孤独な領主と不機嫌なローレライ
宮下ユウヤ
第1話:孤独な領主と不機嫌なローレライ
小さな海辺の街で孤独な領主と不機嫌なローレライが出会いました。
ローレライ。
それは、海を渡る舟に歌いかける美しい人魚たちのことをいう。
人魚たちの歌声を聞いたモノは、その美声に聞き惚れて、舟の舵を取り損ね、海底に沈んでしまうという。
海辺の街の市場で、一匹のローレライが囚われていた。
市場といってもただの市場ではなく、主に見世物小屋――娯楽を求める富裕層や裏稼業に身を染める者たちが利用する闇市場である。
そこでは、人間を含め様々な珍しい生き物が売られているのであった。
閉じ込められた狭い水槽の中、気だるげに漂うローレライ――シリウスは、何もかもを諦めたかのように目を閉じ、何をするでもなく、ただ流されるままに瑠璃色の髪を揺らして水底に沈んでいた。
シリウスの心を支配しているのは自分を捕らえた人間に対する憎悪だった。
物珍しげに水槽を覗き込んでくる人間を忌々しげに睨み付ける。
人間なんか大嫌いだ。
これまで何度も買われ、飼殺されてきた中で目にしてきたのは、互いに偽り、欺き、傷つけ、陥れ、うわべだけを取り繕う醜い人間たちの姿だ。
人間は簡単に言葉を違え、心を違える。
あるときには笑いながら他者を蔑み、嘲り、それで潰れていく様を愉しみ、そこに自分の身の幸いを見出す。
じつにくだらない。
これほど醜い生き物がほかにいるものか。
帰りたい。海に帰りたい。
不機嫌も露わにイライラとしながら再度目を閉じたシリウスの耳に、静かな声が届いた。
惹かれるように思わず目を開ける。
「おやおや。これは非常に興味深いですね」
まるで真っ青な海を纏ったような男がいた。
「ローレライ、ですか」
そう錯覚したのは一瞬のことで、すぐにそれは男の着ている海のように深く青いコートのせいだとわかった。
故郷の海を恋しく思うばかりに目の錯覚を起こしてしまったのか。
水槽越しに、男の深海を想起させる紫紺の瞳と目があう。
男の口元が小さな笑みの形を刻んだ。
「あ~……旦那ぁ、そいつは確かに珍しい品物なんだが……わけありでな。安くしとくぜ」
「わけあり、ですか?」
商人と男が会話し始め、商談する声が聞こえてくる。
「ローレライのくせに、歌わねぇどころか一言もしゃべらねぇ。挙句の果てに、買主の言うことは聞かないわ、水をかけるわ、水槽に引きずり込んで溺れさせるわ、とにかく手が付けられねぇってんで、何度も返品されてきてんだ」
「……なるほど」
「加えて、この間返品されてきたさいに、左鎖骨にひどい火傷の跡拵えてきやがって……傷物になっちゃぁ値打ちが下がるってんのによ」
商人の言葉に舌打ちが漏れる。
まぎれもなく事実ではあるが、こっちだって生きるのに必死なのだ。
それを見せつけてやるかのように、脅しの意味を込めて、前の買主の目の前で、胸に刻まれた醜い奴隷の烙印を焼きつぶしてやったのだ。
そして狙い通りに返品されて現在に至る。
買われては、わざと買主の怒りをかって愛想を尽かされ返品される、その繰り返しだ。
人間などに屈するぐらいなら、死んだ方がマシである。
だが、そうしないで自分が何年も人の手に渡るのを繰り返す囚われの身でいるのには理由がある。
離れ離れになった同胞を探して会うためだ。
同胞に会いたいがために、これまで生き抜いてきたのだ。
それが今、シリウスの唯一生きる希望となっているのだ。
「では、私に売っていただけますか」
「……旦那。俺の話を聞いてたかい?」
「えぇ。聞いていました。手が付けられないほどじゃじゃ馬のローレライだと」
「それでも買ってくれんのかい?」
「えぇ。それでも買いたいのですが」
あぁ、また買われるのか。
憎々しげに舌打ちが零れる。
ホント呆れるくらい人間というのは馬鹿で、物好きな生き物だ。
もう、そろそろ買い手がつかなくなって海に捨てられるのを待ち望んでいるというのに。
あぁ、また見世物にされるのか。
水槽の底でうずくまる。
首につけられた鎖が忌々しい。
これさえなければ、さっさと逃げ出して、海へ帰っているというのに。
自らを拘束し自由を奪っている首輪が憎い。
グラリと水中に振動が伝わり、水槽が持ち上げられたことがわかる。
また、連れて行かれるのか。
グイッと強く鎖が引っ張られ、首が閉まりわずかに表情が歪む。
奴隷の扱い。
命あるモノとして、生き物として扱われない対応。
恨みがましげに鎖の先端を握る人間を睨み付けて、渋々水面に浮上しようとしたシリウスの耳に意外な言葉が届く。
「私が買い取ったのですから、あまり手荒な真似はしないでください。……ところで、首輪の鍵はありますか?」
「は? 冗談だろ旦那。どこにペットの首輪を外す飼い主がいるってんだい」
「……ないのですか?」
「あるわけねぇさ。こいつらみんな一生死ぬまで鎖つけて生きるんだからよ」
「…………そう、ですか」
感情を押し殺したかのような呟きに、シリウスは一瞬己の耳を疑った。
何かが違う。今までの人間たちと。何かが。
それは勘といってもいいほど不確かなモノ。
だから、シリウスはすぐに生じた感覚を振り払った。
気のせいだ、気のせい。
どうせ、こいつも今までの人間たちと同じ分類なんだ。
鑑賞用、自慢するための見世物。
珍しいというだけで手元におきたがる人間。
こいつもそうだ。
自分の欲のために、ローレライという珍しい生き物の自分を買ったに違いない。
自分を買う人間はだいたいそうだ。
商人と交渉していた男が水面に顔を近づけた。
男は、水面付近まで上がってきていたシリウスの瞳を見据えると、後ろの商人には聞こえないようにそっと囁いた。
「鎖は後で外して差し上げますので……窮屈でしょうが、もうしばらく我慢してください。――貴方のためにも」
俺のため?
