第3話:ヴェルメリオの領主

 ウィリディスの地の港市場を当てもなくうろついていたグレンは、とある出店の前で足を止めた。

 市場に興味はなかったのだが、何気なく視線を巡らせた時に、ふとその出店に気になるモノを捉えたのだ。

 その出店では店主が描いたと思われる様々な絵画が並べられていたのだが、その中の一枚の絵がグレンの琴線に引っかかったのだ。

 足を止めてじっくり絵に目を凝らすと、肖像画かと思ったが、どうやら違うようだった。

「……人魚?」

 そう描かれていたのは、人間の上半身に魚の尾をもつ人魚の姿で、そして絵の中の人魚は海を見つめて泣いていた。

 グレンの呟きを拾った店主が、笑みを浮かべた。

「あ、それ気になりますか。僕もちょっと自信作だと思ってます」

「……本物の人魚を知ってるのか?」

「あ、いえいえ、本物の人魚は見たことないです。モデルにしたのは普通の人なんですけど……どうしたことか、描いていたら人魚になってしまったんですよねぇ」

 苦笑しながらも店主がその絵を描くきっかけになった出来事を語り始めた。


 そのモデルにした“人”を見かけたのは偶然だという。

 青いコートを着た若い青年で、柵に寄りかかっていた彼は濃紺の髪を風になびかせながら、ぼんやりと海を見つめていたのだ。

 絵になる人だ、と店主は一目見た瞬間に思った。

 じっと凝視しすぎてしまったためか、視線に気が付いた青年がふとこちらを振り返った。

 店主は慌てて視線をそらそうとしたが、振り向いた青年は特に不快そうな表情はせず、小さく微笑んで会釈を返してきた。

 彼に対してその後自分がどんな態度をとったのかは覚えていないが、たぶんあたふたしながらも会釈を返して逃げるようにその場を離れた気がする。

 ただ一瞬とはいえ、青年の微笑みの陰に見えた、ふとした悲しみや寂しげな表情が、気のせいなのか、ただの思い込みなのか、店主には今でもわからないままだった。

 海を見つめる青年の姿を瞼に焼き付けて帰宅した店主は、さっそく筆をとった。

 それから衝動に突き動かされるままに無心に描いていた。

 途中までは、ちゃんと青年の姿を描いていたはずだった。

 儚げに微笑む、美しい笑顔だったはずなのに。


「なんででしょうねぇ…………よくわからないけど、こう、人魚っぽかったんですかねぇ……?」

 そう例えるなら、一人きりで人間の世界に迷い込み、寂しさを抱えて暮らしているような、そんな人魚。

 本当はここにいるはずではないのに、なぜか迷子のように泣きながら、街で暮らしているような人魚。

「普通の人、といってもホント綺麗な人だったんですよ。……でもちょっと浮世離れしているというか、儚げというか。目を離したらどこかに消えてしまいそうな、そんな気配があったんですよねぇ」

 店主の話を聞きながら、グレンはこの絵のモデルとなった人間に興味を抱いていた。

 この絵に描かれた人魚の顔に、グレンはなんとなく見覚えがあるような気がしていたのだ。

 色が違う気もするし、ハッキリとは思い出せないので、ただの気のせいかもしれないのだが。

「…………そいつをくれ」

 グレンはその人魚の絵を買い取った。

 


