第2話:ローレライ経過観察日誌

 見上げた天井から月が煌々と輝いているのを、どこか現実でない幻のように感じながら、シリウスは、今夜も一人で水面を漂いながら歌を紡いでいた。

――LaLaLa…

 思い出しているのは、海で人に囚われてしまってから離れ離れになっている、友のことだ。

 アイツは今、どうしているのだろうか。

 自分と同じく人に囚われてしまったのか。

 それとも上手く逃げ延びて、自分の事を探してくれているのだろうか。

 もうずっと会っていない。

 ローレライであるシリウスは、人に囚われ陸に上がってから、何度も人の手に渡り、返品され、また人に買われ、といったことを何年も繰り返してきた。

 逃げ出さずにあえて囚われの身でいたのは、離れ離れになった友を探して会うためだった。

 もし友が人に捕らえられていたとしたら、海へ逃げるよりもこのまま陸にいたほうが情報が入るし都合がいいと思ったからだ。

 友に会いたいがために、これまで生き抜いてきたのであり、その存在がシリウスの唯一生きる希望となっていたはずだった。

――LaLaLa…

 何度目かの返品をされ、再び市場で売りに出されていたシリウスが、さすがに長年の囚われ生活に感覚が麻痺しかけ、心がもう海へ帰りたいという懇願に傾きかけていた時だ。

 シリウスは、この街の領主である男に買われた。

 いや、正確には救われた、というべきなのだろうか。

 シリウスを屋敷へ連れてきた領主は、これまでの買主とは違い、長年シリウスを戒めてきた鎖をはずし、挙句の果てに海へと帰ることを許した。

 さらに驚くべきことに、領主自身も人間ではなくローレライであったのだ。

 領主は、人間社会に紛れ込んで、人間に囚われた同胞を見つけては、逃がしてやっているのだという。

 鎖から解放された時、海へ帰れるのだとほっとしている自分がいたのは確かである。

 その点では領主に感謝を覚えないこともない。

 いつでも海へと帰っていいのだと言われ続けているが、何故だか自分でもハッキリとした理由がわからないままシリウスは今も領主の屋敷の巨大水槽に世話になっていた。

 頑なに名前を名乗らない自分に、領主が勝手に“スバル”と呼び始め、彼の部下たちにもそれが定着してしまっているほど、シリウスはこの屋敷に居座っていた。

 もちろん友に会いたいという気持ちは変わっていない。

 いないはずだが、何故だかこの屋敷を離れられない。

 強いて無理やり理由をつけるとしたら、大人しく領主の言うとおりにするのが癪だったというただの反抗と、市場で会った時、そして時折領主の微笑みの陰に見えた、ふとした悲しみや寂しげな表情が気になっているからかもしれない。

――LaLaLa…

 歌いながらも、シリウスには自分の気持ちがわからなくなりかけていた。



***


 【報告書】

 記入者:ベガ

 スバルさんは、最近やっと俺と話してくれるようになりました。

 でも、歌は歌ってくれません。


***


「え? 領主が普段何してるかって?」


 シリウスが前々から疑問に思っていたことを尋ねると、声をかけられるとは思っていなかったのかベガが驚いたように目を丸くした。

「……領主っつーか、おまえらが普段何してんのかってこと」

 ローレライであるシリウスは、市場で売られていたのを領主に買われて、この屋敷に連れてこられた。

 いつでも海へ帰っていいとは言われているものの、なんだかんだでこの屋敷に居座っているシリウスは、普段領主たちが何をしているのか詳しくは知らなかった。

 というか、もはや今さら聞くのもバカバカしくて憚られるが、領主の名前すら知らない。

 シリウスの世話係であるベガたちに聞いてもよかったのだが、自分も領主に名前を教えていないのに(勝手にスバルと名付けられてしまったが)、こっちが本人ではなく他の人にから名前を教えてもらうというのは、なんだかずるい気がしたのだ。

