第4話:タイムリミット

 仕事部屋に現れた領主を見て、スピカが驚いたように声を上げた。

「領主!? どうしました!?」

 領主を見て驚いたのはスピカだけではない。

 その場にいたアトリアたちも同様だ。

「はい?」

 問われた領主は、何に驚いているのかわからないとでも言うように、目をパチクリとさせた。

 そんな領主の様子に、逆にスピカの方が戸惑う。

「え、いえ、その……お顔色が優れないようですが……」

 昨夜帰ってくるのが遅かったとは思うが、まさか、その時に何かあったのだろうか。

 まるで一睡もできませんでしたというような、ひどい顔色なのである。

 心配顔で見つめてくる部下たちに、困惑したように領主が呟く。

「そんなにひどい顔していますか?」

『はい』

 その場にいた全員が声をそろえて断言する。

 こんな領主に仕事をさせるわけにはいかないと、表情を引き締めたスピカが告げる。

「領主。今日は私が外へ行きますので、お休みください」

「ですが……」

 見るからに消耗して見えるというのに、それが自覚できていないらしい領主に部下たちは口々に休息を勧める。

「今のところ、領主の手を煩わせるような重要案件はありませんし」

「休んでください、領主」

「何かお作りしましょうか?」

「今日の外回りは、我々が」

「巡回は、俺とリゲルが」


 ◇


「――で、追い出されたと」

「はい」


 水槽の踊り場に座り込んで嘆く領主に、シリウスは呆れた顔をした。

「何で俺のトコにくるんですか」

「つれないですね。スバルくん」

 心底残念そうな顔をするので、シリウスの表情も苦々しげなものになる。

 部下の好意を無駄にしている困った領主に、突き放すように言う。

「大人しく部屋で休んだらいいじゃないですか」

「部屋にいるのが退屈なので」

「寝ろよ」

「昼寝をすると、夜眠れなくなるそうですよ」

「知りませんよ、そんなの」

 頑として自室に戻ろうとしない領主に、シリウスは部下たちの心労を思いやりため息をついた。

「……あんたが部屋にいないってわかったら、アイツら困るんじゃないですか」

「大丈夫です。休むので起こさないでください、という張り紙をドアの前にしてきましたから」

 そこまでしておきながら、何故大人しく休息を取らないんだこの人は、とシリウスは苛立ちを押し殺した。

「…………この部屋に来られたらバレますよ」

「鍵かけました」

 もはや言葉も出ない。

 シリウスは領主を部屋に帰すことを諦め、深いため息を吐いた。

 この領主が意味もなくこのような行動をするとは思えない。いや、案外するかもしれないけど。

 シリウスは仕方ないなとばかりに、水面をまさに心ここに非ずといった様子でぼんやりとした表情で見つめている領主に声をかける。

「……で、何があったんです」

「え?」

 この期に及んでまだとぼけるつもりだろうか。

 部下には言えない出来事だとするのなら、それは彼の秘密に関わることなのではないかとシリウスは考えついた。

 領主が眠れなくなるほど、そして安易に他人に打ち明けられることでもない――領主を悩ませているものは一体何なのか。

「……俺でよければ聞きますけど」

 始めは驚いたように目を見開いていた領主だが、シリウスの言葉に静かに微笑んだ。

 君は優しいですね、という囁きには聞こえなかったふりをした。

 それから領主は、観念したように一つ息を吐いてから、困ったように微笑みながら告げた。

「スバルくん……私、最近ストーカーされているみたいなのですが、どうしたらいいですか?」

「は?」

 突然何を言い出したこの男は。

 聴く心構えをしてはいたが、放たれた言葉は予想の範疇を超えていた。

 まるで世間話でもするかのような口調で紡ぎだされた話を聞き終えたシリウスは、顔をしかめるしかなかった。

「……それ、完全に狙われてるじゃないですか。なんで放っておくんですか」

「最初は気のせいかと思いまして」

「毎日付きまとわれて気のせいなわけないでしょうが」

 この人は危機感がなさすぎる。

 領主という立場上、常に敵から狙われているということをちゃんと理解しているのだろうか。

 そのストーカーが刺客かもしれないというのに。というか刺客だろう絶対。

「……さっさと撃退して追い払ったらどうです」