 散歩ついでの隣町視察を終えたグレンが【喫茶ロータス】に帰宅すると、艶やかな黒髪に蛍光の瞳をした少女――ホタルが出迎えた。

 彼女はこの喫茶店のマスターの娘である。

 今日はいつも店内で騒いでいる連中はいないようだった。

 カウンターをはさんで談笑していたこの喫茶店のマスターであるフレイと店員のカガリが振り返って声をかけてきた。

 適当に返事を返して、定位置のソファーに腰を下ろすと隣にホタルがちょこんと座る。

 それから、グレンが手に抱えていた紙袋を見て首をかしげた。

「グレンさま……それは、何?」

「あぁ……買った」

 ホタルとグレンの会話に興味を示したカガリが割り込んできた。

「え? 何買ったの? グレンさまが買い物なんて珍しいじゃん」

 対面のソファーにカガリが座り、二人から催促されて紙袋から中身を取り出して見せてやった。

 出店で見つけて買い取った人魚の絵だ。

「……人魚姫」

「へぇ……グレンさまにこんな趣味があったとは! 絵に興味あるなら、今度一緒に写生とかやってみる?」

「しねぇよ」

 カガリの趣味に付き合う気はない。

 というか、別に絵に興味を持ったわけではないのだから。

 グレンが気に入ったのはその絵に描かれた人物だ。

「これ創作? モデルとかいるの?」

「……いる、とか言ってたな。確か」

 カガリの問いに、店主から聞かされた話を思い出しながらグレンは答える。

「うわぁ現実にいるなら、そーとー浮世離れした人かもね! 儚げっていうか、透明っていうか……女の人これ? んー男性に見えなくもない、というか中性的に描かれてるね」

「……青年っつってたから、男じゃねぇの」

 グレンが淡々と呟くと、カガリがへらりと笑って返す。

「適当だなぁ。青年って言葉はね、青春期の男女を指すんだよ。主に十代後半から二十代の男女の若者たちのことをね! ……まぁ、最近では主に男性のことを指すみたいだけどね」

「じゃあ当たってるじゃねぇか」

「……モデルがいると分かると探してみたくなるよね」

 ふと思いついたように、いたずらっぽく微笑みながら囁いたカガリに、グレンは同意するでもなく鼻で笑った。

 その横で、じぃっと絵に見惚れていたホタルが小さく口元をほころばせながら呟いた。

「……綺麗」


 ◆

 ◇


 領主は、仕事がひと段落ついたので息抜きも兼ねて、今日も今日とて一人で街中を歩いていた。

 部下たちは先に屋敷へ帰した。

 毎度のことながら心配した部下たちがいつものように護衛を申し出たが、領主は丁重に断った。

 それでも、こっそり後をつけてきていたようだが、領主は全力を尽くして振り切り見事に尾行を撒いた。

 人で混み合う市場を通り過ぎた時、ふと人より鋭い領主の聴覚が小さな歌声を拾った。

 思わず足を止め、音の出どころを探した。

 どうしたことか、近頃は誰かの歌声に引き寄せられている気がする。

 街中でかすかに聞こえる音楽にまで気を取られる有様だ。

 屋敷にいるローレライの影響か、はたまた自分が思っているよりも身体が歌を求めてしまっているのか。

 それとも、疲弊した精神が歌という名の安らぎ、癒しを求めているのか。

 そこまで考えて、領主は情けないなとばかりに苦笑した。

 

 ――LaLaLa…

 

 弾き語りだろうか、竪琴の音とともに優しい旋律が耳に届く。

 知らず歌声に引き寄せられるように、領主は足を踏み出していた。

 どこから?