 それに、常にベガたち部下も皆、彼のことを“領主”と呼ぶから、シリウスは未だに領主の名前は知らなかった。

 踊り場からやや離れた水面から顔を出しているシリウスを見据えながら、うーん、と首をひねったベガが呟く。

「何してると言われても……普通の日常生活送ってますよ?」

 まるで見当違いのベガの答えに、シリウスは小さく舌打ちする。

「おまえらの仕事は何かって聞いてんだよ」

「え? 仕事っすか? あー……んー……何て言ったらいいんだろ……」

 難しい顔をして悩み始めたベガを見上げて、そんなに悩むモノなのかと内心で首をかしげた。

「……自警団的な?」

「は?」

 ひとしきり唸った挙句疑問形で呟かれた言葉に、シリウスは顔をしかめた。

 なんだその曖昧な答えは。

「俺も時々領主に同行することはあるけど、実際には領主が一人でやっちゃうから、あんまし詳しくはわかってないんす」

 だいたいスピカさんと事務作業こなすことのが多いから、と語るベガに、使えねぇなとシリウスは内心で呟く。

 不満げなシリウスの表情に気が付いたのか、苦笑しながらベガが付け足す。

「そういう話は、アトリアさんのが詳しいと思いますよ。たぶん、あの人が一番領主に同行すること多いから」

「スピカ、とかいう人じゃなくて?」

 シリウスから見て、領主の次に立場的に偉そうに感じたのがスピカだった。

 だから、トップである領主に常に同行しているイメージがあったのだが、ベガは笑いながら首を振る。

「領主かスピカさんのどっちかは必ず屋敷にいないといけないから、二人そろって外行くことはないんすよ」

「へぇ……」

 それは知らなかった。

 でも、シリウスが欲しい情報はそれではない。

 直接領主に聞いてもいいのだが、何となくはぐらかされそうな気がするのだ。

 領主がこの水槽の部屋を訪れるのは決まって夜遅くだ。

 どうでもいい話をずっと語ってくる時もあれば、ただ黙ってそこにいるだけの時もある。

 けれども時々、ひどく疲れた様子でやってくることがあるのだ。

 そして、そういう日は大抵、かすかにだけれども、硝煙と――血の匂いを彼は纏っているのである。

 一体、領主はこの屋敷にいない間は何をしているのか。

 何が彼を日に日に精神的に追い詰めているのか、シリウスは知らない。

 人間は嫌いだ。

 だけど、領主は自分たちの同胞である。だから、気になるだけだ。別に心配とかしているわけじゃない――と、言い訳のように考えた自分にシリウスは舌打ちした。

 とりあえず、部下であるベガたちから情報を引き出そうと、早速今日尋ねてみたのだが。

 聞く人間を間違えたようだ。


「ところでスバルさん」


 何かを期待するかのような目をして声をかけてきたベガを見返して、シリウスは短く切り捨てる。

「断る」

「まだ何も言ってないのに!?」

 目は口ほどにものを言う、とはよく言ったものだ。

 言われなくてもベガの眼を見たシリウスには、その次にベガが言おうとしたことがわかっていた。

「お願いしますよー! 俺、スバルさんの歌が聞きたいっす!」

 最初に出会った時から、ベガはシリウスに歌を歌ってほしいと言ってきた。

 けれどもシリウスはそれを拒否した。

 それ以来、ベガは世話係になるたびに毎回毎回しつこく歌をねだってくるのである。

 いい加減諦めてほしいものだ。

 シリウスは人前では歌わない。

 人間に囚われてから、長年歌うことをやめていた。

 人間の前で歌うことも話すことも拒否していたのだが、領主に買われてからはどうも調子を狂わされっぱなしだ。

 この屋敷にいる彼らが、今までの買主とはまったく異なる存在だからだろうか。

「ハッ! わかりました! ……なら、俺も一緒に歌います!」

「は?」

 いつものようにベガの追求を回避すべく、水中に逃げようとしていたシリウスは思わず顔をしかめた。

 今、こいつは何て言った?

 名案を思い付いたとばかりに、目を輝かせてベガが告げる。

「一人で歌うのって緊張しますよね! だったら、スバルさん! 俺と一緒に歌ってください! こう見えて、俺も歌うの得意です!」

「いや、意味わかんねぇし。歌わねぇし」

「くっ……最近やっと会話してもらえるようになったのに……スバルさんの歌を聴ける日はまだ遠いというのか……!!」

「そんな日一生こねぇよ」

 嘆くベガにそう無慈悲に切り捨てたシリウスは、心の底から嫌そうに彼を睨み据えると水中に潜った。



***


 【報告書】

 記入者:アトリア

 スバルさんに質問されました。


***


「え? 領主のお仕事についてですか?」


「あんたが一番領主の付き添いで仕事してるって」

 ベガが言ってた。

「そう言われましても……」

 困ったように微笑するアトリア。

 ベガがアトリアなら詳しいと言っていたから、てっきり何か情報が聞けると思っていたのに期待はずれか、とシリウスは内心で嘆息した。

 あからさまにがっかりした雰囲気がにじみ出てしまったのか、シリウスの様子に気が付いたアトリアはそうですね…と前置きしてから言葉を続けた。

「大きく分けて、自警団のような仕事と、領地争いに関すること、ですかね」

 聞きたかった情報を話し出したアトリアに、シリウスは少しだけ驚いた。

 自警団というのはベガが言っていた。

 だが、領地争い?

