その6

 二人は立ち上がって、ソファから立ち上がり、もう一度父に頭を下げ、リビングから出てきた。


 早苗は足早に二階の階段を上がり、姿を隠す。


 そのまま玄関から出て行った。


 しばらく経ってから、二階の子供部屋に寝ていた弟妹を起こし、三人で窓辺に立った。

 停めてあった車に乗り込む前、ちらりの”彼女”は後ろを振り返って二階に目をやる。

 目が合った。


 ほんの一瞬、”彼女”は哀し気な表情をした。が、それだけであって、運転席に乗り込もうとした”男”と目が合った時、二人はもうにこやかに微笑みを交わしていた。

 その顔を見て”もう彼女は家族ではない。自分達は棄てられた”そう感じたという。


 すすり泣きが店の中に響く。

 涼太はもう泣いていない。うつむき、真っ青な顔をして、腕を押さえていた。今聞こえるのは誰のものでもない、”彼女”つまり澄子のものだった。


 澄子は今の夫、俊一の肩に額を埋めて、細く、低く泣いている。


彼女は子供達の親権も、そして財産分与も放棄し、それっきりとなった。

 二・三度手紙を寄越したことはあったが、誰も読もうとはしなかった。


 父親は流石にこたえたのだろう。ましてや妻に逃げられたというのは、小さな町で小学校の校長まで勤めた身には一種のスキャンダルだ。


 まだ定年前だったというのに、体調不良を理由に早期退職をしてしまった。

 その後は家でささやかな学習塾を開いたりして、何とか暮らしを立てていたが、

 結局それすらも長続きせずに止めてしまった。


 家の中からは明るさが完全に消えた。

 父は何とか子供たちに対しては普通に接しようと努力していたものの、”彼女”について語ることは殆ど無くなった。だがごく稀に思い出したかのように、

”父さんも悪かったんだから”と口にする程度だった。

 

 早苗はそんな父が気の毒でならなかった。だから父を助けて家を支えるのは自分の役目だと思い、進学が決まっていた大学も辞退し、知り合いの伝手つてで昼は町役場の事務、そして夜はスーパーのレジ打ちと、身を粉にして働いた。


 しかし、そんな生活も長く続かなかった。


 父が亡くなったのである。

 脳卒中だった。

 突然倒れ、それっきりだったという。


”彼女”は、葬式にも来なかった。

ごく儀礼的な弔電を送ってきただけである。


 その後、弟と妹は、子供がなかった父方の叔母夫婦が引き取って養子にしてくれた。

 早苗も、と言われたのだが、彼女はかたくなにそれを辞退し、自活の道を選ぶため、上京した。


 より稼げる仕事に就き、自立もしなければならない、弟や妹に仕送りもしてやらねばならない。

だが、その反面、

”こんな町に住んでいたくない”そういう気持ちもあったのだ。


  若い女性が東京で一人で生きてゆくとなれば、出来る仕事は決まっている。

 水商売だ。

  キャバクラ、バァ、クラブと幾つか渡り歩いた。

  それだけじゃない。人に言えないような事にも手を染めた。

  世間体など構っている余裕などない。


  苗字も変えた。

  亡くなった実母の姓を名乗り『小泉』とした。


  或る日曜、銀座を歩いていた時、歩行者天国の雑踏の中で、”彼女”を見かけた。

  勿論”あの男”も一緒、それから小さな男の子もそこに居た。


 三人とも微笑みを浮かべ、幸せそうに見える。

 

 一瞬、目が合ったが、向こうはまったく、早苗の存在に気付かなかった。


 懐かしさよりも、怒り、憎しみ・・・・・そういった感情が噴き出したが、その時は黙って見送った。



『その時からよ。私は”彼女”に対する復讐心が芽生えたのは・・・・』


 彼女がしたのと同じように、彼女の家庭を破壊してやる。その第一歩が


『あの坊やって訳よ。』


 息子である涼太を誘惑してたらし込む。

 店で働かすだけではない。

 非合法な仕事、その手先にも使っていたのである。


『お分かり、坊や、だから私はあんたの事、好きでも何でもなかったのよ』


 早苗は嗤っていた。

 その嗤い声が店の中に響く。


『嘘だ!』

 涼太が甲高い声で叫ぶように声を絞り出した。


『嘘なんかじゃないわよ。誰があんたなんか・・・・反吐が出るわ』

 そう言ってまた彼女は嗤い続けた。


『・・・・そんなに憎いなら、私だけを殺してくれればよかったのに、涼太には何の罪も・・・・』

 引き絞るような声で、澄子が涙で腫らした目を早苗に向けた。

 それを聞くと彼女は二三歩歩み寄り、澄子の顔に向かって唾を吐き、

『殺す?そんなお上品なやり方、あんたには似合わないわ。徹底的に苦しんでもらわなくちゃね。父さんや弟や妹、そしてあたしの分も!』

 呪詛の言葉を投げかける。

 ハンカチで顔に掛けられた唾を拭いながら、澄子はがっくりと頭を垂れた。



『さあ、探偵さん、これで全部よ。どうするの?』


 俺は黙って携帯を取り出すと左手で持ち、続けて拳銃を抜き、右手で構える。


『当然、警察おまわりに連絡させて貰う。撃ち合い沙汰になったら、そうしなくちゃいけない。免許持ちの義務なんでね』


『私だって持っているのよ。拳銃』


 早苗は何時の間にか、右手に銀色のワルサーPPKを握りしめていた。


『よしてくれ。俺に脅しは通じない』


 俺は構わずに左手の携帯を操作する。


 彼女の指が引き金にかかった。


 だが、俺の右手のM1917がそれをさせず、鋭い銃声が店内に交錯した。

 こっちを狙った弾丸は僅かに頬を掠めて逸れ、俺の真後ろの壁に当たり、こっちの弾丸たまも紙一重で逸れて、彼女のすぐ後ろの柱に掛かっていた鏡に、放射状の傷痕を作って止まった。


 澄子の泣き声は一層大きく、店中に響き渡る。


 俺は拳銃をホルスターに収め、110番に自分の名前と、探偵免許の番号、現在位置。そして銃撃があった旨を簡潔に伝えた。


 早苗は無表情のまま、ほうっと息を吐いて、また天井を見上げた。


 



 

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