グッドバイ・ブンゴー、サマー・エンジン

木古おうみ

グッドバイ・ブンゴー、サマー・エンジン

 俺が青く無機質な培養槽の並ぶプールに足を踏み入れたとき、ヘミングウェイは取り返しのつかないことになっていた。



 無数の電極が刺さった剥き出しの脳に繋がるコンソール。

 液晶に表示される文字列は、何度見返してもブルーライトもカットできるサングラスの宣伝広告だ。


 俺はインカムに「“ジョーダン”がバグってる。スパムウィルスだ」と告げる。

 鼓膜を舐るようなざらりとしたノイズの後、溜息混じりの声が聞こえた。


「そっちはいいから、日本文学コーナーに言ってくれ」

「わかってると思うけど、」

 インカムを耳に捩じ込み直しながら言う。

「俺は仏文専攻なんだよ。『異邦人』で卒論を書いた」

「カミュはまだ著作権が切れてない。いいから早くしてくれ」


 返事を待たず、通信が切れた。

 俺は舌打ちして、床の表示に沿い歩き出す。


 上代文学、戯作、短歌。

 まるで大学図書館だ。


 門外漢の俺がここにいる理由はひとつ。男だから。

 この文化再生産機関の文学担当で手の空いている男が俺しかいないからだ。


 今までの日本文学担当スタッフは四人とも女で、その四人全員が今入院中だ。自殺未遂ということになっているが、心中というのが正しい。


 相手はこの近現代文学の札の真下に座す、青色の液体の中の脳。

 遺骨から抽出された遺伝子で培養された文豪・太宰治の脳、仮称“ヨウゾー”だ。


 俺は筒型の水槽につながるデバイスを手に取り、形式通りの言葉をかける。


「進捗はどうですか、先生」

 液晶に文字が表示される。

[悪いけれど見ての通りだ]

 左端に浮かんだデータファイルをクリックする。

 白紙。


「窓から放り捨てるぞ、津島……」

[本名で呼ばないでくれ]


 浮力に負けてわずかに傾く前頭葉が、頬杖をついた著者近影を思わせる。


 陰鬱な自意識をくすぶらせた作風と重なる横顔。

 クローンとして再誕してもなお希死願望を抱えながら、ウィルスにも侵されない秘訣は、自己と求められる作家像を切り分ける図太さにあると俺は思った。


 メタ・フィクション、位相、ロラン・バルト、作者の死。

 文学部で叩き込まれた。気が滅入る。



 予定より数倍早い進歩で、平成三十二年がクローンとAI技術の春になったのは周知の事実だ。

 大昔に逝去した文化人の––––但し著作権フリーなものに限る––––遺伝子を培養し再誕させ、文化面でも春を迎えようという文化再生産機関も、その一環で設立された。


 中でも“ヨウゾー”はプロジェクトの要だ。


 太宰治生誕百十一年記念の今夏、未完の遺作『グッド・バイ』を完結させる。それが俺の役目。


 培養された文豪たちはスタッフを編集者だと思うように設定されているらしいが、“ヨウゾー”は偶に自分の置かれた状況を理解しているような素振りを見せるのが不気味だ。


「俺も仕事なんだ。書いてもらわないと困るんですよ」

 少し遅れてからの返答。

[ここに来てから眠れないんだ。カルモチンがほしい]


 この脳に睡眠という機能があるかは知らないが、その単語が当時の睡眠薬だということは知っている。


 俺の前の担当は“ヨウゾー”のために違法な電子ドラッグをダウンロードし、自分もトランスして、水槽の前でぶっ倒れているのを発見された。

 この作家にどうして女はそうも入れ込むのか、理解できない。


「どうしてそんなに死にたいんだか……」

 そう呟いた自分の声があまりに暗く、説得力がない。


「先生だって俺みたいなのが来て不本意だろうが、こっちもやりたくてやってるんじゃない」

 桜桃忌までに、と打ちかけてやめる。

「『グッド・バイ』を完結させなきゃ、俺は担当を降りられない。お互い上手く手を切るためにやりましょう」

[もっとやる気の出る鼓舞の仕方をしてほしいな]

 無機質な文字列から含み笑いが滲んだ気がした。


[君は担当として優秀だし、僕は気に入っているんだ]