 この歌声はどこから聞こえてくるのだろうか。

 歌声に導かれるまま、路地に入り、いくつもの区画を抜ける。

 ――RuRuRu…

 屋敷にいるローレライの歌声とはまた違う旋律。

 優しく慈愛に満ち溢れた声が心に響いた。

 ふらふらと歌声の源を求めて歩みを進める。

 どこをどう歩いたのか自分でもわからないまま、たどり着いたのは小さな公園だった。

 ベンチが設置されている付近に、人だかりができていた。

 近づいて様子を窺うと、ベンチに座ってギターを弾いている青年と、その隣にちょこんと腰かけている少女の姿を視界に捉えた。

 ――LaLaLa…

 どうやら歌っているのはその青年のようだった。

 周囲に佇む人々は皆、青年の歌声に聞き惚れていた。

 領主も観客の一人として人だかりの中に混ざった。

 ――Ah…

 余韻を残して演奏が終わると、わっと一斉に拍手と歓声が上がった。

 少女が手にした逆さまの帽子の中に、次々とコインが投げ込まれていく。

 どうもどうも、と青年は人好きのする笑みを浮かべて聴いて行ってくれたお客に挨拶している。

 確かに素晴らしい歌だったと思う。

 できればもっと聞いていたいと思うくらいには。

 笑顔でコインを投じていく人々に習って、領主もコインを入れた。

 その一瞬だけ帽子を持つ少女を目があった。

 この街ではあまり見かけない、鮮やかな蛍光色の瞳が印象的だった。

 まるでお人形みたいだ、と思ってしまったのはさすがに失礼だろうか。

 去り際、他の人々がしていたように歌い手の青年に、一言だけ声をかけようと思い、心から感じたことを素直に述べた。

「素晴らしい歌でした」

 青年は嬉しそうに、ありがとう、と微笑んだ。

 いい息抜きになったな、と少しだけ軽くなった心持ちで領主はその場を後にした。


 ◇

 ◆


「カガリ」

 去っていく青いコートの後ろ姿を目で追いながら、少女――ホタルは青年の服の裾を掴んだ。

「ん? どしたの?」

 呼ばれた青年――カガリはホタルの視線の先を見つめると、小首をかしげた。

「何? あの人が気になる?」

 ホタルはこくりと小さく頷くと、淡々と呟いた。

「あの人……人じゃない」

 ホタルの言葉に、カガリはキョトンと目を丸くした。

「え? 普通の人っぽかったけど……?」

「……でも、違う」

 ホタルはフルリと首を横に振る。

「俺にはよくわかんないけど、ホタルがそう言うならそうなのかもね」

 首をかしげならも微笑んでカガリは言った。

 人だかりが消え、ポツリと公園に取り残された二人の間に低い声音が響いた。

「……おい」

「あ、グレンさま!」

 不機嫌そうに眉間に皺を寄せた男――グレンがどこからともなく現れた。

「終わったのか」

「うん」

「ほら見てこれ! いい小遣い稼ぎになったよ!!」

 カガリが楽しそうに言うと、ホタルが帽子の中身をグレンに見せた。

 グレンは興味なさそうに一瞥したが、ふいに手を伸ばして無造作にホタルの頭を撫でた。

 その仕草にホタルは少しだけ嬉しそうにはにかんだ。

 微笑ましそうに見ていたカガリだが、ふいにあっと声を上げると告げた。

「そうだ! 聞いてよ、グレンさま。ホタルがね、不思議な人……いや、人じゃない人を発見したんだよ」

 カガリの言い回しがすぐには理解できなくてグレンは眉を顰めた。

「は?」

「青い人が、いたの」

 ホタルがグレンの服の裾を掴んで見上げる。

「青?」

「青いコートを着た人でね、眼鏡かけてて、色白で、背が高くて、太陽というよりは月みたいな? ……とりあえず綺麗な人だったよね!」

 同意を求めるようにカガリが言うと、ホタルも小さく頷いた。

「うん。……でも、その人、人じゃない」

 グレンはホタルの蛍光色の瞳を見下ろした。

「それに……グレンさまと同じ感じがした」

 ホタルはグレンの金色の瞳を見返して静かに告げた。

 その言葉を聞いたグレンの唇の端が小さく笑みの形を刻んだ。


