。

 何事かと顔を上げると、スピカが端末を片手に声を荒げている。

 誰かと電話しているようだが、こんな時に一体誰だろう。

「いつ貴方の所の暴君と、うちの領主が接触したっていうの?」

 暴君? 領主と接触?

 新しい情報か、電話の相手は何者か、全員が聞き耳を立てる中、しばらく何事か話した後、不本意ながらもそれに従うしかないというような、もどかしそうな表情をしていくつか頷くと、通話を切った。

 全員が見守る中、向き直ったスピカは淡々と言い放った。


「ヴェルメリオの領主と同盟を結ぶ」


 同盟、という言葉にその場にいた誰もが驚きに目を見開いた。

 シリウスも、ヴェルメリオ? と、聞き覚えのある言葉に首をかしげながらも、以前アトリアに聞いた話を思い出していた。

 ヴェルメリオ、ローザ、メラン、カエルレウム…等、全ての地域において、表向きは静かで平和な街でも、裏では頻繁に領地争いが繰り広げられているという。

 それぞれの領地には領主がいて、敵対関係にある領主同士が接触するのは、互いに交戦する時か、領地壌土の交渉にあたる時か――または、他勢力に対抗するために、同盟を組む時か。

「どういうことですか!?」

「ヴェルメリオの領主って……」

「あのグレンか」

「なんでヴェルメリオと……」

 領主不在の今、勝手に同盟など組んでもいいものか、とアトリアたちは暗に告げている。

 スピカもそれをわかっているのだろうが、決定事項だ、と苦々しげな表情で告げる。

「この状況で、何故――」

「領主の居場所が、わかったかもしれない」

 スピカの言葉に、皆がピタリと口をつぐんだ。

 シリウスも驚いてスピカを凝視する。

「詳しくは――」


「――俺たちが、説明しようか」


 ふいに響いた声に、反射的にアトリアたちは身構える。

 それを制したのはスピカだった。

 それでも戸惑いとともに警戒の目を向ける中、現れたのは、ヴェルメリオの領主、そして付き添いと思われる男が二人。

 展開についていけないアトリアたちは、驚きを通り越して絶句するしかなかった。

 スピカに向かってヒラヒラと手を振るサングラスの男に、スピカは問い詰めるようにきつい眼差しを向けた。

「さっきの話、本当なんでしょうね」

「もちろん。なぁ、グレン?」

 サングラスの男が振り返って、後ろにいた金髪の男に問いかける。

 金髪の男の纏う威圧感に、息をのんだアトリアたちは思わずと言ったように後ずさった。

 それを気にすることなく、眉間に皺を寄せた男は、感情を押し殺したような低い声音で呟いた。


「あぁ。――場所は、わかってる」


 その金髪の男に、シリウスは見覚えがあった。



 ***

 

 ◇


 ――彼の歌声が、聞こえた気がした


 重たい瞼を開けて、まず領主の視界に入ったのは、水、そして硝子。

 その硝子の向こう側に、黒い革靴が見えた。


「お目覚めかな?」


 水の中にいるのか、と回らない頭でぼんやりと考えながら、ゆっくりと視線を上へと向けていく。

 黒いスラックス、汚れのない白衣、首に下げられた金色のネームタグらしきネックレス。そして、五十代くらいと思われる、彫りの深い男の顔が見えた時、遠い昔の記憶のふたが開いた。

