51《……君のおかげなんだ》

 彼女の姿を目にした瞬間、夢みたいだ、という言葉が知らず知らずのうちに口からこぼれ落ちていた。目の前に、セリカがいるだなんて。

 

 ずっと血眼になって探し続けたセリカは、あのいたずらっぽい瞳をきょときょとと動かして僕を見つめている。


 初めて朝の光の中で見た彼女は美しかった。冬の清涼な空気を身にまとい、柔らかく薄ぼんやりとした光に照らされた姿は華奢で儚げでさえあった。触れたら雪のように溶け去ってしまいそうな。


「どうぞ、入って」


 そのまま戸の前で立ち尽くしてしまった僕に、セリカがにっこり笑って明るく声をかける。セリナから僕が一人で見舞いに来ることをあらかじめ伝えてもらっていたおかげで前程の驚きはなかったようだ。


「あぁっ、はいッ」


 ぼんやりと見惚れている間に話しかけられたせいか、声が裏返ってしまった。それに慌てたのか足がもつれて転びかける。くすり、と笑った彼女を見て赤面した。あまりにも恥ずかしい。



 動揺を隠せないままベットの横にやや距離を置いて立つ。当たり前だが、セリカは消えはしなかった。


 束の間の沈黙。所在なさげに立っていると、セリカがまた明るく僕に話しかける。


「わぁ、お土産買ってきてくれたの?嬉しい、なになに〜?」

 

「えっ、あっ、はい、プリン……です」


「やったあ、私プリン大好きなの!悪いんだけど、冷蔵庫に入れておいてもらえるかな?」


 一も二もなく頷き備え付けの冷蔵庫にしまう。小さな庫内にはゼリーやらジュースやらがぎっちりと詰まっていた。そんな些細なことでさえ彼女が目覚めたことの実感を強めてくれる。


 入れてしまうと、いよいよすることがなくなった。そもそも病人である彼女に気遣わせるのはいかがなものか。いや、もうかなり迷惑をかけたけど。セリナがいたのならば「このヘタレ!」と一発ぶん殴られそうだ。


 微笑んだまま僕を見る真っ直ぐな瞳に背中を押されるように、僕は自分から口を開いた。


「ごめんなさい、名乗るのが遅れました。僕は高橋光という者です。あっ、高校生です2年生ですっ。あの……それで……僕、セリカ、さんと会ったことが……」


 わずかに小首を傾げて思案している様子に慄くが、覚悟を決めて気にせず話し続ける。


 裏山で自殺しようとしたら助けられたこと、毎晩話を聞いてくれたこと、風間に立ち向かう勇気をくれたこと――。自分なりに順序立てて話していく内に、セリカはなんて僕にたくさんのことを与えてくれたのだろうと泣きそうになった。僕は彼女に何かできただろうか。彼女のおかげだ、今ここで僕がこう生きているのも。


 一度話し始めると堰を切ったように止まらず、気が付くと話し終えていた。温かな朝食の匂いがどこからか漂い、遠くで小さな子供の泣き声が微かに聴こえてくる。いつの間にかセリカの顔からは笑みが消え、真剣な眼差しをしていた。その瞳に釣られて、僕はまた言葉を吐き出した。彼女に一番伝えたかったことを。


「……君のおかげなんだ。僕がこうやって今いるのも。全部君のおかげなんだ」


「覚えてなくても、実はそんなことはなかったとしても、お礼を言わせてください。ありがとう」


 深く深く礼をする。たとえ彼女が僕のことを気味悪がってもこれだけは言いたかった。この思いだけは。



「……夢だと思ってた」


 セリカが小さく呟いた。細い指が白い布団カバーを握りしめる。僕は彼女が紡ぐ言葉を聞き漏らさぬように顔を上げた。


「……私ね、長い長い夢を見ていたの」


 ぽつりと響くかぼそい声。自信なさげに、消え入るような。頼るものを探すように瞳を不確かに揺らしながら。


「覚えていることは本当に断片的なの。私、最初は何も無い空虚な真っ白な世界にいた。でもあるとき突然、目の前に今正に自殺をしようとしているあなたがいて、無我夢中で止めたわ。その後からは暖かい世界だった。あなたと私がいて、二人でなんでもない話をしていて、でもそのとりとめのない話が本当に楽しかった。そんなことを切れ切れにぼんやりと覚えているの」


「お礼なんて、私の方だよ。あなたがあのとき私に声をかけてくれたおかげで、今私がここに生きているんだもの」


「……え?」


「覚えてないの?」


今度は僕が首を傾げる番だった。

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星降る夜に 雪庭瞳 @kaeru-kaeru

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