「相手するのが面倒なので」

「じゃぁ、アトリアとかに話して部下にやらせればいいじゃないですか」

「そうしたいのはやまやまなのですが、……」

 相手が相手ですから、と言葉を濁らせた領主に、シリウスはまだ何か隠しているなと勘付いた。

 そして、あてずっぽうで問いかけてみる。

「……もしかして、ストーカーの正体、知ってるんですか」

「……」

 シリウスは沈黙を肯定ととった。

「誰なんです」

「………………月の化身と見せかけた野蛮人です」

「……真面目に答えてください」

 どう話すべきか戸惑っているのか、領主が複雑そうな顔をした。

「問題は、ストーカーが誰かということではなくてですね……どうしてかわかりませんが、そのストーカーが私の正体を知っているということなのですよ」

「だから、それは領地争いの刺客だからでしょう。あんたがこの街の領主だとわかって、命狙ってるに決まってるじゃないですか」

「いえ、そっちではなくてですね」

 領主がシリウスの言葉を否定して、困ったようにため息をついた。

「…………なぜか、私が人ではなくローレライであると、知っているみたいなんですよ」

「……え?」

 これにはシリウスも言葉を失った。

 領主は人間ではない。

 シリウスと同じローレライなのである。

 その秘密は部下であるアトリアたちでさえ知らない。

 今この屋敷にいる者で知っているのは、同胞であるシリウスだけだった。

 部下でさえ知らない秘密を、どこの誰ともわからない相手が知っているという事実にシリウスは驚き、領主はこのせいで眠れなくなるほど戸惑っているのだとようやく理解した。

「……一応聞きますけど、知り合いとかではないんですか?」

「たぶん違うと思います。……あの男は、ヴェルメリオの地の領主ですし」

 領主はさらりと重大発言をした。

「――ッ!? あんた、ヴェルメリオの地の領主にストーカーされてんですか!!」

「おや……口が滑りましたね」

「何で一番の重要事項を黙ってるんですか!」

「言ったら驚かせてしまうかと思いまして」

「もう十分驚きましたよ!」

 とりあえず、相手をむげに追い払えないことと、アトリアたちに撃退してもらうわけにはいかないことの理由がよくわかった。

 これは確かにうかつには動けない。

 下手したら領地争いが勃発しかねないのだ。

「……あんた、しばらく外出歩かないほうがいいんじゃないですか」

 もっとも合理的な解決策を提案してみるが、領主が不満げな顔をする。

「私に部屋で引きこもりをしていろと?」

「いや、デスクワークしたらいいじゃないですか」

「嫌です」

 外を出歩くのが私の楽しみなんですから、と部下たちが頭を抱えるであろう発言をする領主。

 以前、リゲルが言っていたことをシリウスは思い出した。

 領主はなんにでも興味を持つ人だと。

 子どもみたいに好奇心の強い人だと。

 それはそれでいいんじゃないの、と否定はしないが、今この時においてシリウスは状況が状況なんだから少しくらいは諦めろとか、譲歩しろよとか、我慢しろよとか、内心でいろいろ毒づいた。

「スバルくんも出歩いたらどうですか」

 挙句の果てにお誘いときた。

 シリウスはとんでもない、と思いっきり顔をしかめてみせた。

 確かにローレライである自分たちにとって人間の世界は物珍しいものでいっぱいだ。

 地上での生活は不便極まりないだろうが、知的好奇心をくすぐるものが多いのも確かだ。

 だが、シリウスはあまり興味がない。

 興味はないが、過去に友に地上に関して質問攻めされたことから、こっそり独学で調べたりしていたために、さりげなく人間の扱う文明の利器には詳しかったりする。

 人間に捕えられてからこれまで、大人しく水槽に閉じ込められていたが、かくいうシリウスもやろうと思えば領主のように尾びれを二本の足に変えることができる。

 これまでやったことは一度もないが。

「……ローレライが人型になれるってバレたら、困るのはあんたじゃないんですか」

「……おや、私のせいですか?」

「別に。俺、地上にそこまで興味ないんで」

 所詮、人魚は海の生き物だ。

 地上で生き続けることなど、できはしない。


 ***


 ***


【報告書】

 記入者:シャウラ

 なんか途中で、ベガがバケツで水槽の水を汲みに来たけど、なんだったんだ?