 ◆

 ◇


 近頃、見られている気配がする。

 一人悠々と街中を歩きながら、領主は首を巡らして周囲を見渡す。

 にぎやかな市場の雑踏、通りすぎていく街の人々――実に平和な昼間の街中である。

 物騒な事件などまったく起きそうにないほど穏やかな雰囲気で満たされているけれども、この街で争いがないわけではない。

 なにしろ普通に街中に闇市場が存在するくらいだ。

 表向き静かで平和なだけであって、裏では頻繁に領土争いが繰り広げられているというのが実態だ。

 かくいう領主も領主として、この街で領土争いに参加している。

 ルールは至って簡単だ。その領土を所有する領主を亡き者にすればいいのである。

 よって、領主自身も常日頃から見知らぬ何者かに命を狙われる立場にある。

 スピカたちと共に順調に領土を拡大しつつはあるが、同時に狙われる危険度も日に日に増してきている。

 まぁ、そんじょそこらの輩に簡単にやられるような領主ではないが。

 最近やっかいなのは“狩り人”が動き始めたとの噂を聞いたことだ。

 心配したスピカが外出の際は誰か護衛をなどと提案したが、領主は丁重に断っていた。

 決して彼らが嫌いなわけではないのだが、それでも一人でいたい時もあるのだ。

 その日はなかなか屋敷に戻る気になれず、日が沈んでも街中を歩きまわっていた。

 昼間とは一変して静けさに包まれた街中を歩きながら、足取りは自然と波の音の方向へと向かっていた。

 領主がたどり着いたのは灯台だった。

 手すりに寄りかかり波の音を聞きながらぼんやりと海を眺めていたせいか、気が緩みいつの間にか周囲への警戒を怠っていたらしい。

 背後に現れた男の気配に気が付けなかった。

 振り返ると同時に常に帯刀している剣の柄に手をかけ身構えると、眼前の相手を見据えた。

 男の髪と瞳は綺麗な金色で、まるで夜の月から降りてきた月人の化身のようだと領主は思った。

 男は気だるげな眼差しで領主を無遠慮に眺めやると、納得したように低く呟いた。

「龍王の宝物同士が、引き寄せられるってのは本当みてぇだな」

「……何?」

 男の言葉の中に聞き逃せない単語があった。

 反射的に敵か、と一気に警戒心を強めた領主はいつでも対応できるように気を張り詰める。

 男の金色の瞳が、獲物を捉えた獰猛な獣のように夜の中で光る。

「あんた、ウィリディスの領主だろう」

「……!」

 当てずっぽうか、鎌をかけているのか、判断が付かずただ剣呑な瞳を相手に向ける。

 一瞬だけ動揺してしまったのは悟られていないはずだが、男は満足そうに唇の端をつり上げた。

「どうやら当たりのようだな」

 その男の態度に腹立たしさが募った。

 やられっぱなしというのは性に合わない。

 男の言動、気配、を思い返し、情報をかき集め、導き出せる真実を探る。

「……なるほど。では、貴方はヴェルメリオの領主ですね」

 不敵に微笑んで、挑発的に断言する。

 男は獅子の鬣のような金色の髪をゆっくりとかきあげると鼻で笑う。

「ハッ、よくわかったな。まぁ隠す気もなかったけどな」

「私に何か御用ですか」

 こちらに用はないということを言外に含ませて問う。

 脳内でこの男――ヴェルメリオの地に関する情報を引っ張り出しながら、領主はこの場をどう対処すべきか考えあぐねていた。

「そうつれないこと言うなよ。あんたを見つけたのは偶然なんだ」

 男は気だるげな低い声音でやる気なさそうに答える。

「そうですね。私も貴方のような有名人に目をつけられるとは光栄ですね。大いにありがた迷惑ですが」

 本当に、やっかいな人物に出会ってしまったものだ、と内心で嘆息する。

 ただでさえ、別件で忙しいという状況なのに、さらにこの男が絡んでくるような事態になったら大いに困る。大迷惑だ。

 なので、なるべくなら関わり合いになりたくはない。

「言ってくれるじゃねぇか」

 そんな領主の心境を知ってか知らずか、男は楽しそうに口元にかすかに笑みを刻んだ。