 シリウスは水面から踊り場に身を乗り出して、アトリアの言葉に耳を傾ける。

「でも実際、本質に関わることに、俺はそこまで関わらせてもらえていないんですけど……」

 シリウスの傍に座り、アトリアが話す姿勢になる。

 自警団の仕事としては、主にこの街の治安維持のようなことをしているらしい。

 昼夜問わず街の見回りとして、不審者がいたら取り締まったり、事件などが発生したら解決に赴いたりするそうだ。

 シリウスと出会った闇市にいた理由も、仕事の一環だったようで、あの時彼らは闇市摘発目的で訪れていたとか。

 すでに解体させることに成功したらしいが、ああいうたぐいの取引は一つ潰したところで、また別の所で名前を変えて復活するものだ。

 とりあえず領地内での商いは潰せたのでよしとする、とアトリアは語った。

 ベガやリゲル、ミルザム、ミラなどは、主にそういう類の仕事を任せられることが多いらしい。

 普段屋敷にいる時は、始末書や報告書などをまとめたり、住民たちの相談に対応したりするという。

 そしてもう一つの仕事、領地争いについての話をする前に、アトリアが問いかけてきた。

「スバルさんは、どこか知っている地名とかあります?」

 そう言われて、正直思い出すのも忌々しいが、これまでの買主たちが住んでいた地名をいくつか頭の中に浮かべた。

「……ローザ、ヴェルメリオ、メラン、カエルレウム……とか」

「その辺は有名所ですね。それらの領地を管轄しているのが誰か知っていますか?」

 知るわけがない。

 シリウスが黙って首を横に振ると、アトリアは丁寧に説明してくれた。

 全ての地域において、表向きは静かで平和な街でも、裏では頻繁に領地争いが繰り広げられているというの。

 そしてあの領主も、この街――ウィリディスの地の領主として、領地争いに参加しているらしい。

 アトリアやカストル、カペラ、シャウラたちは主に領地争いの件で領主に同行していくことが多いという。

 ただ、同行するものの、実際は領主一人で片付けてしまうことが多いため、あまり深い事情までは知らないらしい。

 代わりに、全然関係ない案件やデスクワークを押し付けられることの方が多いとか。

「じゃぁ、その領地争いっての……具体的に何するのかとか知らないんですか」

「ルールとかは知ってます。といっても、単純なんですけどね……要は、その領地を所有する領主を亡き者にすればいいんですよ」

「え?」

「ですから、欲しい領地を所有している領主を亡き者にすれば、その領地を手に入れることができるんです」

 シリウスはしばし言葉を失った。

 なるほど、時々領主が纏っている硝煙と血の匂いはそのためか、と思うのと同時に、人間の考えの愚かさに嫌気がさす。いや、もとから人間は嫌いだけれども。

 欲しいものを力ずくで奪い取る……領地争いというか、ただの領地の奪い合いじゃないか。

 くだらないし、醜いし、欲まみれの浅はかな人間が考えそうなことだとは思う。

 だが、それに領主が参戦している、というのは理解しがたい。

 何故、そんなくだらない人間の争いに、人間ではない領主が関わっているのか。

 沈黙したシリウスに説明が足りないと思ったのか、アトリアが慌てたように付け足す。

「あ、いや、誤解しないでくださいね。領主も俺達もそんな悪逆非道なことしていませんから!」

 アトリアの言葉にシリウスは眉を顰めた。

 つまりはどういうことだ。

「領主は武力ではなく、話し合いで領地を譲っていただいているんです。そうやって地道に領地を拡大していっているんです。……まぁ、中には話を聞いて頂けない場合もあるのですが……一応、無理やり奪って得たような領地はありません」