 

 ***


「あの人、ドミノ好きみたいでさ」

「ドミノ?」

 シャウラの言葉に相槌を打ちつつ、シリウスは小首をかしげる。

 ドミノって、なんか小さい木の板を等間隔に並べていって最後倒すヤツだっけ。

「そうそう。しかもめっちゃ長いヤツ」

「はぁ」

「あれをちまちま並べてんだよなぁ……そんでもってよく手伝わされるし」

 シャウラの言い方からして、とても楽しくなさそうな印象だ。

 シリウスは黙って続きを聞く。

「ドミノ倒した後の絵柄? が海になるように? とか言って、ひたすら青いドミノ並べさせられてさ」

 海、という言葉にシリウスはハッとした。

 ただの偶然か、それとも無意識なのか。

 領主の考えなどわかるはずもないのだが。

 それは無意識な望郷の念から生じたものではないのかと考えるのは早計だろうか。

「ひでぇ時なんか、俺らが途中でドミノ倒して青い顔するの笑いながら見てんだぞ!」

 早計だったようだ。

 というか、領主、相当暇なんだな。

 呆れてものも言えない。

 微妙に頬をひきつらせつつシリウスはシャウラの話に同情した。

 絶対に領主の下では働きたくないな、と心の底で思いながら。

 そこへ、突如バタンと慌ただしく扉を開けて入ってきたのはベガだ。

 何事かと驚くシャウラとシリウスに謝罪しつつ、踊り場に上がってきたベガは、何故か両手にバケツを手にしていた。

「すみませんスバルさん、水もらいます!」

 言うが早いが、海水を汲み出すとまた慌ただしく駆け下りていく。

 切迫した様子のベガに、さすがに不審そうな顔をしたシャウラが呼びかける。

「何かあったのか?」

「後で報告します!」

 返ってきたのは事後報告宣言で、来たとき同様、焦ったようにしてベガは部屋から出て行った。

 部屋に残されたシリウスとシャウラは訳が分からずポカンとした。

 何か事件でも起こったのだろうか。


 ***


 ◇


 領主の無駄に広い屋敷内の一室――仕事場である部屋に、血相を変えて見回り班が戻ってきた。

 何事かと、顔を挙げたスピカの下へ、カペラとカストルが報告に来る。

「近頃、ヴェルメリオの領主がこの街をうろついているとの目撃談が」

 カペラからの報告に、スピカは眉を顰めた。

「なんですって? 何故ここに……」

「確認したところ、本人で間違いありません」

 カストルの補足に、スピカはますます表情を曇らせる。

 その場にいた他の部下たちも、見回り班の報告にざわめき始める。

 スピカのデスクに近づいてきて、アトリアが疑問の声を上げた。

「まさか、この街の領地を狙っているとでも……?」

 スピカ自身考えたくはないが、他の地の領主が管轄以外の領地を訪れるということは、そういう目的としか考えられない。

 しかも相手は、破壊と暴力を好むと恐れられるヴェルメリオの領主だ。

 最悪、領地争いに発展するかもしれない。

「断定はできないが、可能性はなくはない。……念のため、領主には外出を控えてもらいましょう」

 スピカの言葉に、眉根を寄せたミルザムがおそるおそるというように、隣にいるリゲルに呟く。

「領主……今、執務室にいたっけ?」

「まだ、部屋にはいたはずだよ。僕さっき書類届けてきたから」

 リゲルの言葉を耳にして、小さく安堵したスピカは立ち上がると部下たちに告げる。

「この件に関しては、私が領主に報告してくる」

 スピカが領主のいる執務室へ向かおうとした時、新たに部屋の扉を開けてベガが現れた。

