暮しの手錠

オニキ ヨウ

暮しの手錠

かな子

 たまにはランチしない? と誘われ、仕事を抜けだしてあゆ美に会った。

 待ち合わせ場所は会社近くのカフェ。久しぶりに会うあゆ美は、シフォンで出来たピンク色のワンピースを着ていた。学生時代は幼稚に見えた童顔も、三十代に入ると年不相応な若さに変化するらしい。スーツ姿が板につき、年々目元のクマとシワが深くなって行く私とは対照的たいしょうてきに年を重ねれば重ねるほどあゆ美は生き生きと若返っているように見える。

 少女のような外見の、あゆ美の隣にベビーカーが置いてある。日よけ屋根の下、昨年生まれたばかりの心奈ここなちゃんがすやすやと眠っている。

「どうしてもかな子に話したくて」

 挨拶もそこそこにあゆ美は言った。肌綺麗だな、と私は思った。旦那の金で、エステとか行ってるんだろうな。

「深刻な顔して、何かあったの?」

 大変なの! とあゆ美は握りしめた両拳りょうこぶしを空中でぽかぽか動かす。私にはとてもできない、可愛い仕草だ。

「聞いてよ、かな子。けん太くんがね、お皿を洗ってくれないの。赤ちゃんが生まれたら家事を分担しようって約束したのに、仕事から帰ってくるなりビール飲んですぐ寝ちゃうの。結局、あたしが洗い物やゴミ出しをすることになるのよ。これじゃ出産前と同じよ」

「……話ってそれ? まさか、それだけのことで私を呼んだの?」

 震える声で私は言う。これを嵐の前の静けさと人は呼ぶ。

 あたかも自殺しそうな声で呼び出しておきながら、話の内容といえば家庭の愚痴ぐち。 勘弁してよ。激しい苛立ちが私を襲う。忙しいのよこっちは。締め切りや打ち合わせの合間を縫って親友のピンチに駆けつけたのに、人をなんだと思っているの。

 悠々自適ゆうゆうじてきな専業主婦とは違って、こっちはストレスと戦いながら、男だらけの世間を渡っているのよ。この年になると同僚の男どもから全く女として扱われないのに、変なところで「女のくせに生意気だ」とか「その気の強さのせいで嫁に行けないんだ」とかセクハラまがいのいちゃもんをつけられるの。

 あゆ美には分かんないでしょうけれど、男の嫉妬しっとって女のそれより根深いものよ。容姿が良くても頭が良くても、嫁に行けないっていう理由だけで袋叩きにうんだから。たとえパートナーが出来たとしても、「こんなに働き詰めで旦那が可哀想だ」って言われんのよ。働く女を叩く理由なんていくらでも見つかる。どの道を選んでも茨だらけ、行きつく先は袋小路よ。

 後輩に注意の一つもすれば、ウザいお局さん扱い。若い女子社員が給湯室で私の悪口を言っていたわ。私の指摘が細かすぎるんですって。私だって好きで怒っているわけじゃないのよ。大雑把でいい加減な仕事をするから仕方なく怒っているんじゃないの。

 男も敵なら女も敵。役職に就いた行き遅れの独身女に味方は誰もいないのよ。この四面楚歌しめんそかをあんたは味わったことないでしょうね。男の作る日傘の中で、呑気に暮らしているあんたにはね!

 あゆ美に対する怒りの矛先は、学生時代までさかのぼった。要領の良いあゆ美は何かにつけて言い訳をして、掃除当番をサボったり、委員会を休んだりしていた。それなのに大抵の悪事はご愛嬌で済まされてしまうのだ。彼女の穴埋め・尻拭いをするのはいつも私の役目で、あゆ美の代わりに叱られた思い出は数知れない。

 どうしてこの年まで友情を紡いできたのだろう。もう我慢できない。十数年来、腹の内に抱えた鬱憤うっぷんを晴らさせてもらおう。ついでに仕事で抱えたストレスもぶつけてやれ。今日を境に切れる縁だ。

 ストッキングのつま先にみたいに、びりびりに裂けるまで使い倒してやるんだから!



あゆ美

「人を呼び出しておいて何言ってんのよ! 私は忙しいの! あんたの家族の十倍くらいの数の部下を抱えているのよ。そんなちっぽけな問題くらい、自分で解決しなさいよ。あんたはいつだって私の仕事を増やして、私に迷惑をかけて、いったい何様のつもりなの? これ以上、私を苦しめないで!」

 キィー! とヒステリックに怒鳴りまくるかな子を見て、ごめん、ちょっと笑っちゃった。

 バレたかな。バレてないよね。かな子って、勉強ができる割に周りが見えてないところがあるから。きっと要領が悪いんだよね。美人で性格も良いのに、なぜか彼氏が出来ないタイプ。今だって高級スーツをばっちり決めているかな子は、完璧すぎて男の付け入る余地がない。カッコ良いといえば、カッコ良いんだけどさ。

 ま、そんなことはともかく、最初からあたしも臨戦態勢りんせんたいせいで来たんだよね。旦那のストレス発散に、クソ真面目なかな子ちゃんと言葉の殴り合いをしに来たわけ。社会的動物とはいえ人間も動物だから、定期的に心に溜まった闘争本能を発散させないと体に悪いわけよ。

 そもそも気立てが良くて滅多にキレない世渡り上手なこのあたしを、ここまで追い詰めたのは無能な夫と、デリカシーのない夫の家族。夫のけん太くんは、いい年こいてお義母かあさんとお義姉ねえさんたちの言うことには逆らえない、典型的な末っ子の長男。お金持ちそうだからって、封建的ふうけんてきな家庭に嫁いだのが一巻の終わり。心奈が生まれる直前まで、義実家の集まりには強制参加、みんなが食べ散らかした食器の後片付けをさせられて、おまけに食事代はいつも折半せっぱんさせられるのよ。お義姉さんたちはびた一文払わずに、まとめてあとで返すからって、一度も返してもらったことないんですけど!