「ナ、ハーシュ……」

 領主の口から零れ落ちた言葉に、白衣の男――ナハーシュが微笑を浮かべる。

 何故、この男がここにいるのか。

 いや、違う。

 何故、自分は今ここにいるのか。

 両手、そして首には鎖。

 水の中――ということは、人間の足ではない、尾びれに戻ってしまっている。

 元の姿に――ローレライの姿に――戻ってしまっていた。

 硝子の向こうで、感極まったように恍惚とした表情で語っているナハーシュをよそに、領主は混乱する頭の中を整理する。

 様々な情報が頭の中を駆け巡り、意識が途切れる前のことを思い出す。

「――やっとだ……君は、こうして私の下へ戻ってきた。あぁ、その美しい蒼の髪と眼……! 私の美しきローレライ!」 

 そしてこの男――ナハーシュと領主は初対面ではなかった。

 領主は、ナハーシュを知っている。

 かつて、領主はナハーシュに“買われた”ことがある。

 それは、今となってはもう、遠い、遠い、昔の、あまり思い出したくない過去の記憶。

 人間に捕われ、売られ、そしてナハーシュに買われ――脱走した。

「今度こそもう、君を一生手放さない」

 両手をひろげて、唇を笑みの形に刻むナハーシュを、領主は嫌悪の眼差しで見据える。

 人間が“人魚を買う”理由。

 鑑賞用、自慢するための見世物、珍しいというだけで手元におきたがる、等。

 大体は、愛玩、観賞を目的として買う人間が多い。

 だが、ナハーシュは違う。

 この男は、人魚を“研究対象”として見ている。

 人魚の全てに価値がある。

 人魚の髪、肌、目、爪、血肉、骨、涙、声、そして鱗。

 それらは高額で売れるし、良い研究材料となりうる。

 命あるモノとして、生き物として扱われない対応。

 一度は逃げ出せたこの男の檻に、領主は再び囚われてしまったのだと理解する。

 この男の下で飼われた日々は、領主にとって、おいそれと思い出したくないほど深い傷跡を残している。心の奥の奥まで深々と。

 知らず領主は拳を握りしめる。

 本来の色に戻っている濃い青の瞳に憎悪を滲ませ、喰いしばった歯の奥から、感情を押し殺した低い声音が零れ落ちる。

「おまえのような人間がいるから……」


 ***


 ◆


 メラン。

 その領地に、領主がいるという。

 ヴェルメリオの領主――グレンの話によると(実際に解説してくれたのは付き人の青年カガリであったが)。

 領主領主の屋敷が崩壊する前、グレンもその場にいたという。

 時間としては、シリウスが領主に追い出されたすぐ後、グレンは領主の屋敷を訪れたという。

 グレンの訪問を予期していなかった領主は、グレンを追い返そうしたらしい。

 だが間に合わず、領主が待ち受けていた、“刺客”が来てしまったという。

 刺客は自らを“狩り人”と名乗った。


 時は今から、半日前にさかのぼる。 

 盛大に屋敷の扉を破壊して現れたグレンを、出迎えた領主が忌々しげに睨み付けた。

「……また、貴方ですか。屋敷にまで押し掛けるなんて一体どういう了見ですか」

 仮面をかなぐり捨て、開口一番怒気も露わに吐き捨てた領主に、グレンは珍しく荒れてるな、とは思いつつ自分の目的のために言葉を発した。

「おまえ、領主をやめろ」

「丁重にお断りします」

 領主は即座に切って捨てた。

 その反応は予測済みだったので、グレンは唇の端を釣り上げると、小さく鼻で笑う。

「悪いが、おまえに拒否権はねぇ」

「相変わらず野蛮人ですね」

「欲しいもんは力づくでも手に入れたい性質なもんでな」

「それはまったく、はた迷惑な性質ですね。単刀直入に、目的はなんです?」

 心の底からうんざりしています、とばかりに表情を険しくする領主に対して、グレンは獲物を見つけた獣のような獰猛な笑みを向けた。


「おまえを奪いに来た」


 直後、領主の紫紺の瞳が殺気を帯びた。

 一瞬とはいえ、ぞくりとグレンの背筋が冷える。

「では、私は全力で抵抗させて頂くとしましょう」

 話はこれで終わりとばかりに、領主が静かに剣を構えた。

 領主の言葉に、グレンは金色の瞳を輝かせる。

「ハッ……俺と殺りあおうってか」

「――生憎、今は貴方にかまっている余裕はないんですよ」

 妙に切羽詰まった様子の領主に、不信感を抱いたグレンだがふと思い当たることがあった。

「貴方のせいで、私の計画が台無しです」

「そりゃ悪かったな」

 悪びれもせずに呟くグレンを一瞥して、すぐに諦めたように、領主が眼鏡の位置を直しながらため息をついた。

「…………今日で終わらせるはずだったのに」

「“アイツ”を何とかすりゃいいんだろ」

「はい?」

 グレンは段々とこの屋敷に近づいてきている嫌な気配に、ちゃんと気が付いていた。