 その手には何故か青い薔薇の花束があった。

「ベガ……それ、どうしたの?」

「んふふ……青い薔薇って珍しいねェ」

 リゲルの問いかけに、ベガはスピカの方を向くと報告した。

「屋敷の前で町民の女の子に声かけられて、これ領主に、って渡されたんすけど……」

 どうします? と困惑しながらも、ベガはスピカに、メッセージカード付きの五輪の青い薔薇の花束を差し出す。

「特に異常がないようならば、領主に渡しましょう」

 スピカとベガは執務室へと足を向けた。

 扉をノックして、どうぞ、と声がしたのを聞いて中へと入る。

「どうしました?」

 薄い笑みを湛えて問いかけてきた領主に、まずはスピカがヴェルメリオの領主が街に訪れている旨を報告する。

「――なので、しばらくは私が、外回りの方を担当致します」

「……そうですね。そういうことでしたら、お願いしましょう」

 しばらくは外出禁止ということですね、と残念そうに呟いた領主の表情を見て、スピカは申し訳ない気持ちになった。

「それで、ベガくん。それは、何ですか?」

「えっと、これは――」

 街の女の子から領主への贈り物だと説明して、ベガは領主に花束を手渡した。

 花束というには五輪しかないので、花の本数が少ないかもしれないが、青い薔薇というのはとても珍しい。

 この街の花屋に青い薔薇を扱っている所なんてあっただろうかと、内心で首をかしげながらも、領主がメッセージカードを手に取る。

 しかし文字は書かれておらず、カードには王冠に剣が突き刺さった絵柄が描かれていた。

 それを見た領主の表情がほんのわずか険しくなったことに、スピカは気がついた。

 刹那、

「熱っ……!」

 ボッと音がしたかと思うと、突如花束が燃え上がった。

 領主が花束を取り落し、カーペットの上で青い薔薇は黒い炎に飲み込まれていく。

 我に返ったスピカが叫ぶ。

「早く消火を!」

「消火器どこですか!?」

「何でもいい! とにかく水を!」

 領主が水差しの水をぶちまけ、スピカは探してきた消火器を、慌てて部屋を出ていったベガは、すぐさまバケツに水を汲んで戻ってきた。

 幸い、花束は全て燃え尽きたが、他はカーペットを少し焦がしただけで、すぐに鎮火することができた。

「領主、お怪我は……!」

「大丈夫です。少し手袋が焦げただけで」

 念のために、といってベガは領主の手を取るとバケツの水の中に浸けさせる。

「申し訳ありません。まさか、このようなことになるとは……」

 沈痛な表情をして謝罪するスピカに、領主は思案気な顔になる。

 眼鏡の奥の紫紺の瞳を細めて、領主がベガに問いかける。

「この花束を持ってきたのは、どんな方でしたか?」

「えっと、髪の長い女の子で、特に特徴はなくて……あ、制服着てたから学生かと……」

 必死に思い出すようにしてベガはポツポツと語る。

 どこにでもいるような街の娘で、これといった特徴もなく、というかそこまでちゃんと姿を把握していたわけではないので、正直あまり印象に残ってはいない。

 もっとよく注意していればよかったと、ベガは内心で苦悩した。

 スピカも己の失態とばかりに暗い表情を浮かべている中、領主が口元に薄い笑みを刻みながらも淡々と告げた。

「ふむ……まぁ、この件に関しては保留ということで。二人とも気に病む必要はありませんよ」


 ◇


 ***


 【報告書】

 記入者:ミラ

 人魚の血肉を得ると不老不死になれるって言いますけど、本当なんですかねェ

 