 ため息をつきたくなるのをこらえて、眼鏡のブリッジを押し上げた領主は淡々と男に問いかける。

「何の用ですか。ヴェルメリオの領主、グレン」


 ◇

 ***


【報告書】

 記入者:ミルザム

 人魚が領主について聞いてきた。


 ***


「あの人、笑わないんだよな」

「え?」


 ミルザムの言葉は、シリウスには少し意味がつかみにくかった。

 笑わない、と言われてもピンとこなかったからだ。

 シリウスが思い出せる限りでいうと、領主はいつも微笑んでいるような気がする。

 優しい微笑みというよりは、含み笑いというか、不敵な笑いというか、人を食ったような笑いというか、何か企んでいるんじゃないかと勘繰りそうになるような薄い笑みだが。

 笑っていることにはかわりないはずだ。

 シリウスの困惑を感じ取ったのか、ミルザムが弁解するように言う。

「いや、笑わない人って意味じゃなくてさ、うん、笑うよ。こう、フッていう感じに笑うんだけどさ」

 ミルザムもシリウスが思い浮かべたのと同じ領主の微笑みを思い浮かべたようだ。

 あの含み笑いは正直怖いんだけどな、と嘯いてから、ミルザムは微妙な表情になって続けた。

「……領主が、本当に心の底から楽しいと感じて笑ってるような姿は、見たことないな」

 そう言われて、シリウスも何となくミルザムが言いたいことがわかった。

 貼り付けたような笑み、とまでは言わないが、領主の微笑みは楽しいから笑っているという感じではないのである。

 笑みの形を刻んだ仮面をかぶっているかのような。

 かといって、領主が大笑いしている姿なんて想像もできないのだが。

「……毎年恒例のかくし芸大会でも、全っ然笑わないし、眉一つ動かさないでじぃっと見られてると思うと気まずいにもほどがある」

 思い出すのも恐ろしいとばかりに苦々しげに語るミルザムに、その様子がなんとなく想像できたシリウスは思わず背筋を震わせた。

 あえて、領主を弁護するとしたら、おそらく笑いどころがどこかわからないのかもしれない。なにしろ領主は人間ではないのだから。

 今までにない体験で物珍しいから、笑うどころか大真面目にじっと目視するのに夢中だったのかもしれない。

 …………もしくは、ただ、部下たちが領主の無反応に委縮して顔をひきつらせて失敗する所を見て楽しんでいる、なんて最低な可能性もなくはないが。

「……つーかなんすか、そのかくし芸大会って」

 くだらないことしてるな、という思いは心の中だけにとどめた。


 ***

 ◇


 やっかいな男に目をつけられた。

 毎度のことながら一人で街を巡回と称して散策していた領主は嘆息した。

 独りになった時からずっと付きまとい、いっこうに離れていきそうにない自分以外のもう一つの足音に、小さくため息をつく。

 こちらから声でもかけないと、このまま屋敷までついてこられるのだろうか。

 それはそれで困る、と考えた領主は、仕方ないな、と眼鏡の位置を直しながら、けれども意地でも振り向くことはしないで淡々と後ろへと問いかけた。

「ストーカーですか」

 うんざりしたように呟いたのに、背後にいた男が愉快そうに鼻で笑った。

「奇遇だな」

 尾行しておいて、よくもまぁそんな台詞が出てくるものだ。

 あまりにも白々しすぎる返答に、領主は相手に自分の表情が見えないのをいいことにわずかに顔を歪めた。

「何が奇遇なものですか。私をつけていたのでしょう」

 そう、尾行されていることには気が付いていた。

 ただ単に用もないのに、やっかいそうな男の相手をするのがめんどくさくて、ここまで放っておいただけなのだが。

「バレてんのに放っておくってことは、あんたも俺に会いたかったってことか」

「御冗談を」

 身勝手すぎる男の解釈を即座に切って捨てる。

 その反応すらも楽しんでいるかのように男が小さく笑ったのが聞こえた。

「ハッ……残念だな」

 さして残念そうでも何でもない口調に領主は苛立ちを覚える。