いや、その前に、鎖を外すだと?
一体この人間は何を言っているのだろうか。
首輪が外れた途端、自分は一目散に逃げ出すだろう。
「貴方の名前は――?」
男の問いに、シリウスは答えない。
わずかに瞳に困惑の色をにじませながらも、精一杯の拒絶を込めて人間を睨み付けた。
直視しながらも、シリウスは男の存在に違和感を覚えた。
何に対する違和感なのかはわからない。
強いて言うなら、この男の存在は人間たちの中で浮世離れして見えた。
“その中”で“存在している”ことが“おかしい”とでもいうように。
シリウスの無言の圧力にひるむことなく、そもそも元から答えが来るとは期待していなかったのか、男は寂しげに微笑むと水槽から離れて行った。
「――」
離れ際、男が小さく独り言のように何事か囁いたのが聞こえた。
人よりも鋭い聴覚を持つシリウスの耳は、男から零れ落ちた言葉を拾う。
その言葉の意味が飲み込めず、シリウスが問うような視線を男に向けようとした時には、男はすでに背を向けて、仲間たちに指示を出していた。
「アトリアくん、カストルくん、カペラくん、シャウラくん。屋敷まで運んでおいてください。私は、仕事を片付けてから戻りますので」
メモ用紙を前髪の長い男に渡して、男は鮮やかな青いコートをひるがえして去っていく。
その様子がシリウスには、まるで波がうねっているように見えた。
あの男は一体“何モノ”だろうか。
シリウスに考えをまとめる暇を与えず、それからすぐに、男の指示通りに(誰が誰だかはわからないが)前髪の長い男を含めた四人の人間によって、シリウスは水槽ごと闇市場から運びだされていった。
四人の人間たちの手によって運ばれている間、男の浮かべた寂しげな儚い微笑が、何故だか脳裏から離れなかった。
そして、あの言葉。
――もっと早くに見つけてあげられなくて……すみません
去り際、男は確かにそう呟いていた。
***
見知らぬ屋敷に到着し、目元を隠すほど長い前髪が鬱陶しい男の指示により、無駄に広い屋敷――もはや玄関からどう進んできたのかわからない――の中の一室に運び込まれる。
開放感のあるガラス張りの天井、緑生い茂る外が見渡せる窓からは、日の光が存分に降り注いでくる。
外にいるかのような錯覚に陥りそうになる。
自分を閉じ込めていた狭い水槽から、これまた今まで転々としてきた富裕層たちのとは比べものにならないほど、広くて深い水槽――いや、巨大プールといってもいいかもしれない――に移された。
なんだこの屋敷。
あの男、本当に一体何者なんだ。
それだけじゃない。さらに驚いたことに、水槽の中の水が海水だった。
懐かしい、恋い焦がれた本物の海の水。
ふと、シリウスが意識を人間たちに向けると、重労働を終えた四人は物珍しそうに室内を見渡していた。
「ここに、こんな部屋があったなんて知らなかったなぁ」
癖の強い赤毛の男の言葉に、珍しい藤桃色の髪の女も同意するように頷く。
「うん。あたしも今初めて知った」
「アトリア。おまえ知ってたか?」
さらさらした若葉色の髪の男が問いかけ、前髪の男は首を振る。
「……いや。さっき教えられるまで知らなかった」
仲間も知らない部屋ってなんだよ。
つーか、部屋把握しきれないとか、どんだけ広いんだよこの屋敷。
シリウスが水の中で、閉じ込められていた狭苦しい水槽からの解放感を堪能していると、不意に軽く首の鎖が引っ張られた。
忌々しげに舌打ちして、渋々半分だけ水面から顔を出すと、前髪の男――確かアトリアと呼ばれていた――が鎖の端を握っていた。
視線を向けると、困ったような顔をされた。
「あの……首輪はずしますので、こっちきてくれませんか?」
は?
シリウスは驚愕に目を見開いた。
あれは冗談ではなかったのか。
本気でこの鎖から解放してくれるというのか。
シリウスは疑うように半眼になってアトリアを睨み据える。
「そうですよね、警戒しますよね……」
「え? 何? 飼うなら首輪壊さなくてよくね?」
赤毛の男の言葉に、アトリアは首を振る。
「はずしとけって、領主からの指示だ。……あと、カペラ。何か食べ物用意してくれないか。くれぐれもスピカさんにだけはやらせないようにと、注意書きが」
カペラと呼ばれた藤桃色の髪の女が頷いて、部屋から出て行く。
「つーか、なんでいきなり“こんなの”飼うことにしたの?」
こんなの、とはご挨拶だな。
ムカついたので、尾びれを振って赤毛の男に盛大に水をぶっかけてやる。
「シャウラ!?」
なるほど、このムカつく赤毛はシャウラという名らしい。
「大丈夫か?」
さり気なく避けて被害を免れていた若葉色の髪の男――消去法でこいつがカストルだ――が声をかけると、全身から水を滴らせたシャウラが吠えた。
「かわいくねー! コイツ全然かわいくねー! 生意気ー!」
「いや、おまえに言われたくはないな」
「とりあえず、着替えてこい」
覚えてろよ、と捨て台詞を残してシャウラが部屋を出て行く。
ざまぁみろ、と内心で嘲笑う。
「あの、気を悪くしたなら、謝ります。ですから、首輪……はずさせてくれませんか」
言葉づかいも丁寧だし、いやに下手にでてくるな、とシリウスは思った。
今まであったヤツらは、みんな傲慢で上から目線で、自分を“モノ”としてしかみてなかった。
だから、今までとは違うアトリアの態度にシリウスは戸惑う。
「というか、はずすっておまえ、どうやってとるつもりだよ。鍵ないんなら、ぶっ壊すしかないだろうけど」
「あ。そうか。壊す道具が必要だな」
「……じゃぁ、俺が取ってくるから、しばらく相手頼む」
ひらひらと手を振ってカストルが出て行った。
部屋にはアトリアとシリウスの二人だけになった。
それはそれで気まずい。
警戒して近寄ってきてくれないシリウスを困ったように見つめていたアトリアは、ふいに何かに気が付いたようにハッとした。
「……怪我、してますね」
言われてシリウスは眉を顰めたが、あぁ、とすぐに気が付いた。
胸の火傷のことだろう。
これは自分でつけた傷だし、あえて隠す必要性も感じないし、後悔もしてない。痛かったけど。
「救急箱、取ってきますね」
擦り傷じゃあるまいし、そんなもの持ってこられたところで、この傷跡が消えるはずもないのだが。
シリウスは自分を手当しようとするアトリアの行為に驚いていた。
今まで、怪我しようが体調崩そうが手当なんてされたことがなかった。
そういう扱いをされてきた。
「あ。部屋に鍵とかかけたりしませんから、安心してください」
は? 安心? 何故?