 ***


「――ということが、昨日あったらしいんですよねェ」


 シリウスは、昨日のベガの行動の訳をミラから聞いていた。

 ベガがバケツ持って水を求めたのは、消火活動のためだったとか。

 普通に消火器探せよ、と思わなくもないが、まぁもう終わったことだからいいか。

 それよりも気がかりなのは、その花束を贈ってきたヤツだ。

「……それって、新手の刺客とかですか」

「んー……どうでしょうねェ。その件について領主は何も言ってきませんし」

 あの領主のことだ。

 わかっているのに、何らかの隠し事をしている可能性がある。

 そう考えたのはミラも同様のようで、ニコニコと笑みを浮かべながらも意味深な言葉を呟く。

「んふふ……信頼している、だからこそ言えないこともある」

 ミラの言葉に、シリウスは眉を顰めた。

 このミラという人間、天然なところがあり、言動がずれていて、領主同様、何を考えているのかよくわからない、というのがシリウスの認識だ。

「人間、誰しも言いたくないことの一つや二つありますよねェ」

「……何が言いたいんですか」

 ニコニコとしているが、ミラの言い方には微妙な含みがある。

 おっとりしているようで、一見何も考えていないようなのんびりやという印象だが、時折何かを見透かしたような鋭い発言をする。

「四日後に……んー昨日言われたから、正確には三日後かな。私たち休暇をもらってるんですよねェ」

 ミラの言い方は、休みをもらえてよかった、と素直に喜んでいる感じではなかった。

 何故休暇をもらえたのかわからないといったような、やや困惑した感じであった。

 シリウスよりも長く領主といるミラたちがわからないのなら、最近知り合ったばかりの自分に領主の意図などわかるはずがない。

「……よかったじゃないですか。休みがもらえて」

 どうでもよさそうに答えると、ふいにミラは黙り込んだ。

 そして、じっとシリウスを見つめると、小首を傾げながら問いかけた。

「人魚って、おいしいんですか?」

 何の前触れもなく話が変わったことにも驚いたが、それよりも放たれた言葉の内容に、シリウスは全力で水槽の端まで逃げた。

「あ。本気にしました? んふふ……心配しないでください。取って食ったりはしませんから」

 ニコニコと微笑みながら言われても、シリウスはすぐに警戒心を解くことができなかった。


 ***


 ◇


 その日の夜。

 街の人々が寝静まり、月が高く上る頃、領主がシリウスの部屋に訪れていた。

 いつものように、正直シリウスにとってはどうでもいい世間話のような雑談をしていた。

 まぁ、考え方によっては一種の情報収集といえなくもないが。

 そんな時、ふいに領主が尋ねてきたのである。

「スバルくんは、『人魚姫』という童話を知っていますか?」

 領主の問いかけにシリウスは眉間に皺を寄せながらも、ぶっきらぼうに答える。

「あー……まぁ、なんとなくは」

 確か、地上の人間が勝手に空想して作り上げた、子ども向けの物語だったはずだ。

 人間に恋した人魚が、声と引き換えに魔女に人間の足をもらって陸に行く、みたいな話だ。

「この物語……なんだか悲しい結末ですよね」

「いきなりなんですか」

 唐突過ぎて領主の言いたいことが理解できない。

 何でいきなり童話の話を始めたのか。

「人間になったのはいいものの、最後は海へ身投げして、泡になって消えてしまうんですよ」

「俺達は消えませんけどね」

「その後、彼女がいなくなったことに誰か気が付いた人はいるのでしょうかね。……消えた彼女の事を探してくれたりしてないのですかね」

 本当に何が言いたいのだろうか。

 わからないことにイライラして、シリウスは顔をしかめる。

「書かれてない後日談なんて、わかるわけないじゃないですか。あー……まぁ、気づかないで終わるパターンもあるらしいですけど」

「……哀しいですね」

 そう呟いた領主が本当に悲しそうな表情をするので、シリウスは戸惑いながら付け足した。

「ですけど、そこは読者の想像にゆだねる、でいいんじゃないですか」

 シリウスの言葉に、そうですね、と囁いて領主は小さく微笑んだ。

 それから天井からの月明かりに反射する水面をじっと見つめると、ポツリと呟く。


「スバルくんは……私がいなくなったら、探してくれますか?」


 心底嫌そうな顔をして、何言ってんですか、と言いかけて、シリウスは声を詰まらせた。

 領主の紫紺の瞳が静かにシリウグレン見据えていた。

 何もかもを見透かすような透明な眼差し。

 まるで紫水晶のような瞳が、眼鏡の奥からこちらを見つめていた。

 何も言えなくなったシリウスの瞳と領主の視線が交錯する。

 刹那、沈黙が部屋を支配した。

 互いに見つめ合っていたのは数分かそれとも数秒か、先に視線を逸らしたのは領主だった。

 領主は、空気を和らげるようにフッと口元をほころばせて嘯く。

「失敬……冗談です」

 その静かな微笑みの陰に、寂しげな表情が見えた気がした。

 あぁ、まただ、とシリウスは思わずにはいられない。

 何でそんな顔をするのか、未だにシリウスにはわからない。

 わからないことが腹立たしい。

 一体何があんたに、そんな顔をさせるんだ?