 こうしてこの男と会話していることさえ、正直に言うと危険な行為であった。

 何故なら、この男も領地争いに参加している人間の一人だからだ。

 振り返らなくても、もはや気配で覚えてしまった――ヴェルメリオの領主こと、グレン。

 彼はヴェルメリオの領地をテリトリーとしている支配者であり、要するに、領地争いに参加する身としては敵対関係にあるのである。

「ご用件は何でしょうか」

 あるなささっさと言え、とばかりに領主は背を向けたまま問う。

 長居はできない。

 この現場を他の領地争いの敵に見られるわけにはいかないのだ。

 敵対関係にある領主同士が接触するのは、互いに交戦する時か、領地壌土の交渉にあたる時か――他勢力に対抗するために、同盟を組む時だけだ。

 領主が危惧しているのは、敵に彼と同盟関係を結んだと勘違いされることだった。

 一の労力で終わる事態を、誰が好き好んで百の労力を使うような事態にしたがるだろうか。

 心の底からそのような事態になることだけは勘弁してほしい。

 この男が何故自分に付きまとうのか、領主には領地争いに関することだとしか考えられなかった。

 だから、次の瞬間放たれた彼の言葉がすぐには理解できなかった。

「あんた…………人間じゃねぇな?」


 ◇

 ◆


 グレンは観察していた。

 灯台で出会って以来、度々ウィリディスの街へ足を運び、彼の姿を探しては近づくでもなく様子を見ていた。

 なんだかんだで、灯台で会ったあの夜は、ろくに話もできずに邪魔が入り逃げられてしまったのだ。

 おそらくは彼を狙ってきたのであろう刺客の乱入により、撃退すべく動いた彼はどさくさに紛れてそのまま逃走したのだ。

 身を隠すのに慣れているのか、加えて夜ということもあり、追っては見たがその時はもう見つけることができなかった。

 翌日からグレンは頻繁に街を訪れ、彼の姿を探すようにした。

 最初に出会った時、一目で彼があの絵のモデルだとわかった。

 同時に、ホタルとカガリが言っていた“青いコートの人じゃない人”というのは彼のことなのだろうとわかった。

 青いコートを着ていて、眼鏡かけていて、色白で、背が高くて、太陽というよりは月みたいで、それから――綺麗、だという条件が見事に一致すると思った。

 また、青い人、自分と同じ感じがする、というホタル言葉と彼が身に纏う気配から、彼も自分と同じ龍王の宝剣の持ち主なのだなということもわかった。

 問いかけで彼が“ウィリディスの領主”だということは確定だと言えたから、フレイに聞いたらすぐに情報は得られた。

 ウィリディスの領主、名前はアルファルド。

 そして――

「あんた…………人間じゃねぇな?」

 ホタルが人じゃないと言ったのだから、その通りなのだろう。

 だが、もう一つ根拠がある。

 グレンは、思い出したのだ。

 出店で絵を見た時に、なんとなく見覚えがあるような気がした感覚の正体を。

 その時は、色が違う気がする、ハッキリとは思い出せない、気のせいかもしれないと思ったが、ここ数日彼を観察していて思い出したのだ。

 実のところ、今日も様子を見るだけでグレンとしては会話するつもりはなかったのだが、向こうから声をかけられたのをいいことに、問いただすことにしたのである。

 正直、前回グレンが彼をウィリディスの領主だと言い当てても、残念なくらいポーカーフェイスだった挙句、自分の正体まで言い当てられたのは面白くなかった。

 だから、グレンは次に会う時は、その綺麗に取り繕った仮面を剥がして素顔を暴いてやりたいと思った次第である。

「な……ぜ、そう、思うのですか」

 頑なにこちらを振り返らなかった彼が、幾分こわばった表情で振り向くとグレンを見据えた。

 とりあえずグレンの目論見通り、彼のポーカーフェイスを崩すことには成功したようだ。

 彼と向かい合う形で対峙したグレンは、さてこれからどうしようかと内心で考えながら、唇の端を釣り上げて低い声音で答える。

「勘ってやつ?」