 今日ここで領主が何をしようとしていたのか、その目論見も理解できた。

「俺もさんざんアイツには面倒をかけられてなぁ……いい加減うざくなってきてたところだ」

「……貴方も“狩り人”に狙われていたのですか?」

「一応、俺も領主だからな。……ちょうどいい。ついでに、ここでアイツを仕留める。それで、おまえの心残りはねぇだろ」

 心残り。

 そう言われて領主の脳裏に浮かんだのは、市場で出会った同胞のローレライ。

 彼は、ちゃんと海に帰れただろうか。

「…………それでも、」

「あ?」

 グレンは領主の行動に眉間に皺を寄せた。

 グレンの眼前へと剣先が突き付けられる。

「大人しく貴方に捕まるつもりはありません」

「やっぱり殺りあうのか」


 ***


 その後、簡潔にまとめると、二人の領主と一人の刺客による戦闘が始まり、屋敷は崩壊。

“狩り人”の目的は領主であったため、想定外の邪魔者であるグレンは途中遥か彼方へふっとばされ、戦場から強制退場させられた。

 何とか戻ってきたときには、すでに二人の姿はなかったという。

 現場に残されていたのは、青い薔薇と王冠に剣が突き刺さったイラストが描かれたメッセージカード。

 そこで何故メランの地を導き出せたかと言うと、ホタルの占いによって居場所を突き止めたのである。

 隣り合うウィリディスとヴェルメリオの地、その双方の北に位置するメランにある総合病院。

 表向きはただの病院、だが実態は病院を隠れ蓑にして、その地下にとある医者のプライベートな研究所を備えているという。

 その医者の名は、ナハーシュ。

 領主は現在、そいつに囚われている可能性が高いという。

「――その根拠は」

「勘」

 堂々と言い放ったグレンに、さすがにスピカは呆気にとられた。

「なっ……そんな曖昧な根拠で、メランの地に乗り込む気なの!?」

「大丈夫大丈夫、なんとかなるよ!」

「そのための同盟だろ?」

 肩をすくめるサングラスの男――フレイをスピカは睨む。

「あくまで仮よ。領主が不在の今、私にそこまでの決定権はないわ」

「わかってますって」


「あの、メランの地の人間が、領主を拘束した目的は何でしょうか?」


 問いかけたのはアトリアだ。

 アトリアの疑問はもっともだ。

 領地が目的なら、わざわざ領主を拘束することなく亡き者にした方が早い。拘束したならしたで、すでにこちらに刺客を放つか、領地を寄越せ等の要求があってもおかしくない。

 だが、今の時点でそのような要求は一切なかった。

 言われてみればと、スピカたちが首をかしげる中、フレイがあれ、と呟き、グレンが眉を顰めた。

「まさか、スピカちゃんたちは……知らないのか?」

 グレンがチラリとシリウスに視線を向けた。

 シリウスはもう相手の目的もすべて分かっていた。

 シリウスは、領主の正体を知っているから。

 そしてヴェルメリオの領主、グレンも領主から聞いた話によると、領主の正体を知っているという。ならば、彼がこの状況下で部下たちに話したとしてもおかしくはない。

 あぁ、そうか。とグレンが小さく呟いたのが、シリウスの耳に届いた。

「……だからアイツは、孤独なんだな」

 その言葉が、シリウスの心に悲しく響いた。

 今この場で領主の正体を知らないのは、領主の部下である彼らだけだ。

 それぞれ戸惑いの視線を向けるスピカたちを鋭く見据えて、グレンが低い声音で告げる。

「……覚悟はあるのか?」

 フレイとカガリは黙って見守る。

 シリウスはじっとスピカたちの様子を窺っていた。


「おまえらに、“アイツの正体”を知る覚悟はあるのか」



 ***


 ◇


 それはもう遠く、あまり思い出したくない昔にあった出来事。

 水の中に潜っていた自分を、相手は溺れていたのかと思ったと、後に語った。

 ためらいもせず水の中へ飛び込んできた相手に、自分のほうが驚いた。

 そして相手も、自分の“尾びれ”を見て、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。


 ここから出よう、と差しのべられた手を、最初は振り払った。

 おまえも俺が欲しいのか、と問えば、は? と、顔をしかめられたのを思い出す。


 首の傷のせいで、自分でも驚くほどかすれた声しかでなくて悲しくなったが、何故か相手の方が痛そうな顔をした。

 太陽みたいな金色の瞳が綺麗だと、その時思った。


 海まで逃がしてやる、と相手は言った。

 水から上がり、陸へ自分の足で降り立ったのは、この時が初めてだった。

 だから、途方に暮れた顔をして、足を踏み出せないでいる自分に、相手は、歩けないのか、と問い、歩き方がわからないのだと答えた。