言われた言葉のわけがわからず顔をしかめたシリウスに、アトリアが付け加える。
「施錠して閉じ込めたりしないように、って領主からの指示なんですよ」
また、あの男か。
一体どういうつもりだ。
どんな意図でこいつらにこんな指示を出したのか。
「待っててくださいね」
そう言って本当に救急箱を取りに部屋を出て行くアトリアを、別にいらないのに、と思いながら引き止めるのも面倒なので、シリウスは何も言わずに見送った。
せいぜい無駄足を踏めばいい。
部屋から人間がいなくなり、ホッと少しだけ安堵を覚えたシリウスは改めて室内を見渡した。
呆れるほど広く、空間を贅沢に使った部屋だと思う。
そもそも、何のためにこんな部屋が存在するのか、謎だ。
普通に暮らしていて、まったく必要性を感じないこの大型水槽とか特に。
以前に、何かしら大型の海の生き物でも飼っていたのかと思ったが、アトリアたちの反応を見る限りその可能性は薄そうだ。
では、アトリアたちも初めて存在を知ったというこの部屋が、持ち主から忘れ去られた部屋だったかというと、その可能性も低い。
埃かぶったりあちこち痛んだりしているのならともかく、室内は綺麗に整頓されていて清潔感に溢れているし、水槽も綺麗だし、窓ガラスも天井もピカピカだ。
毎日誰かが掃除していないとおかしいくらいに。
消去法で、唯一この部屋の存在を知っていたとされる領主――あの青いコートの
男――が使っていると考えるのが妥当だが、やはり、何のために、という疑問が残る。
そこまで考えて、どうでもいいやと思考を放棄した。
自分には関係ないことだ。
今自分にとって重要なのは、今度はどうやって買主に返品されようかということだ。
頭の中の情報を整理しながら、久しぶりの海を全身で感じて水槽の中を漂っていた時、ふいに扉が開いて見知らぬ金髪の女が部屋に入ってきた。
――誰だこいつ?
警戒心を抱いて水槽の中から睨んでいると、キョロキョロと辺りを見渡していた女は、水槽の中にいるシリウスに気が付いて近寄ってきた。
「……本物のローレライ」
初めて見たとばかりに、まじまじと見つめられる不快感にシリウスは舌打ちする。
水でもなんでもぶっかけて、さっさと追い出そう。
そう考えたシリウスは、そこで何気なく彼女が手に持っているお盆の上の物体に目をやって――息をのんだ。
なんだ、あれは。
なんだ、あの黒い物体は。
世にも恐ろしげなものを見るような目をしたシリウスを見つめて、女は謎の物体が乗ったお盆を手に告げる。
「食事を用意してきたわ。食べられる?」
シリウスは一瞬、聞き間違えたのかと思った。
まじまじと女を――その手にあるお盆の上を見た。
白い皿の上には、どす黒い重量感のある謎の物体が山のように盛られている。
今、この女はなんて言った?
食事? 食事って言ったのか?
食べられるかって? 食べられるわけないだろそんなもの。というか食べたくない。絶対。
カペラとかいう女はどうした? アイツが何かしに行ったんじゃないのかよ。
つーか、あれが“食べ物”だとでも言うのか……!?
残飯でなく? それとも失敗作とか、そういうあれか?