「…………他の領地の奴らが、領主襲いに来たりすることとかあるわけ?」

「はい、それはもう……頻繁に。今の領主は、常日頃から見知らぬ何者かに命を狙われる立場にあります。一応、外へ行く仕事の時は大抵俺達も同行していますが」

 部下として仕事に同行しながら、護衛も兼ねているのか。

 それにしても、おちおち外を出歩くなんてできないだろう。

 敵に狙ってくださいと言っているようなものだ。

「……そうそう仕事以外で外出なんてできねぇんだろうな」

 言葉にしてから、あれ、とシリウスは違和感に気が付いた。

 よくよく思い出してみると、領主は大抵この屋敷にいないような。

「いえ、それが……仕事が終わると、いつも護衛もつけずに一人で街中をふらふらと……」

「危機感ねぇのか、あのクソ領主!?」

 シリウスの驚きの声にアトリアは苦笑を返した。

 そんなアトリアを見上げてシリウスは不可解そうに言う。

「あんたらも……何で止めないんだよ」

「毎回必死に止めてますよ! ……ですが、毎回聞く耳持たず、です。同行も断られて」

「そこは食い下がるとか、無理にでもついていくとか」

「実行しましたが、撒かれました」

「何やってんだよ」

 領主もあんたらも馬鹿か。

 思わずシリウスは毒づいた。

 いや、この場合はアトリアたち部下の心労が思いやられる、か。

 人を食ったような領主の薄い笑みを思い出して、シリウスは顔をしかめた。

 部下を困らせるなよ、迷惑極まりない領主だなホント。



***

 