 シリウスは一度水中に潜ってから、領主から少し離れた水面へ再び顔を出した。

 空を仰ぐと、ガラス天井の向こうには、やはりいつもと変わらず美しい月が煌々と輝いている。

 人の世界に紛れて生きる孤独な人魚。

 そんな彼のために、不機嫌なローレライは今宵もまた歌を響かせる。

 ――Ah…

 こんなことしかできない。

 詠えないローレライの代わりに、歌を紡ぐことしかできない。

 言葉にできない想いを詠いに込め、祈りを込めて、少しでも貴方の心の慰めになればいい。貴方に安らぎを与えられたらいい。

 ――LaLaLa…

 静かにそっと紡がれ響く、透き通るような優しい旋律。

 ローレライの歌声は、美しく高く澄みわたり、空間に浸み込むように響き渡る。

 領主は静かに目を閉じて、その歌声に身をゆだねていた。


 ◇

 ◆


 ヴェルメリオの街、喫茶店ロータスにて。

「――思い出したっ!」

 突然の大声に、カガリは危うく飲み物を吹き出しかけた。

「え、なに急に? 驚くじゃん、フレイ」

 カウンター越しに聞き返すと、フレイが磨いていたグラスを置いて答えた。

「あの絵の人っ!」

「あぁ……グレンさまの想い人?」

 その人がどうかした? とのんきに尋ねるカガリに、フレイは額に手をやって呻いた。

「ヤバイ! あの人に、手出したらヤバイ!」

「なんで?」

 キョトンと目を丸くするカガリ。

 フレイはカウンターに両手をついて呻くように訴える。

「あれは、隣町の領主や! ウィリディスの領主!」

「……えっ、ホントに?」

 言われてようやくカガリは事の重大さを理解した。

 困ったように眉根を寄せたフレイは、深いため息をついてうな垂れる。

「やっと思い出したわ……」

「年だねフレイ」

「やかましい。……カガリ、グレン止めてこい。万が一モデルと接触したらヤバイ。領主同士の接触は互いに危険すぎる」

 頷いたカガリは、端末を手に店を後にする。


 すでに二人が何度も接触していることを彼らはまだ知らない。


 ◆

 ◇


 領主たちにとっては平和、といえるのかはわからないが、シリウスからすると比較的平穏な日々が続いていたのだが――

 それが終わりを迎えたのは、ミラが懸念していた四日後のことだった。

 それは、あまりにも唐突な別れだった。


 その日は、やけに屋敷が静かだなと不思議に思い、そう言えばミラが休暇をもらったと言っていたことをシリウスは思い出した。

 確か、領主はミラだけではなく、全員に休暇を与えたらしい。

 突然の褒美に疑問を覚えた者もいたらしいが、シャウラ、ベガあたりは純粋に喜んでいたと、シリウスは一昨日カストルから聞いていた。

 というわけで、今この屋敷にいるのは領主と自分だけらしい、と気が付いて、なんだか微妙な心境になる。

 けれども、仕事はないはずなのに、領主は朝から姿を見せていなかった。

 何かしているのだろうか、とも考えたがその何かが不明だ。

 まぁ、来ないなら来ないで、今日一日独りで過ごせるのなら、それもまた良い。

 いっそ海に帰るか、とシリウスは考えた。

 何しろ領主は、いつでも海へ帰っていいと言っているし、何だかんだでこの屋敷に居座っているが、実際シリウスはもう自由の身なのである。

 しかし、今考えたことを実行に移すには、シリウスには一つだけ気がかりがあった。