いや、もう何でもいいけど、とりあえずそんなもんを食わせようというのか。
知らず内心で落胆したようなため息が零れる。
やはり、ここでも俺は“人並み”な扱いはされないということか。
別にもう慣れたし。期待してもいなかったけど。わかっていたことだけど。
というか、殺す気か。
シリウスの心中などつゆ知らず、階段を上り水槽上部の踊り場へ上がってきた女は、膝をついて水面を覗き込む。
本能的な身の危険を感じたシリウスが水底に逃げようとした時、勢いよく扉が開いて、アトリアが慌てた様子で戻ってきた。
「スピカさん……!?」
名前を呼ばれた女が振り向いて、部屋の入口に視線をやる。
なるほど、さっき言っていたスピカというのはこの女のことか、とシリウスは理解する。
「どうした、アトリア?」
スピカの声に、慌てた様子で階段を駆け上がって踊り場にやってきたアトリアは、息をつきながら答える。
「いや、それはこっちのセリフです。どうしてこちらに……」
アトリアの視線がスピカの持つお盆の上に向けられる。
「領主がローレライを購入したと聞いたから、様子を見に来たのだけど……何か問題でも?」
「いや、問題というか……」
そのお盆の上の方が問題です、とアトリアが小声で呟く。
スピカとアトリアの押し問答が始まったのをぼんやりと聞き流していると、シャウラ、カストルが戻ってきてしまった。
階段を上って踊り場にやってきた二人を見て、シリウスは苛立たしげに舌打ちする。
人間と同じ空間にいるだけで息がつまりそうだ。
さっさと一人にしてほしい。
つーか、出てけ。この部屋から。
アトリアとスピカの間に割って入ったカストルが、スピカに問いかける。
「スピカさん、今回の件、領主から何か聞いていないのですか?」
「いや、領主からは何も……実物を見て私も驚いている」
首を振って否定を示したスピカに、アトリアも困ったように呟く。
「……いつものアレってことですね」
「そうね、いつものアレかと……」
諦めたようなスピカの呟きにシャウラがおどけた調子で答える。
「あっ、もしかしてこいつ使って、新勢力を押さえようとかいう、作戦じゃないですか」
「どういう意味だシャウラ」
アトリアの問いに、濡れないように警戒しているのか、水面からやや距離をとったシャウラが忌々しげにシリウスを睨んで答える。
「だって、こいつローレライなんでしょ? それってあれじゃん、航海者を美しい歌声で惹きつけて、難破させるとかいう海の魔物だろ」
シャウラの言葉にシリウスは内心で反論を唱えた。
それは違う。それはセイレーンのことだ。
この間違いは聞き捨てならない。セイレーンなんかと一緒にされたくはない。
ローレライは歌うことが好きなだけだ。その歌声を聞いた人間たちが勝手に事故っていくだけで、こっちは何も悪いことはしてない。舟の沈没が自分たちの歌声のせいだなんてとんでもない。いい迷惑である。
だが、セイレーンは違う。彼らは悪意をもって、人間たちを歌声で惹きつけ故意に舟を難破させている。自分たちとは異なる本物の海の魔物だ。
だから、そんな奴らと自分たちを同一視しているシャウラの言葉は許せない。
シリウスが舌打ちとともにきっちり反論しようとした時、静かな声が響いた。
「――それは違いますよ」
その場にいた全員が声のした方を振り向いた。
部屋の入口に、青い海を纏った――いや、違う。青いコートを着た男が佇んでいた。
「領主!」
「いつお戻りに……!」
「つい、今さっきですよ」
そう答えて、男がゆっくりと部屋の中へ入ってくると、スピカたち四人は急いで踊り場から下へ降りていく。
水槽前に佇む男は、降りてきたシャウラを見据えると、淡々とした声音で訂正する。
「航海者を美しい歌声で惹きつけて、難破させてしまう海の魔物は、ローレライではなく、セイレーンというのですよ、シャウラくん」
「何が違うんですか」
やや気圧されたようにしながらも返したシャウラに男は答える。
「ローレライは、海を渡る舟に歌いかける美しい人魚たちのことをいうのですよ。人魚たちの歌声を聞いたモノは、その美声に聞き惚れて、舟の舵を取り損ね、海底に沈んでしまうらしいですが。それは人間たちの自業自得というものです」
シリウスは驚いた。
まさか、この男がこんなこと言うなんて想像もしていなかった。
自分たちに対するそれなりの知識はあると言ってもいい。
「でも、やってること同じじゃないですか」
納得していないとばかりに言うシャウラに、男は即答して否定を示す。
「違いますよ。セイレーンは悪意をもって故意に沈没させていますが……ローレライは、ただ好きで歌っているだけなのですよ。ましてや、舟を沈没させるつもりなんて」
そう言った時、男が一瞬だけ市場で垣間見せたあの寂しげな儚い微笑を浮かべたのをシリウスは見逃さなかった。
――ローレライは、ただ好きで歌っているだけなのですから
腹立たしいが、男のその言葉は心に響いた。
まったくもってその通りだからだ。
やはり、この男は今までの買主とは違う。
何が違うのかなんてわからないけれども、断言できる。
それに――水槽越しに人間たちを眺めていて、シリウスは違和感に気が付いた。
市場でも感じた、男の存在に対する違和感。
気のせいだと打ち消した考えだが、落ち着いた状況で改めて男を観察しているとよくわかる。
この男の存在だけが、どうしても人間たちの中で浮いて見えるのだ。
“そこ”に“存在”していることが“おかしい”のである。
男には、アトリアを始め仲間らしき人間が何人もいるようだった。
今目の前で、男はスピカ、アトリア、カストル、シャウラの四人に囲まれて会話しているけれども、そんな中で――傍に仲間がいるというのに――男が孤独に見えるのは何故だろう。
仲間と一緒にいるのに、まるで独りでいるような。
一人だけ溶け込めていないような、そんな違和感が――
ふいに振り返って水槽を見た男は、中で揺蕩うシリウスに視線を向けるとわずかに眉を顰めた。