 【報告書】

 記入者:リゲル

 スバルさんが領主のことを聞いてきました。


***


「え? 領主がどんな人か?」


 意外なことを聞かれたとばかりに、目を丸くしたリゲル。

「……あんたらから見て、あの領主ってどんな感じなわけ?」

 この屋敷にいる彼らから見た領主とはどういう存在なのか気になったのだ。

 領主が本当は人間ではなくてローレライだということを知っている者はいないようだが、だとしたら、こいつらは一体領主をどう見ているのか。

「そうだね……ちょっと浮世離れした人だな、とは思うかな」

 そりゃ人じゃないからな。

 シリウスは内心でコメントしながらもリゲルの話を聞く。

「時々、僕らが知ってる当たり前のことを知らなかったりするし……」

 それも人間じゃないのだから仕方がない。

 もともと陸にいないのだから、人間の当たり前なんて知るわけがないのだ。

「あとは……何にでも興味を抱く人だな、と思う。好奇心が強い、というのかな? 時々だけど、子どもみたいに目をキラキラさせてさ……」

 あぁ、それはちょっとわからなくもない。

 地上の全て、というか何もかもが、ローレライである自分たちにとっては新鮮で、珍しいという感覚はシリウスにも理解できた。

 理解はできるが、シリウス自身はそこまで関心はない。

「でも、やっぱり少しだけ近づきにくい感じはするかな……」

 苦笑したリゲルにシリウスも同意しないこともない。

 実際領主に近寄りがたい雰囲気があるのは確かだし、おそらくは自衛のためなのだろうが、同胞であるシリウスでさえ時々怖いと感じることもあるのだ。



***


 【報告書】

 記入者:カペラ

 領主について尋ねられた。


***


「領主について……?」


 いつ見ても珍しい髪色だなと、シリウスはカペラを見るたび思う。

 藤と桃色のグラデーションの長い髪。

 本人に聞いたところ、染めているわけではなく地毛らしい。

 口数の少ない彼女は、主に屋敷では料理を担当しているらしく、領主の部下の中でも一番とっつきにくそうな人に見えた。

 けれども、ちゃんと会話はしてくれる。

 今も唐突なシリウスの質問に、怪訝そうな表情をしながらも答えてくれた。

「……魚料理は嫌いのようね」

 そりゃ同属ですから。

 シリウスだって領主に拾われてから、ちゃんとした食事をもらえているが、貝や生魚は食べない。

「肉料理もあまり口にしないし……」

 かもしれない。

 シリウスも生肉は食べない。

 食生活が心配でもある、と呟き思案気な顔をしていたカペラは、それからふっと思い出したように少しだけ口元をほころばせて告げる。

「けど、和菓子は好きみたいね」

 そう言われて、何故だか納得してしまった。

 和服が似合う人だからか、確かに好きそうだなと思ってしまったのは何故だろう。

「ただ…………近頃はスピカさんの好意により……」

 苦々しい表情で歯切れ悪く言うカペラに、シリウスも、あぁと思いつく。

 そこから先は言わなくてもわかる。

 ここに来てからシリウスも嫌と言うほど体験した――スピカの手料理を。

 彼女は、絶望的なほど料理が下手である。

 いや、味覚がおかしいとでもいうべきか。

 しかも本人にその自覚がない。

 今でもスピカが料理担当の時は、シリウスにとって恐怖である。

 おそらく慣れることは絶対にない。というか、その時はきっと自分の味覚は崩壊しているのだろうと思う。



***


 【報告書】

 記入者:カストル

 ローレライが領主に興味を抱いているようだ。


***


「……領主について? 聞いてどうする」


 深緑の瞳を細めて淡々と問い返してきたカストルに、シリウスはなんとなく気圧されて視線をそらす。

 カペラの次に手強そうなのがカストルだと思う。

 ミラもいろいろな意味で手強そうだが。

「いや、別に……大した意味はない、です……」

 そこまで深く追求する気はないので、早々にシリウスが水中に引っ込みかけた時、静かな声が呟いた。

「……気になる点があるとしたら」

 踊り場に膝をつき水面を見据えたカストルと、見上げたシリウスの視線が交錯する。

「領主が、いつも手袋をしていらっしゃるところか」

 確かに、領主は室内でも常に白い手袋をしている。

 だが、シリウスにはその理由がわかっていた。

「あれは少し不思議ではある……潔癖症なのだろうか」

 それは違う。

 一言でいうなら体質のせいであるといえよう。

 ローレライである自分や領主は、人間より体温が低いのだ。

 言い換えると、自分たちにとって人間の体温は少々熱すぎるのだ。

 だから、なるべく人間に直に触れられるのを避けるし、自ら触れることもできればしたくない。

 絶対に触れられない、というわけでもない。

 海で溺れて体温の低下した人間に触ることは可能だ。

 海にいた頃は、ごくまれに水難事故で溺れた人間を助けたこともあったし。

 例えるなら、焚いたばかりのあっつい湯船に手を突っ込むようなものなのだ。

 普段でも人に触れることができないわけではないのである。進んでしたいとも思わないが。

「……あぁ、でも確か、手にひどい傷があるから見せたくないのだとか、おっしゃっていたな」

 そういうカストルの表情から察するに、信じているかは微妙なようだ。

 シリウスはどっちだろうな、と真偽の判断をしかねていた。

 陸で人間として生活しているため、主な理由はやはり体質の問題だとは思うのだが、以前語られた領主の経歴を考えるに、傷を負っているというのもあながち嘘ではないような気もするのだ。

 領主も人間に捕まって陸にやってきたローレライだ。

 その際に傷を負わされたという話は聞いている。

 そのために歌えなくなったということも知っていた。

 だからシリウスには真偽がわからない。手に傷があるという話は、ありえない話でもないのだ。

 しかし、それも含めて領主の正体については、カストルに言えないことなのでシリウスは口をつぐむ。

 だが、そこではたと思い出した。

 そういえば自分と会う時、領主は手袋をしていなかったはずだ。

 そしてよくよく思い返せば、傷跡なんてなかった気がする。

 なんだ答えは出てるじゃないか、と今まで忘れていた自分に舌打ちしたシリウスは、カストルに言うべきか否か迷ったが、やはり口を閉ざした。

 カストルも疑問には思っていても答えを求めているわけではないので、領主の手袋の話はそれで終わった。



***



「スバルくんは、“狩り人”をご存じですか?」

「はい?」


 その日の夜、久しぶりにシリウスの下を訪ねてきた領主が唐突にそんな問いかけをしてきた。

 なんか物騒な単語が出てきたな、と思いながら領主を見返すと、薄い笑みと共に別の問いで返される。

「おや、その様子では知らないようですね。……では、“龍の宝と剣”の伝説はご存じですか?」

「あー……それなら知ってます、けど」

 遥か昔、強大な力を持つ龍王が存在したという。

 龍王は、大いなる力の結晶と称される、宝と剣を所持していた。

 その宝と剣を手に入れた人間は、龍王の加護により大いなる力を得ることができるのだという、まったくもって現実味のないおとぎ話とでもいうような、シリウス自身まるで信じていない伝説だ。

 まさか、その伝説が本当のことで、実際に今ここにあるとかいうオチじゃないですよね、と内心で嫌な予感を覚えたシリウスが警戒するような視線を向けると、領主は小さく微笑んだ。

「私が今、龍王の宝の一つを持っていると言ったらどうしますか?」

 まるで、明日のお昼はどうする、みたいな軽いノリで放たれた言葉の中身はとんでもないもので、笑顔でさらっと何言いだしやがったこいつは、とシリウスは思わず眉間に皺を寄せた。