 そうか、と呟いた相手は、何を考えたのか、自分を抱え上げて歩き出した。

 服越しでも熱いくらいの相手の体温に、この時自分は、何故か安堵を覚えていた。


 ***


 誰かが言い争っている声で、沈んでいた意識が浮上した。

 いつから意識を飛ばしていたのか、直前まで何をしていたのか、どれくらいの時間が過ぎたのか、領主にはよくわからなかった。

 霞がかかったようにぼんやりとしている頭が上手く回らない。

 これは何か盛られたな、と顔を歪めるが、どうしようもない。もはや手遅れだ。

 ふいに、水中に漂っていた鎖が引かれて、ピンと張る。

 直後、首を絞めつけられる感覚に抗えず、鎖を引かれるままに身体ごと水面へと引っ張り上げられた。

「“コレ”には、生きているからこそ価値があるんだ!」

 誰かに叫ぶナハーシュの声が、耳に触る。

 倦怠感に包まれた体は重く、腕を動かすことさえ億劫であったが、それでも、掴まれた腕を意地で振り払う。

「……私に触るな、人間」

 自由にならない両手ではろくな受け身もとれず、引き上げられた床に倒れこむ。

 そんな些細な反抗もナハーシュにとっては好ましいのか、彼の口元が微笑する。

 照明の明るさが目に痛くて、瞼を閉じた。

 そういえば眼鏡がない。どこへやったのか、壊れたのか、奪われたのか、思い出せない。


「どうやら、君との契約はここまでになりそうだ」

「はあっ? 冗談じゃない! 話が違うだろうがっ!」


 よくわからないが仲間割れか、ナハーシュの声と聞き覚えのない声が言い争っている。

 刹那、室内に激しくサイレンの音が鳴り響いた。

「ほら見たことか。あんたがモタモタしているうちに、ヤツらが嗅ぎつけてきたぞ。おいらの苦労が水の泡だ」

「君が後をつけられたんじゃないのかね。……まぁいい。表の警報機が作動しただけだ。ここまでたどり着くには、まだ時間がかかるはずだ」


 ***


 ◆


「――で、純粋な疑問なんですけど。何でヴェルメリオの領主が、こっちの領主の危機に手を貸してくれんですか?」

 シリウスは、グレンに担がれながら敵地へと突入していた。

 何故担がれているのかと言うと、単純に歩けないからだ。

 シリウスは当初、外での待機組にされたのだが、足手まといなのは自覚していたが、それでも絶対に行くと言い張ったところ、グレンが自分が担いで行くと言い出したのだ。

「……そういうおまえは、何でアイツのとこにいんだ」

 チラリとグレンが視線を向けてきたので、シリウスは強気に見返した。

「領主に買われたからですよ。……――後ろから二人来てます」

 なるほどな、とグレンが低く呟いた。

 片手で器用に金剛杖を操り、敵を撃退する。

「おまえもローレライか」

「……とっくに気づいていると思ってましたけど。……――上です」

 ボゾリと呟くと、ハッと鼻で笑われた。

 容赦なく繰り出される重い打撃に、敵が一撃で沈む。

「アイツと似た匂いがするとは思っていた」

 匂いって…犬か、あんたは。

 自分ではわからないが、人と何か違うのだろうか。

 グレンに担がれながら普通に会話をしているが、実際は侵入者を排除しようと襲ってくる敵を撃退しながらの会話である。

 グレンが敵を迎撃し、シリウスは敵の位置を教える。

 表にいた大半の敵は、フレイとスピカたちが引き受けてくれている。

 なのでグレンとシリウスは、大した妨害を受けることなく侵入に成功していた。

 悠々と歩き続けるグレンに担がれるままに進んでいたシリウスだが、ふと首をかしげる。

「ところで、どこ向かってんですか?」

「近道」

 答えになっていないが、グレンが迷いなく足を進めているので、シリウスは何も言えなくなる。

 事前に下調べでもしていたのか、それにしてもあまりにも迷いのない足取りに、ここに来たことでもあるのか、と考えて、そんなはずないか、と自己完結する。

「……この辺だろうな」

 ふいにグレンが低く呟いて、通路の途中で足を止めた。

 辺りを見渡したシリウスは首をかしげる。

「何もありませんけど……」

「しっかり掴まってろ」

 え、とシリウスが呟くのと同時に、グレンは手にしていた金剛杖を、足元の床へと向けて突き立てる。

 すると、杖を中心に幾何学模様に彩られた円陣が出現すると、ピシリと床に亀裂がはしる。

「今更ですけど、それ、龍王の宝具……?」

「なんだ、知ってるのか」

 遥か昔、強大な力を持つ龍王が所持していた、大いなる力の結晶と称される、宝と剣を手に入れた人間は、龍王の加護により大いなる力を得ることができるのだという、まったくもって現実味のないおとぎ話とでもいうような、シリウス自身まるで信じていない伝説。