「……おや。アトリアくん。まだ首輪をはずしてくれていなかったのですか」
「あ……申し訳ありません。警戒されて、近づいてくれなくて……」
うな垂れるアトリアに、シリウスは舌打ちしながらそっぽを向く。
首輪をはずしてくれるのはありがたいが、そもそも人間なんかに触れられたくない。
というか、この男は本気でこの拘束から解放してくれる気だったのか、と再確認したシリウスは驚くとともに内心で困惑した。
「……困った子ですね。まぁ、仕方のないことかもしれませんが」
男はそう小さく呟くと、アトリアたちに向き直って告げる。
「後のことは私がやります。君たちは、いつもの仕事に戻ってくださってかまいませんよ」
「ですが、領主……」
「……あぁ、それと。しばらく、この部屋に入らないように、皆に伝えて頂けますか」
有無を言わさぬ口調で、薄く微笑みながら告げる男に、言葉を飲み込んだアトリアたちはすぐに返事をすると大人しくその言葉に従った。
部屋にはシリウスと男だけが残った。
アトリアたちが出て行くと、男は一瞬躊躇したものの部屋の鍵を閉めた。
仲間には施錠しないように言っておきながら、自分がそれをしているとは。
ついに本性でも表す気か、と身構えるシリウスに近づいてきた男は、深い海の底のような紫紺の瞳で見据えながら問いかける。
「――よろしければ、貴方の名前を教えて頂けませんか?」
は? とシリウスは思いっきり顔をしかめた。
それは市場で出会った時にも聞かれた。
その時シリウスは答えなかったが、今も変わらず答える気はないので黙りこくる。
つーか、人に名前聞くなら自分から名乗れよ、と思いつつ、何故そんな無駄なことを聞くのだろうと不信感をあらわにする。
沈黙したシリウスに答える気がないと悟った男は、静かに目を伏せると小さく微笑む。
「でしたら、“スバル”と勝手に呼ばせて頂きます」
いや、勝手に命名すんなよ、と内心でつっこむ。
「では、私のことは――そうですね……“リンドウ”とでも」
何だそのふざけた名前は。バカにしてんのか。
男の真意がわからずシリウスはイライラしてきた。
瞳に苛立ちをにじませながらも、水槽越しにシリウスは男を観察する。
やや細身で長身、青みがかった黒髪に、自分と同じくらい色白の肌。
整った鼻梁に、細い顎、薄い唇。深海の底を彷彿とさせる紫紺の瞳。
眼鏡をかけた知的な表情は人間の中でも、容姿端麗の部類に入るだろうし、今までの買主とは比べ物にならないくらい――いや、比べることすら間違っているかもしれないが――整った容姿といっても過言ではない。
同じくらいそれなりに整った容姿の貴族だった買主もいたにはいたが、漠然とこの男には及ばないなと思う。
強いて言うならこの男の浮世離れした雰囲気か。
男は階段で水槽上部の踊り場に上がってくると、透き通る水面の下を覗き込むように、膝をつく。
「スバルくん。首輪をはずすので、こちらへ来てください」
そう領主に――リンドウと呼ぶのがなんか気に入らない――手招きされるが、シリウスは警戒の色をにじませて近づかない。
「……そう警戒しなくても、取って食うようなことはしませんよ?」
初対面でふざけた偽名を名乗るような奴を警戒しないほうがおかしい。
それに、今まで会ったどの人間とも異なる態度、対応をとるこの領主のことがシリウスは気に入らない。
よし、決めた。
どうやって、この領主に自分を返品させるかと考えていたが、やはりこれが一番効果があると思っている。
水槽に引きずり込んで溺れさせてやる。
これで大体の買主は怒り狂って、自分に愛想を尽かし返品してくれた。
今回もこの手でいこう。
こんな広くて深い水槽を自分に与えたことを後悔すればいい。
内心で嘲笑いながら、シリウスは手招きする領主にそろりと泳ぎよる。
少しは心を開いてくれたと思ったのか、近寄ってきてくれたシリウスに領主が安堵したように微笑む。
シリウスのたくらみに気が付かずに。
鎖に繋がれた首輪に、そっと伸ばされる細い色白の腕。
次の瞬間、シリウスは伸ばされた腕を強く掴むとぐいっと引っ張り、水の中へ引きずり込む。
「――!」
不意を突かれた領主は、バランスを崩して水槽の中へ落ちる。
水泡がシリウスの視界を覆い尽くす。
領主のものと思われる眼鏡が水底に沈んでいく。
さて、この人間は水の中でどれくらいもつか。
すぐに浮き上がられてもつまらないので、領主の腕は掴んだままだ。
人間ごときに大人しく飼われてたまるか、と内心で呟いた時、シリウスの耳に静かな声が届いた。
「…………やれやれ」
え、どうして、水の中なのに声が……いや、そもそも誰の声――
やがて、周囲を覆っていた白い水泡が消え、目の前に飛び込んできた衝撃の光景にシリウスは驚愕した。
「あ、んたは……」
開いた口がふさがらないとはまさにこのことだ。
絶句するシリウスに、掴まれていた腕を離された領主は呆れたように告げる。
「……いけない子ですね。普通の人間にこんなことをしたら、愛想を尽かされてしまいますよ」
まぁ、君はそれが狙いなのでしょうが、と呟いて領主は――“尾びれ”を揺らしながら、困ったように微笑んだ。
そう“尾びれ”だ。
青いコートの下から覗くのは、人魚の特有の“それ”。
領主の腰から下が二本の足ではなく、魚の尾びれになっていた。
「なっ……どう、いう」
「バレてしまったのなら、隠す必要もありませんね……いえ、君にはこうでもしないと心を開いて頂けそうになかったかもしれませんね」
紫紺から濃い蒼色に変化した領主の瞳がシリウスを捉える。
よく見れば濃紺だった領主の髪の色も、今や長く伸び、鮮やかな蒼色に変化していた。
スッと腕が伸びてきて、鎖に繋がれた首輪に触れる。
「そうです。私も君と同じ――ローレライです」
水中で、領主が手にしたナイフが煌めいて、首輪の鍵穴に突き立てられた。
元からもろくなっていたのか、それとも領主の手腕が素晴らしかったのか、長年シリウスを拘束していた首輪が壊された。