 俺は被りを振った。ひとたらしには男も女も関係ない。

 剥き出しの脳みそのためにドラッグを入手するほど狂う前に、とっととこの仕事を終わらせる。

 何か手がかりがほしい。



 俺はタブレットを取り出し、電子化されたこの文豪の著作に目を通す。


 死のうと思っていた。

 正月に着物をもらった。夏物だ。

 夏まで生きていようと思った。


 有名な書き出しだ。夏の反物になる何かが必要だ。

 解説や年表も漁る。出自はどうでもいい。昭和八年に作家デビューし、第一回芥川賞候補となるも落選。

 敬愛する作家の名のつく賞のため、痛々しいほど躍起になった若い太宰の姿に苦笑が漏れる。

 これだ。


 俺は“ヨウゾー”に「待ってろ、そこを動くなよ」と告げて、デバイスを投げ捨てた。

 足もないのに動けるはずもないが、俺は青く光る水槽たちの間を走った。


 遺稿『グッド・バイ』は仕事に専念するために愛人たちと手を切ろうとする雑誌編集者の話だ。

 外堀を固めてやる。



 息を切らせて事務室に飛び込んできた俺を見て、後輩が目を見張った。

 本来“ヨウゾー”を担当するはずだったが五人目の女にならないため、今は漱石だか鴎外だかを見ているはずだ。


「何かありましたか?」

 俺は立ったままPCを叩いていう。

「芥川賞を取るにはどうすればいい?」

 後輩は眉根を寄せた。

「まず作家になるしかないのでは」

「俺じゃない。もう作家なんだよ。出版社のホームページにアクセスして勝手に候補に入れちまうか……」

「会社のパソコンでハッキングする気ですか!」

 マウスごと俺の手を掴んだ後輩の背後に、日本文学全集が並んでいた。


 出版社なんかより、ここには本人がいるじゃないか。


 持ち場に戻ると言って踵を返した俺に、後輩が「その作家って誰ですか」と叫ぶ。

「太宰。好きか?」

 後輩が目を剥いた。

「全然好きじゃありません! 著作は全部読みましたけど、あんな軟弱な……」

 そういう奴は大抵ファンよりよっぽど好んでいる口だ。


 妙な作家だ。

 今俺が再び日本文学のブースを奔走しているのは、ファンだからじゃない。ただ仕事を終えるためだ。

 そう言い聞かせながら、俺は文豪たちにつながるコンソールを叩いていく。


 内容はこれだ。

 ––––“ヨウゾー”が『グッド・バイ』を書き上げた暁には、どうか芥川賞に推してください。


 ダイレクトメールのように同じ文面を次々とひたすら送る。

 賞の設立者・菊池寛や、仇敵・川端康成のクローンにまで。

 手当たり次第に嘆願書を書いた若き太宰のようだと思い、冗談じゃないと雑念を振り払う。


 応答はない。当たり前だ。

 生前の勤勉さを引き継いだ他のクローンたちは皆、自分の執筆に専念しているのだから。


 俺は溜め息をついて頭を掻く。


 やっと得た安眠から俺たちの都合で叩き起こし、原稿を書けと日々煽る罪悪感から、せめて生前の夢を叶えさせてやりたいという気がなかったといえば嘘になる。


「馬鹿さ加減じゃ前任たちと変わらねえな……」


 呟いた瞬間、視界の端で何かが光った。

 どこかの液晶が反応を示したせいだ。

 光源を辿ると、芥川龍之介の培養槽“第二十三号”だった。


 画面に表示された文章は真面目そうな明朝体で、簡潔な一行。

[前向きに検討します]


 俺はその文面をコピーし、一直線に“ヨウゾー”の元を目指した。


「これだ、これ! 見ろよ、先生」


 投げ捨てたときにひっくり返ったデバイスを叩いて、先ほどの文を貼りつける。

「芥川のお墨付きだ。本当に受賞できるかもしれないぞ」


 スリープモードかと思うほどの沈黙の末、“ヨウゾー”が応えた。


[〆切はいつ?]

 手の震えを抑えて、打ち込む。


「夏が終わるまでに」

[やってみよう]


 思わず笑いが零れる。

 俺は床に座り込んだ。

 煙草を取り出そうとして、文豪たちがぎらりと目を光らせたように、水槽に「火気厳禁」の札が反射して、やめた。


 今年、二○二○年の文壇を想像する。

 太宰治悲願の芥川賞受賞にして、史上初死者の文学の受賞というビックニュースが踊る日が来るのだろうか。


“ヨウゾー”は変わらず培養液の中で揺れている。

 天才作家は今、自分の置かれている状況をどう思っているだろう。

 問いかけてみようとして、やめた。

 執筆の邪魔をしたくはない。


「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ、か……」

『ヴィヨンの妻』の結びだ。

 断じてファンではないが、暗唱くらいはできる。

 クローンだろうと、水槽の中の脳だろうと、作家は書いてさえいれば生きているのと同じだ。


 文豪たちの脳が浸かった培養液の中、青い泡に俺の疲れた顔がいくつも反射して見える。


 夏はもう、始まっていた。

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グッドバイ・ブンゴー、サマー・エンジン 木古おうみ @kipplemaker

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