 その伝説の宝の一つが、目の前で使われている。

 どういう仕組みかはわからないが、何が起ころうとしているのか察したシリウスは、あわてて落ちないようにグレンにしがみつく。

 見る間に足元の床が崩れ、シリウスとグレンは下の階へと落下する――だけに終わらず、その下の階の床も崩れ、瓦礫とともにどんどん下の層へと落ちていく。

 近道って、こういうことかよ! と内心でツッコミながら、無茶苦茶にもほどがあると頭を抱えたくなった。

 建物を揺るがすほどの轟音と大量の瓦礫を引き連れてようやく落下が終わり、難なくグレンが着地した時には、シリウスはぐったりと疲れ切っていた。

「…………降りすぎたな」

「はぁ!?」

 部屋を見渡して呟いたグレンに、シリウスは脱力していた顔を上げる。

 そして、顔をあげてすぐ視界に入った巨大な水槽に目を瞠った。

 部屋の一面がガラス張りになっていて、その向こう側には水が張っている。

 破壊された天井を見上げて、シリウスは、水槽のガラスにひびが入らなくてよかったと思った。

 ガラスが割れていたら、今頃この部屋は水没している。

 自分はまぁ、困らないが、グレンは人間だから困るだろう。

 水槽が無傷なことに安堵を覚えながらも、シリウスは忌々しげに水槽を睨んだ。

 この手の水槽には見覚えがあり過ぎて、思わず舌打ちが零れた。

 中に入れたモノを見て、楽しむための無駄に広くて深い巨大な水槽、鑑賞用の水槽だ。

 表情を歪めるシリウスを横に、グレンは自分で開けた天井の穴を見上げて呟いた。

「……上だな」

「なんでわかるんですか」

「勘」

 もうこの人相手に聞くだけ無意味かもしれない、とシリウスは思い始めた。

 ハァと気だるげに息を吐いたグレンは、担いでいたシリウスを抱えなおすと、たった今落ちてきた天井へと身軽に飛び乗っていった。

 尋常じゃない跳躍力に、この人ホントに人間かな、と疑いたくなるが、ここまでの道のり基本的に素手で武装した敵を撃退していた所を見てきただけに、もはや普通という概念は捨てた方がいいのだろう。

 領主といい、この人といい、なんだか振り回されている気がするな、とシリウスは思った。


 ***


「何だね、今の地響きは!?」

「あーあ。手遅れ、か」

 何が起こっているのかわからないが、ナハーシュには嫌な予感しかしなかった。

 へらへらと皮肉気に笑う契約相手の事は、この際どうでもいい。

 コイツを盾にでも囮にでもして、自分はローレライを連れて逃げなければならない。

 せっかく取り戻した貴重な研究対象だ。

 ここまできて手放すつもりはない。

 水槽の水に混入させた薬が効いているのか、ぐったりとして意識が混濁している様子のローレライを抱える。

「せめて、別の場所へ移動を――ッ」

 ナハーシュの言葉は、最後まで発せられなかった。

 ナハーシュの目の前で、部屋の扉が文字通り吹き飛んだのである。

 壊れた扉の残骸を踏みしめて、怒気も露わに室内へと侵入してきたのは金髪の男だ。

 金色にギラつく鋭い眼光が、ナハーシュを捉えた。

「なっ……」

「……俺の顔を、覚えているか?」

 情報としては知っている。

 ヴェルメリオの地の領主、グレン。

 だが、ナハーシュの脳裏には違う情報がよぎった。

 かつて自分のもとにいた、この蒼い髪と瞳を持つ美しいローレライ。

 それを手放すことになってしまった原因は――

「盗賊風情が、また私のモノを奪おうと言うのか……!」

 一度ならず二度までも。

 ナハーシュの言葉に、彼を見下ろすグレンの瞳が剣呑な光を帯びた。


「てめぇになんざ、渡さねぇよ」

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