ずっと忌々しいと思っていた首の違和感がなくなった。
首輪から解放されたことは素直に嬉しい。
しかし今は、その喜びよりも目の前の領主がローレライであるという事実に対する驚きの方が勝った。
「あ。……スピカくんたちには、内緒にしておいてくださいね?」
申し訳なさそうに懇願されて、あぁ……彼らは領主の正体を知らないのか、とシリウスは理解した。
だから、部屋の鍵をかけたのか、と今さらながら納得する。
まぁ、領主が自分の正体を隠す理由はわからなくもない。
人間に正体がバレるといろいろと面倒だということは、シリウスが今現在身を持って実証している。
それと、自分が領主に抱いていた違和感が正しかったことをシリウスは確信した。
けれども、
「なんで、人間のフリなんて……」
どうして、人間に混ざって地上で生活しているのかがわからない。
シリウスだって人の足になって、陸を歩くことはできる。
できるが、そのまま陸で人間のフリをして生活し続けようとは思わない。したくもない。
困惑したシリウスの問いに、一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべた領主だが、すぐにごまかすように微笑んだ。
「まぁ、いろいろと事情がありまして」
答えをはぐらかされる。
深く追求する気もなかったが、なんだかおもしろくない。
「強いて言うなら……君のように、人間たちに囚われた同胞を助けるため、ですかね」
その言葉は嘘ではないのかもしれない。
現にシリウスは、この領主に買われてここにいるのだから。
だが、それだけではないような気がした。
もっと何か、大きな理由を彼は隠しているとシリウスは感じた。
本心を隠されたことがおもしろくなくて、やや不満げな表情のシリウスに、領主が告げる。
「さて、これで君は自由の身ですよ」
改めて言われてシリウスは、首をさすりながら、そこに何もないことを確かめ、あぁ本当だな、と実感した。
それから、ついと水槽底にある排水溝を指し示した領主の口から予想外の言葉が続く。
「ここから先は海まで続いています。水槽の水は海から直接引いているのですよ。ですから、そこを通っていけば、君は海へ帰ることができます」
領主の解説にシリウスは高揚する気持ちを宥めた。
「もう、君を縛る鎖はありません」
海に帰れる。
その事実がたまらなく嬉しかった。
領主は水面に浮上すると陸に上がる。
尾びれは、瞬く間に二本の足に変わった。
目元に手をやって、そういえば眼鏡がないということに気がついた領主は、仕方なく手をおろし、水面に浮上していたシリウスを見つめると、優しく微笑みながら静かに囁いた。
「……どうぞ、いつでもここから逃げてかまいませんからね」
もう二度と、人間には捕まらないように気を付けてくださいね、そう言って領主は水槽から離れた。
遠ざかる青いコートの背中を見送ったシリウスには、先ほどの微笑みが、何故だか寂しげな、あるいは泣きそうな表情に見えた。
部屋には、シリウス一人になった。
領主に言われた言葉が、頭の中で反復される。
首輪を外してくれた上に、逃げてもいいと言う。
まさか、こんなチャンスが訪れるとはシリウス自身思ってもいなかったし、想像もしていなかった。
領主の正体が同胞だったことは、もう驚き以外の何ものでもないが、そのおかげで長年の囚われ生活から解放されたのだ。
言われなくても、さっさと逃げ出してやるつもりだった。
これで、離れ離れになった同胞に会いに行けるのだから。
そう思ったのに、何故だか気が進まない。
すぐそこに、海へとつながる道があるというのに。
今すぐにでも泳いで行きたい。
そこを通れば、懐かしの海へ帰れるのだ。
だが――シリウスはそうしなかった。
それは、おそらく……大人しく彼の言うとおりにするのが癪だったのと、彼が市場で、そして今さっき見せた、あの哀しげな表情が気になったからかもしれない。
「……てか、疲れてるし。いつでも逃げていいんなら、ちょっと静養してからでもいいか……」
かくしてシリウスは、しばらくの間滞在することに決めたのであった。
***
「おや、スバルくん。まだいれくれたのですね」
翌日、部屋を訪れた領主は、水槽の中にシリウスの姿を見とめて、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
視線を向ければ、髪と瞳の色は出会った時の色、濃紺と紫紺に戻っていて、長かった髪も元通り短くなっており、昨夜水中で見た姿はやはり幻だったのかと疑いたくなる。
「いちゃ悪いですか」
不機嫌そうに返したシリウスに、領主は首を振る。
「いいえ、そんなことはありませんよ。とっくに、いなくなっていると思っていたもので」
あんたの言うことを聞くのが癪だったから、とシリウスは内心で呟く。
領主はシリウスが海に帰ったかどうか、確認しに来ただけらしい。
すぐに、仕事があるので、と踵を返して部屋を後にした。
退出間際に、そうだ、と振り返ると水槽の中のシリウスに声をかけた。
「君の世話は……今日はベガくんたちに任せましょう」
そう言い残して、領主は去っていく。
残されたシリウスは、さて今日一日どう過ごすかを考えた。
ベガ……とか言っていたが、昨日いたヤツらじゃないな。
また知らない人間が部屋でうるさくするのかと思うとうんざりした。
やっぱり海に帰ろうか、とシリウスが考え始めた時、部屋の扉が開いて騒々しい声が響いた。
ぞろぞろと現れた四人は、水槽の中のシリウスを見とめて声を上げる。
「うおっ!! マジで人魚だ!?」
「うわー……僕初めて見たかも」
「……俺、想像してたのと違ぇんだけど」
「え、どんな想像してたわけ?」
「んふふ……ミルザムは、おとぎ話の人魚姫をイメージしてたのよねェ」
「あっ、俺も昨日までは、金髪美女の人魚を想像してた!!」