 心奈が生まれた直後に放った義母の一言は「次は男の子を生んでくれないと困るわ」って、そんなことあの状況で言う? 母・娘ともに頭がおかしいんじゃないの?

 金輪際、あんたの実家には行かないからって、けん太くんに何度言っても馬耳東風ばじとうふう。おまけに分担しようと決めていた家事の約束もなかったことに……。

 実家に頭が上がらないくせに、釣った魚には餌をやらないタイプだって、付き合う前にどうして見抜けなかったのかしら。

 あたしの愚痴は、旦那が家事をやってくれないってだけじゃないのよ! こんなもの、家庭生活をうまくやっていくために溜めてきた不満の一つに過ぎないの。それなのに、この社畜女は全然分かってない。そんなんだからいつまで経っても結婚出来ないのよ!

「なによ! かな子だってツイッターで鬱まみれのツイートばかりしてるじゃない! あたかも構ってくれって言わんばかりに〝疲れた〟とか〝死にそう〟とか、そんなことばかり言ってきてさ! あたしと絡んだ直後に鬱ツイートって、ねぎらいの言葉を期待してるのバレバレなんですけど!」

 うっ、とかな子は言いよどんだ。どうやら図星だったみたい。

 しかし、すぐさま怒れる目つきで、

「フェイスブックでおめでたい写真ばかり載っけてるあゆ美とは抱えているものの重さが違うの! もちろん、稼ぐお金の量もね! 大体なんなのあの写真、ちゃちなケーキにキラキラしたエフェクトかけたり、子供の周りにハートのスタンプ振りまいたり、センスが昔のプリクラからまったく成長していないのよ!」

 うっ、と今度はあたしが言い淀む番だった。軽い気持ちで打ったジョブに、渾身の力を込めたストレートで殴り返すなんてひどいじゃない。あたしが一番気にしている部分に触れてくるなんて、絶交もいとわない覚悟なのね。

 いいわよ、そっちがその気なら、お望み通りにしてあげる! 

 今までに何十回としてきた絶縁は、今度こそ本気。絶対に、絶対に、これが最後。

 こんな女、すべてのSNSでブロックしてやるんだから!



心奈ここなちゃん

 我を混沌こんとんの眠りから覚醒させたのは、互いをののしり合う愚かな人間どもの狂宴であった。

 我が真名まなは〝心奈ちゃん〟。

 この世に生を受けて幾月、醜くも美しい現世うつしよに慣れ始めてきた時分だ。まれに赤子は前世の記憶を引き継いで生まれてくると言うが、真偽のほどは我には分からぬ。

 しかし〝ママ〟と名乗りし女はかつて〝母〟と呼ばれし存在だったことを、鮮明な記憶のうちに有している。乳歯にゅうしが生えぬ故、口語に発することあたわぬが、我は概念がいねんを定義する言語を意のままに操ることが出来るのだ。

 さて、我の眼前には二人の女が口汚く罵り合い、互いをおとしめ合っている。話の内容から察するに、価値観の相違にるものらしい。

 しかし、我には二人の女を追い詰めるおそるべし脅威きょうい、得体の知れぬ重圧が、その頭上にのしかかっているように思えてならぬ。仇討あだうつ敵は他にいるような気がしてならぬ。それは、一見すると形を持った人間に見える、異形の何かだ。

 簡単に、その正体を見極めることは出来ぬ。問題は幾層にも積み重なり、さまざまな主張が入り乱れている。畢竟ひっきょう、すべての人間がひざを突き合わせて語るべき問題であり、幼気な女児がいたずらに触れて良い話題ではないのだ。悪しからず、理解してほしい。

 ところで終末的狂宴しゅうまつてききょうえんを目の当たりにしながら、我には解せぬことがある。双方の言い分を聞くにこの女どもは互いを嫌い合っていながら、それぞれの近況を熟知じゅくちしているようなのである。これは誠に不可解なことだ。

 殺傷さっしょうが禁じられている現世に不倶戴天ふぐたいてんの敵なれば、交会こうかいを避け、心の平安を保とうとするのが人心じんしんことわりというものではないだろうか。

 いずれにせよ、我の知るところではない。我は唯、喃語なんごを発するだけである。この身に起こる空腹・眠気・排泄物、その他諸々もろもろが引き起こす不快を、全身全霊で訴えるだけである。

 さあ、終末的狂宴すら無にする、真の狂乱の始まりだ。

 天地を引き裂き、嵐を呼ぶ、雷鳴のごとき魂の叫びを我は咆哮ほうこうした。

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