 いや、どうしますか、じゃないから。

 もはやそれ、肯定以外の何ものでもないから。

 内心で盛大に舌打ちしつつ、薄い笑みを浮かべる領主の表情からは今の発言の真偽を見極めることができない。

 終いには、めんどくさくなり思考を放棄した。

 水面から顔を出していたシリウスは、顔の半分ほどまでブクブクと沈んだ。

 胡散臭いモノを見るように、半眼になって領主を見据える。

「……その目は信じていませんね?」

「……信じてないっつーか……面倒臭いんで、そういうのあんま関わりたくないし……別にあんたが何者とか今さらどうでもいいし……」

 まぎれもなく本音である。

 そっぽを向いてボソボソと呟くシリウスに、領主は眼鏡の奥の瞳を和らげる。

「私の下にいると、スバルくんもいろいろと危ないかもしれませんよ」

「……遠回しに、早く海に帰れって言ってます?」

「本心としては、このままいてくれても構わないんですけどね……そうも言ってられない状況になってきている、というのが事実です」

 珍しく領主が本当の事を言っている気がする。

 そうも言ってられない状況――領地争いのことだろうか。

 争いが思いのほか過激化しているとか、その対処で忙しいとかか。

 それとも、本格的に命を狙われかけてきているということか?

 瞬時に推測を巡らせたシリウスの頭の中で、最初に言われた“狩り人”という言葉が引っかかった。

 もし、もしも、本当にあの伝説が真実だとして、領主が現在“宝”を所持しているとすると、“狩り人”というのはその強大な力を有する“宝”を奪おうとしている存在、もしくは、領主の命を狙うモノ、とでもいうつもりか?

 そこまで考えて、いやいやないだろさすがに、とシリウスは自分の推測を否定する。

「つーか……あんた、普段一体何してるんですか?」

「何してると思います?」

 日替わりの世話役たちに問いかけてきた事柄を、本人にも尋ねてみたというのに、残念ながら微笑みで返された。

「質問に質問で返すのは反則です」

 思わずムッとしてシリウスは言い返した。

「ふふ……最近、アトリアくんたちに私のことを聞いて回っているそうですね? スバルくん」

 微笑みとともに放たれた言葉に、シリウスはうっと声を詰まらせる。

もはや隠すことなく舌打ちする。

 バレている。

 いや、アトリアたちは領主の部下だから報告するのは当然か、と今さら思い当る。

「私が何をしているか、気になりますか?」

 面白がるような口調で領主に問いかけられ、気まずくなったシリウスはぶっきらぼうに否定する。

「いえ、なりません。全然、まったく、興味ありません」

 同じローレライだからとか、ローレライのくせに人間のふりして陸で生活していることとか、本当はいろいろと気になると言えば気になるのだが。

 当の本人にそれを悟られ、面白がられるのは腹立たしい。

 ふて腐れたシリウスを見て楽しそうに微笑んだ領主は、ふいに目を閉じ沈黙した後、静かな笑みを口元に刻んでそっと、まるで懇願するように囁いた。


「スバルくん……歌ってくれますか?」


 まただ、とシリウスは思う。

 歌をせがまれたことに対してではない。領主が浮かべた表情に対してだ。

 領主の微笑みの陰に見える、ふとした悲しみや寂しげな表情。

 何でそんな顔をするのか、シリウスにはわからない。

 わからないことに、無性にイラつくのだ。

 シリウスは、領主のこの表情が嫌いだった。

 それに、その表情が気になるから、海に帰るに帰れないのだ。

 領主を見つめるシリウスは、嫌そうな顔をしながらも、仕方ないなと内心で嘯いた。

 どれだけねだられても、やはりベガたちの前では歌う気にはならないし、歌いたくもない。

 ベガたちが嫌いなわけではないけれども、人間のためには、まだ歌いたくないのだ。

 けれども、領主の前ではすでに一回歌ってしまっている。

 いや、盗み聞きされていたことも数えると二回になるか。

 領主は同胞だから、とそんな言い訳をしている自分に小さく舌打ちする。

 本当はわかっている。要は自分が歌いたいだけなのだ。

 自分が――彼のために、歌いたいのだ。

 シリウスは領主から目を背けて、ガラス天井の向こうで煌々と輝く月を見上げると、小さく息を吸う。


――Ah…


 歌えないローレライの代わりに歌を紡ぐ。

 祈りを込めて、慰めるように、安らぎを与えるように、旋律を響かせる。


――LaLaLa…


 シリウスは歌いながらも横目に領主の姿を捉えて、口には出さずに胸中でそっと呟く。

 あんたのそんな顔、見たくないんだよ。

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