「けど、昨日シャウラさんがイメージぶち壊してくれたからね」
うるさい灰色の髪のやつに、ワカメ頭のやつに、おっとりした声の女に、夕陽色の髪のやつ。
とりあえず、何、誰、うるさいから、即刻消えろ。
不快感も露わに睨み付けるシリウスを気にすることなく、四人は踊り場に上がってくる。
ワカメ頭がお盆を置いた。
「朝食ですよ」
そう言われて、こいつら領主の言っていた今日の世話係か、と理解する。
四人とも昨日は見なかったメンツだ。
踊り場から距離をとりながらも、水面から顔を出したシリウスを見つめて、うるさい灰色髪が律儀に名乗った。
「えっと、スバル、さん、でいいんスかね?」
やめろ、その名前。あのクソ領主ふざけた名前を広めやがったな。
「一応初めまして。俺は、ベガ。で、こっちから、リゲル、ミルザム、ミラ」
このベガという男からはシャウラと似たような匂いがする。同類か。つまりは、ムカツク分類か。
半眼になってベガを見据えるシリウスに、隣のワカメ頭が挨拶する。
「リゲルです」
続いて不審そうにシリウスを見やりながら、夕陽色の髪が言う。
「ミルザムです。……てか、自己紹介する意味あんの?」
最後に、ニコニコと微笑みながらおっとりした声の女が言う。
「ミラです。んー……まぁ、形式、ってことでいいんじゃない」
適当だなおい、と内心でツッコミながらシリウスは四人を見やる。
「すげー本物の人魚だよ」
「正確には、ローレライ、だけどね」
興奮したように言うベガに、リゲルが訂正を入れる。
「相変わらず領主の考えてることってわかんねぇよなー」
「んふふ……むしろわかる人がいたらすごいよねェ」
ミルザムとミラがしみじみと呟くと、ふいにベガが水面に身を乗り出すようにして、シリウスに声をかけた。
「人魚ってすげー歌上手いんスよね! なんか、歌ってくれないっスか!」
ベガの申し出にシリウスは思いっきり顔をしかめた。
冗談じゃない。
誰が人前で歌うか。ましてや人間なんかのために。
シリウスはそっぽを向いて水中に潜った。
「あっ、行っちまった……」
「昨日シャウラさんが言ってた通りだね」
「うわ、かわいくねー」
「んー……まぁ初対面で警戒されてるだろうしねェ」
のんびりとした口調でミラが言うと、何か決意したような顔でベガが立ち上がった。
「よし、決めた。俺、人魚と仲良くなって歌を聴かせてもらう」
「え、何、いきなり、どうしたの」
「どうでもいい決意だな」
「んふふ……そう簡単に仲良くなれるかな」
すぐには無理だろうなぁ、と思いながら三人が見守る中、ベガだけはやる気に満ち溢れていた。
シリウスは自分の予想が間違ってなかったと思った。
昨日のシャウラ並みにメンドクサイ奴が現れたなと、ベガを思い出しながら気だるげに水中を漂う。
できれば、人間とは関わりたくない。放っといてほしかった。
やっぱり、さっさと海へ帰ろうか、と考えるたびに、シリウスの脳裏に浮かぶのは、領主のあの寂しげな微笑みだ。
それを思い浮かべてしまうと、何故だか帰るに帰れなくなる。
苛立たしげに舌打ちしながらも、もう少しだけいてやるかと、シリウスは思うのであった。
その日から日替わりで変わる面々が、朝昼晩と食事を持ってくるようになった。
領主が指示したのだろう。
世話係の順が回ってくるたびに、ベガには歌をせがまれ、シャウラには悪態をつかれ、アトリアやカストルの嘆きを聞いたり、ミラのズレた言動に頭が痛くなったり、スピカの料理テロに恐怖したりした。
けれども、それからずっと、朝に本当に時々顔を出すくらいで、シリウスはしばらく領主とはまったく顔を合せることがなかった。
その代りに、日替わりで世話係の面々とは、一日の大半顔を突き合わせていた。
慣れてきたとはいえ、うんざりもしてきた。
不本意ながらも、この領主のもとで過ごしてきた中、シリウスはたびたび思った。
ムカツク。
世話係が、スピカやシャウラだった時とかは最悪だ。
だが、それよりもシリウスをイライラさせているのが領主だ。
普段めったに会うことはないのだが、その限られた少ない時間の中で対面するたびに思う。
ムカツクやつだと。
何にムカついているのかはわからないけれどもムカツク。
何が気に入らないかと言うと、彼の表情が気に入らない。
含み笑い、作り笑顔、嘘くさい笑み。そして、垣間見せる寂しげな微笑み。
何でそんな顔をするのかわからない。
それに、自分の本心はさらけださないくせに、こちらのことはまるですべてお見通しだというばかりの余裕のある表情が気に入らなかった。
常日頃からスピカを始め仲間たちもぼやいているが、この領主は何を考えているのかわからない。
わからないということに苛立ちを覚える。
この男の何もかもが気に入らない。
***
領主に買われてから、もうどれくらいの月日が過ぎただろう。
天井から降り注ぐ月の光が、水面に反射して幻想的に輝く。
シリウスは水面を仰向けに漂いながら、天井の月を見上げた。
夜になると、月を見上げなら水面を漂うのが最近のシリウスの日課だった。
見上げる夜空は多くの星に彩られていて綺麗なのに、気分は少しも晴れない。
胸中に燻るわだかまりを自覚して、シリウスは苛立たしげに舌打ちした。
こういう時は歌を歌うに限る。
イライラした時や息苦しさを覚えた時、悩みがある時、悲しい時などは、無性に歌いたくなるのだ。
言葉にできない心中を歌にしてさらけ出す。
部屋に誰もいないことを確認して、小さく息を吸う。
――Ah…
静かに、そっと囁くように歌を紡ぎだす。
――LaLaLa…
輝く月を見上げて水面を漂いながら、言葉を歌にして旋律を奏でる。
燻っていた心に凪が訪れる。
歌うことで、心の中がスッキリとしたような軽くなったような気分になるのだ。
――LaLaLa…
部屋に誰もいないことをいいことに、思いのままに歌い続けた。
人間に囚われてから、長年歌うことをやめていた。
人間の前で、歌うことも話すことも拒否していた。