 この間の領主とのやり取りが、脳裏に引っ掛かっているのである。


 ――スバルくんは……私がいなくなったら、探してくれますか?


 一体どういう意図を持って領主はそんなことを言ってきたのか。

 シリウスには今一つ図りかねていた。

 それに、その時の領主の表情も気に入らない。

 静かな微笑みの影に見えた悲哀と寂寥。

 回りくどいと言うか、遠回しというか、何かあるならハッキリ言ってほしいものだと、シリウスは思った。

 そんなことにモヤモヤしながら、苛立たしげに考えていた時だ――領主がやってきたのは。

 領主の姿を見て、シリウスは安堵している自分に気が付いた。

 自覚した己の中の感情をごまかすように首を横に振ってから、現れた領主を見据えたシリウスは、思わず眉根を寄せた。

 領主は、申し訳なさそうにしながら、シリウスに薄い笑みを向けた。

「スバルくん。残念なお知らせです」

「え?」


「海へ帰ってください」


 言われた言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

 いや、いつも言われている言葉だったから、理解はできていたのかもしれないが、何を今さらと思ってしまったのか。

 領主の言葉に対する反応が遅れた。

「なッ……」

 返答を言葉にする前に、水槽の中の水の流れが変化した。

 水槽の下部の一角が開いて、ポッカリと口を開けていた。

 以前、領主が言っていた海へとつながっているという排水溝だ。

 そこへどんどん水が吸い込まれていき、シリウスの身体も流れに引っ張られる。

 領主が水槽の水を抜いたのだ。

 何をしてんだ、と文句を言おうにも流れに逆らうのに精一杯だった。

 そんなシリウスに、水槽の向こう側にいる領主が告げる。

「また、人間に捕まったりしないように、気を付けてくださいね」

 領主以外、誰もいなくなった屋敷。

 数日前の火事騒動。謎の花束。ミラの懸念。

 ハッキリとしたことはわからないが、何故だか嫌な予感しかしない。

 激しい水の流れに翻弄されながらも、シリウスは領主に視線を向けて必死に言葉を紡ぐ。

「あんた、何を考えて――」


「さよなら」


 紡がれた冷たい声音に、ゾクリと背筋に震えが走る。

 気が抜けた一瞬の隙を逃さす、勢いの強い流れに捕らえられ、身体が水槽の底へと引きずり込まれた。

 最後に見えたのは、寂しさと憂いを秘めた、泣き笑いのような、領主の儚い微笑みだった。

 ――シリウスが大嫌いな、あの微笑みだった。


 ***


 翌日、出勤したベガ、リゲル、ミルザム、ミラの四人は、己の目を疑った。

 屋敷を前にして立ちつくした四人は、そろって言葉を失っていた。

 互いに顔を見合わせ、眼前の状況が夢ではないことを確認するが、やはりそれでも信じることができなくて、再び視線を前に向ける。

「な……にが、あったんだ……!?」

 最初に声を出したのはミルザムだった。

「屋敷が……」

「ない、ねェ……」

 続いてリゲルとミラも呆然としながらも事実を確認するように呟く。

「領主!? スバルさん!?」

 血相を変えたベガの叫びは、空しくその場に響いた。

 数日前まで確かにそこにあったはずの領主の屋敷は――無残にも、瓦礫の山と化していたのであった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る