 グレンの答えに、彼の端正な顔が不愉快そうに歪んだのは一瞬のことだった。

 半ば片手で表情を隠すようにして眼鏡の位置を直した彼は、直後には紫紺の瞳に強い輝きを宿して、瞬く間にポーカーフェイスを取り戻した。

 どうやら完全に動揺を押し殺したようだ。

 彼は突き放すような冷たい瞳でグレンを見据えると、淡々と切り捨てる。

「話になりません」

 まだ隠し通せると思っているのか、言外に会話の拒絶を示した彼に、グレンは不敵な笑みを浮かべながら紫の瞳を見返した。

 そして、次にグレンが発した言葉は、彼が構築した仮面を再度引きはがした。

「ローレライ」

 一変の揺るぎもない強固な意志を秘めた金色の瞳に射抜かれた彼は、動揺を抑えきれずビクリと肩を震わせる。

 彼の紫紺の瞳が戸惑いを浮かべ、不安定に揺れていた。


 ◇

 ◆


「最近、グレンいないけど、どこ行ってんのアイツ?」


 グラスを磨きながらフレイは、カウンター席に腰かけたカガリに問いかけた。

 喫茶ロータスの店内には、今はフレイとカガリの二人しかない。

 竪琴の手入れをしていたカガリは、フレイの言葉に一旦手を止めると、んーと小首を傾げながら答える。

「グレンさま? あー……グレンさまはねー……最近ストーカーしに行ってるよ」

「……は?」

 あやうくグラスを落としかけた。

 あっさりと答えたカガリの言葉が、フレイにはすぐに理解できなかった。

 今彼は何と言いましたか。

 聞き間違いでなければ、何? ストーカー?

 唖然とするフレイを置いて、カガリが楽しそうに語る。

「あれはもう、そーとー気に入っちゃったみたいだねー。目が獲物を狙う肉食獣のそれだもん」

「えっ、いやいや……待て。ちょっと待て。グレンが、何してるって?」

 頼むから聞き間違いであってくれ、と一縷の望みを託してなんとか聞き返したフレイに、やはりカガリはさらりと同じ答えを返す。

「え? だからストーカーしてるんだって」

 何故カガリが平然としているのか、むしろ何故こちらがキョトンとしたような目で見られないといけないのか。

 フレイは半ば現実逃避しかけながらも懇願するように呟いた。

「……嘘だろ?」

 だが残念ながらフレイの願いは無慈悲にも砕かれた。

「いやいや、ホントだから。ほら、この間グレンさまがどっかかから買ってきた絵あるじゃん?」

「あぁ、アレな。アイツにしては珍しいモノ買ってきたなーとは思ってたけど……」

「どうやら、あの絵のモデルの人を探してるみたいなんだよねー」

 カガリの言葉に少しだけ驚いた。

「モデルがいるのか、あれ」

 いや、驚くべきところはそこじゃないだろ、と自分にツッコミを入れつつ、内心では呆れてため息をついた。

 絵のモデルの人を探すとか……何しょーもないことやってんだウチの領主サマは……

「うん。正直、俺も先日、あの絵に描かれてる人を見たというか、見覚えあるというか、この間ホタルと公園ライブした時に会った人と似てるなーとか思ったり」

「あぁ、なんやったっけ……ホタルいわく“青い人”で“人じゃない人”?」

「そう、その人。今思い返すと、グレンさまが買ってきた絵の中の人に似てる」

 フレイもグレンが買ってきた絵を思い出してみた。

 確か、繊細なタッチで描かれた、海を見ながら涙を流している人魚の絵だったはず。

「…………そう言われると、俺もあの顔見覚えあるっていうか、どっかで見たような気はするんだけど……思い出せん」

「えっ、フレイの情報網に引っかかる人なの?」

 目を丸くして言ってきたカガリに、フレイは考え込むように眉間に皺を寄せる。

「だから、思い出せん」

「グレンさまの部屋から、絵取ってきて二人で検証する?」

「阿呆。そこまでする気ない」

 へらりと笑いながら述べたカガリの本気ともつかない提案を、フレイは苦笑しながら断った。

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