けれど、歌い方を忘れたりはしていなかった。
離れ離れになった友を思い出す。
前は、友と二人でよく歌ったものだ。
もう、どれくらい前のことになるのか。
よかった、俺はまだ歌える。
無意識に安堵した時、シリウスは室内に自分以外の気配があることに気が付いた。
とっさに歌うのをやめて水中に潜る。
水槽越しに、部屋に入ってきた領主の紫紺の瞳と目があった。
領主が小さく微笑みながら言う。
「どうぞ、かまわず続けてください」
嫌です。
人前で歌うつもりはない。
いや、この男は人間じゃないけど。人間のフリをして陸で暮らしている同胞だけれども。
苛立ち交じりの表情で舌打ちする。
くそっ、この男の気配はわかりにくい。
入ってきたことに気が付けなかった。
「おや、残念ですね……素敵な歌声でしたよ」
しかも聞かれてるし。
水槽の向こうで領主が心底残念そうな顔をしたので、シリウスは表情を苦々しげに歪める。
「……そんな顔でこっち見ないで下さい」
「ふふ……久しぶりにローレライの歌を聴きました」
どこか遠くを見るような目で、懐かしそうな表情になった領主を横目に、シリウスは舌打ちする。
領主は階段を上って、水槽上部の踊り場にやってきた。
浮上して水面に顔を出したシリウスは、踊り場に座り込んだ領主をふて腐れたように見据える。
「自分で歌えばいいじゃないですか」
あんたもローレライでしょうが、と呟いたシリウスに、領主は困ったように微笑んだ。
「……私は歌えないローレライなのですよ」
「音痴なんですか」
それはローレライでは珍しいかもしれない。
「いえ、そういう意味ではなくて」
シリウスの考えをあっさり否定して、領主はシャツの襟元を広げて見せる。
さらけ出された色白の細い首には、真横に一直線に引かれた傷跡があった。
思わず息をのんだシリウスに、領主は静かに語る。
自分も最初は人間に捕まって陸に来たのだと。この傷は囚われた際に刻まれたもので、危うく死ぬところだったけれども、何とか生き延びたこと。シリウスと同じように市場で売られたが、すぐに脱走したこと。その際に助けてくれた親切な人間がいたこと。そして今、人間社会に紛れ込んで、自分のように人間に囚われた同胞を見つけては、逃がしてやっているのだということ。
淡々と語る領主に、シリウスは何も言えなかった。
特に返事は期待していなかったのか、領主は首元に手をやりながら天井の向こうで輝く月を見上げた。
「だから私は、歌えないのですよ」
小さく囁かれた彼の声が、静かな空間に反響した。
***
それから、領主は夜中になるとちょくちょく部屋を訪れるようになった。
どういう風の吹き回しだ、と思わなくもないが、とりあえず受け入れている。
歌をねだられるのだけは本当勘弁してほしいが。
どうでもいい話をずっと語る日もあれば、ただ黙ってそこにいるだけの日もある。
けれども時々、ひどく疲れた様子でやってきた日があった。
そういう日は大抵、かすかに残る硝煙と――血の匂いを彼は纏っていた。
少しだけやつれた表情で彼はやってきた。
「……まだ、いてくれるのですね」
いつでも海に帰ってかまわないのに、と呟く声音がシリウスには安堵しているように聞こえた。
「…………あんたに言われた通りにするのが気に入らないんで」
「そうですか」
彼はそう言って疲れたように微笑むのだ。
いつものように、階段で水槽上部の踊り場へあがり、水面近くで座り込む。
しかし、その日はいつもと違って、彼は膝を抱えてその上に顔をうずめると、いつも見慣れた凛とした佇まいは成りを潜めて、頼りなく小さくなったように見えた。
二人とも何も言わない。
シリウスも何て声をかけたらいいのか、言葉が見つからなかった。
室内は静寂に包まれる。
憔悴しきったその姿は、見ていられなかった。
慰める方法なんて知らない。そんな義理もない。けれども胸が痛い。
胸中にわだかまりが広がっていく。
そんな時は、こうする以外の方法をシリウスは知らない。
シリウスは水面から顔を出すと、小さく息を吸った。
薄い唇が開いて、透き通るような美しい旋律を紡ぎだす。
――Ah…
ローレライの歌声は、美しく高く澄みわたり、空間に浸み込むように響き渡る。
領主は驚いたように顔を上げてシリウスを見つめた。
天井と窓から降り注ぐ月の光が幻想的に水面を照らし、シリウスの姿をスポットライトのように浮かび上がらせる。
祈りを込めて、思いを歌に乗せて、旋律を奏でる。
――LaLaLa…
慰めるように、安らぎを与えるように、優しく、声が響き渡る。
静かに、それは空間を満たすように、歌声が空気に溶けるかのように部屋中に染み渡る。
歌いながらも、シリウスは領主の傍へと泳ぎ寄ると、そっと彼の頬に手を伸ばした。
冷たい指先に目元をぬぐわれ、そこで初めて領主は自分が涙を流していたことに気が付いて、驚いたように目を瞬かせた。
どれだけねだられても、ベガたちの前では歌わなかったけれど。
彼の前でなら一回くらい歌ってやってもいいかと思った。
歌えない彼の代わりに、ローレライの歌声を聞かせてあげてもいいかと思った。
人間に囚われてから、この陸で一度も歌ったことはない。
買主に強要されても頑なに拒み、言葉を話すことさえ拒否していた。
だから、人前で歌を歌うのは、故郷で戯れにあいつと歌っていた時以来、とても久しぶりのことだった。
――LaLaLa…
降り注ぐ月の光の下で、水と戯れながらローレライが歌う。
聞き入っているのか、眠ってしまったのか、再び膝に顔を埋めた彼は微動だにしなかった。
けれども、かまわない。
ただ、無性に、歌いたかった。
シリウスは、彼のために、歌いたかった。
少しでも彼を癒すことができるなら。
踊り場まで泳ぎより彼の傍に近づくと、シリウスは優しく彼を見つめながら、そっと囁くように旋律を紡いだ。
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